ACT4-6;恋を追うエアポリス

「群島は今、騒動の渦中にあるわ」

 そう言って、雅命星子は堅く握った拳を振り上げた。
 ここ−−航空研の一角に“航空警邏隊”はある。
 本来、警察の任務を支援する組織であった航空警邏隊は、しかし警察力の極度に貧弱な人工群島においてすでに自警団としての役割を担っていた。
 もちろん強制捜査権や逮捕権は持っていないのだが、何かにつけて腰の重い警察に比べ、溢れる正義感と持ち前の機動力で活躍を続ける彼らの行動は、すでに“警察代行業”と言っても差し支えないものに変わりつつある。
 もちろん、警察はその事態を好ましく思ってはいない。
 うち続く越権行為に業を煮やしているといっても過言ではないのだ。しかし、今ここで航空警邏隊にヘソを曲げられれば、群島の秩序は一気に崩壊する危険もある。彼らの存在が幾多の事件を解決へと導いているのもまた否定しようのない事実なのだ。
 だから、見て見ぬ振りをしている。
 見て見ぬ振りをしながら、彼らが大きなポカをやって活動停止を申し渡すための口実を作ってくれるのを、虎視眈々と待っているのである。

「……もしかして、ラブシックのことですか?」

 できれば避けて通りたい道だった。
 星子に注がれる視線のひとつひとつに、その思いが込められていた。星子の下で警察代行業務をこなしているのは、主に航空研に籍を置く整備員たちである。
 整備員たちも、群島内の噂には決して疎くはない。
 群島中の探偵がラブシックの謎解き中毒になっているという話だって、もちろん掴んでいる。
 そしてその探偵たちの多くが、満足な手がかりを掴めず「禁断症状」に喘いでいるという噂も……掴んでいるのだ。

「あれに手を出すと、ロクなことになんねーって噂ですよ」
「そうそう、現にここ二週間くらいで探偵事務所がばたばた店じまいしてるって言うし……」
「だからこそじゃない!」

 星子だって、整備員たちが掴んでいる噂くらい耳にしていた。
 ラブシックが謎の麻薬であり、清純な女子高校生を次々にむしばんでいる。そしてその裏にはCIAの陰謀説から中国三千年の秘薬説、果ては宇宙人飛来説までさまざまなデマが飛び交っているのである。
 サクマドロップスに混入されていた異物が実はまぐまぐシェイク(チョコミント味)でありラブシックと深い関係があるらしい、さらにCIAのラブシックに対抗するため、軍事学部は「大トロ」(暗号名と思われる。脱毛効果があるという説もあるが詳細は不明)なる作戦を企画しているらしい……と訳のわからない噂は数限りない。

「だからこそ、この混乱した状況を打開するために、あたしたちが立ち上がらなきゃいけないんだわっ!」

 星子は目をらんらんと輝かせてそう叫んだ。

「一昨日、洋上高校で教師が刺される事件があったのは知ってる? どうやら加害者の女生徒はラブシックの中毒だったらしいの。−−つまり、あたしの推理ではね、彼女はその教師のことが好きで……ラブシックの副作用で犯行に及んだんじゃないかと思うのよ」

 その口調は自信に満ちたものだった。

「副作用……ですか?」
「そう(^_^)。CIAの陰謀説まで出てるのよ。その噂の真偽は眉唾だけど、危険なものって可能性は無視できないでしょ? きっとラブシックは好きな人を殺したくなるような効果を持った麻薬なのよ」

 大胆な推理である。
 そして星子は、航空警邏隊の頂点に立つその溢れんばかりの正義感の裏で、ラブシックを無視できない好奇心をも抱いていた。

「その効果を確かめるためにも、あたし、ちょっと試してみたいのよ」

 その星子の一言で、整備員たちはすべてを納得したような表情になった。

「……で、俺たちにラブシックを手に入れてこいってんですか?(^^;)」
「そ☆」
「それってちょっとヤバイんじゃないですか。CIAの陰謀だか、チャイニーズマフィアの群島進出だか知らないけど、ラブシックって要するに麻薬なんでしょ? そんなもん持ってんのバレたら、俺たち全員お縄頂戴ってことにもなりかねませんよ」
「もちろん手に入れたら証拠品として警察に渡すのよ。一粒や二粒減ってたってバレなきゃ大丈夫よ」

