ACT2-01:閑職の任務


 2019年10月6日。

 芸術の秋と永く人々に語り継がれる、あの少し寂しげな秋の静けさは、労働人口に
匹敵する大量の赤ん坊によって無惨な残骸を秋風に曝していた。

 『ベビークライシス』と呼ばれる史上最大の幼児置き捨て事件。
 20世紀末に作られた学園都市、筑波を凌ぐ21世紀の計画都市……東京洋上大学、
そして東京人工群島で発生したこの大事件に、全世界はあまりにも無関心だった。
 共同通信社のある記者の言葉がその理由を表わしている。

「日本人の新聞記者もギャグセンスが磨かれてきたよな」

 そして眠れぬ一夜が明けると、群島の人々は目の前に『都市機能を失った計画都市』
という変わり果てた姿になった街と、それを悲しむ暇もない自分たちの姿を再発見し
たのだった。



「ですから、証明書がないと母子手帳は発行できないんですよ」
「そんなこといったって、わたしの赤ちゃんをこのままにしろっていうんですか!」
「しかし手続きが………」
「手続きがなによ!あんた、この子の将来を台無しにしようっていうのね!責任者を
出してよ、母子手帳がこの子には必要なんだから!」

 東京都の行政業務を代行する人工群島の『お役所』、都庁群島連絡事務所は朝から
母子手帳を求める一夜漬けの母親たちが殺到してパニック状態に陥っていた。
 東京人工群島に一斉に置き去りにされた赤ん坊というものを拾った住人たち………
彼らの多くは赤ん坊を持て余していた。しかし、一夜が明けて考える余裕が出てくる
と、彼らは自分たちの赤ん坊の将来を考え始めたのである。
 しかし、何度説明してもわかってくれない、いや、わかろうともしない群衆たちに
役人たちは平静を装いながらも、いらつきはじめていた。

(………この愚民どもぉ!)

 都庁群島連絡事務所の所長、梅津功一は心でそう思いながら、顔には『納税者の方
は神様です!』という自己保身の微笑みを浮かべて説明にあたっていた。
 机の上には処理せねばならない懸案が、山のように積まれている。
 特に、縁島団地町内会の町内会長選挙。これなどは、既に公示を済ましてしまって
いるだけに頭の痛い問題だ。
 せめて、こんな事件が近々あると梅津にわかっていたなら、彼は公示の延期という
手を使うことも出来たのだ。しかし、もう手遅れだった。
 いまさら発表したものを変更するというのは、群島行政としてのプライドにかけて
やりたくないな………と、梅津は思う。
 彼は、泣き声と怒号が入り交じる戦場と化した事務所を見回した。
 事務所はもう完全にパニック状態だ。窓口には長蛇の列が並び、全ての窓口で説明
と口論、罵りあいが発生している。
 手の空いているやつなんか、一人もいやしない。

「所長、お茶いれましょうか?」

 ………一人だけ、いた!
 そこには三鷹市から研修で派遣されてきていた職員、水原遥がどうでもいいような
『老人会ゲートボール大会のお知らせ』のガリ版草稿を抱えて立っていた。
 遥は『おっちょこちょいで使えない奴』だった。何をやらせてもドジばかりなので、
研修目的で三鷹市から追い払われたらしい。
 当時、群島連絡事務所は出来たばかりで人手不足であったから、あちこちの市役所
に『何でもいいから人をよこせ!』と都庁を通じて要請したのだが、本当にロクでも
ないのが来るとは思わなかった。
 しかし、使えない人材を使ってこそ、真の上司というものだ。少なくとも、梅津が
東京商工会議所から貰った『部下から頼られる上司、100の実践法』にはそのよう
に書いてある。小さな成功から、部下のやる気を引き出すのだ。

「きみぃ、きみにもっとすんごい仕事をやって欲しいんだっ!」

 梅津は遥に、公営住宅の町内会長選挙の話を切りだした。幸か不幸か遥自身も縁島
団地の住人であったので、なおさら梅津にとっては好都合だった。

「いいか、都庁連絡事務所としてはだね、公正な選挙が行なわれるように監視・管理
しなければならない。しかし、私達は忙しくて手が離せないんだ。
 そこでだ、きみがこの重要な仕事を遂行して、愛と平和と信念に溢れた立派な人物
を町内会長に据える。どーだ、やりがいがある仕事だろう!」

 お茶くみ、コピー、おつかい。
 ロクな仕事をさせて貰えなかった遥は、梅津の目論見どおり仕事に燃えていた。
 その能力は、ともかくとしてもだ。
 その答えには、やる気だけはきっちりと込められていた。

「はい、わたし、がんばります!」




ACT2-02:選挙管理委員会


 水原遥は、玄関に立てかけられた真新しい立て看板と表札を見比べていた。
 表札には『白葉 透』となっている。
 立て看板の方は、墨書きで『乳幼児救援物資配給本部』といういかめしい名称だ。

「また忙しいのかしら……教授」

 ………遥はその忙しい人に用があるのだ。
 この家の主人、農業工学科の主任教授である白葉透農業工学博士は東京洋上大学と
群島では知らぬ者はいないほどの名物教授である。
 人参の一本、大根の菜っ葉にまで愛情を注ぐこの教授は、自宅へ帰ってまでも近所
の奥様たちを集めては『たくあんの漬け方』などを講義するので、この公営住宅でも
名物教授としての立場は変わっていなかった。
 本来であれば、町内会長選挙は白葉教授の信任投票で片付いていただろう。しかし、
白葉教授は多忙ゆえ、今回は推薦も辞退している。
 だが、それほどに多忙でも白葉教授ならきっと手伝ってくれるだろう………仕事に
やる気はあるものの、どうしていいかわからない遥は白葉に相談しにやってきたので
ある。

