Act5-1;守るべきもの
マスコミへの対応のために日曜出勤していた義一は、ヴィジホンのモニターに映し出される西崎の、熱に浮かされたような表情をじっと見つめて、一言も発する事ができなかった。
……すでに正気を失っているのだと、その表情からありありと伺うことができる。
義一のことを辰樹と呼び、真奈美のことをまるで幼い少女のように語っている。だから最初のうち、義一は若菜が誘拐されたものと誤解していた。
『お前は……私には勝てないと……私が、渚も……お前も』
西崎の言葉は次第にもつれ、発音もおぼつかないものになっていた。
だが、その哀れな姿をそれ以上見ている事はなかった。突然通話先のモニターが切られ、画面が真っ黒になったのだ。
『日下部真奈美は預かっている。西崎副社長の今後の佐々木建設における地位を保証し、これまでの慰謝料として佐々木辰樹の遺産の三分の一を西崎昌明に譲るという文書を作れ。十二時間後にもう一度電話する。そちらの解答はそれまでに決めて置くんだ。返答次第で真奈美の帰るときの姿が決まる事になる』
「待ってくれ」
義一は、それが西崎の秘書牧田の声だとすぐに気付いた。
声を荒立てないように気を配って、通話を切ろうとする牧田を制止した。
「高槻は……高槻洋二は死んだのか」
『……直に警察から連絡が行くだろう。死体は運河に捨てた』
それだけ言って、通話は途切れた。
真っ暗なモニターを睨んだまま、義一は身動きできなかった。西崎の狂気をはらんだあの目が、暗いモニターに残像となって浮かび上がっている。
(……真奈美と香南が……誘拐)
「誘拐……か」
背後でもらされたマイヤーのその言葉で、義一は我に返った。
マイヤーは義一の後ろに立って、同じように暗くなったモニターを見つめていた。
「西崎は追いつめられて錯乱している。……ああなると、人間何をするか予測がつかない。被害妄想にかられて、突発的な行動を取る」
マイヤーは戦場でそういう人間を幾度となく目撃していた。
せっぱ詰まったとき……弱い人間ほど強くなる。弱い人間ほど、己の生命に執着して無茶な行動に走るものだ。そしてすでに西崎は高槻洋二を殺している。もはや完全に袋小路に追いつめられているも同然だった。ちょっとした刺激で、高槻へ向けられたのと同じ殺意が義一にも向けられる可能性がある。
「……妻子が心配なら、家に帰った方がいい。一緒にいれば、私も妻子を守る事ができる。西崎はすでに手足となる兵隊を用意しているはずだ。まだ子どもとは言え、昼日中に騒ぎを起こさずに二人の娘を誘拐する事は、あの男ひとりでできる事じゃない。プロか……あるいはプロに近い存在の者が実際に行動しているはずだ」
マイヤーもまた、事態を重視していた。これまで彼がこんな風に差し出口を聞いた事はない。
生命を守る商売にやり直しはない。
以前マイヤーの言っていた言葉を、義一は思い出していた。
西崎がマイヤーの言っているようにプロか……それに近い存在の者を雇って真奈美たちを誘拐させたのだとしたら、その危険が義一に及ぶことも充分に考えられる。もちろん、妻や娘にもその危険は同じようにつきまとうだろう。
だがそれでも、義一には譲る事はできなかった。
金ならいい。
辰樹の遺した個人的な資産が西崎の目的なら、今すぐに出も決断する事ができる。西崎の望むだけの金を工面してその欲望を満たしてやれば済む事だ。あとはすべて警察に任せ、法が西崎を裁くのを見守っていればいい。
真奈美や香南の生命と、その金とを天秤にかけるつもりなど義一には毛頭なかった。
だが、西崎の目的が佐々木建設という組織に向けられているというのなら話は別だ。狂気に走った男に、会社をみすみす明け渡すような真似ができるわけはない。
佐々木建設は義一の祖父が敗戦後の混乱期に裸一貫から始めた会社であり、辰樹が宇宙進出の野望を胸に育て上げてきた大企業である。
三十年前、日本の建設業界は鹿島、大成、清水、大林、竹中、熊谷という大手ゼネコン六社を頂点に、準大手、中堅、下請けの中小企業から個人経営の工務店に至るまで、実にタバコ屋の二倍の数の建設会社があると言われていた。その総数はおよそ五十万にも昇る、巨大なピラミッドを形成していたのだ。
その中で中堅の一社に過ぎなかった佐々木建設が急成長を遂げ、準大手に、そしてピラミッドの頂点である大手ゼネコンに名を連ねるようになったのは、これまでに例を見ないサクセスストーリーでもあった。
もちろん、それは辰樹ひとりの功績ではない。
西崎が狂気の中でもらしたように、辰樹の野望の影で時には手を汚す仕事さえ強いられてきた何万もの社員の功績である。
そして今も佐々木建設はその何万という社員を抱え、彼らの生活を支えているのだ。
一歩も退く事はできなかった。
父の、そして自らの夢を果たすためだけではない。
義一は佐々木建設に対しても、真奈美や香南の生命と同じように何があっても守り抜かなければならない義務を負っているのだ。
どちらも譲る事はできない。
