Act5-12;すれ違い
「ただいまー。社長さん、おとなしく寝てましたかぁ?」

 制服姿で帰宅した真奈美は、スーパーで買ってきた夕食の材料を冷蔵庫に入れながら奥の部屋で寝ているはずの中川に声をかけた。
 ……が、返事はない。

「あれ、社長さん?」

 覗いてみると、真奈美が居候をはじめて以来中川の寝床と化しているソファの上は片づけられており、新しいパソコンの前に座ったアインシュタインがワープロを立ち上げ、いつまで経っても先へ進むことのできない中川のためにアダルトゲームの攻略法を入力していた。

「アインシュタイン、帰ってきてたの? ねえ、社長さんは?」

「ウキキッ(しゃちょうさんはでかけてます)」

 そう言いながら、アインシュタインはキーを叩き、ワープロの画面に、

『さかいさんからでんわがかかってきて、にしまのこうじやにいったよ』

 という文字を打ち出した。

「ひどーい、社長さん、奈美には学校に行けとか行って……。のけ者にするなんてあんまりだぁ」

 真奈美は通学鞄を放り出して、ソファに腰を降ろした。
 あの誘拐事件から一週間――西崎昌明の死体が発見され、秘書の牧田はDGSに放免されたところを張っていた杜沢跡見に発見された。
 そして、その牧田の証言から辰樹の死は本当に事故であったのだと言うこと、あの脅迫状を出したのは西崎の不義の息子である高槻洋二の仕業であることが分かり……『佐々木ファイブ(仮)』の仕事は事実上完遂されたことになった。

『お前はとりあえず学校に行けよ。いつまでもサボリこいてると落第するぞ』

 その中川の一方的な言葉で真奈美はDGSの受付嬢を降ろされてしまった。

「社長の怪我が治るまで、奈美が看病しますっ!」

 ……という言葉は、無視されて終わった。
 家に帰れ、とは中川は言わなかった。こうして真奈美が中川のマンションに居候していることについては、何も言わない。
 何も言わずに、真奈美がそばにいることを許している。
 居たいのなら好きにしろ……という態度なのだ。たった一言、「ずっとここに居ろよ」という、真奈美の待っている言葉を口にしてはくれなようとはしなかった。
 真奈美には、なんだかそれがひどく不公平なことのように思えてならなかった。真奈美が最初にここ来たとき、言い寄ってきたのは中川の方だった。それなのに今は、真奈美が中川の背中を見つめてため息をもらしている。

(……いつまでもシリアスやってるなんて、社長さんらしくないよ。いつものちゃらんぽらんの社長の方が、奈美は好きだもん。いつまでも眉間にシワ寄せて、陰険なことする社長さんなんて……社長さんなんて……ばかぁ)

 ダラットホテルに飛び込んできた中川にしがみついた時の思いも、車の中で抱きしめられたときの感触も、そのときには何よりも確かなものだと思えていた。
 それなのに今は……そのすべてがあまりにも儚いものに感じられる。

 

「何を今更照れているんですか、中学生日記初恋編でもあるまいし……。たった一言を言えずに一週間なんて、女たらしのあなたらしくもない」

 奥の座敷に転がって中川を振り返って、店の土間を掃きながら坂井は苦笑をもらした。さっきから一時間以上もそこに転がって真新しいカギのついたSD聖くんのキーホルダーを弄んでいる。そのキーホルダーは、逃がし屋の仕事料を払いに行った折りに、

『社長さん、SD聖くん気に入ってたみたいだから……』

 と言ってシータ・ラムがくれた物だ。

「柄にもなく正義の見方の真似なんかしたから……引き締まった顔がなかなか緩まねえんだよ。真奈美はあの通りのがきだし、勝手が違ってやりにくくてしょうがねえ」

 掃除を続ける坂井をぼんやりと見つめて、中川がぼそりと呟いた。

「……まさか、もう手をつけたなんてことはないでしょうね」

「勘弁してよ。いくら俺が女にだらしないったって、あんな十六のがき相手に欲情するほどさかっちゃいねえよ。第一真奈美がそう簡単にやらしてくれるほど可愛い尻軽か? まあ、あいつが高校を出るまでは涙を飲んで堪えるよ」

「……(^^;)。えげつないものの言い方はやめてくださいよ。昼間っから」

「てめえが話振ったんだろ、一人でいい子ぶるなよな。女房と死に分かれた後二十年も隣の後家さんながめて清い生活続けて来た訳じゃねえだろ」

「……」

「え?」

 一瞬、気まずい沈黙が「こうじや」の店内を過ぎった。

「……いえ、ははは」

 そう力ない笑いを浮かべて、坂井は耳まで赤くなっていた。
 中年の純情ぶりっ子は……はっきり言って不気味の一言に尽きる。

「お熱いことで……」

 中川には、坂井の心境はとうてい理解できないものだった。

「いつ知ったんです?」

 箒とちりとりを片づけて、坂井は座敷に上がってきた。
 古くさいポットを卓袱台に上げて急須と湯呑みのしたくをはじめる。

「何が」

 まだ痛むわき腹をかばうように身体を起こすと、中川は坂井の差し出す湯呑みを受け取った。

「真奈美くんが、辰樹さんの娘だって事をですよ」

「さあ……いつだったかな」

 熱い茶をすすりながら、中川はしらを切った。

「真奈美くんは知ってるんですか? あなたがその事に気付いてるって」

「どうだかな。あいつ、あれで結構勘がいいし、俺が言わなくたって気付いてるんじゃねえの? ――どっちだっていいよ。真奈美の親父が誰だろうと、俺には関係ねえし。まあ、気付いたときにはうかつに手ぇ出さなくて良かったって思ったけど。義一の旦那って、結構そういう事にうるさそうなタイプだし……あんたの話聞いてっとさ」

「ま、早く言う事言って、そのカギ渡して告白する事ですね。ぐずぐずしてると嫌われますよ。ああ、それから例の脱出作戦の時に使った逃がし屋の料金ですがね、義一さんが報酬に上乗せすると……」

「いいんだよ、あれは。俺が勝手にやったことなんだから」

「ですが……」

「別に義一の旦那のためにやったことじゃないぜ? 俺が自分の女を助けたって、それだけじゃねえか。金なんかもらって見ろ、せっかく正義の味方になれた気分が台無しになっちまう」

