Act5-6;突入
 むぉっと部屋の中にこもった空気が押し寄せてきた瞬間、真奈美は胸をえぐられるような吐き気を感じた。
 部屋の中の湿った空気に、腐臭に似た強烈な臭気が混じり合っているのだ。

「……!」

 思わず口を押さえ、後ずさった。
 ドアのすぐ横に部屋のライトのスイッチがある。そろそろとスイッチに手を伸ばし、部屋の灯をつけた瞬間、切り裂くような悲鳴が真奈美の唇から洩れた。

「真奈美っ! 真奈美ちゃんっ!!」

 その悲鳴を聞きつけて、壁の向こうから香南の叫ぶ声が響く。
 だがそれでも、真奈美は発する言葉を見つける事はできなかった。
 木目張りの床いっぱいに広がって赤黒い染みになった血の痕を見降ろしたまま……身動きする事さえできない。

(誰かが……ここで殺されたんだ)

 生臭い血と内臓の臭いの混ざり合ったその臭気を嗅ぎながら、誘拐されて以来ずっと堪えてきた涙が、堰を切ったように溢れ出してくる。

(……もうダメ……殺されるかも知れない。そんなの恐い。あたしも、香南も殺されるかも知れない。そんなの……恐すぎる)

 胸が押しつぶされるような絶望的な思いが真奈美の中に膨れ上がっていた。
 隣の部屋で何かが割れる音が響いたのはその時だった。

『いい加減にしろ、このがき!』

『本当に死にたいのかっ!』

 低い怒号。
 どかどかと壁の向こうに踏み込んでくる足音は、ふたりや三人のものではなかった。
 短い香南の悲鳴がいくどか聞こえ、椅子かテーブルか……何かが勢い良く倒れる音が聞こえた。
 再び隣室が静かになったときには、もう香南の声は聞こえなかった。

「香南っ! 香南ってばぁっ! 無茶しないで、もうすぐきっと社長さんが助けにきてくれるわ。アーマスも、杜沢さんも。マイヤーさんだってきっと香南を心配してるわ……! きっと助けにきてくれる。香南、返事してよっ! ねえっ、ねえってば!」

 真奈美がいくら呼びかけても、何の返答もなかった。
 それでも壁を叩き、隣の部屋にいるはずの香南に呼びかけ続ける。

「うるせえっ、静かにしろ」

 乱暴に真奈美の閉じこめられた部屋のドアを蹴り飛ばし、怒鳴り散らす。

「香南は? 香南はどうしたの? ここを開けて、お願い!」

 真奈美はノブを掴み、ドアをどんどんと叩いた。だが、外から掛けがねを掛けられているため、びくともしない。

「殺しちゃあいねえ、安心しろ。……これ以上馬鹿な騒ぎを起こそう何てことを考えるなよ。そんときゃ本当にあのがきをぶち殺すぞ。お前さえ生きてりゃあ、それでコトは済むんだからな。それを忘れるな」

 殺気走った声だった。

 そして再び、悪夢のような沈黙がホテルを包み込んだ。

 

中川とアーマスがダラットホテルの前に到着したのは、マイヤー、チャン、広川の三者による『ノルトゼー作戦(注/嫌がるマイヤーを押さえ込んでのチャンによる命名。「北海作戦」の意。(^^;))』が始まった直後だった。
 情報を入手するため、オトリとして敵に捕まる……という作戦の第一段階として広川はすでにホテルに潜入している。
 そこに中川とアーマス、そしておまけのアインシュタインが姿を現したのだ。

「予定外の事態だな」

 通りを挟んだ向かいのビルからダラットホテルの様子を監視していたマイヤーが、傍らのチャン・リン・シャンに視線を投げかけた。
 ……そのマイヤーの表情は、だが、その中川たちの乱入を期待していたかのようでもあった。


Illustration by Kunio Aoki

「好都合……の間違いでしょう?」

 そう言って、チャンは形のいい唇に凄味のある笑いを作った。

「あの人材派遣屋も、惚れた女のためなら……なのかしらね。そうそう熱血するタイプとも思えなかったけど」

 独り言の様に、チャンは言った。

「……どいつもこいつも色気づきやがって」

 マイヤーは苦笑して、もう一度視線をダラットホテルの方へ向けた。

「これだけの人員がなだれ込んでは、騒ぎも大きくなるな。警察の目をどこまでごまかせるか……」

「それはマイヤー助教授のお得意の分野でしょう」

「いざとなったら私が一人で泥をかぶる。佐々木義一に追加請求して国外脱出でもするさ。そうなったらドイツへでも行って……」

 マイヤーは言葉をとぎらせた。
 そのすぐ横で、チャン・リン・シャンはスコープを使い、ホテルの室内を調べていた。五階の部屋の窓から、ベッドに倒れ込むように横たわっている森沢香南の姿が見えた。

「DGSに雇ってもらうのも一興だな」

 そのマイヤーの言葉に、チャンは顔を上げた。
 意外そうな表情でマイヤーを見つめ、そして再びスコープをのぞき込み、ホテルの窓に真奈美の姿を探す。だが、真奈美の姿は見つけることができなかった。窓から覗き見ることのできるのは部屋のほんの一部分にすぎないのだ。

「そん時は――私が口を効いてやるわよ」

 照れを隠すような……伝法な口調だった。
 そしてふたりはどちらが言い出すともなく装備をまとめ、きびすを返した。
 広川や中川のような素人がなりふり構わず乱入して行っても、人質を助け出す事はできるかも知れない。

 だが、その混乱を収拾させるのはプロフェッショナルの仕事だった。
 そしてホテルに一歩足を踏み入れたときから……マイヤーとチャンは再び敵に戻るのだ。

 