そのどちらも……後込みをして西崎の狂気に委ねる事などできないものなのだ。
「マイヤー」
しばらく考え込んでいた義一が、顔を上げ、背後のマイヤーを振り返った。
この勝負に勝てるのだと確信を持っているかのようなその義一の表情を見つめて、マイヤーは目を見張った。
甘ちゃんの二代目などでは有り得ない実業家としての義一の力量を……初めて出会ったときにそう感じさせたのと同じように、改めて見せつけられたのだ。
「自宅は警備部の者に守らせる。……私はここで彼らからの接触を待つ。いざとなれば自分の身は自分で守るよりないだろう。君は、真奈美と香南を救出する事を第一に考えて西崎のアジトを探してくれ」
「……そうはいかない。金を受け取った以上、私には最後まで佐々木義一を守る義務がある。その仕事を中途で投げ出す訳には行かない。私自身のプライドにかけても」
「では……契約はすべて破棄する。君に渡した金は、これまでの仕事の報酬と違約金として受け取ってくれ。そして……マイヤー助教授、新たに君と契約したい。前回と同額の報酬で、日下部真奈美と森沢香南をできる限り無傷で救出してくれ。誘拐されたふたりはどっちも年頃の娘だ。事件が表沙汰になる事は極力避けたい。……この依頼を受けてもらえるな?」
「いいだろう」
マイヤーは表情をほとんど変えることなく頷いた。
すでにマイヤーの胸中には二人を救出するための作戦と、西崎の手の者と戦うための武器の調達の算段が九分通りできあがっていた。
「何で猿なんか連れてきやがった。これ以上この馬鹿がなんかしでかしてみろ、俺は正気を保ってられる自信なんかこれっぽっちもないぞ。こいつがどこのどいつのペットだろうとぶち殺して猿鍋にしてやる」
「舌噛むぜ。病人はおとなしくしてろよ。――アインシュタインは真奈美にも香南にも懐いてただろ? あんたよりは鼻も効くだろうし、少しは役に経つかも知れないと思ってさ」
中川の車のハンドルを握りながら、アーマスが助手席の中川を一瞥した。
言葉だけは威勢がいいが、中川の顔色は青ざめている。そんな状態で相手の人数も分からずアジトに踏み込んで行くなど、自殺行為だ……とも思ったのだが、口に出すつもりはなかった。少なくとも中川はそのアーマスの忠告を素直に受け入れて坂井の指示を待てるほど気の長い男ではない。
「怪我人だ、訂正しろ」
そう言い放って、ナビゲーションシステムを稼働させる。車載ヴィジホンと共用のモニターに19号埋め立て地の詳細マップが映し出された。
そのマップから『ダラットホテル』を見つけるのは難しい事ではなかった。
『誘拐された二人は19号埋め立て地の『ダラットホテル』に監禁されている』
そのタレコミ電話が掛かってきたのは、中川とアーマスが部屋を今にも飛び出そうとしていたときだった。
モニターは最初から切ってあり、名前も告げずに用件だけを言って切ってしまったのだが、中川はすぐにそれが先日「こうじや」で出会ったジャーナリスト広川庵人だと気づいていた。
(なぜあいつは、真奈美が誘拐されたことを知っているんだ……)
その疑惑は、今でも中川の意識から消えてはいなかった。
「こうじや」で会ったときからどこかうさん臭いものを広川に感じていたのだ。それは、アーマスも同じだった。
「あのジャーナリスト、信じられると思うのか?」
運転しているアーマスがそう言って、中川の方へちらりと視線を投げる。
「信じる気にはなれねえけどな……だが、他に探す当てもないだろう? それが嘘だろうが罠だろうが、行ってみなきゃ話になんねえんだからよ」
そう、忌々しく言い放って中川は車載ヴィジホンのスイッチを入れ、初めてかけるうろ覚えの番号をプッシュした。半年以上も車を使ってはいなかったのだが、電話料金を支払っていたのは正解だった。
『はぁい、レジャーランドSNSです』
相変わらず脳天気そうなシータ・ラムの顔がモニターに映し出された。
『あら、社長さん。さっそく依頼?』
「あんたんところの社長に取り継いでくれ。大至急だ」
『運がいいわね。ここにいるわよ』
「よかった。すぐに出せ。それから、依頼内容を他の人間に聞かれたくない。モニターを切ってくれ」
『わかったわ。儲け話なら大歓迎よ』
人に聞かれたくない話=儲け話というのは短絡的な発想だが、相手が中川の場合はそれくらい短絡的な方が話がスムーズに行く。
『オレが聖だ。ケチな依頼は受けねェぜ』
聖武士の応対はぞんざいなものだった。
シータ・ラムは「儲け話なら大歓迎」と言っていたのだが、聖の方はすんなり「どんな依頼でもお受けします」という訳ではないらしい。
だが、とりあえず今の中川にはここでいつもの調子の掛合漫才をやっている余裕はない。聖の言葉はすべて無視して強引に用件だけを話し始めた。
「何度もくどくど説明してる暇はない。一回しか言わないからよく聞けよ。俺の会社に出入りしている日下部真奈美が誘拐された。確か、お前とは知り合いだったはずだろう?」
『……真奈美が?』