「そうは言っても……気分だけじゃ食っては行けませんよ。一週間も真奈美くんに渡せずにいるそのカギの為に、貯金もはたいて、車まで売ったんでしょう? どこから工面してくるつもりです」

「良心の痛まない場所から強請取るさ」

「それで正義の味方って言えるんですか(^^;)。ホントに気分だけで満足してるんだから」

 そのあまりにもせちがらい「正義の味方」ぶりに、さすがの坂井も苦笑を禁じ得なかった。
 まあ、こうでなきゃ中川じゃないよな、とも思わないではなないのだが……。

「……ちょっと待てよ。どうしてあんたが俺の貯金だの、車を売った事だのを知ってるんだ」

「え?(^^;)」

 このところのシリアス具合ですっかり調子を落としていた中川の鋭い突っ込みが、突然復活した。
 マジになったらなったで、からかい甲斐がなくてつまらないのだが、もとに戻れば戻ったでこの暴力的な口調に危機感を感じずにはいられない。
 いろいろと手のかかる厄介な暴れん坊である。

「いやあ、アーマスくんはスパイの素質、ありますよ(^_^)」

「あの野郎、恩も忘れて裏切りやがって。ぶち殺してやる」

 すでに中川は全開ぶりばりである。
 握りしめた拳をわなわなと震わせて中川は立ち上がった。

「殺人はいけませんよ。殺人は……」

 わき腹の痛みもすでに忘れ去ったと言う勢いでずかずかと店を出ていく中川が、その坂井の忠告に耳を貸していたわけはない。

(まあ、元気が一番ですよ。……アーマスくんには気の毒だが)

 アーマス・グレブリーの受難は……まだまだ終わりそうにはなかった(^^;)。




Act5-13;踊る問題児、走る問題児
「あのー、1124の患者さんって……まだ退院許可出てないんですかぁ?」

 群島中央病院外科病棟のナースステーションで、新人の看護婦が机の上に積み上げられた『北海の珍味』越しに婦長に声をかけた。

「ええ……残念ながらまだ検査結果が出てなくて……」

「あれだけ元気なら、どこにも異常なんかないんじゃないですか?」

「担当の山崎先生もそうは仰ってるんだけど……。まさか検査結果を待たずに追い出す訳には行かないでしょ(^^;)」

 この一週間、その会話は少しずつ形を変えながら幾度となくこのナースステーションで繰り返されてきた。

『婦長、1124の患者さんが産婦人科病棟に出張してます』

『……またいないんですけど。もちろん1124の患者さん』

『せめて隔離病棟には近付くなって言い聞かせてくれませんかね。感染でもされたら一大事ですし……いや、あの娘さんに伝染るとは私だって思いませんがね、万が一、いや億か兆に一って可能性はあるでしょう。人間なんですから……』

『外科病棟の男性が大挙して屋上で大宴会やってます。なんでも見舞い客の中に一升瓶を持ち込んだ人がいるらしくて。もちろんつまみは……』

『1124の患者さんですかぁ? さっきまで老人病棟で踊ってましたけど……』

 問題の1124の患者とは……もちろん爆裂北海珍味娘・森沢香南である。
 回診の時間に姿を消すのはすでに日課となり、外科病棟のナースステーションには他の部署からの苦情の電話が殺到していた。
 この道二十五年のベテラン婦長もすでにノイローゼ気味である。
 昨日香南が、骨折で入院中の暴走族とプロレスごっこに興ずるのを目撃したに至っては、血管がぶっちりいきそうな症状に見舞われた。

「あの娘には患者の心得をみっちりたたき込んで上げる必要があるわね」

 日頃微笑みを絶やさず、ナイチンゲールの再来とまで言われる婦長の顔に浮かび上がった表情にはすでに般若の相が現れていた。

 

 香南は退屈していた。
 これまでの傍若無人な振る舞いのおかげで病室をナースステーションの目の前の個室に移され、事実上の禁固刑に処せられてしまったのである。
 ナースステーションには老人病棟から、

『今日はあの娘さん踊りに来てくれないんですか。見舞いに来る者もなくて、あの娘さんが訪ねて来てくれるのだけが楽しみだったのに……』

 という身寄りのない老人の声も届いていたのだと言うが、それに耳を貸す婦長ではなかった。
 トイレに立つのも看護婦の監視付きという徹底ぶりなのだ。

 ぼんやりと窓の外を眺めながら、香南はあの時煙幕の中で聞いたマイヤーの言葉の事ばかりを考えていた。

『黙って俺についてこい』

 という台詞は、単細胞の香南を誤解させるには充分な殺し文句だった。
 状況を考えればその意味はおのずと知れてくるものだろうが、そんな一般常識が香南の万年常夏頭に理解できるわけはない。
 まめまめしく見舞いに日参しているアーマスが退屈そうな香南の顔を見るたびに、

「マイヤーさん、忙しそうだけどきっと来てくれるよ。退院までには」

 ……と慰めの言葉を口にするのが、その香南の誤解に拍車をかけている。

 

 そしてそのアーマスも、すっかり佐々木建設システム開発部の問題児と成り果てていた(^^;)。
 西崎の死によって社内の反義一派はなりを潜め、社長人事はすでに義一に有利に動き始めていた。あの誘拐事件以来、DGSからの横槍も入ってはいない。
 そんな状況の中で、

「とりあえず義一の旦那が社長に無事就任するまでは佐々木建設にいてよ」

 という中川からの命令により、アーマスはまだシステム開発部に派遣社員として籍を置いている。香南が入院中のため、坂井と義一の連絡係としても、アーマスが社内に入り込んでいるメリットは大きかった。
 以前のように勤務時間の大半をLANの探索に向ける必要もなくなり、アーマスのプログラマーとしての能力は遺憾なく発揮されるはずだった。
 ……のだが、なかなかどうしてそうは問屋が卸してくれないのである。

「アーマス・グレブリーはどこ行きやがったんだ――――!」

 システム開発部の部室に、その声は今日も響き渡っている。

「グレちゃんなら、昼休みに"ちょっと野暮用"って出かけましたよ。あれ? まだ帰ってないのかな」

 以前珍味を背負ってシステム開発部にも出没した某森沢香南のせいで、「グレちゃん」の名称はここでも定着している。

「ぬぁにが昼休みだ。もう三時だぞ、三時!!!」

 部長の額にはすでにくっきりと青筋が浮かび上がっていた。
 ここしばらく、アーマスはいつもその手口で会社を抜け出している。昼休みになると"ちょっと野暮用が……"と言っては出かけ、帰ってくるのはいつも三時か四時、という有り様なのだ。
 それには訳がある。
 今、群島内では、電気自動車と水素自動車によるキャノンボールレースの準備が着々と進められている。アーマスもまた、レースに参加する車を作るスタッフのひとりとして大わらわの毎日を送っていたのだ。
 その上、午前十時から午後四時半までと決められている病院の面会時間の間に香南を見舞っているのだから……正直、会社の仕事をやっている暇なんて、ないのである。

