ACT1-01:秋の引っ越し
「秋雨って、一雨ごとに寒くなりますね」
「そうね」
「お茶入れますけど、先輩も飲みますか?」
窓の外を眺めている後輩の職員の言葉に、多田京子はうなずいた。
9月下旬。溶けてしまいそうな暑い夏は終わり、東京人工群島にも秋の気配が漂い
はじめている。それはここ、都庁群島連絡事務所も例外ではない。
朝から降り始めた雨のせいだろう。朝の早い時刻とはいえ、いつもなら10人ほど
はいるはずの住民票の請求やらなにやらの都民たちの姿も今日はまばらだ。
その閑散とした事務所へ、手にしたコウモリ傘に引っ張られるかのように初老の男
が舞い込んできたのは、ちょうど彼女がお茶をすすろうとしたときだった。
男は傘立てに濡れた傘を立てると、ひとしきりあたりを見回している。
「何か御用でしょうか?」
多田は失礼にあたらないよう、言葉使いに気をつけて初老の男に問いかけた。老人
は手続きとか書類とかには疎いので、こっちから声をかけてあげないと3時間くらい
受付の前をうろうろしているときがある。それでは気の毒だ。
ただでさえ公務員のマナーが悪いとかどうとかいわれている昨今だし、そのくらい
のサービスは親方日の丸の天下の公僕といえどもしなきゃいけないとも思う。まして
、手が空いているときはなおさらだ。
それに、その老人は『風がふいたら飛ばされてしまうんじゃないか?』などと心配
してしまうほど痩せていて、何よりも柳の木のようなふらふらした感じがそのへんで
『どさっ』とか倒れそうで怖いのである。
彼女の親切な問いかけに、初老の男はまっすぐに多田の目の前にやってきた。
「……所長さんに…お会いしたいのですが……」
「……はい?」
「ええ、今度こそ………いわなきゃなりません。やめさせていただかないと………」
多田には老人が何をいいたいのかは良くわからなかった。
しかし、老人が思い詰めていることだけは理解できる。受付机の上に投げ出された
枯木のような手が小刻みにカタカタと震えていたからだ。
「白髪は増えるし、胃潰瘍にはなるし……神奈川県の老人ホームが、やっと入居でき
そうでしてね………息子夫婦も、ぜひそうしろと……で、いい機会だから群島を出て
……でも、わしが居なんだら、あそこは……」
全部最後まで話を聞くのは、まどろっこしいと多田は思った。先ほどの話じゃない
が老人は手続きとか書類とかには疎いので、必要な書類を申請するのに2時間くらい
かかってしまう人もいるのだ。それでは気の毒だ。
ようするにこの人は引っ越すのだ。
と、いうことは転出届が欲しいに違いない……そう多田は思った。
「転入届が欲しいんですね?じゃあ、記入例を見て書いてきて、ここに判子を押して
下さいね」
「しかし……しかしね、所長さんに…」
「大丈夫、手続きは所長でなくとも私で出来ますからね」
なおも所長所長といい続ける老人であったが、多田は『わたしで出来ますから』と
繰り返し説明して、老人の転出証明と個人データを転出先の相模原市データベースに
転送する。
「はい、終わりましたよ」
「……ありがとう…で、それはいいから……所長さんを」
「あ、いいのよ。手続きは全部終わりましたからね、後はプロムナード構築委員会に
この書類を持ってって下さいね。ご苦労さまでした」
しばらく老人は玄関先でうろうろしていたが、やがてコウモリ傘を開くと秋雨の中
へ吸い込まれるように消えていった。しばらくは玄関先でコウモリ傘が揺れていたが、
それもやがて、見えなくなった。
よって。
この話は、都庁連絡事務所の所長である梅津功一(48)がその事実に気付く翌日
の昼から始まる。
老人は、縁島団地の町内会長だった。
退任の挨拶も意志表示もさせて貰えぬまま、老人は神奈川県民となってしまったの
である。
ACT1-02:秋の挫折
群島区は東京都24番目の特別広域行政区になる予定だが、未だ建設中ということ
もあって、まだ正式に区制施行には至っていない。そんなわけで、都庁連絡事務所は
群島区役所ではないのである。
しかし、そこに住む人々は東京人工群島を群島区として認識していた。近い将来に
群島区は正式のものとして成立するのであろうし、『建設中』であるということは、
逆に『自分たちが建設に携われる可能性を秘めている』ということなのだ。だから、
住人たちは形こそ違っても、この街を造ることに愛着を感じている。
そして、縁島公営住宅街はそんな人々の住む街なのだ。