「声を出すな。人に聞かれたくない話だって言ったはずだぜ」
「俺ともう一人で何とか救出するつもりでいる。……が、追われたら俺のボロ車じゃ逃げようがないんだ。で、あんたに頼みたい。監禁場所は19号埋め立て地の『ダラットホテル』。群島区発行の詳細マップなら載ってるはずだ。それでもわかんなきゃ適当に探して迎えに来てくれ。ホテルのパーキングに車を止めて待っててくれりゃあいい。目印にダッシュボードの上にあのふざけたぬいぐるみを置いといてくれ」
『分かった。すぐ行く』
それからしばらくの間沈黙があって、シータ・ラムがなにかを叫ぶ声が聞こえた。
『なんだかよく分からないけど、うちの社長出てったわ。……仕事料は前金でもらいたかったトコだけど、今回は特別に後払いってことにしとくわ。じゃあね』
モニターが再びシータ・ラムを映し出した。ウィンクをモニターに投げかけてにっこりと微笑を作り、通話を切る。
「逃がし屋ライディングナイトか? あんたもよくよく厄介事をしょい込むのが好きだな、え、社長?」
アーマスは呆れたように言った。
表面こそは軽口めかしているのだが、その実、中川の行き当たりばったりの救出作戦には多少の不安を感じている。
監禁場所が19号埋め立て地であると言うことの意味を、中川だって考えていないわけではない。
いや、だからこそこんなにも焦っているのだろうが、射撃経験はあるとは言っても、しょせんは素人に過ぎない自分と、ヤバい橋を渡った経験はいくつかありそうではあるが、やはり同じように素人である中川が……たった三丁の拳銃だけを武器に戦うのは余りにも不利だと思えてならない。
19号に人質を監禁している以上、西崎もそれなりの「人材」を集めているに違いないのだ。
だが、中川は何も答えなかった。
その中川の……自分の弱みを他人には決して見せまいとする意気がりに、アーマスは苛立ちを感じずにはいられなかった。
「やれると思うのか?」
「……んな事ぁ、やってみなけりゃあ分からねえだろっ。俺はなあ、そういうことをねちねち考えんのは苦手なんだ。やれるかどうか分からなくたって、やってやるしかねえだろ。真奈美が俺に助けを求めてるってんなら、助けに行ってやる。俺が助けられると真奈美が思っている以上、助けてやるしかねえんだよ。俺はそういう男なんだ。文句があるんなら、猿を連れてここで降りたって構わねえんだぜ、アーマス・グレブリー」
「……」
珍しくマジな中川を横目に、アーマスは言葉を失った。
(……照れてるのか?)
赤信号で車の流れが止まる。
ゆっくりとブレーキを踏みながら、アーマスはもう一度中川の顔を見つめた。中川はアーマスのその視線をうざったく払いのけるように窓の外に顔を向けている。
「あんたってさ……案外、根っからの熱血正義の味方なんだな」
「うるせえ」
「……つき合うよ。危なっかしくて運転任せられるような状態じゃないし……俺だって正義の味方は嫌いじゃないしさ」
アーマスはそう言って唇の端に笑いを作った。
そのアーマスに、後部座席でそれまでじっと座禅を組んでいたアインシュタインが合いの手を入れた。
「ウキキッ(しゃちょうさん、ぼくもがんばるよ。みんなでちからをあわせてまなみちゃんをたすけだそう! いまこそささきふぁいぶのそこぢからを、あっかんにしざきにみせつけるときだ!!)」
その場の雰囲気を、アインシュタインも良く理解しているのである。
だが中川にもアーマスにも、そんなアインシュタインの燃える気持ちを理解してやる事はできなかった。
返されたのは、あまりにもつっけんどんな、中川の悪態だけだった。
「黙ってろ。うるさくするとこの場でシメて串焼きにするぞ」
「ウキ……(しゃちょうさん、てれることないじゃないですか。しゃちょうさんのきもちはぼくにもよくわかってま……)」
再び発せられたそのアインシュタインの言葉を、中川は最後までは言わせなかった。 ナビシートから飛んできたライターが、アインシュタインの頭を直撃する。
「……あのさ、社長。どうでもいいけど、走行中にバックミラーの角度変えないでくれる?(^^;)」
結局被害者はいつも……アーマスなのである。
その情報は、マイヤーが今まさに行動を開始しようとしていた佐々木建設にも匿名でもたらされた。
19号埋め立て地……。
その言葉から受けた危機感は、アーマスや中川の抱いたものと同じだった。いや、マイヤーは以前風の噂に聞いた情報から、さらに悪い状況を予測していた。
近ごろ、軍事学部崩れのチンピラが19号埋め立て地を根城にしている、というものだった。その噂を裏付ける事件はマイヤーの耳にもいくつか届いている。そしてDGSのパーティ以来行方をくらましていた西崎が、19号に潜伏していたのだとすれば……真奈美や香南を誘拐するに当たって調達する人員として、彼らを無視するはずはない。
騒動を好み、金のためならなんでもする男たち。
いや、彼らは時としてスポンサーの意向とは無関係に事件を拡大させていく。