「残業だぁ―――、今日という今日はかっちりきっちり残業かましてやるっ!!」

 その部長の雄叫びを、ようやく帰社したアーマスはシステム開発部のオフィスの前で耳にしていた。

「……入るの、五分くらい経って部長が仕事にとっかかってからのがいいよ」

 外回りに行くため部屋を出たところでアーマスを見つけた同僚のひとりが、親切にもそう忠告をしてくれた。

「さんきゅ(^^;)」

(今日は帰れそうにないな……)

 アーマスはがっくりと肩を落とした。
 この一週間を振り返って、トータルの睡眠時間を指折り数えてみる。両手の指で足りてしまいそうなところが恐かった。




Act5-14;ジャーナリストの敗北
 西崎の死は、表向きは未だ行方不明とされていた。
 DGSによって処理されたらしい遺体は事件後一週間を過ぎても発見される事はなく、義一にとってもそれは牧田の言葉から得た情報のひとつに過ぎなかった。
 西崎の妻が警察に捜索願いを出し、

『佐々木建設副社長西崎氏、失踪。誘拐の可能性も……?』

 のニュースが発表された。
 佐々木辰樹の突然の事故死、19号埋め立て地で他殺体となって発見された高槻洋二。そして西崎の失踪と立て続けに起こった事件は、いやが応にも世間の目を引いた。
 一連の事件の裏に、DGSのパーティでの椎摩渚の「新社長=佐々木浩二」発言を匂わせた記事が広川庵人によってすっぱ抜かれたのは義一が白葉との面会を予定していた7月4日の朝の事だった。

 その内容は、バイオスフィア計画の開発を巡って、日本建設業界のトップに立つ佐々木建設と巨大な外資系総合企業DGSとの間で火花を散らす抗争が行われた、というものだった。
 曰く、

『DGS本社移転の披露パーティの席上でDGS極東マネージャー椎摩渚が、佐々木建設の社長人事に明らかに干渉していると思わせる発言をした事はすでに報道されている。そしてその直後、パーティを中座した西崎昌明佐々木建設副社長がその後失踪した事は偶然と言うにはあまりにもできすぎたものである』

 記事には伊島プリンスで密会する椎摩渚と西崎昌明の写真が載せられ、その親密な交際が暴き立てられていた。
 さらには社長人事のみならず、佐々木建設株暴落の影にもDGSが存在していたこと、佐々木辰樹の事故死が暗殺であるかのように匂わせ、辰樹の長男であり、次期社長候補である佐々木義一副社長が脅迫されていたのだとも書かれていた。

 

 その記事の掲載されたジャパン・タイムが発売された同じ7月4日、午後四時からはASのDGSの提供による特集番組『ぼくの夢見る2050年の人工群島』が放映された。
 その内容は、DGSによって主催された絵画と作文のコンクールに入選した群島区に住む五人の小学生の作品を、授賞者の生の声を織りまぜて紹介するというドキュメンタリーだった。
 そして番組の合間には日本進出を果たしたDGSがその中で行ってきた今回のコンクールを初めとする数々の社会貢献事業を紹介するCMが流された。
 時として悪らつな手段を使って自社に利益を取り込む事はあっても、DGSは国際法人として知られたまっとうな企業である。きれいごとの部分だけを巧みに抽出したイメージCMではあったが、その内容に嘘偽りはまったくなかった。
 こうした社会貢献事業を行う企業としての顔もまた、紛れもなくDGSの一面なのである。
 ……もちろん、この特別番組がジャパン・タイムの発売日に放映されたのは、偶然ではない。
 広川庵人がジャパン・タイムに記事を掲載する、という情報はチャン・リン・シャンの雇った探偵・夜木直樹によってもたらされた。だが、記事の内容については夜木の手には余る仕事だった。事前に記事が漏洩し、差し止められるのを警戒した広川は、青焼きの段階で版下を入校するという手段を講じて社内にもその記事の内容を明らかにしなかったのだ。
 神野麗子が記事の具体的な内容を知ったのは、7月1日のことだった。
 すでに記事を差し止める手段はなく、麗子は急遽作戦を変更し、兼ねてからマスコミ対策の一環として諏訪操と下部瑠子の手で進められていた『2050年の人工群島』をASのスケジュールにねじ込んだのである。

「……DGSにやられたな」

 当座の住まいとなったホテルの一室でテレビを睨み、広川は唇を噛んだ。
 特別番組は編集に多少、急拵えという印象を与える部分はあったが、全体的に見て申し分のない出来なのである。
 群島の将来に夢を描く子供と、その夢を応援する企業。
 DGSの悪らつな部分を知らない視聴者なら、番組から得る印象からそのクリーンなイメージを植え付けられてしまう。
 そして、その番組の直後……午後五時からの報道番組でジャパン・タイムのスクープ記事のことが取り上げられた。
 DGS側のコメントは、

『……西崎氏とお会いした事は間違いのない事実です。彼は佐々木辰樹氏の生前から、宇宙開発の分野から退き、総合企業として佐々木建設が再出発するための支援をDGSに求めていらっしゃいました。先日のパーティで辰樹氏の次男に当たられる佐々木浩二氏を、佐々木建設の新社長としてご紹介したのも、西崎さんのたってのご要望にお応えしたまでです。一部では社長人事に介入、とも報道もありますが、そのような事実はまったくございません。西崎氏からの支援の申し出にも、まだお返事を差し上げてはおりませんでした。バイオスフィア計画に関しても……佐々木建設がその開発から撤退なさった場合は当社が新たに計画に参入する可能性がありますが、洋上大学からの公式な発表が出るまでは当社としてもはっきりとしたコメントは控えさせて頂きたいと思います』

 というものだった。
 DGSは佐々木建設のお家騒動に巻き込まれた被害者だ、と言っているようなものだった。
 また、確たる証拠もなしに極東マネージャー椎摩渚個人の品位を著しく傷つけたとして、ジャパン・タイムを告訴する用意があるというコメントも添えられていた。