「正面玄関から入って行くのは自殺行為だな」

 路地に車を止め、アーマスはダラットホテルの様子を伺った。正面玄関とは言っても、その間口は狭苦しいものだった。見張りが一人いれば侵入者をすべてシャットアウトできる造りだ。
 ホテルの周辺は寂れきってほとんど人通りはない。だからこそ、西崎はこのホテルを潜伏場所として選んだのだろう。
 ダラットホテルをすべて西崎が押さえているのだと考えて差し支えはあるまい。

「地下に駐車場がある。そこからならフロントを通さずに客室へ上がれるはずだ。こんな所で商売しているホテルなんざ、どこもそう大して作りは違わねえだろう」

 中川はそう言ってダッシュボードから手帳を取り出すと一枚破き、

『腕時計を使え』

 と書いて細く折り、後部座席にちんまりと収まっているアインシュタインを振り返った。

「お前なら雨樋かなんか伝わって外から侵入できるだろう? 真奈美を捜し出してこいつを渡すんだ。お前が本当に真奈美の言う通りの天才猿なら、それを証明して見せろ」

「ウキキッ(わかりました、しゃちょうさん。このはじめてのにんむを、ぼくはりっぱにやりとげてみせます!)」

 アインシュタインはそう答えて中川の差し出したメモを受け取り、片手にさっき中川を昏倒させた小型拳銃型スタンガンを持つと車から飛び出して行った。

「連れてきて良かっただろう?」

 車を降りながらアーマスがそう中川に声をかけたが、不機嫌そうな表情を向けられただけだった。

「真奈美の腕時計は三宅とかって爺いが仕込んだ自爆装置がついてる。……爆発音だけの仕掛らしいが、な。ホテルに飛び込んだら、もうあとには退けない。もし、俺とはぐれてもとにかく真奈美を捜せ。そして真奈美を捜し出したらもう一度爆発音を鳴らして脱出するんだ。……俺が先に真奈美を見つけた場合も同じようにする。絶対に待つなよ。真奈美を脱出させる事が最優先事項なんだ」

「……ああ、分かってるよ」

 アーマスはそう言って、ジーンズのウェストに挟み込んだ拳銃に手をやった。
 弾丸はマガジンに入っている八発きり……。性能も不確かな改造拳銃だ。19号埋め立て地を根城にしているギャングまがいの連中を相手にするのはあまりにも貧相な装備だった。

(……いざとなれば、相手の武器を奪うしかないな)

 すでに歩き始めた中川を追うようにして、アーマスは地下駐車場への暗いコンクリートの通路を降りて行った。




Act5-7;ノルトゼー作戦
「ミハイル、聞こえるか……今ホテルの中に入った」

 広川は小さな声でそうしゃべった。シャツのボタンに仕込まれた超微細カメラの映し出す映像を、ミハイルは広川のアパートで見ているはずだ。そして特ダネになりそうな映像があればほぼリアルタイムに近い状態でASに流すことになっているのだ。

 いや……正確には、そういう「予定」になっていた。

 広川がダラットホテルに単身乗り込んだときには、すでにハイドリヒの部下の大活躍で、ミハイルは病院送り。機材はすべて消火液をかぶって使いものにならない状態になっていたのだ。

 だがそんなことを広川が知る由もなかった。

「……何をしている」

 二階のエレベーターホールをうろついていた広川の背後から、低い声が発せられた。
 腰のあたりに銃口がぎりぎりと押しつけられている。

(案外すんなりと行ったな……)

 ホルドアップしながら、広川は作戦の成功を予感していた。
 作戦の際に提示した三十分という時間は、決して長いものではない。こういう現場に潜り込むことにも、誘導尋問で敵から情報を聞き出すことにも熟練した広川にとっても、だ。

 

 地下駐車場からホテル内に入る階段は、普段はまったく使われていないらしかった。
 段ボール箱に詰め込まれたがらくたが、半ば通路を塞いでいる。そこには監視の目はなかった。
 西崎も……西崎が動かしているチンピラ連中も、まさかこんなに早くこっちが動くとは思っていなかったのだろう。その油断は、中川たちにとってラッキーなことだった。

 中川とアーマスが階段を使って二階に上がったとき、数人の足音がどたどたと走って行くのが聞こえた。
 緊張でふたりの身体がこわばる。
 が、足音は階段の方へではなく……フロアの反対側にあるエレベーターホールの方へ向かっていた。

「……何かあったのか」

 胃の底にこびりつく痛みを感じながら……中川は息を殺した。
 拳銃を手にしてアーマスが中川の横をすり抜け、フロアの様子を伺う。フロアを二分するまっすぐな廊下の一番奥で、襟首をつかまれている広川の姿が見えた。