 なにがどう大丈夫なのかは、とりあえず星子は考えていないらしい……(^^;)。

「なあ、どうする?」
「どうって……やるしかねーだろ」

 こうして航空研の整備員たちは、探偵たちの群れにまぎれてラブシックを探すこととなったのである。

 

 


ACT4-7;恋の結末

 唯は洗面台の鏡に写る自分の姿を見つめていた。

「人の気持ちって……難しいものだな……」

 そう、ぽつりと呟く。
 薄く塗ったファンデーションを落とそうとクレンジングクリームをつけたコットンでその顔をゆっくりと拭っていく。マスカラが落ち、アイラインがぬぐい取られ、描いた眉が消えると、唯の顔の印象はがらりと変わってしまった。

「陽子ちゃんも、諒さんと同じように……上手く行かない恋愛に悩んでいたんだろうなあ、きっと……」

 洗面台のキャビネットから洗顔クリームを取り出し、タオルを用意して唯はショートカットの髪に手をやった。ウィッグが外れ、その下からネットに包まれた漆黒の髪が現れる。
 ネットを外すと髪はばさりと背中へ流れた。
 いつものようにその髪を後ろで編むと洗顔クリームを手にとって顔を洗う。丹念にすすいで顔を上げたとき、鏡に映った顔は結城唯のものではなかった。

「…………ウィッグをつけっぱなしにしてると、頭痛がするな」

 そう呟いた声の調子も、唯のものとは違っていた。
 鏡に映っているのは人材を求めてWWLを訪れたアーマスに応対した男・朝比奈うずめだった。
 うずめが変装して身元を偽り、唯と名乗って行動するのはこれが初めての事ではなかった。もう何年も、そんな事を続けている。
 いや……だが唯として身元を偽っているより、うずめにはもっと大きな秘密があった。日常生活の中で「男として」暮らしているというその事実である。
 朝比奈うずめは、男ではない。
 群島プロムナード構築委員会に提出したどの書類を見ても、朝比奈うずめの性別は男として記されているがそれはすべて虚偽だった。
 男と偽って日常を送り、時折唯という架空の「女」を偽る。
 そんな二重三重に世間を欺く生活を……彼女は続けていたのである。
 言ってみれば「唯」はうずめの「男になりきれない」部分の具象でもあった。

 うずめが「唯」としてゼロワンSTAFFのスパイとなったのは……ラブシックの謎を解きたかったからではない。人手不足に頭を悩ませていたアーマスの手助けをしたいというそれだけの思いからでもなかった。

 諒とアーマスの関係を、なんとか元通りにするための手伝いをしたい。

 決して望んでいるわけではないスパイという仕事から諒を解放すれば、あるいはふたりの間で失われてしまった会話を取り戻せるのではないかと考えたのだ。
 だから、WWLの仕事を休んでゼロワンSTAFFに応募した。
 だが、結果は決してうずめの望んでいたものではない。
 諒はアーマスの元を去り、そしてアーマスは有給休暇をとって「唯」との接点を絶ってしまった。
 その一方で唯は、何もできずに足踏みを続けていた。
 うずめには……アーマスの気持ちも、諒の気持ちも掴みきれなかった。
 それでも、ふたりに元通りの「恋人同士」に戻って欲しいと願わずにはいられなかった。彼女にとって、それがたったひとつのハッピーエンドのように思えるのだ。


 だが、男と女の気持ちは……いつもそのたった一つの結末を目指すものではない。


 中川がくれた有給休暇は、あと一日を残すのみだった。
 だがアーマスはいまだに自分の取るべき行動を決めかねて悩んでいた。
 諒の居場所を探し出すのは難しい事ではなかった。群島プロムナードに照会すれば、彼女が水天宮に職を得た事を知るのはたやすい。
 しかし彼女の心のうちを知る事は、群島の中で諒を探し出すほどたやすい事ではないのだ。
 諒が何を思い、何を望んでいるのか……。
 決して波のこない場所で手をこまねいているだけでは、その答えは決して手に入らない。
 彼女に会わなければならない。
 会って、話さなければならない。
 それが頭で分かっていても行動する事ができないのは、アーマスの意識を占めている不安のせいだった。