「あのぉ……」

 玄関先からでも、白葉の忙しさはわかるほどだった。

「何をやってるんだ!いいか、1缶でも多くの粉ミルクを集めるんだ。営業部の意地
と名誉にかけて、教授のお手をわずらわせてはならんっ!」
「スケジュールは切り詰めよ、総理大臣と会食なんてとんでもない!常識で考えてよ、
この忙しいのにやってられないわ」
「教授、乳幼児用品の供給が不足です。どうしましょう?」
「では、配給制を導入するということで」
「担架だ!また一人秘書が倒れたぞ!」
「畜産研究室の天本にいっとけ、牛乳の生産ラインを拡大だ!予算は経理課が保障す
るから、一滴残さず搾り尽くせってな!」
「天城さん、担架はまだですか!」
「手配はしてるのよ!」
「電話回線も足りないぞ、おいっ!」

 3LDKの家の中では、30人以上の農工科職員が汗だくになって走り回っていた。
その様子は群島連絡事務所に勝るとも劣らないものだ。例の赤ん坊絡みで、白葉教授
の仕事が山のように増えたという噂はやはり本当だったらしい。
 ………これじゃあ、会ってもらえそうにないわ。
 諦めて帰ろうとしたところを買い物から帰ってきた中嶋千尋が見つけてくれなかっ
たら、たぶん遥は白葉と会うことは出来なかっただろう。




「ふむ、それでわたしに選挙を手伝えというんだね?」

 学生が働いている時には絶対休まないという白葉教授。その教授に少しでも休憩を
取らせることは、教授を支える秘書たちにとって重要な仕事の一つである。
 特に来客を名目に白葉を休ませるのは、代々の教授付き秘書に受け継がれる伝統的
なテクニックの一つだった。だからこれほど忙しくても、教授付き秘書の天城梨沙は
無理矢理スケジュールを工面して、白葉教授と遥との面会時間をでっちあげたのだ。
 そういう事情もあり、運よく純日本風にまとめられた白葉の書斎へと案内された遥
は、事情説明で乾いてしまった喉を千尋が運んできてくれた緑茶で潤した。

「ええ、先ほど説明したように連絡事務所としては出来ませんので、ここは白葉教授
の御出馬が無理でも、せめて選挙管理委員長を引き受けて頂けないでしょうか?」
「うーむ、そーだねぇ」

 白葉の頭の中に、自分の主治医である津久井の顔が浮かんで、消えた。
 しょせん、無理をするなと主治医に怒られても、困っている人を放っておけるよう
な人間に白葉は出来ていないのである。

「しかし、選挙管理委員長はともかくとしても、まだ立候補者がおらんのでは?」

 そう、立候補者はまだいない。
 選挙公示と今回の事件が重なったせいもあるだろうが、公営住宅の人々も例外なく
この騒動に巻き込まれ、立候補どころではないのだ。
 それにしても、一人もいなければ信任投票ですらできやしない。

「どーしましょう?」
「まかしておきなさい、暇がありあまっていて責任感があり、生活能力はないが意外
と女子供に優しい好青年を知っておる……彼を、農工科で推薦しようではないかね」

 とりあえず、そういわれても遥にはそれが誰だかわからなかった。
 なぜなら、そいつはあまり目立つほうではなかったからである。




ACT2-03:推薦者たち


 さて、農工科推薦の『その男』とは別に。
 白葉と水原遥の知らないところでもう一人、地域社会の福祉振興のために罪もない
住民を推薦しようとしている女がいた。
 群島で最大規模、東京ラドン健康センターにも引けはとらないといわれるレジャー
施設SNSの店長、シータ・ラムである。
 彼女は久々に自宅へ帰ってきたのだったが、掲示板に貼られた『町内会長選挙』の
公示を見て愕然としたのだった。

「そ………そんなものがあったなんて!」

 いままで知らなかった。
 それに気が付いた時、ラムの心の中に自分のいままでの生活が走馬燈のように思い
出された。
 ああ、なんてだらしない生活を送っていたんだろう。仕事が忙しいとはいえ、家に
もロクに帰らないものだから、近所の方の顔もわからない。
 道ですれ違っても挨拶も出来ないじゃない………もしも、向こうがわたしのことを
知っていたら、とんでもない失礼なことだわ。
 家に帰りつくと、買い物袋を床へ下ろすのもあわただしく居間へとかけ込む。

「衿霞、衿霞っ!」

 ラムに呼ばれて居間でTVを見ていた白葉衿霞は、大きな堅焼きせんべいを口にく
わえたまま振り返った。

「あ、ラムはん。おかえりどす」
「掲示板の貼紙、見た?」
「うん、見ましたどす」

 何度聞いても衿霞のおかしな京訛りには力が抜けるが、ラムは衿霞に、自分は地域
社会への貢献にあまりにも無関心だったのではないかと話を持ちだした。
 ラムはインド人だ。そして白葉衿霞も実は日本人ではなく、プラチナ・ブロンドの
れっきとしたドイツ人である。
 お隣さんは日本人だが、お隣さんでは掲示板の貼紙を見て、『地域社会への貢献』
なんぞという高尚な一語は出てこなかった。
 そういう意味では、この二人の外国人は失われていく日本の近所付き合いを大切に
する『日本人らしい外国人』の見本だった。そして、なぜか公営住宅にはヘンに義理
人情に厚い、日本人らしい外国人が沢山住んでいるのだ。