「佐々木建設の手のものか?」

「どうやってこの場所を突き止めた。この……」

 すでに六人のチンピラが広川を囲んでいた。
 そのうちの一人が広川を殴りつけ、さらに床に引き倒して蹴り回している。

「一応……助けに行く振りぐらいはしといた方がいいんじゃない?」

「気づかなかったことにしとけ。あの連中の目をあいつに引きつけていた方が、俺たちは行動しやすい」

「…………あんたって、薄情な男だよな」

「広川は俺たちのような素人とは違うさ。潜入してきたからにはそれなりの策があるんだろう? 邪魔しちゃあ悪い」

「ウキキッ(しゃちょうさん、これこれ! まなみちゃん、このばんごうのへやにいます)」

 雨樋を伝わってホテル内に入り、真奈美の臭いを手がかりにあのメモを届けると、アインシュタインは階段を使って今度は内部に潜入しているはずの中川たちを探したのだ。

「アインシュタイン、真奈美を見つけたのか?」

 その中川に、アインシュタインはさっきのメモを見せた。

「……お前、届けてこなかったのか」

 中川の額にぴくんと青筋が浮かんだ。
 そのメモに書き付けられている「504」という文字を見つけたのはアーマスの方だった。

「おい、違うぞ。見ろよ……この番号の部屋に真奈美がいるってことじゃないのか?」

「504……五階か? 真奈美が書いたのか」

実際にはその文字を書いたのはアインシュタインなのだが、毎度のごとく中川はまったく気づいてはいない。そのメモを丸めて捨てるともう一度エレベーターホールの方に目をやった。
 そこに集まっている六人ですべて……というのは余りにも楽観的だが、少なくともあれ以上の人数が真奈美を見張るために張り付いているとも思えない。
 うまくすれば二、三人を相手にするだけで真奈美を助け出すことができそうだった。勿論、その二、三人を倒せれば、の話なのだが……。

(広川の旦那、死なねえ程度に頑張ってくれや)

 中川はすでに拳銃を手にしているアーマスを振り返り、自分もホルスターに手をやった。射撃経験はほとんどない。相手を狙い撃ちにするような腕は中川にはないのだ。

 脂汗が全身をじっとりと濡らしていた。

 真奈美がスパイセットの腕時計の自爆装置を作動させ、すさまじい爆発音をホテル中に響きわたらせたのはその時だった。

 

「……爆発? まさか中川が……?」

 地下駐車場で突入のタイミングを伺っていたマイヤーとチャンが、その爆発音に顔を見合わせた。
 こんな狭い場所で、敵にしろ中川たちにしろ爆発物を使うとも思えなかったのだが、何にせよ事態が急変していることに変わりはない。
 人質の安否が気にかかった。

「行くぞ」

 マイヤーとチャンはそれぞれボウガンを手に突入の体勢に入った。
 拳銃やマシンガンなどとは違って連射は効かないが、ほとんど音を立てずに敵を攻撃することができる。広川や中川たちの行動に敵が目を奪われている隙に敵をひとりずつ潰して行けばいい。
 殺りくや破壊が目的ではないのだ。
 マイヤーはすでに「人質救出」に関しては中川とアーマスに花を持たせるつもりでいた。自分は目立つことなくその援護をし、西崎を捕らえることに集中すればいいのだ。
 そしてチャンは、ハイドリヒの行動を待っていた。
 すでに潜入している広川と中川、アーマス……そして何よりマイヤーをも出し抜いて人質と西崎の身柄を手に入れるのは、容易なことではあるまい。
 だが……失敗する訳には行かないのだ。

 

 そして、ハイドリヒはそのとき、ノルトゼー作戦開始直前までチャンとマイヤーのいたビルの屋上から、ダラットホテルの内部を見つめていた。
 真奈美の腕時計が発した爆発音は、そのハイドリヒにも聞き取ることのできるすさまじい音量だった。
 だが……爆発の光はどこにも見えなかった。

「……ハッタリか?」

 だが、その爆発音によってホテル内が騒然としたのはハイドリヒにとって好都合な展開だった。
 麻酔弾を込めたライフルの銃口をホテルの窓に向け、スコープをのぞく。二階の窓にちらちらと広川庵人の姿が見えた。

 

 容赦なく殴りつけられた広川は、口や鼻から血を流しながら……ひたすら西崎が姿を現すのを待った。
 彼は必ずくるはずだ。
 広川が義一によって差し向けられた要員だと疑い、その疑惑の真偽を知るために必ず現れる。

 一瞬、広川を取り囲んだ男たちがその手をゆるめた。
 床に倒れて頭を抱え込んでいた広川はそろそろと顔を上げ、自分を見おろしているひとりの男を見つめた。
 それが西崎なのだとは、すぐには分からなかった。
 薄汚れたワイシャツをはみ出させ、食べこぼしたソースのこびり着いたしわだらけのズボンという服装の西崎は、憔悴しきってまるで別人のように変わり果てていた。

「貴様……私を殺しに来たのか。辰樹が、私を殺せと言ったのか……」

 弱々しい声音だった。
 広川はゆっくりと身体を起こし、にじり寄ってくる西崎の手を逃れるように一歩、二歩と後ずさった。
 すえた体臭が鼻をついた。
 広川を見つめる西崎の目には、明確な狂気が含まれている。

「誘拐した日下部真奈美と森沢香南は……どこにいる」

 その声を広川は喉の奥から絞り出した。
 だが、西崎にはそんな広川の言葉など届いてはいないようだった。

「洋二の死んだ場所を……見に来たのか、辰樹。そしてまた、お前は私をあざ笑うつもりなのか」

 西崎の手には血で赤黒く染まった果物ナイフが握りしめられていた。
 その西崎の背後から、チンピラたちが好奇の視線を投げかけている。
 彼らの頭の上で爆発音が響いたのはそのときだった。
 そしてほとんど同時に、背中から叩きつけられるような衝撃を広川は感じた。広川が背にした窓が割れ、破片が飛び散る。
 広川は声もなくその場に倒れ伏した。

 ダラットホテルと向かい合ったビルの屋上で、ハイドリヒはスコープの向こうに倒れる広川の姿を確認して、ライフルを降ろした。

「あとは西崎だな」

 西崎の身柄の拘束を、チャンの手に委ねるようとはハイドリヒには思えなかった。




Act5-8;肉薄
 中川とアーマスが五階にかけ上がったとき、そこにいたのは部屋の前に座り込んで監視を続けていた"インディアン"だだけだった。
 インディアンは中川たちの手にした拳銃を見つめて弾かれたように立ち上がり、突進してくる。その巨体にタックルをかけられ、中川は壁に叩き付けられた。
 それでも何とか身体を起こす。
 インディアンの懐に飛び込むようにして拳銃を構えたが、その腕のひと振りでたたき落とされてしまった。もみ合うようにして転がる中川とインディアンを見つめ、拳銃を構えながらもアーマスは引き金を引く事ができずにいる。