「お待たせしちゃって……申し訳ないわ」

 SNSのラウンジで、マイア・I・リークはアーマスに声をかけた。
 水天宮にかかってきたアーマスからのヴィジホンで約束した時間に、十分ほど遅れている。

「いえ……お忙しいところこちらが無理を言ったんですから……」

 アーマスはそう言って立ち上がり、テーブルを挟んで向かいの席をマイアに勧めた。

「……それで、諒ちゃんのことだったわね?」

 コーヒーを注文して、マイアはアーマスの方へ目をやった。

「ええ。彼女がそちらで働いていると知ったもので」
「諒ちゃんの彼氏って、あなたのことだったのね」
「……ええ」

 アーマスは小さくうなずいた。

「いろいろ悩んでいたみたいだけど、来た頃に比べればずいぶん落ちついてきたわ。仕事にも慣れたみたいだし」
「そうですか」
「会いたいなら、直接来れば良かったのに……。私を通して話しをしたって、解決にはならないんじゃないの?」
「いえ……彼女が落ちついているなら、それでいいんです。会って謝りたいけど、かえって彼女を傷つける事になりそうだし……それで、あの……これを」

 アーマスはそう言って、封筒をテーブルの上に置いた。

「なあに? これ」
「俺にできることは……これくらいしかないと……少ないけど、落ちつくまでいろいろ金もかかると思うし……」
「つまり、これを私に渡せっていうの?」
「お願いします」

 運ばれてきたコーヒーにマイアは手を伸ばした。
 アーマスの真剣な表情を見つめて、小さくため息を漏らす。

「渡したいのなら、自分で渡しなさい。受け取ってもらえないと思うけれどね。彼女、貯金もあるみたいだし、働いているんだし、困っていないはずよ。困っているとしたら、あなたがわざわざ用立てなくたって、自分で何とかするはずでしょう? 友達に借りるなり、銀行から借りるなり……」
「……でも……」
「あなたが思っているほど、彼女は頼りない女の子じゃないわよ」

 そのマイアの言葉に、アーマスは力なく目を伏せた。

「……実際、彼女の為になにができるのか分からないんです。俺は彼女を失いたくないし、かと言って力づくで取り戻したいわけでもない」
「彼女はひとりで立ち直ろうとしているわ。それを待って上げる事が、あなたにできることなんじゃないのかしら。そして、あなた自身も立ち直る事だわ」

 コーヒーのカップを置いて、マイアは立ち上がった。
 冷たい言い方だったかも知れない。
 店を出るとき、ふとアーマスを振り返ってマイアはそう感じた。
 だが、誰かが無理矢理ふたりを和解させても同じ事の繰り返しなのだと自分自身に言い聞かせるようにアーマスに背を向けて歩き始めた。


 諒とアーマスの生活は、ほんのちょっとしたきっかけから始まった。
 群島に来たばかりで頼るもののなかった諒が、声をかけたアーマスの誘いに応じて彼の部屋に引っ越してきたとき、彼女にアーマスへの好意があったことは嘘ではない。
 ……だが、アーマスも諒も、互いに急ぎすぎていたのかも知れない。
 相手が何を自分に求めているかに気づく余裕がないほど……急ぎすぎていた。
 アーマスが諒に求めていたもの。
 諒がアーマスに求めていたもの。
 それはラブシックの見せる夢と同じように、はかない幻想に過ぎなかったのかも知れない。
 だが、諒もアーマスもそのことには気づかなかった。
 気づかずに……分かりあえているのだと誤解した。

(分かりあえてなんて……いなかったのよ、アーマス)

 水天宮の附属施設である水族館で、諒は色鮮やかな魚たちの舞う水槽を見つめて短い休憩時間をぼんやりと過ごしていた。
 だが、諒は決して魚を見るためにここを訪れていたのではなかった。
 平日の午前中−−客の数は決して多くはない。
 客の少ない水族館の静寂さが好きだった。
 ひんやりと静まり返った館内に、アクリルの向こうで泡立つ水の音が静かに響いていた。
 その静寂に身を包んでいると、何もかも忘れてしまえるような心地になる。

(私……自分の気持ちさえ分からないのに、あなたの気持ちを分かっているつもりになっていたんだわ)

 それは諒だけでなく……ラブシックに関わったすべての者が気づかなければならない答えだったのかも知れない。

 