「……武器が、要るな」
義一のオフィスを出て地下駐車場に停めてあった車に乗り込むと、マイヤーはそう呟いた。
日曜なら、軍事学部のキャンパスにも人の出入りは少ないはずだ。
そして入り込んでいる者たちの中にはサバイバルゲームに興ずるメンバーも少なくはない。
それはマイヤーにとって好都合な事だった。
目立たずに助教授室にキープしてある武器を持ち出す事ができる。
現場が19号埋め立て地であるのなら、ある程度までの無茶は金で抑えることができるのだ。
マイヤーがすべての準備を整え、助教授室を出たとき……頭に包帯を巻いたひとりの女が野戦服に身を包み、マイヤーと同じように装備を整えて廊下を歩いてくるのが見えた。
普段なら、それに気を止める事はなかっただろう。だが、その女を一目見たときにマイヤーは足を止めた。
そして女の方もマイヤーを見つめ、そして彼がこれから始めようとしている「戦争」の意味をすべて分かったと言うようにぬぐい取った口紅の赤がわずかに残る唇を笑った形に歪ませた。
「……目的地は、同じらしいな」
「そこへ乗り込む理由もね」
マイヤーの言葉を継いで、チャン・リン・シャンが言った。
不自然に歪んでいた微笑が、その時にはもう、いつも通りのチャンの不敵な笑いに形作られていた。
ついさっきこの軍事学部にかかってきた匿名の電話から、チャンも誘拐された真奈美と香南が19号埋め立て地のダラットホテルに監禁されていることを知った。そしてマイヤーと同じように、ふたりを救出するために……そして西崎を捕らえるために立ち上がったのだ。
「日下部真奈美と森沢香南が誘拐されたとき、私は現場にいたのよ。もうひとりいたんだけど、傷も深いしこれ以上関わらせても厄介事が増えるばっかりだから救急車に乗せて病院へ行かせたわ」
「……今回の事件には。DGSは絡んでいない、ということか」
「西崎は今となっては佐々木建設同様、DGSにとっても目の上の瘤だわ。狂気に走った男と取り引きするほどDGSは愚かでも甘くもない」
「利害は一致するな」
「……踏み込むまではね」
「人質と西崎の身柄をどちらが手に入れるかはその場の状況次第ということにして置こう。結果がどう転んでも恨みっこなしだ」
「森沢香南の方は、私の手を振り切ってでも貴方に助けを求めるでしょうけれど……」
「……あんな子供の恋愛ごっこにつき合うほど、私はロマンチストじゃあない。そして、仕事に私情をはさむつもりもない」
「そんな台詞を聞いたら香南が泣くぜ、"憧れのきみ"」
背後から突然発せられたその言葉に、マイヤーとチャン・リン・シャンは同時に振り返った。それまで誰もいなかった薄暗い廊下に、一人の男が立っていた。
「俺も一口乗せてほしいな、その救出作戦に」
「広川……庵人」
そう口にして、マイヤーの表情が曇った。
義一の隠密である坂井がこの男と連絡を取ったと言う話はすでに耳にしていたが、今回の事件に関わらせたい男ではない。
そしてチャンも、同じように警戒した目付きで広川を睨んでいた。
広川が真奈美と香南の救出作戦に乱入してきたことは、マイヤーにとってもチャンにとっても決して好ましい事態ではなかった。
だが、チャンもマイヤーも……真奈美と香南の居所を知らせたのが広川なのだとすでに悟っていた。
(この男の情報網は利用できる)
その考えを、ふたりは同じように抱き……言葉ではなくその目線から、互いに同じこと思惑を抱いているのだと確認しあった。
ホテルに踏み込むまでは、広川にも利用価値がある。
……だからこそ広川を作戦に受け入れたのだ。
広川の目的はチャンやマイヤーとは根本的に違っている。情報、それも特ダネとしての価値を持つ西崎の情報を入手することが広川の最終的な目的なのだ。
「奇襲をかけるのが一番だな」
マイヤーの助教授室に場を移して、三人は誘拐された真奈美と香南を救出するための作戦を立て始めていた。
デスクの上には19号埋め立て地の詳細マップが広げられている。
ダラットホテルのデータはすべて群島プロムナードで手に入れることができた。大通りには面しておらず、背後は運河、雑居ビルに挟まれた小規模なビルディングだ。出入口は正面の玄関の他は地下駐車場から室内に上がる階段と非常用階段があるきりの、きわめて閉鎖的な造りになっている。
売春宿として幾度となく警察の手入れを受けたことのあるホテルだった。
「廊下も決して広くはない。踏み込んでしまえば敵もそう簡単には逃げられないだろう」
「奇襲攻撃には賛成できない。西崎はすでに正気を失っていると言ったのは、マイヤー、あんただろう? そんな風に追い詰めれば何をするか分からないぜ」
「……では他にどんな方法がある?」
「俺がオトリになってダラットホテルに潜入し、彼らに捕らえられる。相手の注意を引き留めておこう。その上で、あんたたちが踏み込んで人質を救出すればいい」
「それで貴方にはどんなメリットがある? いたずらに相手を刺激するような行為に賛成するわけには行かない。貴方が踏み込めばその時点で敵は警戒するはずだわ」