「でも、わたしは忙しいからとても町内会長には立候補できないのよ」

 今度の事件で、ラムの職場であるSNSにも母親の一夜漬けが殺到している。
 とてもラムには町内会長を勤めるだけの暇はない。
 しかし、何かの役に立てないかと考えるラムに衿霞が助け船を出した。

「では、推薦したらどうどすか?」
「誰を?」

 衿霞が上げたその名前は、同じく外国人で、しかも探偵で、おまけに暇そうな感じ
で姉さん肌で金髪の女の名前だった。
 なるほど………と、二人は納得して彼女を推薦することに決めたのである。




ACT2-04:立候補者たち


 白葉教授は、廊下を挟んだ向い側のナサティーン家を訪れた。
 もちろん手ぶらの筈はなく白葉の手には粉ミルクの缶が抱えられている。

「えーとだね、ジーラくんはいるかね?」

 玄関先で聞こえた白葉の声に、ジーラは赤ん坊のようなものをぶら下げて出てきた。
群島を襲った事件の被害は着実に民間レベルまで浸透しているようだ。

「あ、教授……おひさしぶりね……」
「どうしたジーラくん、所帯疲れとはキミらしくもない」
「あ、それ!粉ミルクっ!!」
「ええっ、粉ミルクですか?助かります、ホントに」
 
 白葉が床へ下ろした粉ミルクを奥の部屋から顔を出したシーラが、本当に助かりま
すと何度も頭を下げて持っていく………余程、困っていたらしい。
 粉ミルクを抱えて歩いていくシータを見ていたジーラは、ふと気がついて無視され
た形の来客に向き直った。

「それで何なの、教授?」
「いや……実はだね」

 白葉は事の顛末をジーラに説明する。

「……と、いうわけで、わたしは選挙管理委員長として地域社会の振興に微力を尽く
すことになったんだが、キミにも協力して欲しくてね」
「いや、もちろんあたしは協力するわよ」
「そうか……いや、実はキミを町内会長にという住民たちの強い希望があってだね、
それで、是非キミにも出馬して貰いたいんだよ」
「えっ?」

 白葉がジーラにいったことは嘘ではない。
 推薦があったのは本当である。ただし、推薦者がシータ・ラムと白葉衿霞だけだと
いうことはあえて伏せておいた。
 みんなが推薦しているんだよ、といっておけば、この姉さん肌なところのある外国
のパワフル姉ちゃんは、きっと話にのってくるに違いないと踏んだのである。

「……でもねぇ、うちもこんなだし」
「それはわたしのところも同じだ、みてみなさい」

 白葉は、自分の後ろ……白葉家の玄関を指さす。
 そこには『乳幼児救援物資配給本部』の看板の他に、新しく『選挙管理委員会』の
立て看板が増えていた。

「みんながキミに期待しておるんだ」

 ジーラ・ナサティーンは、そういわれて断われるような人ではなかった。
 外国人にしては義理人情に厚すぎるのだ。

「これはほんの気持ちなんだが」

 農業工学科総務課の連中がわらわらとやってきて、ジーラ家の玄関先に立て看板を
据え付けていく。
 ………その看板には、『ジーラ・ナサティーン選挙事務所』と書かれていた。




 そして、その頃。
 赤ん坊のようなものを背中に背負った青年、富吉直行はどういうわけだか急に多く
なった仕事を抱え、やたらと忙しい生活に四苦八苦していた。
 探偵をしている富吉のところには派手な仕事は回ってこない。
 だから有名ではないし目立つようなこともないが、浮気調査などの地味な仕事には
有名でないほうが実際役に立つのだった。
 今回も、富吉は大量の赤ん坊の置き捨て事件には興味を示さず、確実に飯の喰える
地味な仕事を無難にこなしている。

「さて、そろそろ出かけるか」

 ある町工場の社長が愛人を抱えているらしいが、確認してくれという奥さんからの
依頼だ。
 もちろん幼い子を置いて仕事に行くわけにもいかず、富吉はスーパー丸安で買って
きたビニール紐で、それを背中へくくりつけた。

「富吉さんですね?」

 玄関を一歩出たところで、いきなり声をかけられる。

「はい、そうですけど」
「農業工学科秘書課の天城といいます。全て、わたしたちが責任を持って貴方を推薦
しますので、どうぞ御安心下さい」
「あ………あんた、たしか……」

 富吉は、目の前の女性に見覚えがあった。
 天城梨沙、農業工学科の秘書課勤務。白葉教授の第一秘書で、かなりのやり手だと
いう噂だ。『白葉教授の電子手帳』とまでいわれている彼女が動いているということ
は………白葉さんが動いてるな、と富吉は思った。
 玄関脇では、もう総務課が看板を立てている。

「さあ、わたしたちがバックアップするからには、絶対に敗北は許されません!富吉
さんの興亡はこの一戦に有りですわ。各員いっそう奮起努力しましょうっ!」
「お、おいっ!」

 富吉の意見は立て看板を立てる音と、室内にかけ込んできた秘書課と総務課の選挙
事務員30余名によって完全にかき消されてしまっていた。
 ………そして、看板には『富吉直行選挙事務所』の墨書きが燦然と輝いていたので
ある。


 ちなみに。
 富吉が普段過ごしている部屋は、一番家賃の安い3畳間であった。




ACT2-05:ダルマさんは転ばない


「この当選祈願のダルマ、入りきりませんね」
「やっぱり3畳間で選挙活動をしようって方に無理があるんですね」

 富吉直行選挙事務所の手伝いを命ぜられた農工科のある職員は、当選祈願のダルマ
を富吉宅へ運びこもうとして四苦八苦していた。
 なにせ、3畳間は狭い。事務用の机をおいて、上に電話回線を3つ引くともう一杯
で富吉の生活できるスペースがない。
 おまけにダルマは、4人かがりでないと運べないほど大きいのである。