 


ACT4-8;恋への憧れ

「このままの状態で、芳しい結果が出ると思いますか……?」

 業務メモを提出するために立ち寄ったゼロワンSTAFFのオフィスで、沫は珍しくそう中川に声をかけた。

「……行き詰まってることは確かだな」
「そう思っていて、何の手も打たないわけですか」

 その沫の言葉は質問と言うよりは、中川に新たな行動を強いるものだった。
 中川は見つめていたパソコンのモニターから顔を上げ、背後のソファに腰を降ろしている沫を振り返った。
巽が女子更衣室の天井裏から発見したサクマドロップスの缶によって、店内でラブシックの取り引きが行われている(あるいは、行われていた)確証は掴む事ができた。
 だが……誰がその取り引きを動かしているのか……という部分は相変わらず謎に包まれているのだ。
 唯一の手がかりであった橋本陽子は警察に保護されてしまった。
 ラブシックの密売が彼女の単独犯行だったのだという可能性は、確かにある。
 だが……そう決めつけて高梨稟にそれを事件の顛末として伝えるためには確固たる証拠が必要なのである。
 恐らく陽子は、香南がそうであるように禁断症状に陥るだろう。
 警察が禁断症状に陥った陽子の扱いに手間取っているうちに−−彼らの目がまぐまぐバーガーに向けられるより早くその証拠を手に入れなければならないのだ。

「何か手があるのか?」
「群島の多くの探偵が、そしてマスコミの関係者も……ラブシックについて嗅ぎ回っている人はいくらだっている。そういう人と協力関係を結んで情報を交換しあえばもっと確実にラブシックの流通ルートを掴むことができるはずだ。それを、あなただって気づいてないわけじゃないでしょう? それなのになぜ、行動を起こそうとはしないんです」
「そんなことをして何になるんだ」
「あ、あのぉ、お茶を……」

 一瞬、ふたりの間に流れた険悪な空気を察知した忍武が、すかさず茶碗を乗せた盆をにらみ合う中川と沫の間に割り込ませる。

「何に……? ラブシックの流通ルートを突き止めて、それを潰すのが目的なんじゃないんですか!」
「ウチの仕事を誤解してるんじゃないのか」

 だが沫も中川も……忍武の差し出す抹茶になど、目もくれなかった。

「社長、とりあえずお茶でも……」
「うるせえんだよ」

 そう忍武を怒鳴りつけて中川は沫に再び視線を戻した。

「いいか、ゼロワンSTAFFに仕事を依頼したのはまぐまぐバーガーの店長だ。そしてその依頼の内容は−−アルバイトの中にいると思われる麻薬の売人を探し出すことだ。流通ルートなんか、どうだっていいんだよ。ラブシックがまぐまぐバーガーの外でどんな脅威になっていようが、そんなことは俺たちの知ったことじゃない。流通ルートを突き止めて、それを潰す? ご立派な目的だな。だが安っぽい正義感で仕事をされるのは迷惑なんだよ。スパイの正義感なんてのは、クライアントの金に対してだけで十分だ」
「それで……あなたはなんとも思わないんですか。金さえ入れば、麻薬中毒になっている高校生や中学生がどうなってもいいと……」
「沫……、俺ががきどもに麻薬をやらせたわけじゃねえんだぜ。探偵やマスコミと情報を交換する−−確かに、楽な手だよな? まぐまぐバーガーの裏事情をばらしゃ連中は大喜びでがきどもから聞き出した噂話を教えてくれるろう。そして、まぐまぐバーガーは麻薬の温床として叩かれる。金を払ってくれたあのトロくせえ店長はその責任を取らされる羽目になるわけだ。……それでも、お前の正義感は痛まねえのか」
「……あなたは、何とも思わないんですか。麻薬に蝕まれて苦しんでいる女の子を見ても」
「思ってるさ。可哀想ながきどもだってな。だが、俺のやっている事は人助けじゃない。人生相談でもない。−−商売なんだよ」
「…………」

 沫は言葉を失った。
 中川の言っていることが、分からないわけではない。
 営利目的の“正義の味方”にとって、守るべき正義はクライアントの権利を守ることなのだ。例えそれが世間的な常識で言う「正義」に反していたとしても、金を受け取った以上、その金に見合うだけの仕事をしなければならない。
 だが、それを分かっていても、沫には中川の言葉に頷いて従う事はできなかった。