「町内会長ですって?」
「ええ、掲示板に公示がされてたけど」
「町内会が縁島団地にあったなんて、知らなかったわね」
『食すべきところを完全に食いつくされ、見事なまでに圧縮された使用後の好例』
と、向いに住んでいる洋上大学の名物教授・白葉透に絶賛されたことのあるゴミ袋を
捨てにいったシーラ・ナサティーンは、ゴミ捨て場の横にある掲示板の話をナサティ
ーン家に持ち帰った。
姉さん肌とお節介やきで御近所にも有名な一家の主、ジーラ・ナサティーンが興味
を示すのは当然のように思える。
しかしシーラの予想に反して、ジーラは大して興味をそそられなかったようだった。
「いずれにしても、町内会長っていえば白葉教授で決まりなんじゃない」
その言葉どおり。
予備実験が最終段階を迎え多忙を極める白葉教授は、10分単位でスケジュールが
書き込まれた古風なスケジューラと、記憶力抜群の秘書の脳裏に新たな行動予定表を
組み込もうとして周囲の猛烈な反対を受けていた。
「町内会長といえば住民の意見をよく聞いて、よりよい住環境を作るための重責だ。
えーとだ、わたしもだね、縁島団地に住む者の一人として隣近所に住んでいる方々と
手を取り合い、地域福祉に貢献したいとかねがね考えておったのだ」
自宅の日本庭園で鯉に餌をやりながら語る白葉。
その白葉に主治医の津久井加奈子は猛然と喰ってかかった。縁側からは白葉の秘書
である天城梨沙と、白葉の同居人(と、白葉は言い張っている)の中嶋千尋が、心配
そうな顔で二人を見つめている。
「白葉教授っ!あなたは御自分の健康をどう考えておられるんですか!」
「どうって………いや、この間過労で倒れてしまったからねえ。だから、もっと研究
活動を増やして遅れを取り戻さなくてはならんとは思っておる」
「そうじゃないでしょうっ!!」
白葉教授の仕事量は過酷を極める。
津久井は、白葉の仕事を手伝う研究員や秘書たちがバタバタと倒れていくさまを、
以前に何度か目撃している。ましてや白葉本人ときたら、自覚こそないものの過労死
してもおかしくない仕事量なのだ。
秘書の天城も、やんわりと説得を試みた。
「教授、家にもほとんど帰ってない状態が続いていますし、これ以上スケジュールを
入れてしまうと奥様(……白葉いわく、同居人)があまりにもかわいそうですよ」
「……うーむ」
白葉は腕組みをしてしばらく考えこんでいたが、縁側から黙って自分を見つめてい
る中嶋千尋を見て、今回はやめようと断念した。
飼っていた愛猫も行方知れずになり、一人でこの家にいる千尋。
寂しいだろうに、ずっと家を空けている白葉にいいたいこともあるだろうに、あく
までも白葉の判断にまかせようという千尋の健気さに白葉の心は痛んだ。
町内会長はあくまでも研究ではない。これまで研究のために千尋を犠牲にしてきた
ことを思えば、研究以外のことで千尋を苦しませるのはとても出来ない。
数秒の葛藤の後、白葉は結論を口に出した。
「………わかった。断念しよう」
「そんな……透さん。わたしのためだったら、いいんです」
白葉が自分のために出馬を断念しようとしていることに気付いた千尋は、健気にも
白葉にそういった。
「いいや、わたしには町内会の平和より先にやらねばならんことがあったのだ。千尋
くん、ただそれだけだよ」
「じゃあ、出ないんですね?」
天城は白葉に確認すると、その後のスケジュールを暗唱した。ぎっちりとつまった
白葉のスケジューラを見るより、彼女の記憶に頼った方が数倍早い。
「ASの紫沢氏からインタビューの申し込みが入ってますが?」
「紫沢くん?ああ、知らん仲でもないな………場所はどこかね」
ACT1-03:秋の建築強度
「この辺なんですけどね」
「はあ、なるほど……こりゃあ、きてますなあ」
公営住宅・縁島団地A棟の管理人氏は、この公営住宅を設計した建築技師を伴って
A棟8階のエレベーター前であたりを見回していた。
彼がこの異変に気がついたのは、かれこれ2カ月ほど前のことになる。
管理人さん、あのですね………と、いって8階の住人の一人が訪ねてきたのを最初
に、何人かの苦情を合わせると次のような証言が簡単に得られた。
『8階のエレベーターのあたりなんですがね、こまかいひび割れがいっぱいあるんで
すよ。わたしらが越してきたときにはなかったんですけどね』
/8階の大根さん……大手電気メーカー係長。