 そして佐々木建設からは、西崎昌明の失踪については警察からの報告を待たなければ発表はできないと前置き、脅迫の事実はない事、佐々木建設がバイオスフィア計画から撤退する事は有り得ないのだという短いコメントが佐々木義一の名で伝えられた。

 

 だが、そのコメントを読み上げるキャスターの声は、広川の耳を右から左へ通り抜けてしまっていた。
 ベッドサイドのヴィジホンが鳴った時、テレビの画面はまだジャパン・タイムの記事を拡大した写真の前に立つキャスターの姿を映し出していた。

「広川くんだね?」

 ヴィジホンのモニターに映し出されたのは、ジャパン・タイムの編集長の顔だった。

「次号に予定していた君の記事は、差し替える事になったよ。洋上大学のバイオスフィア計画に関する特集を組む事になったんだよ」

 編集長の表情は、表向きはいつもの事務連絡をするときと変わらないものだった。
 だが、その言葉の裏には明らかに広川の失策に対する怒りが込められていた。

「残念だったよ、広川くん。君の記事には期待をしていたんだがね。……君はDGSという企業に何か私怨があるのじゃないかね? 私的な感情で曇った目では、事実を伝える報道をすることはできんぞ」

 その言葉が事実上、フリー・ジャーナリスト広川庵人がジャパン・タイムと結んだ契約を破棄するという勧告だった。
 他にも仕事の当てはある。
 だが広川にとって、この敗北は手痛いものだった。




Act5-15;ケネディの遺言
 義一がマイヤーを伴って白葉のもとを訪れたのは午後八時過ぎだった。
 約束は七時だったのだが、ジャパン・タイムに掲載された記事の事後処理に手間取って来訪が一時間遅れてしまったのだ。

 マイヤーの車で義一が公営住宅に到着したとき、すでに白葉の部屋は学生や近所の者、通りすがりの野良猫まで巻き込んだ大宴会が繰り広げられていた。

「白葉教授に会う約束になっていた佐々木という者です。お取次願えますか」

「あ、お入りになって下さい。透さ―――ん、佐々木さんがお見えですけど」

 千尋はそう言って義一にスリッパを勧めたが、室内の状況を一瞥して脱ぎかけた靴を履き直す。
 見覚えのある『北海の珍味』の文字が印刷されたパックの飛び交う部屋の中は、すでに泥酔した者の姿もちらほらと見え隠れする惨状なのだ。とても真面目に話のできる環境だとは思えない。

「義一くん、入ってくれたまえ。酒は充分にある。つまみは……えーと、近ごろ珍味売りの娘さんが姿を見せないとかで野菜が中心だが、ひとりふたり増えても困る事はない。さあ、さあ、さあさあさあさあ」

「お人払いをお願いできるような状況ではありませんね。できれば静かなところでまず真面目な話を片づけておきたいんですが……」

 義一も、白葉の性格は知っている。
 三年前にアメリカの研究機関に当てた紹介状を頼むために白葉のもとを訪れたときにも、悪夢のような宴会に巻き込まれ、泥酔して吐いたり昏倒したりする学生の介抱に精を出したのだ。
 できれば、今回はそういう面倒を背負い込む事なく話を終えたかった。
 やらなければならない仕事は、まだ山のように残っているのだ。

「屋上へ行きましょう、あそこなら静かです。――すまんがちょっと出てくるよ。みんなには……まあこれだけ盛り上がっていれば私がちょっと席を外したくらいでは気づかんだろうが、適当に言っておいてくれ。何、話は一時間もあれば片付くだろう」

 千尋にそう言うと、白葉は飲み掛けの一升瓶をつり下げて手近にあったコップを三つ持って玄関の土間に降りた。健康いぼいぼサンダルをつっかけて義一と共に屋上へ向かう。

「いい星だ。梅雨の晴れ間と言うのは、気分の言いものだよ。……そうは思わないかね、義一くん」

「ええ……」

 勧められたコップにお義理程度に口をつけて、義一は白葉の言葉に頷いた。
 マイヤーはふたりからは離れた場所に立ち、白葉の勧めた酒も、

「勤務中ですから」

 と言って受け取ろうとはしなかった。

「いろいろ……大変だったと坂井さんが話していた。ニュースも見たよ。もう大丈夫なのかね、会社の方は」

「社長就任を公式に発表するまでは、絶対に、とは言えません。……しかし、大きな危機を乗り越える事ができたのは事実です」

 白葉はすでに、坂井からすべてを聞かされていた。
 辰樹の葬儀の最中に義一が発見した脅迫状の事も、佐々木建設株暴落の裏にDGSの画策があった事も……そして西崎による真奈美と香南の誘拐の事も。

「君は……DGSをどう思うね?」

「事業家として、あの巨大な資本、優秀な人材と世界各地に広がるネットワークに嫉妬してないと言えば嘘になります。これから先、佐々木建設が宇宙開発を続けていく中で……常に戦い続けて行かなければならないライバルなのだと思っています。正直、DGSと比べれば佐々木建設はちっぽけな会社です。ですが……だからと言って膝を折る事はできません」

 白葉はその義一の言葉を聞きながら、ぐいっとコップの酒を煽った。
 頬に当たる夜風が涼しい。

「父はあの通りの性格でしたから、宇宙を目指すという自分の野心の踏み台にしてきたさまざまな問題を振り返るような余裕はなかったんだと思います。私はその父の、肩ごしに宇宙を見つめて育ってきました」

 珍しく義一はぼんやりと宙を見つめるような表情を浮かべた。
 子供のころ、父の話を聞いて夢見続けた宇宙。かつてそれは国威発揚の一手段であり、その開発につぎ込んだ莫大な金を回収する必要などない「人類の夢」だった。
 アメリカが、ソ連が……その夢を買うために争い、多額の金を宇宙に投げ出したのだ。
 辰樹はそれを古くさいナショナリズムだと笑った。

『1960年代の終わりまでに、アメリカは月に人を送り込み、無事地球に帰還させる。アメリカはこの目的を達成するために、全力を尽くすべきである。なぜなら、それは容易にできる事ではなく、きわめて困難な事だからである。……月に行くのは、宇宙飛行士だけではない。広くアメリカの全国民が月に行くのである。人間を月に送り込むために、我々のすべてが頑張らなければならない』