『ラブシックはね、恋のおまじないの薬。飲むと、好きな人の夢が見られるの』

 それは沫の露店に立ち寄ったラブシック中毒患者の少女・香南の言葉だった。
 香南はその片思いの相手であるマイヤーの説得に応じて病院へ戻り、警察によって裁かれる事なしに立ち直ろうとしていると聞いた。
 しかしそれは……極めて幸運な一例に過ぎない。
 ラブシックによって蝕まれた多くの少女たちはそうした救いの手を差し伸べられる事なく禁断症状の悪夢におびえているのだ。
 沫の露店を訪れた少女たちの中に、アクセサリーと一緒に置かれたサクマドロップスの缶に気付いた者は少なくない。そしてその少女たちのするラブシックの噂は、いつも切なくて稚ない……恋への憧れの込められたものばかりだった。

「……目を瞑って、何も知らなかった振りをしろって言うんですか」
「そうだ」
「例えそれで……橋本陽子のように追いつめられる少女が、この先何人出たとしても、それでも黙って見ていろっていうんですか」
「別に道がひとつだなんて言うつもりはない。お前のやり方が間違っているんだと言うつもりもない。−−俺のやり方が気に入らないのなら、俺から金を受け取らなければいい。金を受け取るんなら、下らねえ議論をふっかけるな。それだけのことじゃないのか」
「辞めたければ、勝手に辞めろって訳ですか」

 沫の問いかけに……中川は答えなかった。

「……沫さん」

 抹茶の茶碗を乗せた盆を持ったまま、忍武が困惑しきった表情でそう声をかけた。
 だが、沫はその忍武を振り返ろうとはしなかった。ソファの上に放り出してあった上着を取って玄関の方へ歩き出した。

「さようなら、中川さん」

 部屋を出て行くとき、沫は中川を振り返って小さくそう呟いた。
 逃げたのだと……そう思われても構わなかった。


「いいんですか、引き留めなくて……。沫さん、行っちゃいますよ」

 苛立ちをぶつけるようにキーを叩く中川の顔をのぞき込んで、忍武はそう声をかけた。

「どの面下げて、俺があいつを引き留められるってんだよ」
「沫さん、優しい人なんですよ。だから……」
「あいつがやな野郎だなんて、一言だって言ったか、俺が?」
「そうじゃなくってですね……(^^;)」
「お前もな、お茶汲みは猿に任せてさっさと仕事に行け。六時からまぐまぐにシフト入ってるんだろうが」
「はぁ……じゃあ、とりあえず、これ……」

 そう言って、忍武は抹茶の器を中川のデスクに置いた。

「飲んで下さいよ。ちょっとは気分も落ちつきますから……」
「……その性格、何とかしろよお前」

 ぶつくさ言いながら、それでも中川は抹茶の茶碗に手を伸ばした。


「社長も……おちゃらけているようで結構焦ってるんだな……」

 シフト交代でやってきた忍武から、中川と沫のいさかいを聞かされて広田は思わずそうため息混じりに呟いた。
 もともと広田がこのラブシック騒動に首を突っ込んだきっかけは香南である。
 だが……中川が沫に対して言った事にもやはり一理あるのだと思ってしまうのだ。
 以前SNSで中川がマイヤーに殴られた原因が何であるのか、それに気付かない広田ではない。

「正義の味方ってのも……難しいもんなんだよな」

 広田はそう小さく呟いた。

 

 


ACT4-9;恋と結婚と、エンゲル係数

「……で、沫さん追い出しちゃったの?」
「出てったんだよ」

 その真奈美の言葉に、中川は憮然とした表情で答えた。

「ホントは正義の味方でいたいクセに、克ちゃんてば、意地っぱりさん☆」

 真奈美に掛かっては、中川も形無しである。
 もっともそれがまんざら外れてない辺りが、中川の中川たる由縁なのだが……(^^;)。

「……言ってろ(ー_ーメ)」
「でも、大丈夫だよ☆ 克ちゃんがアコギな社長さんやってても、正義のスーパーヒロインの真奈美がついてるからねっ」
「ありがたいこって(^^;)。−−で、晩飯は?」
「え?」