「俺は、町内会長なんてガラじゃないよ」

 富吉がいくら主張しても、回りの人間は誰も聞いてはくれなかった。
 選挙の当事者である富吉の意見など差し置いて、有能な農工科の秘書課と総務課は
そのメンツにかけて富吉を町内会長へ据えようとしているのだ。完璧な仕事、それが
彼らの誇りであり目標でもある。
 しかし、富吉としては町内会長なんか冗談ではないというのが本音だ。仕事もここ
のところ忙しいし、そんなものに構っている暇はない。
 それは何度もいいかけたのだが、その度に農工科の秘書たちは『あ、結構ですよ。
全部我々で処理しますので、どうぞお茶など飲んでいて下さい』と、うまくはぐらか
してしまうのだ。
 おかげで何もいいだせない富吉だった。

「あ、なんだ。隣の2DKも富吉さんの家じゃないですか」

 ぎくっ!その言葉を聞いて、富吉の動きが一瞬止まった。
 隣の部屋は、富吉にとって思い出と愛着のある部屋だ。
 ルフィーア。その2DKの部屋は、ほんのわずかな間ではあったが彼女と楽しい日
々を過ごした思い出の部屋だった。

「よし、じゃあそっちに事務所を引っ越しましょう!」
「よ……よせ、止めてくれっ!」
「移動開始っ!」

 30余名の事務員たちは、すばやく行動を開始していた。
 その喧噪にかき消されてしまった富吉の言葉は、もはや誰の耳にも届かない。
 彼女が出ていってしまってから、そのままにしてある部屋の中は見る間に垂れ幕や
テーブルやパイプ椅子が持ち込まれ、何が何やらわからなくなっていく。

「よかったあ、これでダルマが入りますよ」

 ダルマを運びこんでいた事務員は、そういいながら2DKへダルマを運びこんだ。
その時、視界の隅に入った富吉の姿を、彼は後で同僚にこう語っている。

「どーしたんですかねぇ。富吉さん……いまにも泣きそうな顔をしてましたよぉ」



 その一方。
 富吉の対立候補、ジーラ・ナサティーン嬢は掲示板に新しく貼られた候補者の公示
を見て闘志をあらわにしていた。

「………こいつにだけは負けられない!」

 ジーラと富吉には、いろいろな因縁がある。
 白葉教授と中嶋千尋が一緒に生活を始めた時でも、ラブシックの一件でも富吉だけ
はなぜかジーラの思うようにはならなかった。
 どこからどう見ても、ただの貧乏人のはずなのに、なぜかいつもジーラとは正反対
のところにいて、それでいてさりげなくジーラを批判するのだ。

(そんなことで腹を立てるほど、人間が出来てないわけじゃないわ)

 そう思っても、なぜか富吉という男はひっかかるのだ。
 だからこそ、ジーラは思う。

「こいつにだけは負けられないのよ!」と。




ACT2-06:黙ってりゃ判らない


「この辺が一番ひどいな」

 広田秋野は超音波探傷装置の携帯用小型端末をキャリアに載せて、公営住宅のA棟
8階、エレベーター前であたりを見回した。
 先日、来々軒の親父がふっと漏らした『公営住宅に無数にあるヒビ割れ』が何故か
無性に気になった広田は、片手に子供のようなものを抱えながらも律儀に検査に来た
のである。
 ざっと見た限り、被害が大きいのは公営住宅A棟の7階から8階……特に、8階の
損傷はかなり深いように思える。

「うーん、こんなにひどく壊れるようには思えないんだけどなあ」

 広田は図面を見た。
 実は、公営住宅は最初の設計段階から建築ミスがある。配管関係のミスなのだが、
予定より畳3枚分のスペースが余ってしまったのだ。
 それを超格安で住人に貸した住宅公団側の機転により、欠陥住宅などの報道問題は
起こらなかったものの、広田にいわせれば『強度の低下は避けられない』ことであり
、たとえ規定の数値を満たしていたとしても欠陥住宅に変わりはない。
 ましてや地盤が埋立地なのだ。
 縁島団地は8階建ての高層住宅であり、ぎりぎりまで軽量化が図られている。基本
構造部を除いては、そのほとんどが発泡金属と発泡コンクリートによって作られてい
るのだ。決して強度的に余裕のあるものではない。

「取りあえず、基本構造部の鉄骨を調べよう」

 広田は端末のセンサーを、図面に従って壁へ押しつけた。
 鉄骨部分に使われている鉄骨は、溶接構造用圧延鋼材(SM490A−UT)だ。
関西製鋼株式会社が1992年に発表したこの鋼材は、その前年に新聞報道された『
開裂鋼板問題』をきっかけとして、工業技術院が改定せざるを得なかったJIS規格
に沿ったものであり、製品出荷時の超音波探傷試験が義務付けられている。
 試験が行なわれたことは、製品についているミルシート(成績表)を見ればわかる。
しかし、調べている広田の顔には明らかに疑問の表情が浮かんでいた。

「おかしい……実測値と、どうしても合わない」

 もしや、『天麩羅』では?
 広田は以前に聞いたことのある裏知識から、そんな疑問を抱いた。
 天麩羅は、衣と中身から出来ている………そして、中身と外側は全然違うのだ。
このことから成績保障のない製品に、正規のミルシートを流通過程で捏造してしまう
行為のことを天麩羅という。そして、それを調べることは流通経路を辿ることであり、
立証するのは事実上不可能だ。
 だが、その天麩羅だとすると強度的には当てにならないことになる。