 だが、1961年にJ・F・ケネディが議会で行ったその演説に、辰樹が心酔していたことを義一は知っていた。
 ケネディは1960年代の終わりを見ることなく凶弾に倒れた。
 1969年にニール・アームストロングが月に人類最初の一歩を踏み出す瞬間を、ケネディは見ることはなかった。
 だが、そのケネディの言葉は、辰樹の中で……宇宙を目指す多くの者たちの心の中に今も生きているはずだ。ナショナリズムを超えた情熱の存在を、その言葉の中に感じとっているはずだ。
 ケネディの言ったその言葉を、辰樹は自分自身に投げかけてくれる人物をを常に待ちこがれていた。

『月に行くのは、宇宙飛行士だけではない』

『広く「全て」の者が、月に行くのだ』

『そのために「お前は」全力を尽くさなければならない。なぜならそれは容易な事ではなく、きわめて困難な事なのだから』

 そしてその言葉こそが……義一に、父の情熱を受け継いで宇宙を目指す生き方を運命づけたのだ。
 取り留めのない子供の頃の話や、宇宙開発に賭けた辰樹の思いを聞いているうちに、白葉はふと、目の前にいるのが義一ではなく、辰樹なのだと錯覚していた。
 そこには、宇宙を目指して力強く躍進しようとする豪放な男の姿があった。
 平素見せる鋭角的な印象とは別に、がき大将のように自らの思い描く夢に猛進した辰樹そっくりの表情が義一の横顔には浮かんでいた。
 夢を、情熱を、野心を抱く者は少なくない。
 多くの者が自分なりの夢を描き、情熱を燃やし、野心を抱く。
 だがいったいどれほどの人間が、その自らの思いに応える努力をするだろう。どれほどの人間が、押し寄せる波を泳ぎきって目指す対岸へたどり着く事ができるだろう。
 辰樹はそれをやり遂げるべく努力した。
 そして義一は、父を飲み込んだ荒々しい大波を乗り越えて行くに違いない。

「やはり君は……辰樹さんの息子だね」

 それは浩二と話したときにも感じた事だった。
 三年前に感じたように……やはり義一こそが辰樹の宇宙開発の野心を継ぐにふさわしい男なのだと、そう改めて感じさせた。

「結論から言ってしまうとだな……私はバイオスフィア計画に関して、今更何を変更する事があるものか、と思っているんだよ。辰樹さんを見込んでこの計画に佐々木建設が参入する事を推したのだが、その気持ちは今も変わってはいない。辰樹さんが亡くなったとは言え、佐々木建設は存在している。現に君の力で宇宙を目指そうとしているじゃないかね。それで充分なはずだ。それこそが私の求めているものなのだから」

「ありがとうございます……教授」

 義一はそう言って、しばし言葉を詰まらせた。
 続く言葉を思いつく事ができずに白葉の手から一升瓶を受け取り、彼の掴んだコップに並々と酒を注いだ。

「ありがとう……ございます」

「あとは義一くん、君の戦いだ。佐々木建設をまとめあげ、宇宙へ導くのは……君の仕事だ。君が生涯を賭けてやり抜かねばならん仕事なんだ」




Act5-16;七夕の告白
 7月7日になっても……事態は何も変わってはいなかった。
 相変わらず中川は真奈美を前にするとそわそわし、何かを言いたげな表情を見せる。だが、何も言えない。言えずにいる……という感じなのだ。

(もう『佐々木ファイブ(仮)』も解散みたいだし、誘拐なんかされて、みんなに迷惑かけちゃったし……あたし、正義の味方失格なのかもしれない)

 中川の思いと真奈美の思いは、十六光年くらい離れてすれ違っていた。
 それもこれも……全部中川がいじいじと照れているせいなのである。言わなくてもいいときには平気で好きだの惚れてるだのと言える癖に、肝心なときには気弱になってしまう。日頃のお調子ものぶりまで消え失せて、すっかり無口な根暗野郎のようになっているのだ。
 真奈美が邪魔者扱いされていると誤解をするのも無理はないことだった。

「社長さんのばか―――――――っ」

(グレてやる、不良になってやる。正義の味方をクビになっちゃうんだったら思いっきり非行の道をひた走って……それから……それから……よく分かんないけど、とにかく全部社長さんのせいなんだからっ!)

 真奈美の不良化の第一歩はとりあえず、

「飲みに行こ」

 ……だった。
 ちっとも変わってねえよ。いつもと同じじゃねえか……と思っているのは作者だけではあるまい。それが非行の最初のステップだと言うのなら、真奈美はすでにどこに出しても恥ずかしくないヤサグレ娘である(^^;)。

 とりあえず、そんなわけで午後七時三十七分、真奈美はSNSのラウンジで三杯目のビールを注文していた。

「真奈美ちゃん、こんなトコで飲んだくれてていいのかい? 早く帰って社長さんの看病しなきゃいけないんだろう」

 カウンターの中で不慣れな手つきグラスを磨いているのは、いつもなら店の片隅で占いをやっている三日月迅だった。シータ・ラムがレースの準備に奔走しているために店番まで押しつけられているのである。レースとは……アーマスの残業の理由であるキャノンボールレースのことである。いや、そもそもアーマスをレースに引き込んだのも、SNSの雇われ店長シータ・ラムなのだ。

「知らな――い。怪我人のクセにぜんっぜんっおとなしくしてないんだもん。なんか奈美のこと、のけ者にしてるみたいだし。奈美はねえ、社長さんの気持ちが知りたいの。奈美はいつもの、すちゃらかお調子ものの社長さんが好きなんだから! だからね、いつもみたいにお調子者でいて欲しいの。いい加減で、信用できなくて、ど――しよおもない女好きなスケベおぢさんだけど奈美に優しくしてくれる社長さんでいて欲しいのっ!」

「……真奈美ちゃん、男の趣味が悪いんじゃないか? (^^;)」

「そんなことないもん。社長さん、かっこいいんだから。正義の味方なんだから」

「恋占いでもしてあげようか? 社長さんの気持ち知りたいんなら……。料金はそうだなあ、これくらいにまけとくぜ」

 カウンターの上に置いてあった電卓を弾きながら、三日月は真奈美に言った。

「ダメ――――。ダメダメダメ、ぜったいに絶っ対っにっ! ダメ。それで社長さんが奈美の事好きだって分かったって、全然ダメなの。社長さんがもとに戻ってくれなきゃ、意味ないんだもん。ふたりで正義の味方やって、悪い奴をぶっとばさなきゃ、奈美の気持ち、収まりつかないんだもん」