 真奈美と中川の視線が、同時に壁にかけられた時計の方へ向いた。
 すでに午後八時になろうとしている。

「三宅のおじさま、遅いみたいだにゃ(^_^)」
「……おい(^^;)」
「今日は晩ご飯の材料買って行くから買い物はしなくてええぞって学校に電話があったんだけど……」

 思わず中川は言葉を失った。
 何も……学校にいる真奈美に連絡を取ってまで嫌がらせに熱意を燃やすこたあねえだろう、とそう言いたくなるほをぐっと堪える。
 そしてまた、群島でイチバン偉いのはコイツだとまで言われている三宅に……いくら相手が持ちかけてきたとは言え、夕飯の買い物を任せてしまう真奈美の性格もまた……人知を超えるものである。

 そして、ガコッガコガコガコベキッ……という派手な音を立てて玄関の鍵がこじ開けられたのは、まさにその瞬間だった。

(……インターフォン押せば入れてやるから鍵壊すなって言っただろうがあ(T_T))

 思わず床にヘタリ込みそうになりながら、中川はそれでも立ち上がり玄関へ向かった。今日という今日はキッチリ話をつけなければなるまい。

 @鍵を壊すな。
 A頼むからうちの台所に首を突っ込まないでくれ。

 だが、鼻息も荒く玄関に向かった中川の前に立っていたのは、ダリ髭のハイパー爺ぃではなかった。

「ご紹介もなく突然お邪魔して申し訳ございませんわ。実は三宅教授がよんどころない事情でこちらへ伺えなくなったと仰いますので、僭越ながら私が名代を勤めさせていただくことになりましたの……」

 そう言って、玄関先に立っていた女−−諏訪操は清楚な笑顔を中川に向けた。

「…………」
「あ、ちょっと失礼いたします」

 呆気に取られて言葉を失っている中川の横をすり抜けるようにして上がり込むと、操は玄関脇のラックに詰め込まれていたスリッパを出し(もちろんその中でもっとも清潔そうに見えるものを探し出す事も忘れなかった)食料品を詰め込んであるらしい紙袋を持ってしずしずとキッチンのテーブルへと歩み寄った。
 ……礼儀正しいが、押しは強い。

(名刺屋の陰謀か……それとも三宅の爺ぃの嫌がらせか……)

 中川は思わずそう詮索せずにはいられなかった。
 DGSの企画調整局長である諏訪操と中川とは、初対面である。だが、かつて佐々木建設の隠密として社長である中川までもが動員された社長就任問題に、バイオスフィア計画の利権を巡って介入しようともくろんだDGS極東支部の有力なブレーンのひとりとして、彼女の写真だけは見た事がある。
 ……手っとり早く言ってしまえば、この女はかつては敵だった企業の幹部なのだ。
 そんな奴の持ってくる食い物を気安く口に運べるほど、中川は度胸のある男ではない。

 だが、そう思っていたのは……中川克巳ただひとりだった。

 ものの五分と経たないうちに、キッチンでは真奈美と操とアインシュタインによる白葉透著『料理百科』と首っ引きの夕飯の支度が始まっていたのだ。

「味を覚えるためにも、素材は最高級のものを……と思ってちょっと贅沢してみたんですよ」

 操はそう事も無げに言ってにっこりと微笑んだ。
 ……まさに、悪魔の微笑である。
 フランス料理の名前が次から次へとその唇から流れ出したのだが、そんなモノが中川の耳に届いていた訳はない。
 ただ……銀行の預金残高だけが心配だった。
 結婚ってのは金がかかるもんだ、とは聞いていた。
 だがしかし……晩飯に金が掛かるとは誰も言ってはくれなかった。


 そしてその中川の心の叫びに応えるように、悪意のない(注/本人の表現のまま)企みを抱いて凄みのある笑いを浮かべるもうひとりの女がいた。
 三宅の代理としてゼロワンSTAFFを訪ねる際、諏訪操はその所在地を、かつて中川のもとを訪れた事のあるチャン・リン・シャンに確認したのだった。

「そーいえば、からかい甲斐のある相手ってマイヤーひとりじゃなかったのよね(^_^)」

 チャンはそう言ってDGSの仕事を抜け出し、軍事学部へと車を走らせた。
 つくづく、こういう時だけはどこまでもマメな女である。
 新学期が始まって提出されていたアルバイト希望の書類の中をひとつずつ確認して使えそうな人材を探す。
 そして彼女の指はあるひとりの女子学生の書類で止まった。