(下手をすれば社長に当たる)

 多少の射撃経験はあっても、人間を撃った事はない。アーマスのその躊躇が引き金を重くしていた。
 だが、インディアンが中川を床に押さえ込み、その首をぎりぎりと締め上げたときアーマスの指はその思い引き金を引き絞っていた。
 弾丸は外れたがインディアンは中川から手を離し、アーマスの行動を警戒しながら身体を起こした。
 激しくせき込みながら中川は壁ぎわに転がり、膝を付いて起きあがった。ズボンのポケットを探るのを、アーマスは視界の端に捉えていた。
 引き金を引けば……殺す事ができる。
 目の前のインディアンとにらみ合いながら、だがアーマスは震える指に力を込めることはできなかった。
 そしてインディアンはアーマスの表情からそれを悟っているようでもあった。

「おとなしく拳銃を捨てろ、坊や」

 そのインディアンに、中川が捨て身の体当たりをする。
 壁にぶち当たるような衝撃を感じながらも、中川はさっきポケットから出し、握りしめていたナイフの刃を引き締まった堅い肉に突き立てた。

「ぐうっ……!」

 ナイフはインディアンのわき腹に根元まで突き立てられていた。
 一瞬、その苦痛を堪えるように体勢を崩したところを狙って、アーマスはその頭を拳銃のグリップで思いきり殴り付けた。

「社長! 真奈美を、早く……!」

 アーマスが叫んだ。
 中川はふらつく身体を起こした。たたき落とされた拳銃を拾い上げると、安っぽいドアに新しく付けられたばかりの掛けがねを外し、ドアを開ける。
 すでに部屋の中には窓から入り込んだアインシュタインの姿があった。

「社長さんっ!」

 立ち上がって、真奈美は中川に抱きついてきた。
 だが、その真奈美の身体を支えきれずに中川は足元をふらつかせる。インディアンのタックルを食らったときに肋をやられたらしく、息をするたびに激しい痛みが襲ってくるのだ。

「……来てくれると思ってた。奈美、信じてたの。ずっと信じてた。社長さん、社長さぁんっ!」

「大丈夫だ。……もう何も心配する事はない。俺が守ってやるよ」

 中川の身体にしがみついて泣きじゃくる真奈美の肩に、そっと手をやる。
 苦痛を堪えてそう言いながら、だが中川には無事に脱出できるという確証は持てないままだった。
 真奈美の肩を抱くようにして部屋を出て、中川は階段へ向かった。アーマスはすでに階段の下の様子をうかがっていた。
 エレベーターが開き、チンピラたちが姿を現したのはそのときだった。壁に遮られた狭い階段に身を隠した中川たちの姿を見つけてすかさず拳銃を撃ってくる。

「走るぞ、真奈美。アーマス、大丈夫だな?」

 その中川にアーマスは声を出さずにうなずいた。その表情は青ざめていた。拳銃を握っている手が震えているのが分かる。

「香南が……香南も捕まってるの。あたしだけ逃げられないわ! 怪我をしてるの。……今にも死にそうなのよ!」

 中川に引きずられるようにして歩きながら、だが真奈美は身を翻して香南の監禁されている部屋の方へ行こうとした。

「香南? 香南も一緒だったのか?」

 中川は舌うちした。
 今更引き返せば彼らの標的になるだけだ。

「俺が残る。あんたは真奈美を連れて先に逃げてくれ」

「馬鹿なことを考えるなよ、アーマス。あいつら相手にどうやって戦うつもりだ」

「だがやるしかないだろう? それとも香南を見殺しにできるっていうのか? 四階を突っ切って非常階段に回れば、奴らの背後に出られる。敵の目は二階と五階に向いているはずだ。何とかなる」

「……できるつもりか? あいつら相手にさえ撃てなかったお前が」

「やるしかねえって最初に言ったのはあんただろうが。……死に急ぐつもりはない。俺だって、自分の身を守るくらいの牙はある」

 そのアーマスの表情を見つめて、中川も腹を決めるより他なかった。
 あばらをやられて満足に走ることのでできない自分が行くよりは、アーマスに任せた方が可能性は高い。

「無茶をするなよ、アーマス」

 そう言って、アーマスにもう一丁の拳銃を渡す。
 四階でアーマスと別れ、中川は真奈美を連れてさらに階段を降りた。
 真奈美が抱いていたアインシュタインがその手をすり抜けて階段を上がっていったのはそのときだった。

「アインシュタイン!」

 真奈美が立ち止まり、アインシュタインを振り返った。

「ウキキッ(あーますをえんごします。まなみちゃんとしゃちょうははやくにげて)」

 アインシュタインはそう言って手にしていたスタンガンを構えた。

「立ち止まるな! アインシュタインは大丈夫だ」

 そう怒鳴りつけて中川は真奈美の身体を階段の下へ押しやった。その背後から、さっきの男たちが階段を掛け降りてくる。
 振り返りざまに一発撃ち、中川は真奈美の身体を抱え込むようにして走った。

 