チャンが横から口をはさんだ。
「メリットはある。捕まっている間、ただ大人しくしているつもりはない。連中から聞き出せる限りの情報を集める……それが俺の目的だ」
「下手に立ち回れば墓穴を掘ることになるぞ。第一、きみはどうやって彼らのアジトを突き止めた? なぜあのふたりがダラットホテルに監禁されていることを知っている。敵がそれを詮索しないとでも思うのか?」
「偵察衛星を使ったと言うさ。あながち嘘じゃない……俺の相棒は偵察衛星を使ってどんな場所でものぞき見ることができるんだ。それに俺にだって、自分の身を守る術はある。拳銃やナイフを持ち込む訳には行かないだろうが、武器はそれだけじゃない」
「きみの心配をしてやる義理はない。ホテルに踏み込んでからもきみを守ってやるつもりはない。それだけは言っておくぞ」
マイヤーは冷酷に言い放った。
「脱出の当てはある。あんたの助けを期待するつもりはないさ」
「まあ、いい。脱出できると言うのなら、それは我々には関係ない。それより問題は、相手を刺激せずに貴方が敵から情報を聞き出せるかと言うところよ、広川。相手が錯乱した西崎であったとしても? 下手に追い詰めれば狂人は突拍子もない行動を取る。それで人質が傷つけられるようなことになっては困る」
「それは俺を信じてもらうしかない部分だな」
窓際に立ったチャンを振り返って、広川は言った。
だが、先に広川に言葉を変えしたのはマイヤーの方だった。
「……初対面のうさん臭いジャーナリストを軽々しく信用できるほど、私は甘ちゃんではないな」
「それは同感ね。でも、広川の言い分も受け入れなければ結局互いの足を引っ張るばかりという結果にもなりかねない。……それは誰にとっても好ましくない事態のはずでしょう」
「……」
そのチャンの言葉に、マイヤーは少し考え込んだ。
「分かった。チャン講師の言うことにも一理ある。……では広川、まずきみがホテルに入り、彼らに捕らえらえる。そして西崎から情報を聞き出す――それにどのくらいの時間が必要だ?」
「三十分あれば……。だが、時間で区切るのは賛成できないな。ズレが生じればすべてが破綻することになる。俺が合図を送ることにした方がいいんじゃないか?」
「それはできない相談だ。私もチャン講師もきみのネタ探しを援助するために行くわけじゃない。それに、合図を使えば奇襲の意味はなくなる。……それができないと言うのなら、きみが先に潜入するという作戦には同行できない。きみの取材は私とチャン講師で人質を助け出したあとということにしてもらおう」
「……分かった。では三十分後にしよう」
「それから……どんなものであれ武器を持って潜入するのは遠慮してもらうたいわね。万が一ということも有り得る。それが原因で相手を逆上させるようなことになっては迷惑よ」
「ホテル内はほぼ密室と考えてもいいだろう。スモークを使って相手を混乱させ、その混乱に乗じて攻撃を開始する。チャン講師も殺人が目的ではあるまい? 被害は最小限度に抑えたい。その点についてはチャン講師の意見は?」
「異論はないわ」
マイヤーの言葉にチャン・リン・シャンがうなずき、作戦は一応決定された。
だがその三人の胸中ではそれぞれに互いを出し抜く算段が練られていた。
コンラート・ハイドリヒは軍事学部のキャンパスから離れたDGS本社ビル内で、マイヤーと広川とチャンとの間で作戦が練り上げられて行くのをすべて聞いていた。
チャン・リン・シャンの失態は、彼女が自身の手で拭わなければならないものだった。それがDGSの掟である。
だが、今回の事件はバイオスフィア計画の利権が絡んでいることもあり、
「チャンひとりの手には余る」
という判断から、ハイドリヒとその配下にある十名が特別にチャンの行動を補佐する要員として駆り出されたのだ。
そしてチャンがハイドリヒらとの連絡のために身につけていたマイクが、助教授室という密室での会話を筒抜けにしていたのである。佐々木建設に雇われているマイヤーとチャンが行動を共にすることを決めた時点で、そのマイクを使っての連絡は不可能となったのだが、その代償として釣り上げた情報は大きなものだった。
「すぐに広川庵人の相棒とやらを突き止めろ。そして、どんな手段を使ってもいい。偵察衛星を使うことを不可能にするんだ」
ハイドリヒは部下にそう命ずると、19号埋め立て地の地図を睨んだ。
ダラットホテルの所在地に赤いサインペンで印が付けられていた。
広川を尾行して軍事学部のキャンパスに潜入していた杜沢も彼らの話を隣室から盗み聞きしていた。
『偵察衛星?』
杜沢からの電話に出た坂井は、密室でのマイヤーらの話を聞いて、そう聞き返してきた。
「ええ。広川は確かにそう言っていました。"俺の相棒は偵察衛星を使ってどこでも覗き見ることができる"……と。彼の言ってた情報網って、そのことでしょうかね?」
『……恐らくはそれもひとつに過ぎないでしょう。杜沢さん、今どこです?』