「築地綾子、か。この娘ならイケそうだな(^_^)」

 そして中川に……新たな災難が降りかかろうとしていた(^^;)。

 

 


ACT4-10;恋の名探偵

 大トロ娘花村桜子の母親である佐和子が夜木直樹からの電話で呼び出され、366ビルのWDCオフィスを訪れたのは十月一日の事だった。

「洋上高校で、三枝って教師が女生徒に刺された事件はご存知ですか」

 ソファに腰を降ろした佐和子に群島プロムナードに発表されたニュースのプリントアウトを突き出して、夜木は前置きもなしに話を始めた。

「ええ……ニュースで拝見いたいしましたわ。それが……何か?」
「この女生徒、ニュースじゃあ名前を伏せてA子って言ってるが、本名は橋本陽子。お宅のお嬢さん……桜子さんのクラスメイトです。ちょっと調べてみたら、桜子さんとは親しかったようだ」
「ええ……陽子さんの事は存じております。去年の夏……でしたか、桜子が実家にお友達を招いてパーティをやりました時にお呼びしたうちのひとりで−−大人しい、いいお嬢さんで……まさかあの陽子さんが、先生を刺すだなんて……」
「だが、実際に事件は怒っている。橋本陽子は教師を刺し、翌日はいつも通りに登校して、下校しようとしているところを警察に保護された。その前の日に教師を刺した事は覚えてなかったそうだ。そして……橋本陽子が教師を刺した動機は……ラブシックという、恐らく麻薬だと思われる薬物の禁断症状によるものだった」

 夜木は低くそう言って、警察のデータベースから入手した桜子の事件の現場写真をテーブルの上に置いた。
 殴り倒された被害者の軍事学部生Cこと篠田清志が、サクマドロップスの缶に埋もれて白目を剥いている写真だ。

「ちょっと前にサクマドロップスが回収−−ってニュースがあった事は?」
「ええ、覚えております……なんでも……」
「ドロップスの缶に、異物が混入されている危険がある−−その異物ってのがどうもラブシックらしい」
「じゃあ、うちの娘もその麻薬の中毒だったって言うんですの?」

 テーブルの上の写真に映されている大量のサクマドロップスの缶を見つめて、佐和子は悲愴な声を上げた。

「禁断症状で幻覚を見て殺人を起こす−−麻薬中毒患者には珍しい事件じゃあない。多分警察も直にあんたの娘の事件と橋本陽子の事件のつながりを見つけ出すだろう。で−−どうします? 洋上高校の内部で、ラブシックを紹介していたのは、恐らくあんたの娘さんだ。麻薬だって事を知っていたのかどうかは分からんが、その窓口になっていたことは間違いない」
「……その事を、警察には?」

 青ざめた表情で、佐和子はハンカチを握りしめた。

「まだ何も言ってない。もしあんたが望むんなら、警察にタレ込めるだけの資料は用意してあるが……」
「…………」

 握りしめたハンカチを、佐和子は引きちぎりそうな形相になっていた。
 自分の娘が麻薬中毒になり、ましてやその麻薬を友人たちに広めていたなどとは、考えてもみなかったのだろう。

「警察に……その事を教えれば、あの娘の……桜子の罪は軽くなるんでしょうか?」

 夜木の顔を見つめて、佐和子は力なくそう尋ねた。

「傷害に関しては、その可能性はあるだろうな。だが、そうなれば警察が麻薬の売買にまで捜査の手を広げるのは必至だ」
「そう……そうですよね。あの娘だけに都合のいいようには……行きませんよね」