 聖武士の運転するGT40がダラットホテルの地下駐車場に滑り込んできたのは中川と真奈美が走ってきたのとほとんど同時だった。

「聖くん……どうしてここに?」

「あんたがゼロワンSTAFFの社長だな!?」

 聖はGT40をスピンターンさせて中川たちのまえに止めた。
 後部座席のドアを開け、転がり込むようにふたりが乗り込んだとき、追ってきた男たちのショットガンが火を吹いた。

「しっかりつかまってろよ。一気にぶっ飛ばすぜ!」

 GT40の前に男が拳銃を構えて立ちはだかったが、聖は構わず発進させた。
 滑るコンクリートの上でタイヤが悲鳴を上げる。
 フロントガラスに弾丸が当たり、蜘蛛の巣のようにひび割れたのはその時だった。ナビシートに放り出してあった木刀を掴んで、フロントガラスを叩き割り、視界を確保すると聖は一気にアクセルを踏み込んだ。
 駐車場から出てしまえば、絶対に追いつかれないと言う強い自信があった。

 

 中川が真奈美を連れて逃げたのと入れ違いに、マイヤーは非常階段を使って五階に上がった。

「畜生、やられた!」

「奴らはどうやってここを嗅ぎつけたっていうんだ!」

「がきはもうひとり残ってるぞ、他にも潜入している奴がいるはずだ!」

 広川に続いて中川とアーマスが乱入した事で彼らは浮き足立っていた。
 エレベーターで五階に上がってきた六人のうち、半分は中川を追って行き、残っているのは三人だけだった。
 階下で銃声が響いたのはその時だった。

(チャン講師か……?)

 だが、今はその事に構ってはいられなかった。
 突入した事が敵に知られた今、残っているもうひとりの人質――それが真奈美なのか香南なのかは分からなかったが――を一刻も早く助けなければならない。
 マイヤーは赤外線スコープをつけ、スモーク・グレネードを準備した。

 

 マイヤーに続くようにして非常階段を使い、アーマスが五階に戻ってきたとき、すでにそこは一面のスモークに包まれていた。
 銃声が一発、その煙の向こうで響く。

(広川の他にも……潜入した者がいるのか……?)

 それが誰なのかを考えている余裕はアーマスにはない。
 指の震えを押さえるように強く拳銃のグリップを握ると、煙の中に走り込んで行った。

(必ず助けてやるからな、香南)




Act5-9;逃走する狂人
 杜沢はすでに混乱状態にあるダラットホテルに……その混乱に乗じて乗り込んだ。
 正面玄関から入り、フロントにいた従業員に当て身を食らわせて気絶させる。

「人質は……どこに監禁されているんだ」

 フロントに置かれていたホテル内の見取り図で階段の場所を確認すると、即座に行動を開始する。
 頭上ではすでに数発の銃声が響いていた。

 

 最初のひとりをボウガンで倒し、マイヤーは煙にむせながらよろけるように近づいてきたもうひとりの足を狙ってGLOCK19を撃った。
 五階には全部で十五の客室があったが、掛けがねをつけて外から部屋を閉めきるようにしてある部屋はふたつだけだった。504号室とその隣の506号室――そして504の方はすでに扉が開け放たれていた。
 迷う事なく506号に向かい、扉を蹴破った。
 室内にもすでに入り込んだ煙が充満していた。
 血塗れになった香南がベッドからよろよろと起き上がり、不安そうな目で周囲を見回すのが赤外線スコープ越しに見える。

「香南! どこにいるっ! 返事をしろ!」

 スモークに視界を遮られて思うように行動できずに、部屋の外で怒鳴るアーマスの声が聞こえた。だが、その声を狙うように、数発の銃声が響く。

 そのアーマスの声に導かれるように香南は危なっかしい足どりで煙の中を進んだ。視界が効かないため、テーブルや椅子に足を取られて何度も転びそうになる。
 香南にずかずかと歩み寄ると、マイヤーはその腕を掴んだ。

「ひっ……!」

 短い悲鳴が洩れ、その手を振りほどこうとするように香南は抵抗した。

「声を出すな。……黙って俺について来るんだ」

 その香南の身体を押さえつけて、マイヤーは声を殺した。
 驚いたようにマイヤーを見上げて、香南は今にも泣き出しそうな表情になった。

「…………まーちゃん、助けに来てくれたの?」

 だが、マイヤーは答えなかった。
 右手にはGLOCK19を構えたまま香南の身体を左手で抱きかかえ、廊下へ出る。部屋のすぐ外に煙に撒かれて立ち往生しているアーマスがいた。

「森沢香南は助けた。脱出するぞ」

 そうアーマスに声をかけて、マイヤーは非常階段へ向かった。

「あんた……マイヤー?」

 その声から、アーマスはそれが……以前香南に電話をかけてきた義一のボディガード、ハインリヒ・フォン・マイヤーだと気付いた。

「DGSのチャンも潜入している。ホテルの外に出たら、お前は香南を連れて逃げろ。私は西崎を捕らえる」

 非常階段にも、すでに敵の手が回っていた。
 マイヤーはGLOCK19の銃口を非常階段をかけ上がってくる男に向け、引き金を引いた。
 何の躊躇もなく敵の腕を撃ち抜くマイヤーを見つめ……アーマスはマイヤーがこれまでにくぐり抜けてきた無数の熾烈な戦いを目の当たりにした心地になった。

(この男は……これまでも、こうして生き残ってきたんだ)

 

 チャンは明らかに出遅れた体勢となっていた。
 マイヤーが五階に踏み込んだのと同じ時、チャンは地下駐車場から走り出すGT40を追跡しようとしていた三人を相手に大立ち回りを演じていたのだ。