「じゃあ、次に……」

 広田は、センサーを発泡金属の部分に当てた。
 スイッチをいれると、超音波の震動が壁面を伝う。

・・・・・パラパラパラ・・
 壁が音を立てて崩れてきた。
 驚いて壁から離したセンサーは、エレベーター脇の壁面に当たる。

 ピシッ!!
 長さ3mほどの縦長の傷が壁に走る。

「げげげっ!」

 事態を把握した広田の額を冷汗が流れた。
 予想していたより、かなり深刻なものだったのだ。
 ………このままでは近いうちに建物そのものが………崩れる。




インターミッション:白磁の空間


「……ふう、すっきりしたあ」

 杉山不二夫は白い便器に腰を掛けて、用が終わった後の脱力感に身を委ねていた。
 場所は奇しくも公営住宅A棟の6階。
 時間はちょうど、広田秋野が8階で調査活動をしていた頃のことである。
 彼は近所のスーパー丸安の食料品売場でバイトをしながら、洋上大学の文理学部で
毎日勉学に励む平凡な学生さんだ。出身は福井県、原発の立ち並ぶ若狭の海でナンパ
と初物喰いの青春を謳歌した。
 とりたてていい男ではないが、生来のやかましい性格がよく『明るくて楽しい人』
と誤解されるらしい。

 それはともかくとして。
 彼は尻を拭い、レバーを『大』の方向に回そうとしていた。
 紙が貴重品となった今、トイレは全てウオッシュレットの温水洗浄なのだ。
 が、なぜか温水は出てこなかった………このままでは尻が拭けない。

「ま、いいや。後でティシュペーパーで拭けば」

 若い男のベッドの横には、必ず備え付けのティシュがあるはずだ。
 幾ら紙が貴重品になったとはいえど、鼻をかむのにはやはりティシュが一番なのは
今も昔も変わらない。
 上の方で、何か壊れる音がしたのはその時である。

「あっ!」

 バシャャァア!!
 配管が壊れた!冷たい水が、中腰になっていた杉山に降りかかる。

「うわぁーえんがちょぉぉぉ、うおおおおを!」

 よくわけの分からない叫びをあげて驚く杉山。
 そして、ドアを開けようとする。
 ・・・・ガチャガチャ!

「げ、開かないぞォ!うおおおおお!!」

 1カ月ほど前から、ドアはやたらと立付けが悪くなっていた。
 そして、上からの重圧によって押しつけられたドアの枠組みは、ドアをしっかりと
押え込んで離さない。押しても引いてもびくともしない。

「おお、そーだ!とりあえず、流すだけは流さなければ!」

 が、しかし………流れなかった。
 近年まれにみる大きさ、堅さ、色、香りともに申し分ないその逸品は、上から降り
そそぐ水に水位をあげていく便器内の水とともに、ゆるやかにせり上がりつつあるも
のの、流れはしなかった。

「こ……これはヤバ!無茶ヤバやわ!」

 手を振り足を振り、ダイナミックにパニックを表現する杉山。
 しかし事態は一層深刻になりつつある。
 白い紙をドレスのようにまとわせたそれは、ついに便器から『流出』した。
 ガンガンとドアを叩けども、一人暮らしゆえに助けはこない。
 破れた配管からの水は一向に止まる気配も見せない。
 ………杉山は、開き直った。

「こーなったらドアを背にして便器を蹴り、その反動でドアを叩き破るしかない!」

 慎重に、彼はドアを背にする。
 目標に狙いを定める。
 そして、すうーっと深く息を吸い込む。

「あちょーぉぉぉ!」

 ドアは勢いよく開いた。
 ドアノブと、INAXの便器と、杉山自身の足を叩き割って。
 そのまま杉山は居間を横切り、下半身を露出させた格好のまま、食器が山積みにな
った台所へと突っ込んでいった。




ACT2-07:弥生家の叛乱分子


 公営住宅には、学生も多く住んでいる。
 3畳から3LDKまでという幅広い条件もそれを促進しているのだが、学生たちが
数人で少し大きめの部屋を借りたりするのも良くある話だ。そのまま学生結婚という
話も、たいして珍しい話ではない。若いというのはそういうものだ。

 だが、縁島団地A棟の8階に住む弥生葉月のように、隣に住む玉乃宙実や、7階で
真下に住むルイス兄妹、斜め下の雪御冷嘩を『家族』と見なし、黒沢世莉や闇沢武志
などの居候と共同生活を営むというのは、やはり珍しい話だと思う。若いというのは
そういうものだ。
 さらには公営住宅の居住規約もロクに読まず、通行に邪魔だという理由だけで床や
壁を破壊し、4世帯を繋げてしまうなどというのは、それはそれは珍しい話だと思う。
若いというのは………そういうものなのかも知れない。
 おまけに深夜2時に洗濯機を回し、ゴミの分別収集に協力せず、家の中に無資格で
危険な薬品を保管して床を溶かし、室内に石造りの釜を作って床を焦がし、8階天井
をもぶち破って屋上と繋げ、屋上にプラネタリウムなどを勝手に作り、そのうえ屋上
の1/4もの面積を占めるプレハブ住宅を許可なく建て、東京都の認可もなく保育所
をやり、時間に関係なくバンドの練習をしているという話は………もう立派な犯罪だ
と思う。


「なんでこうなるのよ………」

 玉乃宙実は眠い目をこすりながら、屋上の冷たい風に吹かれていた。
 このパニックに乗じて保育所をやれば現金収入も入るし、最近とくに険悪になって
いる弥生家と近隣住民との関係も修復できる………宙実はそう思っていた。
 しかし、現実はそれほど甘くはなかったらしい。
 商業性の高さは労働時間にも跳ね返ってきた。弥生家は現金収入と同時に赤ん坊を
山のように抱え、睡眠時間をその代償として差し出さなければならなかったのである。
 そのうえさらに、