 まあ、要するに酔っぱらいの愚痴なのである。

「ビールとつまみ追加してくださ――――い」

 カウンターで真奈美と額を突き合わせていた三日月に、そう声が飛んだ。
 テーブル席についていた男ふたり連れの客、夜木直樹と三輪祝詞である。なぜか双方あちこち怪我をして店に現れ、すでにビール十数本を飲んで盛り上がっている。

「兄貴って呼ばせて下さいっ!」

 とか、

「俺、夜木さんに惚れこんだんです」

 とか言った台詞を、三輪祝詞が酔いに任せた大声でまくしたてているせいで、周囲の客は、ホモのカップルだと誤解している(^^;)。実際には、もちろんそういう関係には、ふたりは陥っていない。
 陥っていないのだと思う。
 チャン・リン・シャンに雇われた探偵である夜木直樹は、彼女からの依頼により、雅一の身辺調査を続けていた。だが、雅は相変わらず失踪中でその行方は知れない。DGSに報復を宣言したと言うのだが、表立った行動は何ひとつ見られないのである。
 雅はこのSNSにも出入りしているのだと聞いて、ひょっとしたら姿を現すかも知れないと思い、この店を訪れたのである。
 夜木にしてみれば、DGSと佐々木建設の抗争は、対岸の火事だった。
 別にDGSに雇われているからと言って、佐々木建設に悪意を持っているわけではないし、莫大な資産を武器にあこぎな商売をやっているDGSに対しても、雅が怒りを爆発させているような感情は持ち合わせてはいなかった。
 雅がDGSの誰を付け狙い、何を企んでいるのかについても、

「まあ、雅さんの勝手だし」

 くらいにしか思ってはいない。いないのだが、こうも長期に渡って行方をくらまされると、探偵としての自分の能力が過小評価されることにもつながりかねない。

(とりあえず、もらった金の分は仕事しますよ)

 夜木が今も雅を追っているのはそういう理由からだった。
 なぜそこに、三輪祝詞がいるのかについては、話はすこしややこしくなってくる。祝詞が夜木の前に姿を現したのは今日の昼過ぎの事だった。突然、

「腕試しがしたい」

 と、勝負を申し込んできたのである。
 売られた喧嘩は必ず買う主義の夜木は、その勝負を一も二もなく受けて立ち、圧勝した。そこまでは、夜木にとっては良くある、日常の光景だった。
 目付きが悪いせいなのか、それとも喧嘩を売られ易い性質なのかは不明だが、こんな風に突然、初対面の相手にアヤをつけられ、昼日中からストリートファイトにもつれ込むのは珍しい事ではない(^^;)。

「あなたの弟子にして下さいっ!」

 ……という、祝詞の言葉にはさすがの夜木も驚かされたのだが、仕事をする上でのパートナーもそろそろ必要だろうと考え、祝詞の申し出を受け入れたのだった。
 それが決まれば、とにかくまずは固めの杯……ということになり、ふたりはSNSへとなだれ込んだのである。まあ、熱いさなかにあばれまわって喉も乾いたし、ビールでも一杯やろうや、という程度の、軽いノリではあったのだが……。

 そしてその日、夜木は深夜まで飲んだくれ……いや、粘っていたのだが、雅一はついにSNSには姿を現さなかった。

 

 三日月に呼び出されて中川が真奈美を迎えにSNSに来たのは、すでに閉店時間ぎりぎりになったときだった。

「あれぇ、社長さん、どうしてここにいるの? あ、分かった。ビール飲みに来たんでしょお。でもね、ダメですよ。外で飲んだら、社長さん、ぐでんぐでんに酔っぱらっちゃうんだから。真奈美、連れて帰れませんよ」

「帰るぞ。――ビールぐらいで酔っぱらうなよ。お前らしくもない」

 三日月の証言によれば、真奈美はすでにビールを十杯以上飲んでいる。それだけ飲んでも、「ちょっと絡み上戸になっている」という程度の、ほろ酔い加減なのである。
 これが中川なら、すでに救急車かパトカーが呼ばれている頃だ。

「七夕って、晴れないもんだな」

 真奈美を連れてSNSを出た中川は、暗い歩道を歩きながら傍らの真奈美にそう話しかけた。天気の話に逃げる辺り、中川ももう立派なおぢさんである。

「社長さん、これから、どうなるのかなあ。西崎っていう人が死んじゃって、義一さんに反対する人、もういないんでしょう? もうすぐ社長就任パーティだって言うし、正義の味方『佐々木ファイブ(仮)』も解散しちゃうのかな」

 真奈美は中川の顔を見上げようとはせず、歩道に敷き詰められた煉瓦を数えながらぽつりぽつりと呟いた。

「社長就任パーティまでは、まだちょっと気が抜けないな。社内でバイオスフィア計画に反対してた重役ってのが西崎だけとは限らないし……脅迫状を出してた高槻ってのが、ほかの連中と無関係だったって証拠もないからな」

「グレさん、それでまだ会社に行ってるんだ」

「できれば真奈美にもオフィコンとして潜り込んでもらいたいトコだけどな。そうそういつまでも学校休む訳にはいかねえだろ? 俺としちゃあ、留年なんかせずにさっさと卒業してもらいたいからさ」

 ふと、真奈美が立ち止まった。その真奈美を振り返って、中川も足を止める。

「真奈美、もうクビ?」

「……それも考えたけど、もったいないからとりあえず保留にしとくよ。今度の仕事でちょっと裕福になったから、愛人でも囲おうと思ってさ。あの部屋の隣に、もうひと部屋借りたんだ。とりあえずスパイ見習いとして住み込んでみるか?」