「豊島マリーナの駐車場です。マイヤーさんたちはすでに19号埋め立て地へ向かっています。私もすぐに行くつもりです」
『落ち着いてください、杜沢さん。あなたまで冷静さを失ってもらっては困るんです』
だが、その坂井の言葉も杜沢の鼓膜の上を上滑りして行ったに過ぎなかった。
平素は穏やかな杜沢が……今はひどく荒れている。
それは坂井にとって手痛い誤算だった。
真奈美と香南が誘拐されたと義一からの連絡があって以来、杜沢はずっとその調子なのだ。かつて彼の恋人だった娘が、陰謀に巻き込まれて死んだのだと言う話は、一緒に杯を酌み交わした中で多少聞いてはいた。
だがその過去の傷が、こうまで杜沢を追い詰めるとは思っても見ないことだった。
(こんなことなら杜沢さんに留守を頼んで私が広川を尾行するべきだった……)
広川庵人が「こうじや」を訪れたのは義一の電話の直後だった。
「中川さんたちにぞろぞろ来られてはかえって危ない。救出には俺が行くから、あんたたちは待機していてくれ」
広川は、真奈美と香南が19号埋め立て地のダラットホテルに監禁されていることを告げて慌ただしく出て行った。
(何とか杜沢さんに広川を止めてもらおうと思ったんですけどね……)
杜沢が一方的に通話を切ったヴィジホンの暗いモニターを見つめ、坂井は唇を咬んだ。
マイヤーやチャンが感じたように、そしてコンラート・ハイドリヒが感じているように……坂井にとっても広川は邪魔な存在なのである。
そのことは、杜沢にも十分に分かっていることだと思っていた。だが、杜沢は広川がマイヤーとチャン・リン・シャンに持ちかけた作戦に加わろうかと言う危なっかしさなのだ。
杜沢の若さを、坂井は改めて感じずにはいられなかった。
先日坂井が広川に接触を求めたのは、広川の情報網の全容を知るためだった。
広川という男が何を知って佐々木建設を、そして辰樹の死を嗅ぎ回っているのか。……それを知ることが目的だったのだ。
その接触だけで、広川がこうまで佐々木建設に好意的な動きをとるとは、坂井も思ってはいなかった。
だが、今広川にかき回されるのは決して喜ばしい事態ではなかった。
広川のジャーナリストとしての好奇心によって、今回の誘拐事件が表沙汰になることだけは避けなければならない。
そして不用意に西崎の情報を広川に渡すこともできなかった。
(これだから、一匹狼と言うのは厄介なんだ)
中川を懐に引き込むときにも、坂井は同じことを思っていた。
だが、中川と広川には……根本的な違いがある。
中川は金で動かすことができる。もともと危ない橋をわたることの好きなタイプの男なのだ。佐々木建設に恩を売っておけば、弱小個人企業のゼロワンSTAFFにとっては多少のリスクは問題にならない。
その恩を盾に、これからいくらでもオフィスコンパニオンの派遣先を義一に紹介させることができるのだ。
広川は確かに佐々木建設の敵ではない。
だが、考えようによってはDGSよりも危険な存在なのだ。
佐々木建設に協力することには広川のメリットはない。ブン屋の欲望を満足させる特ダネを求めているだけなのだ。
そして彼はその「特ダネ」が、例え義一の社長就任のマイナス要因になるとしても、喜々として発表するに違いない。
だが、坂井はまだ腰をあげようとはしなかった。
(邪魔者は、邪魔者に片づけてもらおう)
真奈美と香南の救出作戦にDGSの幹部であるチャン・リン・シャンが加わったことは坂井にとっても意外なことだった。
人質の身柄はもちろん、西崎も、DGSの手中に落ちてもらっては困るのだ。
だが、こと広川に関して言えば……、
(私が動くまでもなく、あちらさんが片づけてくれますね)
……だった。
そういう意味では、坂井はDGSの機動力を信頼している。
ミハイル・ラッセルは相変わらず広川のアパートでモニターを睨んでいた。
ダラットホテルに監禁されている香南のピースバッジは、鉄パイプを振り上げる男を映したきり動きはない。
まだ意識が回復してはいないのだろう。
傷の程度を映像から推測するのは難しいが、これだけ長い間気を失っていると言う事は出血によるショック症状を起こしているのだという可能性もあった。
(アンディ、急げよ)
もうひとつのモニターに目をやって、ミハイルはそう口の中で呟いた。
そこにはマイヤー、チャン・リン・シャンのふたりと共に19号埋め立て地に向かう広川のシャツのボタンに仕込まれた超微細カメラの捕らえた映像が映し出されていた。
玄関の呼び鈴が鳴ったのはその時だった。
「はい、どちらさん?」
『申し訳ありません、ペンギン便の者ですが、お隣の笹部さんがお留守みたいなんで……お荷物預かっていただけませんかね』
インターホン越しに男の声が聞こえた。
玄関前を映しているカメラは、小包を持った男の姿を捕らえていた。
「ああ、いいっスよ」
そう言って、ミハイルは扉を開けた。
眼鏡をかけ、ペンギン便のロゴの入ったアポロキャップを目深にかぶった男がそこに立っている。