『ちょっと、お宅の赤ん坊がうるさいわよ!何時だと思っているの!』
『何様のつもりだ、やかましい!』

 などの根拠のしっかりした苦情がダイレクトに弥生家に届けられ、宙実のストレス
はMILの木島助教授のようにたまる一方だった。
 比較的事態へ適応するのが早かった闇沢武志も、もちろん超過労働は宙実と変わら
ない。聖ピエトロ寺院だかなんだか知らないが、そう名付けられたプレハブ住宅の上
で、彼は黙々とおむつを干す。
 紙おむつが無くなってしまったのだ。買うといっても、どこへいっても在庫切れで
千葉や埼玉、神奈川まで探しても入手は困難らしい。

「なんでこんなことを………」

 闇沢の脳裏を屈辱の記憶が………自分が弥生家の一員に『された』日のことが過労
とめまいを伴って鮮烈に蘇る。
 勉強を教えにきたはずなのに、弥生葉月にヘビ(ヨハネという名前らしいが、それ
ももちろん気に入らない)で脅され、弥生家の一員になるという書類にサインをさせ
られてしまったあの日。
 思えば、全ての不幸はあの日から始まったのだ。あの悔しさは忘れられない………
いいや、けっして許せない。
 闇沢は、いつのまにか知らないうちにおむつを固く握りしめていた。

「こっちだって、じっと耐えていただけってわけじゃない」

 住宅公団に書籍小包で送った1枚の画像記録用メモリ・カード。
 それが闇沢の復讐だった。
 そして闇沢は復讐の成否を、血相を変えて屋上へとやってきたルイス・ウーの妹、
クラレッタの口から知ることになる。

「たいへん、住宅公団から6階以上の住宅に立ち入り検査だって!」




ACT2-08:生活向上委員会


「もう我慢できませんわ!」
「こうなったら強制立ち入り捜査だっ!」
「証拠を見つけて、あのガキどもを警察に突き出してやる!」

 縁島団地A棟の管理人室には、6階と7階、そして8階の住人を主な構成員とした
住民団体、生活向上委員会のメンバーが続々と集結していた。当然、全員が弥生家と
は関係が深いものたちばかりだ。

「あたしゃ、管理人という仕事は余生をおくるにふさわしい仕事だと思ってました。
だけど………こんなにストレスがたまるものだとは思わなかったっ!!」

 管理人氏は、あふれる涙を拭おうともせずにビールケースの上で堅く握ったこぶし
を振りあげている。委員長は管理人氏なのだ。
 ゴミの分別収集から、騒音、挨拶、礼儀にいたるまであそこの住人は最低です……
管理人氏の脳裏を、苦しいストレスの日々が浮かんでは消えていく。
 うるさいと注意した日、弥生家の玄関に顔を出したのは居候の黒沢世莉だった。

「あ、わかりました。」

 そういってドアを閉めたきり、やつはチェーンロックをかけたのである。音量が
下がったのは、ほんの申し訳程度に過ぎなかった。
 もう許せない。
 住人たちの怒りはいまや頂点に達しようとしていた。管理人室に燦然と輝く、『
問題住人対策本部』の立て看板が、その決意を表わしている。
 弥生家は………排除すべき敵なのだ。

「みなさん。三宅総合研究所で室長をなさっておられる広田秋野くんが、独自に調査
してくれた結果がここにあります」

 管理人氏は、20枚ほどのレポート用紙を住民たちに見せた。

「7階では変な外国人のルイス兄妹が、おそらくこの事件に関与しているものと見て
間違いはないようです。そして間違いなく………」

 ごくり……と、生唾を飲み込む音が聞こえた。
 彼らは、彼らの生活を脅かしている『原因』を既に特定していた。それが今までは、
あくまでも推測の域を出なかったということもある。
 しかし、超音波探傷という科学的なデータがあれば、合法的に弥生家の罪を訴え、
路頭に迷わしてせせら笑うことが出来るのである。
 彼らは期待していた。弥生葉月の名があげられるのを!

「そして間違いなく、弥生家は関係しています!」

 ………歓声が沸き上がった。
 そしてそれは、きつね狩りの最初の一幕だった。




ACT2-09:トルコ人の攻撃


「ルイスさん、ちょっと!」

 ガンガンガン!
 激しくルイス・ウーの自宅のドアを叩く音がした。

「はい?」

 様子がヘンだな………と、ルイスは思う。
 新聞の集金にしては乱暴すぎるし、三河屋の集金なら上の弥生家のドアを叩くはず
である。一応チェーン・ロックを確認する………よし。
 ガチャリと開いたドアに、7階の住人が殺到した。

「生活向上委員会のものだ、お宅に住宅破損の疑いがあるので臨検します!」
「わあああああああ、ま、ま、待ってくれぇ!!」
「チェーン・ロックを切ってまえ!」

 僅かに開いたドアの隙間から、金属切断用の大型カッターが突き出される。
 それを見たルイスの顔から、血の気が音を立てて引いていった。必死にドアを閉め
ようとする。
 それもそのはずで、ルイスの家には無資格で硫酸だの塩酸だの青酸カリウムだのの
危険物が置いてあるのである。その上、隣の雪御冷嘩や8階の弥生葉月の家との連絡
通路まであるのだ。もちろん、それは住宅公団へ無断でしたことだった。
 バレたら、家屋不法改造で追い出しをくらうばかりか、薬事法違反にまで問われる
かも知れない。