 そう言って中川は、真奈美の顔の前に、例のSD聖くんのキーホルダーを突き出した。真新しいカギは、ずっと開き部屋になっていたゼロワンSTAFFの隣室のものだった。

「社長さんが悪い女に引っかからないように、奈美が守って上げるよ」

 中川からキーホルダーを受け取り、真奈美はすっかり板についた受付嬢営業スマイルを浮かべた。

「そりゃあ頼もしいことで……(^^;)」

「だって、オフィコンのおねーさんたちって、揃いも揃って危ないイケイケばっかりなんだもの。社長さんなんか、いいカモよ」

「……俺、鴨になりたい」

「真奈美が愛人さん見習いもしたげるから、浮気しちゃ駄目だよ、克ちゃん」

「え?」

 その真奈美の大胆な発言に、今度は中川の方が焦った。

「……今、えっちなこと考えたでしょ」

「……(^^)。とんでもない」

 すでに中川は、尻に敷かれそうな気配を感じ始めていた。




Act5-17;仔牛を連れて……
 中川と真奈美が縁島SNS前の路上で『中学生日記初恋編/告白』をやっていた頃、香南の入院する群島中央病院に、ひとりの男が忍び込んでいた。
 群島大学軍事学部助教授。そして現在は佐々木建設副社長佐々木義一のボディガードである『憧れの……もといハインリヒ・フォン・マイヤーである。
 深夜の病院にマイヤーが潜入した目的は、勿論夜這いではない。
 それならそれで読者は爆笑し、万年常夏娘の香南にも秋と冬をすっとばして春がこようと言うものだが、マイヤーという男はそういうサービス精神はあまり持ち合わせていない。
 単なる見舞いである。
 見舞いなら面会時間の間に来ればいいようなものだが、忙しく飛び回る義一のボディガードとして一日中奔走しているマイヤーには、そんな時間はなかった。

「見舞いにきてやるくらいはいいだろう?」

 そのアーマスの言葉はずっとマイヤーの中にも引っかかっていたのだが、訪ねて行った途端、またしてもウェスタンラリアットを食らう可能性を考えると、なかなか病院に足が向かなかった。まさか病院で、入院中の患者を殴り倒す訳には行かない。
 時間がない、というのはマイヤーにとっていい口実だった。
 今日ようやく病院に足を向けたのは、香南が入院している間連絡係も兼任しているアーマスから、香南の傷はそれほど重傷ではないが、やはり傷跡が残るらしい、という話を聞いたからだった。

 深夜に潜り込めば、とりあえず香南は寝ているだろう。
 眠っている間に見舞いを済ませてしまえば、アーマスの顔も一応は立つだろうし、ラリアットの危険もない。
 何か自分が来た事を示すものを残していってやれば、それで香南は満足してくれるだろう。退院したあとなら、香南に襲われても余り罪悪感を感じる事なく反撃に出られるはずだ。
 いや、マイヤーの行動パターンから行くと、罪悪感を感じるのは反撃をしたあとなのだが……。

 だが、マイヤーの読みは多少浅かった。
 禁固刑を食らって日中も個室から出られず、真奈美の差し入れてくれたスパイ小説は最初の三頁で読むのを挫折、テレビもなければラジオもないという中で、楽しみは食事だけ。ぼーっとしているうちについうつらうつらとしている日が三日も続いて、深夜とは言え香南はぱっちりと目が冴えている状態だった。

「………………ねむれない(-_-)」

 マイヤーが一目を忍んで香南の病室に潜入したのは、そんな時だった。

「まーちゃんっ!」

 スプリングの効いたマットをジャンプ台に、香南がマイヤーにダイビングを試みたのは、マイヤーが扉を開けた瞬間だった。
 何とかマイヤーは、飛びかかってきた香南を殴り倒さずに済んだ。
 それもこれも、幾多の戦場をくぐり抜け、あらゆる困難な状況を生き抜いてきたマイヤーの、鉄の自制心あればこそだった。

「(静かにしろ)」

 しがみついている香南に、マイヤーは怒声を堪えて言った。
 その姿は大木に止まる蝉というよりは、ユーカリの木にしがみつくコアラとでも表現したようが言いようなものだった。その『コアラ』が牛柄のパジャマを着込み、ご丁寧に耳と角のついたフードまでかぶっているので、端から見ると誠に異様な光景だったのだが、とりあえず当の本人たちは気付いていない。
 この間、ピンクのドラゴンが乱舞するアロハシャツを着ているのを見たときも充分に驚いたのだが、牛柄のパジャマの似合い様はその比ではない。

「来てくれたんだね、まーちゃん」

 香南は、マイヤーの言葉通りに声を潜めた。
 だがその音量は、ちっとも小さくなっていない。

「(離れろ。くっつくんじゃない)」

「えへへぇ。来てくれると思ってたんだぁ」

 香南は、まるっきりマイヤーの言葉など聞いてはいない。
 サイズの大きすぎる牛柄のパジャマにくるまった身体をすりすりとマイヤーにすり寄せて、これ以上はないと言う満足そうな笑顔を浮かべてた。
 ちなみにそのパジャマはスパイ小説と一緒に真奈美が差し入れてくれたものである。

「(傷はもういいのか)」

「うん」

「(痕が残ると聞いたんだが……)」

「うん。でもね、波乱万丈な人生目指すんなら、向こう傷のひとつやふたつ、アクセサリーみたいなもんだよ(^_^)」

「(強がりを言うな)」

「……」

 その時、ダラットホテルで煙幕の向こうにマイヤーの声を聞いたときと同じ、頼りない子供の表情が香南の顔に浮かんだ。

「まーちゃんが来てくれたときね。香南、嬉しかった。きっと死んじゃうって思ってたから。まーちゃんのこと、前よりずっとすごくかっこいいって思ったんだ」

「(抱きつくな、離れろ)」

(相手は怪我人だ。ガキの上に怪我人なんだ)

 そう自分自身に言い聞かせて、マイヤーはいつまでもコアラ牛になっている香南を抱き上げ、ベッドの上に座らせた。
 香南の体当たりの感情表現は、どうも苦手なのである。

「(これをやる。見舞いの品だ)」

 そう言ってマイヤーは香南の手に空の薬莢を握らせた。
 ダラットホテルでマイヤーが香南を助けるためにちんぴらを撃った、愛銃GLOCK19の薬莢だった。
 事件が表沙汰にならないよう警察に手を回したとき、マイヤーは証拠品のひとつとなっていたこの薬莢を入手したのだ。

「(じゃあ……私はこれで帰る。退院するまでおとなしくしていろよ)」

「まーちゃん」

 出て行こうとするマイヤーを、香南が呼び止めた。
 掌に大事そうに握りしめたGLOCK19の薬莢をもう一度見つめて、再びその視線をマイヤーに向ける。

「香南、もう一度まーちゃんと脱出作戦がやりたい」

 その唐突な申し出に、マイヤーは一瞬面食らった。

「……ここからか?」

「うん(^_^)」

 元気いっぱいに応える香南を前に、マイヤーは返す言葉を失った。
 やはり見舞いに来たのは間違いだったとつくづく思う。

 