「えーと、これが預かり証になります。ここんところにサインだけしてもらえますか」
そう言って、男は預かり証とボールペンをミハイルに差し出した。
ペンを受け取り、ミハイルの視線が預かり証に落ちた時、正面に立った男がさりげなく手を耳元へ運んだ。
そして次の瞬間、鋭い痛みがミハイルの首筋に走った。
「な……!」
針が突き刺す感触に驚いて顔を上げようとしたが、その時、身体が床にのめり込んで行くような倦怠感を感じた。
(……何の……薬を……)
がくんと膝を付き、その場に倒れ込む。
猛烈な吐き気がこみ上げてきていた。
「死にはしない、安心しろ。二、三時間いい夢が見られるぜ」
薄れていく意識の中で、ペンギン便のアポロキャップをかぶった男がそう嘲笑するように言うのをミハイルは聞いた。
記憶は、そこで途切れている。
ペンギン便の配達員に変装して広川のアパートに押し入ったのはハイドリヒの部下だった。
強盗を装うために室内を物色し、小引き出しに入っていた5万円程の現金とクレジットカードを盗む。
それから部屋中に並べられたさまざまな電子機器をいじったように見せかけて、部屋の真ん中に積み上げられていた雑誌類に火を放つ。炎が十分に燃え広がるのを確認すると入ってきたときと同じように平然と部屋を出て行った。
火災警報が鳴り、スプリンクラーが作動するまでには三分近くかかった。
群島の建造物はどれも火災には強い。ボヤ程度の火事ならばスプリンクラーだけで充分に消し止める事ができるようになっている。
管理人がすぐに部屋に走ってきて、倒れているミハイルを部屋から引きずり出した。
ミハイルは火傷ひとつ負ってはいなかった。
……だが、室内の状況は惨さんたるものだった。室内の電子機器類はすべて炎にあぶられ、スプリンクラーからまき散らされる消火液に浸かり、すでに使いものにならない状態に陥っていた。
19号埋め立て地のダラットホテルに単身潜入しようとしている広川は、事実上、孤立無縁の状態になったのだ。
(せめて……香南の目が覚めれば……)
部屋の隅にあるベッドに転がされたまま、香南はまだ目覚めていなかった。
時折身体を震わせたり、苦しそうな唸り声をあげたりすることはあるのだが、意識の方はいっこうに戻らない。
額の傷から流れ出す血の量はこの一時間ほどでかなり少なくなっていたが、香南の横たわっているベッドの黄ばんだシーツはすでに赤黒く血に染まっていた。バスルームにあったタオルも、もう三本とも血を吸ってしまっている。
応急手当をしようにも何の道具もないのだ。
「……香南」
このホテルに移されてから、西崎は真奈美たちの前には姿を現していなかった。
すでに誘拐のことは佐々木建設にも知らされているだろう。そして、真奈美や香南の生命と引き替えに、西崎は無理な要求を義一に突きつけているに違いなかった。
(どうすればいいの……お願い、助けて……!! 社長さん。このままじゃ、香南が死んじゃう。このままじゃ……義一さんが会社を西崎に奪われる)
コツン、と、おざなりなノックの音がして、真奈美の返事を待たずにドアが開いた。
「ようやく大人しくなったみたいだな、え? お姫さんよ」
入ってきたのは車の中で香南を殴りつけた男だった。
コンビニエンスストアの袋をぶら下げている。
「医者を呼べだの、西崎を出せだの……さんざ騒ぎやがって。無駄だってことが分かっただろう? 安心しろよ、お前もこのがきも殺しやしない。お前を雇ってる佐々木の旦那が大人しく言うことを聞けば、すぐに帰してやるさ。それまではこれでも食って待ってるんだな。……こう見えても、俺は根は優しいんだぜ」
男は真奈美の足元にサンドイッチとジュースのパックが入った袋を投げて、野卑な笑いを浮かべた。
「……医者を呼んでよ。このままじゃ、香南死んじゃうわ。人質に死なれたら、あなたたちだって困るんでしょう? 香南にもしものことがあったら、あなたたち全員、軍事学部を敵に回すことになるわよ。この娘の彼氏、軍事学部の助教授なんだから!」
真奈美は震える声でそう言って、男を睨みつけた。
こんな風にハッタリをかますなんてことが、自分にできるとは思ってもみないことだった。アルバイト代わりにスパイをやろうなんてことを思いつくような突拍子もないところはあっても、真奈美はほんの二ヶ月前まで、ごく普通に高校に通い、放課後にはまぐまぐバーガーで時給650円のアルバイトをしていた平凡な16歳の女の子なのだ。
チンピラ相手に啖呵を切るような真似をするのは生まれて初めてのことだった。
(香南は、あたしが守らなくちゃいけないんだ)
その思いが、真奈美を強くしていた。
中川がきっと助けにきてくれる。
広川書店の記者会見の時にも、中川はテレビ中継を見てすぐに飛び出してきてくれた。
あの時は間に合わなかったけど……今度は大丈夫だ。
そう……確信に近い信頼を、真奈美は中川に抱いていた。
(社長さんが来てくれるまで、香南はあたしが守るんだ!)