 佐和子の声が震えていた。
 贅肉のついた身体を揺らして喘ぐように息を荒くし、佐和子は意を決したように立ち上がった。

「私、これから警察に行って参りますわ。これまでの調査、ありがとうございます。依頼した際にお支払いした謝礼が不足の場合は、後ほどお電話下さい」

 夜木の前では取り乱すまいと佐和子は虚勢を張ってそう答えた。

「これに……これまでの調査のことはまとめてある。警察に見せれば事情は分かるはずだ」

 オフィスを出て行こうとする佐和子に、ステープルでまとめた数枚のプリントアウトを渡して夜木は低く言った。
 ラブシックに関する依頼のひとつは……こうして終わった。


「ちょっと、ひと休みしよう」

 公園を通りがかったとき、祝詞は一緒に歩いていた宙実にそう声をかけた。

「もうギブアップですかぁ? 探偵の基本は地道な調査ですよ。ほら、小説にだってあるでしょ? 『……事件の調査はその大半が地味でつまらない聞き込み、そして役人のように書類めくる単調な作業に費やされるものだ。彼も、多くの探偵と同じように……』」

 ポケットの中に常備しているらしい探偵小説の文庫本を取り出して、宙実はもうすっかり暗記してしまっているその一文をすらすらと読み上げた。

「それは分かってるけど……こうスカばっかり引いてるとね……」
「だって、相手は女の子だもの」

 そう……宙実は当たり前の事のように言った。
 ベンチに腰を降ろした祝詞のとなりにちょこんと座る。

「噂話が大好きで、でも自分の本当の恋の話をするのは照れくさいものでしょ? でも探偵は最後には真実を見つけ出すんですよ。……少なくとも小説の中ではいつだってそうだったわ」
「……そういうもんかね」
「あれ、祝詞さん、案外女の子の気持ち分かってないんだなあ」
「じゃあ……例えば宙実ちゃん、片思いの相手がいて、どうしても振り向いて欲しいって思ってたとして……恋の麻薬に手を出したりすると思う? たかが、そんな動機で」
「麻薬だって分かってたら、しないと思うけど……。でも、例えばね、ファッション雑誌の広告の中に、痩せる薬とか、肌がきれいになるファンデーションとか、二重瞼を作る道具とか……そんなのと並んで載ってたら、ちょっと興味はあると思うなあ。買って試してみようって思うかどうかは……その時の懐具合と、広告の内容にもよると思うけど。麻薬じゃなくたって、幸せになれるペンダントとか、恋のおまじないの指輪とかそういうのだってあるでしょ? 中学くらいの時はけっこうああいうの、欲しいと思ってたもの」
「………………そういうの、信じちゃうわけ?」

 宙実のあっけらかんとした言葉に、祝詞はやや怪訝そうな面もちになっていた。
 そんな軽い気持ちで麻薬に手を出すような女の子がいるなんてことは、とてもじゃないが考えられなかった。

「多分、信じてはいないんじゃないかな。中には本気で信じてる娘もいるのかもしれないけど。ほら、雑誌に星占いとかそういうの、出てるでしょ? 別に星占いを信じてるわけじゃないし、そこに書いてある事が当たってると思うわけでもないんだけど、何となく目がいっちゃうことって……ない? それと同じなんじゃないかな。ラブシックが恋のおまじないの薬だって、結構いろんな娘たちが言ってたでしょ? こんな騒ぎになって、警察に捕まった娘もいるって話を聞いてるから誰も欲しいなんて言わないけど、あれだけ噂が広まってるってことは……みんな関心があるって事だと思わない?」
「分からないなあ、女の子の気持ちってのも……」

 祝詞はそう小さく呟いた。
 ただ探偵という職業に憧れて、アルバイト気分で始めたこの調査に浮かれているだけだと思っていた宙実が、そんな事を考えているなどとは思ってもみなかったことだ。
 片思い……その気持ちは祝詞にも分かっている積もりだった。
 だがそれが、知らず知らずのうちに想いを寄せる少女になかなか振り向いてはもらえない、自分自身の苛立ちにすり替えられていったのではないか。
 女の子が何を思い、どんなことを考えてラブシックに近付いたのかは……少しも意識していなかったように思えてくる。

「女の子だって、男の子の気持ち、分からないもん。だから何となく安心する材料が欲しいのよ。星占いでも、ペンダントでも、薬でも……」
「名推理だね」
「それって、皮肉?」

 祝詞の言葉にそう言って、宙実は照れを隠すようにちょっと唇を尖らせた。

「いや……ホントにそう思ったんだよ」

 恋の夢を見せる麻薬……。
 ラブシックの効果がどんなものなのか、そして何故少女たちがその誘惑から逃れられなくなってしまったのか。……それが祝詞には少し分かったような気がした。