 何とか三人を倒すとハイドリヒと連絡を取り、西崎が二階にいる事を知って狭い階段をかけ上がる。チャンはマイヤーと同じようにスモーク・グレネードで敵を混乱させて乗り込んだ。
 だが、倒したのは雑魚ばかりで肝心の西崎の姿を見つける事はできなかった。

「人質はマイヤー助教授にやられたみたいだし……今回は私も広川同様見せ場なしってトコかな」

 小さくため息が洩れた。
 この失態で社内での評価が下がる事は必至だと思える。

 

 大通りに出たところで中川は車を止めさせた。

「どうするつもりだ、社長さん」

「ホテルへ戻る。もうひとり人質がいるからな。それを助けに行った奴も俺同様素人だから、放ってはおけない。真奈美を頼むぜ」

 運転席から振り返った聖にそう言い放つと、中川は扉を開けた。

「……社長さん」

 その中川に、真奈美が声をかけた。

「きっと香南を助けて。……社長さんもアーマスも、怪我しないでね。それから……それから……」

「分かってる。分かってるよ」

 身を乗り出した真奈美にそう言い残して、中川はGT40を出た。
 ダラットホテルまでは歩いても五分とかからない距離だった。ホテルを出て追跡してきた者の姿はない。

(……追いつけないと諦めたのか……それとも)

 アーマスの安否が不安だった。
 一歩踏み出すたびに痛む胸を押さえて、中川はダラットホテルへの道を急いだ。

 

「あのさ……」

 GT40を再び発進させて、聖はバックミラー越しに後部座席の真奈美に目をやった。

「……はい?」

「怪我しないで……って、あの社長さん、もう怪我してたんじゃないの?」

「え?」

 真奈美は聖にそう言われて初めて気付いたと言う風に声を上げた。

「わりと鈍感な娘だね(^^;)」

「ど、ど、どおしよおっ! 社長さん、死んじゃうかもしれない! ねえっ聖くん、お願い。ホテルに戻って! 助けに行かなくっちゃ」

「それはできないよ。今戻って真奈美がまた捕まるような事にでもなったら、あの社長さんだって泣くに泣けねえだろ。俺だってプロの逃がし屋なんだ。みすみす仕事を失敗するような真似はできねえよ」

「じゃあ……お願い。社長さんとアーマスと……それから香南も逃がして欲しいの。聖くんこの近くに隠れ家があるんでしょう? あたし、そこに隠れてるから……お願い! プロだって言うんなら、仕事引き受けてくれるでしょう? お金は……あたしあんまり持ってないけど、きっと払う。一生かかっても払うから!」

「……あのね(^^;)。分かったよ、金はあの社長さんのツケってことにしとく。取りあえずは真奈美の安全を確保する方が先だ。その上で、俺があいつらを迎えに行く。大丈夫、十分もあれば戻れる」

 そう言って、聖は再びGT40のアクセルを踏み込んだ。

 

 西崎は広川が狙撃されてすぐに、雇い入れたチンピラたちに人質を死守しろと言い放って牧田と共に脱出を試みていた。
 そして一階のフロントにたどり着いたとき、人質を救出しようと駆けつけた杜沢跡見に発見されたのだ。

「人質をどこへやった! 真奈美と香南は……!」

 杜沢は西崎に飛びかかり、その襟首を締め上げた。
 だがその瞬間、西崎は握りしめていたナイフを杜沢に向かって振り上げる。すでに西崎には状況を冷静に見つめるだけの判断力は残ってはいなかった。
 すべてが敵に見え……自分を殺しに来た佐々木辰樹なのだと思えている。
 西崎の振り上げた刃が、杜沢の腕を切りつけた。そして、その時杜沢が見せたわずかな隙をついて、ひとりホテルの外へと走り去った。
 即座に彼を追跡しようとしたが、杜沢のその行動を牧田が阻んだ。
 しゃにむに杜沢にしがみついて西崎が逃げ仰せるまでの時間を稼ごうと言うのだ。だが、牧田の抵抗など杜沢にはものの数には入らなかった。
 身体に染み着いた敵を倒すための技が反射的な行動として飛び出す。その軽い一撃だけで、牧田を倒すには充分すぎるほどの威力を持っていた。
 その場に牧田を残して、杜沢は西崎を追った。
 佐々木建設とDGSとのバイオスフィア計画を巡る戦い。それはしのぎを削り合う企業同士の、避けられない争いなのかも知れない。だがその影で西崎のような男がのさばり、満足な抵抗もできない真奈美や香南のような少女が犠牲となるのは我慢のならない事だった。
 真奈美も香南も……望んでこの戦いの渦中に身を投じたのかも知れない。
 彼女たちがこうして危険に身を晒しているのは、そうして飛び込んできたことへのしっぺ返しだとも言える。
 だが……。
 それでも杜沢には許せなかった。
 西崎という男の存在を……。
 どうしても許す事はできなかったのだ。




Act5-10;名刺屋の微笑
 ホテルに戻ってきた中川は、今度は正面玄関から内部に潜入した。すでに銃声は止んでいる。

(アーマス……もう、逃げたのか? ……香南は)