 そしてその日、毎度の残業から帰ったアーマスはまたしても毛布にくるまれて捨て子状態になっている香南を発見した。

「……マイヤーさん、そりゃあないでしょ」

 すかすかと寝息を立てている香南を見降ろして、アーマスはため息をもらした。

 

 そして軍事学部には、マイヤー助教授が盗んだ仔牛を助教授室で飼っている、というまことしやかな噂が、七夕の夜以来囁かれていた。




Act5-18;白葉の戦い
 DGS極東マネージャー椎摩渚が、エヴァゼリン・フォン・ブラウンを伴って白葉透の研究室を訪れたのは7月8日の午後だった。渚は数日前に『味の屋』で白葉と会ったときと同じようにDGSのOL、嶋摩璃亜として白葉を訪問した。

「お忙しいところ、押し掛けてしまって申し訳ありません」

 お茶を運んできた秘書に軽く会釈をすると、渚は白葉の方を向き直り、そう挨拶をした。

「いや……それはまったく構いません。しかし、突然来て会う時間があると言うのは珍しい事だ。実は来客の予定がありましてな。時間を開けて待っておったのですが、突然相手が今日は来られなくなったと言ってきて……これから野良仕事でもしようかと思っておったところです」

 白葉はそう言って笑顔を作った。
 群島一の超多忙人間、白葉透に面会するのは決してたやすい事ではないのだ。渚とエヴァは絶妙のタイミングで現れたように見えるが、その絶妙のタイミングの裏には、秘書によって管理されている白葉のスケジュールを調べ上げ、予定されていた来客に突然の急用を作り上げたチャン・リン・シャンの存在がある。

「で、今日はどういうご用件でしょうかな?」

「……実は先日、『味の屋』さんで私が教授とお会いした事を話しましたら、彼女がぜひ教授にお話したい事があると言うので……。あ、こちらはドイツの宇宙旅行協会からDGSに派遣されてきたエヴァゼリン・フォン・ブラウンです」

 財団法人・宇宙旅行協会は、DGSの傘下に名を連ねる団体のひとつである。
 ……が、エヴァゼリンはDGSの経済的な戦略とは無縁の立場にいた。エヴァをつき動かしているのは純粋に宇宙開発に取り組もうとする彼女自身の熱意だった。
 人工群島で進められているバイオスフィア計画について、エヴァはドイツにいた頃から興味を抱いていた。極東進出の象徴として、佐々木建設を自らの懐に引き込んで計画を動かそうとしていた渚の考えとは、必ずしもエヴァの思いは一致するものではない。

「バイオスフィア計画は人類の可能性を試す重要な事業であり、総力を上げて支援する価値を持つものである。DGSは是非とも計画に正式に参入し、完全な協力体勢を作り上げるべきであると提案します」

 白葉透という研究者の存在を知り、エヴァのバイオスフィア計画に対する熱意はさらに強いものとなっていた。
 そして椎摩渚も、西崎昌明の死によって作戦の変更を余儀なくされ、エヴァの主張を受け入れて正式に洋上大学へバイオスフィア計画への参入の意志を表明する事に決めたのだ。
 だが、それにはまず佐々木建設寄りの立場にいる白葉の目を、もっとDGSに向けさせる必要があった。
 バイオスフィア計画は営利目的の事業ではない。
 それだけに金だけでは片付かないさまざまな厄介な問題をはらんでいるのだ。
 いきなり企業レベルで話を持ちかければ、DGSの悪い面ばかりが印象づけられる結果とも成りかねない。
 そのためにまず正式な申し出をする前に、一研究者としてのレベルでエヴァと白葉を引き合わせる事を思いついたのだ。
 エヴァは、そういう意味ではまさにうってつけの存在だった。
 幼い頃から宇宙開発に夢を抱き、その夢を叶えるために三十を過ぎた今も独り身を通して研究に没頭する根っからの研究者である。

「DGSはバイオスフィア計画への参入を強く希望しています。正式な申し出は二、三日中に大学を通して教授のお耳にも入る事と思いますが、参入が決定すれば私がDGSでの仕事を任される事となりますので……ご挨拶を、と思いまして」

 エヴァの流暢な日本語を聞き、白葉は飲みかけの湯呑みをテーブルに置いた。

「突然な話ですな……」

 白葉はそう言って、農工学部特製大学イモに手を伸ばした。山盛りになった皿を二人の座っている方へずらして勧める。

「だが、物には順序というものがある。えーと、ブラウンくん。宇宙旅行協会の実績は私も知っています。優秀な団体だ。あなた個人が、ひとりの研究者として宇宙開発に熱意を持ち、バイオスフィア計画への参入を希望していると言うのなら、私は協力を惜しむつもりはない。優秀な研究者はひとりでも多く必要だからな。今すぐにでもあなたを計画に迎え入れよう。しかしそれがあなた個人の問題ではなく企業レベルの話になってしまうと、この場で私が言う事は何もない。佐々木建設が……いや、次期社長の義一くんが佐々木建設はこの計画から撤退すると言わない限り、バイオスフィア計画の開発は佐々木建設の持つ権利であり、果たさねばならん義務なのだから。もちろん、義一くんが計画を断念すると言うのなら、それはいたしかたない事だ。企業と言うのは利益を上げなければ存在して行く事はできない。莫大な先行投資に見合う利益を上げる事の難しい宇宙開発から佐々木建設が退いたとしても、義一くんを責めることはできまい」

 ほとんど息継ぎもせずにそう言うと、白葉は茶碗に残っていたお茶をごくごくと喉を鳴らして飲み干した。
 すかさず、傍らに急須を持って控えていた秘書が教授の茶碗を満たす。

「企業同士の争いを計画に持ち込まれては困る。それだけははっきりと椎摩くんに伝えてくれたまえ。もしその争いが計画の妨げになるのなら、農工学部は……いや、洋上大学はどんな手段を使っても戦う準備がある。私は別に佐々木建設に肩入れをするわけではないが、佐々木建設が計画の一端を担っている限り、DGSからの申し出を受け入れる事は有り得ないと思ってくれたまえ」

 それだけを言って、白葉は席を立った。

(あなたの夢を叶えるために、私もわずかばかりの協力をさせてもらうよ、辰樹さん)

「私は野良仕事にもどるが、君たちはゆっくりして行きなさい。お土産にとれたての野菜と果物を用意しよう」

 手に持っていた手ぬぐいを首にかけると、白葉は渚とエヴァを振り返った。
 その時の表情は、もういつもの穏やかなものに変わっていた。




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