「軍事学部の……ね。道理で向こうっ気が強いわけだ」
「あなた、軍事学部の関係者……?」
男の、訳知りそうな表情から真奈美はそうと悟った。
西崎はそこまで追い詰められているのだ。
『軍事学部の関係者は敵にするにも味方にするにも、毒のありすぎる連中なんだよ』
以前、中川がチャン・リン・シャンのことをそんな風に言っていたのを真奈美は思い出していた。
そして、軍事学部崩れの学生が19号埋め立て地を根城にギャングまがいの事件を頻発させていると言うニュースは、もはやこの群島では耳新しいものではない。
「さすがに佐々木辰樹の妾の娘ってだけのことはあるよな? 父親の夢を実現させるために人材派遣会社を使ってライバル会社に乗り込むなんざ、並の神経じゃあない。だがな、お嬢さん。自分の身が可愛いんならもう少し立場ってやつを考えるべきだぜ。誘拐された女の子は無駄な抵抗なんかしようとせずに大人しくベソかいてりゃあいいんだ」
「……」
男は、怯んだように黙り込んだ真奈美を後目にベッドの前に腰を屈めて香南の様子を伺った。
「出血は確かにひどいが……すぐには死ぬことはないだろう。まあ、佐々木の旦那が早く決断してくれることを祈ってるんだな」
そう言ったときの男の表情が苛立っているように見えた。
その態度から、真奈美は香南の容態が思ったより悪いのだと気づいた。
男は襟首を掴んで香南の身体を引きずり起こし、その頬を二、三度平手ではじく。低い唸り声のような喘ぎをもらして、香南が身をよじった。
苦しそうな表情だった。眉を寄せ、血で汚れた顔を歪ませている。
「乱暴はやめて! 香南、頭を打ってるのよ。そんなことをしたら……」
「殺しはしない、と言っただろう。お前の言う通り、まだこいつに死なれちゃあ困るんだよ」
男は香南の身体をどさりとベッドのマットレスに転がした。
ぼんやりとだが香南が意識を取り戻したようだった。うっすらと目を開き、周囲を見回す。
「香南、気づいたの? 香南、香南ってば!」
「……真……奈美ちゃん? どーして……あっ!」
香南の顔がゆっくりと動き、それからベッドの脇に立つ男の顔を見つめて表情を変えた。
だるそうに横たえていた身体を勢いよく起きあがらせて、男に掴みかかろうとする。
「……畜生っ、よくも……!」
だがその香南の行動は、男の片腕で簡単に振り払われてしまった。マットレスに叩きつけられるような形で倒れた香南に真奈美が走り寄る。
「香南! 香南!!」
その真奈美に何かを答えようとして、ぐっ、と香南は言葉を詰まらせた。
嘔吐がこみ上げてきたのだ。それを何とか堪えて、上目使いに男を睨み上げる。日頃の脳天気な香南からは想像もつかない険しい表情だった。
「死ぬのが嫌なら大人しくしてろ。元気に飛び回れるような状態じゃあないはずだぜ」
男は苦笑いを浮かべて香南を見降ろしていた。そのとき、真奈美は男が腰に拳銃のホルスターをつけているのを見た。
香南の身体を支えるようにしてその耳もとに口を寄せ、真奈美は声を殺した。
「……走れる? 逃げよう」
こくん、と香南がうなずく。
真奈美が支えていた香南の身体を離して身を翻したのはそのときだった。男の懐に飛び込むようにして拳銃をホルスターから抜き取る。
だが、うまくいったのはそこまでだった。
真奈美が奪った拳銃を構えることもできないうちに男は腕を振り上げ、真奈美の身体を弾き飛ばした。
「きゃあっ!」
よろけて壁にぶつかり、真奈美は手にしていた拳銃を取り落とした。そして男はもう一丁の拳銃を構え、その銃口を真奈美の頬にぎりぎりと押しつけた。
かつては軍事学部の学生だったこの男にとって、それはたやすい作業だった。
「大人しくしていろと言ったはずだ。……相棒が目を覚ますのを待っていたのか? 麗しい友情ってわけだ。――吐き気がするぜ。こっちへ来い。お前には別の部屋を用意してやる。覚えておけ、一人で逃げ出そうなんて思わないことだ。残った方がどうなるかは保証できねえぜ。お前らを誘拐した西崎って爺いは特別に気の短い連中ばかりを選んだんだ」
そう吐き捨てるように言うと、男は真奈美の腕を掴んで出口へ向かった。
香南はベッドを降りたところにうずくまったまま、立ち上がることができずにいた。万に一つ、真奈美が男を撃つことができたとしても……その身体で逃げおおせるはずなどなかっただろう。
(……香南……ごめん)
無理矢理部屋から引きずり出されながら、真奈美は力なく床に座り込んでいる香南を見つめた。
「おい、どうしたんだ。その娘をどこに連れて行くつもりだ」
真奈美を部屋から連れ出すのを見とがめて、部屋の外にいた男が腰を上げた。日本人ではない。浅黒い顔に凶暴そうな目を光らせた男だった。
「でしゃばった真似をするなよ、インディアン。この場は俺に任されてるんだってことを忘れんな。アロハのがきの方も目を覚ました。この小娘、それを待っていやがったんだよ。俺を倒して逃げられると思ったらしい。念のためにこいつは別の部屋に移しておく。アロハの方は満足に暴れられる状態じゃあないが、目を離すなよ。とんでもない跳ねっ返りだからな」
インディアンと呼んだ男にそう言うと、男は隣の部屋の扉を開けた。エレベーターホールのすぐ目の前の部屋だった。
「そこに三十分もいりゃあ、お前も少しはおとなしくいい子ちゃんにしてようって気になるぜ」
そう言って、男は真奈美を部屋の中に押しやるとドアを閉めた。