 飛び込んだフロントで、中川は倒れている牧田を見つけた。気絶していたが、中川が腹に一発蹴りを入れるとぼんやりと目を開いた。

「……おい、起きろよ。西崎はどこに行ったんだ」

「そんな事をしゃべると……でも」

 牧田は身体を起こす事はできなかったが、鋭い表情で中川を睨み、襟首を掴んでいるその手を振り払った。

「俺はなあ、てめえに優しくしてやれるほど我慢強くはねえんだよ。てめえらの雇ったあのチンピラにやられた傷が痛んで、気が立ってしょうがねえんだ。さっさと……」

「西崎は逃げたわよ」

 その声が、中川の怒号を押しとどめた。
 顔を上げるとチャン・リン・シャンが中川の方にボウガンを向けて立っている。

「名刺屋、やっぱりお前が糸を引いていやがったのか」

「残念ながら、私は人質救助に来て貧乏籤を引いたクチよ。真奈美ちゃんは脱出したの?」

「ああ。今ごろは安全なところに匿われてるはずだ」

「森沢香南はマイヤー助教授が助け出しているはずよ。貴方の相棒もきっと一緒でしょうね。西崎は逃げたらしいわ」

 チャンは中川に向けていたボウガンを降ろし、値踏みするように中川の顔を見つめた。

「その男、私にくれる? 人質を救出すれば貴方は満足なはずでしょ」

「西崎の秘書の牧田だろう、この男? 西崎じゃなくて雑魚の方でも必要なのか?」

「錯乱した西崎より、秘書を手に入れた方が話が聞き易いわ。この男を私に渡したからって貴方の失点にはならないんでしょ?」

「……まあな。こいつはあんたに任せるよ。どうやらあの時追跡を受けなかったのはあんたのおかげらしいからな」

「素直な坊やって好きよ、私」

「抜かせ」

 そう言って、中川は腰を上げた。

「上はあらかた片づいてるけど……早く逃げた方がいいと思うな。軍事学部崩れって下品なくらい往生ぎわが悪いから」

「俺があんたと裏取り引きした事は内緒だぜ」

「もちろん。口の堅いチャンさんって評判なのよ(^_^)。真奈美ちゃんに聞かなかった?」

「さあ……聞いてねえな。まあ、真奈美って、正直な奴だから……」

「……怪我してても憎まれ口だけは元気ね。そのあばらに蹴り食らわすわよ」

「よせやい」

 中川はフロントを離れ、正面玄関から外の様子を伺った。
 ちょうど香南を連れてアーマスとマイヤーが非常階段から降りてくるところだった。

「それから……名刺屋。真奈美は明日から出社させないぜ。理由は、言わなくても分かってるだろう? 受付嬢は別のを回す」

 中川はそう言って、チャンを振り返った。牧田の身体を重そうに引きずり上げて、チャンはその中川に、唇の端を上げたかすかな微笑を向けた。

 

 ホテルを出て大通りまで走り、タクシーを捕まえたところで西崎はハイドリヒの手に落ちた。
 西崎の乗ったタクシーに、ハイドリヒの部下が運転する車が三台突っ込んで大破させたのだ。その余波で通りは大混乱に陥り、一般車を巻き込んでの玉突事故となった。
 そして、ちょうどその時ダラットホテルに戻るため通りに突っ込んできた聖武士のGT40が、車線をオーバーして西崎のタクシーに車体をぶつけようとしていた黒塗りのベンツにぶち当たった。

「……畜生、こんなところまで騒ぎが広がってやがるのか!」

 ボディが大きくへこみ、フロントが派手にひしゃげていたが、走れない事はなさそうだった。思いきりアクセルを踏み込んでその場を逃れ、ダラットホテルへ向かった。

(こんな体たらくを見たら……ラムがうるせえだろうなあ)

 

(逃がし屋か……)

 タイヤを鳴らしてフルスピードのまま裏路地へ入っていく聖のGT40を見送って、ハイドリヒは小さく口の中で呟いた。
 部下たちが西崎を大破したタクシーから引きずり出し、車に乗せるのを見て、自分も車に乗り込む。タクシーがぶつかったときに西崎は怪我を負っているらしかった。無傷で彼を捕らえる事ができなかったのはハイドリヒにとっては誤算だった。

「ホテルから西崎を追ってきた男はどうした」

 ちらりと運転席の男に目をやって、ハイドリヒは言った。

「すでに片づけてあります」

「殺したのか?」

「いえ……麻酔弾を使いました。事件が発覚する頃には目を覚ましているはずです」

 杜沢は大通りに出るまでは西崎を追跡していた。
 だがそこでハイドリヒの部下三人に囲まれたのだ。銃を構えた彼らを見ても、杜沢は退こうとはしなかった。

「格闘技に関しては三人を相手にひけを取らない腕前だったそうですが、頭に血が昇っていたようですから……」

「分かった。引き上げるぞ」

 ハイドリヒにそう命じられて、男は車を発進させた。

 

 そして……。
 佐々木建設の副社長室にかかってきた電話を盗聴して、真奈美と香南の誘拐を嗅ぎつけ、

「よし、じゃあ僕たちで救出しよう。ついでに西崎のおっさんを捕まえりゃあ、今後僕たちが水面下から佐々木建設を援助して行くための第一歩になるしね」

 と言い出した石岡以下五名がダラットホテルに乗り込んできたのは、GT40にマイヤーとアーマス、それに香南とおまけのアインシュタインを乗せて病院へ行かせた中川が、自分の車を運転して出て行ったあとだった。

 ちなみに、『佐々木建設を水面下から……』というのは石岡の希望的観測である。クビにした派遣社員の協力を求める重役が、佐々木建設にいるわけはない。いわゆる「親切の押し売り」に近いものだ。
 佐々木建設からもDGSからも放逐され、失態続きの石岡が、起死回生のチャンスをかけたのがこの真奈美と香南の救出作戦だった。

 ……が、石岡は今回も出遅れていた。
 石岡たちが駆けつけたときには、すべては終わり……チャン・リン・シャン曰くの「貧乏籤を引いた」広川庵人が倒れているのを発見する事ができただけだった。