『昼間にどーんという音がして、壁にピシリとヒビが入ったんですよ』
/8階の下部さん……年金生活者。
『部屋の窓が割れちゃったわ』
/7階の根木さん……主婦。
『水洗トイレから水が漏れたんで、修理して下さい』
/7階の九莉さん……学生。
『なんか風が吹くとギシギシきしむ音がするんだよね』
/8階の更田さん……会社員。
『……雨漏りするんです…やっぱり、貧乏だからですかねぇ(力ない笑い……)』
/8階3畳間にお住まいの召貫さん……自然保護活動家。
すでにこれだけの住人から苦情がきているのだ。
もちろん調査しないわけにはいかない。管理人氏の立場としては、さっそく専門家
に調査してもらおうと思ったのは当然のことだった。
一番被害がひどいのは、8階エレベーター付近。また7階の天井や壁面にも細かな
亀裂が目立つ。
しかもそれは、徐々にではあるが進行しているようなのだ。
「これなんかひどいですね、ほら……鉄筋が見えてきてるでしょう?こうなってしま
うと、鉄筋コンクリートの魅力も半減してしまうんですよ」
建築技師が手で壁を引っかいただけで、パラパラと壁が砕けて落ちてくる。
やれやれ、どうしたものかな………管理人氏は、壁や天井などを見回している建築
技師に視線を移した。
「うーん………まあ、調べてみた方がいいと思うんですけどね。とりあえず、壁とか
天井は補修して様子をみましょうや。」
「……はあ、そーですね」
あいまいな表情でうなづく管理人氏。
その肩ごしには原因が表札を掲げているのだが、少なくとも現時点では彼らはまだ
核心には至っていなかった。
ACT1-04:秋のラーメン屋
公営住宅にも近いラーメン屋『来々軒』は、わりと安くて旨い。
おまけに結構遅い時間までやっているので、ラーメン好きの広田秋野はついつい足
を運んでしまう。
三宅総合研究所は学生の台所事情までは面倒みてくれない。研究で帰りが遅くなる
広田ら学生としては、こういう店の存在は非常にありがたいものがある。
「おや秋野くん、いらっしゃい!」
「こんばんわ、で、いつもの下さい」
「あいよっ!」
店主はいつもの席にお冷やを置いた。
いつも通っているのですっかり顔なじみになってしまったのだ。
カウンターの席に座った広田秋野の耳に、TVの音だけが聞こえていた。
『では、次のニュースです。
縁島団地町内会の町内会長選挙に、立候補間違いなしと予想されておりました農業
工学科教授、白葉透博士はきょうのインタビューで、研究との兼ね合いから出馬を断
念すると表明しました。
これによって、ほぼ白葉教授の信任投票になると思われていた町内会長選は、有力
な候補者がいないため一挙に乱戦の模様を呈してきました』
「白葉さん出ないんだってねぇ、選挙」
棚の上で油まみれになっている古びたTVを店主は見上げた。その間も手は休まず
大きなフライパンの上を野菜炒めが踊っている。
Illustration
by Makoto Anzai & Paint by Daisuke Moriyama
「町内会ってやっぱりあったんだねぇ。いや、あたしもね、そんなモノもあったなあ
と今更ながら思いだしたとこなんですわ」
そういいながら店主は広田の前にラーメンを置いた。
いつもの大盛りラーメンと餃子のセットで、ライスがついている定番メニューだ。
特に大盛りのライスは貧乏学生にはありがたい。安いながらも腹だけは満たされる
から、その腹を抱えて布団へ潜り込めば朝までぐっすりと眠れる。
「うーっ、腹へったあ」
どんぶりを前にして、喜々として箸を持った広田に店主は話を切り出した。
「ときにね、秋野くん。最近、公営住宅に出前に行って思ったんだけどさあ、A棟の
7階から8階にかけてね、なんかミシミシと変な音がするんだわ」
「ずるるるる‥‥‥ん、変な音?」
ラーメンをくわえたまま、広田は顔をあげた。
「いやね、壁には亀裂みたいのが入っているしさ‥‥‥その、なんか今にも天井が崩
れてきそうな気がするんだわ」
「ふーん‥‥‥ずるるるるるる」
広田自身の家も、縁島団地A棟1階だった。
らーめんをすすりながら広田は思った………明日にでも調べてみようか、と。
そして店主も、ハッとある事実に気がついた。
「あ、秋野くん‥‥‥ごめん、チャーシュー入れてなかった」
秋風ふく縁島団地に、いま、何かがおころうとしている。
そこまではわかるのだが、それが何なのかはまだ誰もわかっていなかった。