「わ、待って、待ってくれ!」
「待てねえなあ、江戸っ子はそんなに気が長くねえんだよ!」

 そこへ妹のクラレッタが駆けつけた。
 その白い手には、しゅんしゅんと音を立てたやかんを持っている。

「どいて、お兄ちゃん!」

 沸騰したお湯がぶちまけられたのと、ドアの外で男の叫びが上がったのはほとんど
同時だった。

「あぢぃぃぃぃぃぃぃ!」
「今だっ!」

 ルイスはすばやくドアを閉め、薬品庫へと向かった。
 ドアの外で、かすかに聞こえる男の呻き声。

「ちきしょう、このアマ!江戸っ子は熱いのには強えんだぞ………くぐぐぐぅ」

 それをかき消すように住民の怒号が聞こえてくる。

「にかわを塗りたくるんだ!」

 薬品庫から戻ってきたルイスは、ドアに実験用のにかわを塗りたくった。これで、
合鍵を使ってもドアは開かないはずだ。
 ガンガンガン!
 ドアは執拗に叩かれている。ルイスは、ふだん御近所にどれほど恨まれていたのか
を考え、悲しい気持ちになった。だが、過ぎてしまったことは仕方がない。
 こうなった以上、弥生家のみんなと相談しなければならないだろう。




 そして、同時刻。
 8階の弥生葉月も生活向上委員会の臨検部隊に襲われていた。

「部屋を開けなさい!さもないと、こじ開けることになるぞ!」
「だまれトルコ人どもめ!きさまらごときの攻撃で、この弥生家は落とせやしない。
首を洗って出直してくるがいい!」

 豪語する弥生葉月。
 それを聞いていきり立つ住民サイドは、合鍵を使って侵入を試みる。

「やってしまいなさい、黒沢君」

 葉月の背後に立っていた弥生家の居候、黒沢世莉の手には通常火災、電気火災、油
火災のいずれにも効果のあるABC式粉末消火剤が、ピンを抜かれた状態で握られて
いた。

「覚悟っ!」
「ぶわわわわわわわっぷ!」

 押し出されるように後退する住民ども。
 それに向かって、世莉は………勢いの弱くなった消火器本体を投げつけた。最前列
のおばさんが鼻血を吹いて倒れる。

「いまだ、ドア閉めろ!」

 すばやくドアを閉める葉月。

「ざまを見たか、トルコ人め!我らの青春に敵などない!」

 閉められたドアの向こうからは、住民たちが「この外道!」と叫ぶ声が聞こえる。
たしかに外道かも知れない。いや、外道だと思う。
 しかし形こそ異常であっても、葉月は弥生家を守ろうと心に決めていた。葉月にし
てみれば、たとえ住民全てを敵に回しても今の生活に干渉されるのだけは我慢がなら
なかったのだ。




ACT2-10:崩れるぞ


「みなさん、大変なことになりました!」

 階段を駆け上がり、管理人氏は息を切らせていた。8階の弥生家前で、文字どおり
消火器を浴びせられ粉まみれになった住民一同。
 そこへ、血相を代えた管理人氏が駆け込んできたのである。

「今、住宅公団から連絡が入りました………A棟に崩壊の危険が高いため、A棟6階
以上に住んでいらっしゃる方に退去命令を出します!代替住居としては、住居使用に
問題のある弥生家を除いて、先日改築が終了したF棟を当てるそうです。」

 住民たちの顔に動揺の色が浮かぶ。そんなにヤバい状態なのか?
 その質問に答えたのは管理人と一緒に階段を昇ってきた住宅公団の職員中年だった。

「かなりまずい状態です。これは、匿名で住宅公団へ送られてきたメモリ・カードで
すが………」

 男が見せたカードには、『弥生家、その破壊の実態』と書かれた紙が張りつけてあ
る。弥生家に制裁を加えようと闇沢武志が公団へ送った、あのメモリ・カードだ。
 だが、闇沢の予想以上にその1枚のカードは、住宅公団側に衝撃を与えていた。

「………くーずれるぞぉー……」

 縁島団地を設計したある技師は、この画像データをみて、一言こういったという。
 その話を聞いた後の、住民たちの行動は早かった。

「明ちゃん、急いでママと逃げるのよ!」
「おい、お前!ここはもうじき崩れるぞ、下敷きになりたくなかったら逃げる準備を
しろ!化粧はほどほどにしろ!」



 弥生家を除き、対象となった住民全ての避難が終了したのは、退去命令が出てから
3時間後のことだった。

「弥生さん、弥生さんっ!」

 ガンガンガン!!!
 管理人氏は弥生家の、無礼な、失礼な連中が大嫌いだった。
 それでもドアを叩いたのは自分の仕事に対して誇りを持っていたからで、そうでな
かったら見捨てて逃げたいとさえ思っていた。

「弥生さん!もうじきここは崩れるんですよ!」
「トルコ人どもが!そんな幼稚な手に我々がのるとでも思っているのか」

 その健気な管理人氏がドアを叩く音を、葉月はせせら笑っていた。葉月には事態が
はまったく把握出来ていなかったのである。

「ダメだ、こりゃあ」

 閉ざされた扉の前で、管理人氏はドアを叩くのを止めた。
 手がひりひりと痛い。こんなになるまでドアを叩いたのに、やつらは出てこようと
はしなかった。もうじき、ここは崩れるかも知れないのに!