「課長、どうします。拾って行きますかぁ?」

 二階のエレベーターホールに倒れていた広川を見降ろして、宇佐見が気乗りしなさそうな口調で言った。

「……放って置けば? そんな奴拾っても何の役にも立たないよ。警察がくる前に引き上げよう」

 がっくりと肩を落とし、石岡はダラットホテルをあとにした。




Act5-11;作戦終了
香南が治療を終えて手術室から回復室に移された事を看護婦に伝えられると、マイヤーは腰を降ろしていたソファから立ち上がった。

「行くのか?」

 そのマイヤーを見つめて、アーマスは不満そうに言った。

「ああ。義一副社長の方が心配だ。結局西崎を取り逃がしているしな。奴がDGSに押さえられている可能性もある。……まだ気は抜けない」

「せめて……香南が目を覚ますまでいてやる事はできないのか」

「私がここにいても、何をしてやる事もできない。してやれることはすべてしてやった」

「冷静なんだな」

「……そうでなければ生き残っては行かれない」

「香南……あれからずっと俺のアパートに居ついてるんだぜ。何故だと思う? あんたから電話がかかってくるのを待ってるんだ。いい娘だぜ……俺は、そう思うね」

「いい娘でも……応えてはやれない」

 そう言って、マイヤーは身を翻した。
 深夜の病院の薄暗い廊下を肩を落として歩いていくその背中を見つめて、アーマスはそれ以上マイヤーを引き留める事はできなかった。

「見舞いにきてやってくれよ、マイヤー。それくらいはいいだろう」

 アーマスのその言葉に、答える声はなかった。
 振り返る事もせずにマイヤーはそのままエレベーターホールの方へ歩いて行った。

 

 そしてその頃、中川は何とかアブシンベル縁島の地下駐車場にたどり着いていた。
 ……が、すでに精魂尽き果て車から降りる元気も残ってはいない。そのままシートをリクライニングさせてぼんやりと天井を見つめていた。
 泣きながらしがみついてきた真奈美の身体の感触が、まだ腕に残っている。

「……正義の味方ってのも、楽じゃないな」

 そう呟いてみる。
 ドアのポケットに入れっぱなしになっていたタバコの箱を取り出して、一本取り出してくわえた。
 身体を起こせばライターに手が届くのだが、もうその力は残っていなかった。
 意識がぼんやりと霞んでくる。

「タバコ、身体に悪いですよ。社長さん」

 真奈美の声で、中川は我に返った。
 いつの間にか助手席に真奈美が座っている。
 脂汗の浮かんだ中川の額に、真奈美の細い指が触れた。その手を取って、中川は真奈美の顔を見つめた。
 真奈美を乗せてきた聖のGT40がアブシンベル縁島の地下駐車場から出ていく。

「ありがとう。助けにきてくれて……ありがとう。それと……ごめんなさい。あたし、気付かなかったの。社長さんが怪我してるって……社長さん、強く見えたから……いつもよりずっと……」

 だが、その言葉を遮るように、中川は真奈美の身体を抱き寄せた。
 柔らかい髪が頬に触れ、ほのかなフローラルの香りが鼻先をくすぐった。

「いいよ、もう……。無事で良かった。真奈美が無事で……良かったよ」


Illustration by Kunio Aoki

 坂井は休日で人の少ない佐々木建設にもぐり込み、警備員に紛れて義一の身辺を警護していた。そして戻ってきたマイヤーと交代して帰宅した「こうじや」で見つけたのは、中川からの報告と満身創痍となった杜沢の姿だった。(^^;)。

日下部真奈美……ほぼ無傷。痣三カ所、左手に5ミリの切り傷。
森沢香南…………額に裂傷、五針。(入院)
中川克巳…………肋骨にヒビ。全治一ヶ月。(自宅療養)
アーマス・グレブリー……ほぼ無傷。ただし痣、かすり傷は数しれず。
ハインリヒ・フォン・マイヤー……まるっきり無傷。(だと思われる)
アインシュタイン……無傷。(聖に連れられて帰宅)
広川庵人…………行方不明。
杜沢跡見…………杜沢さん、来てたの?

……取りあえずそれが中川の報告による、真奈美と香南の救出作戦の結果だった。

 

 牧田を連行してDGS本社ビルに戻ったチャンは、ハイドリヒとその部下によって捕らえられた西崎昌明が死亡した事を聞かされた。
 ハイドリヒの部下の車がタクシーに突っ込んだ時の負傷がその死因だった。

(……完全に貧乏籤だわ)

 すでにチャンの捕らえた牧田は、人質としての価値を失っていたのだった。

 

 19号埋め立て地のダラットホテルを舞台とした発砲事件について、警察からの発表は何も行われなかった。
 発砲事件の原因となった誘拐事件についても、発砲事件直後に大通りで通行中の一般車両十台あまりを巻き込んだ交通事故についても、何の発表になされないままに終わった。
 警察が公式発表を差し控えた裏には政財界の大物諏訪周三の名もささやかれてはいたのだが、広川のタレコミによって一度は腰をあげたマスコミも、事件が起こったのだという確固たる証拠を掴むことができずに報道を見合わせた。
 結局一連の事件のうち表沙汰になったのは19号埋め立て地で高槻洋二の死体が発見されたこと、広川庵人の自宅が宅配便の配達員を装った強盗が襲い、同居人ミハイル・ケッセルを昏倒させた上に五万円ほどの現金とクレジットカードを盗んで火を放った、というふたつのニュースだけだった。

「……本当なら今ごろは、スクープをものにしていたはずだったのに」

 ボヤ騒ぎで自宅が使えなくなったため当分ホテル住まいを余儀なくされた広川は、ミハイルと顔を突き合わせて自分たちの失態を報じるニュースをうんざりした表情で見つめていた。




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(c)1992上原尚子.