「もうワシは知らん!勝手に死にさらせ、ガキども!」

 そう叫んだ管理人氏は、あることを思いだしてぞっとした。
 弥生家は、屋上で保育所を開いている。つまり、大量に赤ん坊を抱えているのだ!
 危険は迫っているし、これ以上は待てない………管理人氏としては、せめて赤ん坊
だけでも篭城を決め込む暴徒の手から救わねばならないのだ。
 警察を呼ぼう………管理人氏はそう決意した。

「もしもし公営住宅A棟ですが、崩れかけて退去命令が出ている階に、若いグループ
が数人で立てこもり、赤ん坊を拉致しているんですが!」

 言い方に、多少以上の悪意がこもったとして、誰が管理人氏を責められよう。
 少なくとも住民の意見を管理人氏は少なからず代弁していたのである。




ACT2-11:蒲田後進曲


「ね、銀ちゃん。仕事終わったらどーするよ?」
「あー、そーだな。焼肉でも喰って帰るか」

 6階と7階の間にある階段では、住宅公団の職員である鎌田銀次とその同僚、関森
井乃助が座り込んでいた。
 ここから先は、退去命令が出ている危険区域だ。
 なんでも、赤ん坊を盾にした若い武装グループが立てこもっているという話らしく、
そのせいで崩れてくる天井を支えるため、6階以上の各階に発泡ウレタンを流し込む
という作業が出来ないらしい。
 だからこれ以上作業を遅らせないためにも、鎌田たちはここを交通止めにしておく
必要があるのだった。

「あ、銀ちゃん。誰かがくるよ」
「ええ、何だって?」

 階段を駆け上がってきたのだろう。
 少女は肩で息をしていた。栗色の髪の毛がさらりと伸びていて、紅茶で染めたよう
な茶色のセーターの上に落ちていた。

(ヨハネちゃんや、弥生家のみんなが大変!)

 SNSでウエイトレスをしている彼女………麻生真由子は、TVで公営住宅の一部
に退去命令が出たのを聞きつけ、あわててやってきたのだ。
 彼女がかわいがっているヘビ、ヨハネのことも心配でたまらない。

「お嬢さん、そっちは危険です!」
「どいてっ!」

 とっさに彼女の前に立ちはだかった関森。
 しかし、真由子は反射的に彼を跳ね飛ばしていた。バランスを崩した関森の目に、
階段の段差が斜めに見えた。

「うわあああああっ」
「関森っ!」
「きゃー!!」
「銀ちゃーあん!」

 階段から転げ落ちていく関森の姿が、まるでスローモーションのようだった。その
身体は何回か、コンクリートの段差に叩きつけられ宙を舞う。
 思わぬ事態に、真由子の叫び声があがった。
 軽く押しただけなのに………しかし、階段下で、関森は血塗れになって倒れている。

「大丈夫ですか?ごめんなさいごめんなさい!」

 あたしが、ケガをさせたんだ!
 罪の意識が真由子を責め、しらないうちに涙がポロポロとこぼれていた。
 だが、関森を助けおこす鎌田の腕の中で額をざっくりと割り、血をどくどくと流し
ながらも関森はにっこりと微笑んだ。
 泣きながら謝っている少女を、これ以上悲しませたくはないと思ったのだ。
 ………そして、そのまま気を失ってしまったのである。




ACT2-12:機動隊員200人!


 救急車が走りさっていった後も、麻生真由子はその方角を見つめていた。
 階段での予想外の事故。そしてそれに伴う事情聴取などで、真由子は弥生家に行く
ことが出来なかったのだ。
 気を失った関森さんは幸いにも軽い脳震盪だけで、命には別状ないそうだが、階段
はさらに厳しく監視されてしまい、もう6階より上へ行くことは出来なかった。

(ごめんなさい……弥生家のみんな)

 真由子は、自分の大好きな弥生家のみんながどうなるのか不安で仕方がなかった。
どうやら警察官の話によると、『幼児を拉致して不法占拠している青少年グループ』
というのが弥生家らしい。
 ASの放送車も来ているようだ。レポーターの声も聞こえてくる。

「TVを御覧のみなさん。とんでもない凶悪犯罪が、この平和な縁島団地で起こって
しまいました。若い青年グループ数人が赤ん坊を盾にして立てこもり、今にも崩れて
きそうな7階と8階に閉じ込もっているのです!あ、機動隊です。機動隊がどうやら
やってきた模様です!」

 縁島団地からさほど遠くない花見ができる丘公園のところに、警視庁と書かれてい
る灰色のバンが10台ほど止まっている。
 そこから、続々とジュラルミンの盾を持った男たちが降りてきているのだ。
浅間山山荘事件や成田空港事件といった、教科書でしか知ることの出来ないかつて
の凶悪事件の時と同様、彼らの荒々しいやり方は今も大して変わってはいない。
 その手に握られた警棒は、きっと容赦なく被疑者を叩きのめすだろう。

「整列ぅ!いいか相手は未成年だが、赤ん坊を盾にして崩れかけの建物に篭城すると
いう凶悪犯である。容赦するこたあないぞ!骨の2本か3本くらい叩きおってやれ!」
「おーっ!!!」

 隊長らしい大男の怒鳴り声が、かなり離れた真由子のところまで聞こえてくる。
 真由子には、決してガラの良さそうな連中には見えなかった。私服だったらきっと
ヤクザと見分けがつかないだろう。

「女がいたら尻でも胸でも触っていーぞ!」
「おーっ!!!」

 真由子のこめかみを冷汗が流れ落ちていった。
 弥生家のみんなが危ない!
 あたりを見回した真由子の視界に、町内会長選挙の立候補者公示が飛び込んできた
のはそんな時だった。



「助けてください!お願いです、みんなを助けて!」

 頼られるとイヤといえない金髪ねーちゃん、ジーラ・ナサティーンの家に真由子が
飛び込んできたのは、それから10分ほど後のことである。

to be Continued