ACT4-1;甘すっぱい恋の痛み

 三枝が刺されて病院へ運ばれたという噂は、翌日には学校中の噂になっていた。
 犯人が誰であるのかは生徒たちにはまだ知らされておらず、さまざまな憶測が校内に渦巻いている。
 そして陽子は、その日もいつもと同じように登校していた。

「ねえ、三枝先生が刺されたって話、聞いた?」
「聞いたわ。さっき、昇降口で一年生の娘たちが話してたの……」

 陽子の言葉に、真奈美はふっと顔を上げた。
 橋本陽子が三枝を刺した。
 唯が目撃したのだというその事件のことは中川から聞かされていた。
 だがそれなのに……陽子は今朝噂を耳にするまで事件の事さえ知らなかったのだというような口ぶりなのだ。
 その噂自体に、まるっきり興味がなさそだった。
 友人たちの話など半ば聞き流して、机の引き出しやカバンの中にしきりに目をやっている。

「捜し物?」
「うん……手帳、なくしちゃったみたい。しばらくアルバイト休んでたし、使ってなかったから、どっかいっちゃった」
「手帳ってどんなの? 捜すの手伝おうか?」
「いいの……。ここにないならきっと家だわ」

 その陽子の手帳捜しで、三枝の事件の噂は終わってしまった。
 他愛ない世間話に笑顔を見せる陽子からは、追いつめられて人を傷つけるようなかげりはまったく感じとる事ができない。

 そして、陽子の事を観察するように見つめているのは真奈美ひとりではなかった。

(ラブシックの禁断症状の中で事件を起こした事を……覚えてはいないのか)

 親しい友人たちと話している陽子の表情を教室の外から見つめて、闇沢はそう感じていた。
 闇沢に陽子の事を教えたのは三日月だった。

『決して追いつめないでくれ。彼女もまた……薬の被害者なんだ』

 三日月はそう言って、自分はもうラブシックの調査からは手を引くのだと言った。
 自分の行動を悔いているような、そんな口調だった。
 三日月もジーラも……ジーラの要請で調査に乗り出した多くの探偵たちも、事件を知れば同じ気持ちになるに違いない。彼らが追いつめたかったのは、薬の誘惑に勝てなかった陽子ではない。陽子にラブシックの見せる恋の夢の味を教え込ませた者たちの方だったはずだ。
 だが、実際には中毒になっている少女たちを追う以外に調査の方法はない。

『警察に……任せるべきだよ』

 その三日月の言葉が、闇沢の耳の奥にまだ残っている。
 だが、その三日月の残した言葉を肯定したい一方で、闇沢には陽子が警察に追われ、捕らえられるのを見たくはないという気持ちも強く残っていた。
 彼女が自分から薬をやめようと思い、自分から警察へ行くのが一番なのだ。
 三枝を刺したことで、彼女が思い罪に問われる事はないだろう。
 警察の保護を受けて薬を止めることが、何より彼女の為だと思えたのだ。

 だが、その日一日中……ずっと陽子の行動を追いながら、闇沢はなかなかそれを言い出すことができなかった。
 実際、陽子は印象の薄い生徒だった。
 一学年下であるということもあり、今回の事件で三日月からその名を聞かされるまでは、名前も知らなかった。
 ただ、図書室で二、三度見かけた事があった。
 窓際の席に座って……開いた本には目を向けようとせず、ぼんやりと窓の外を見つめている姿が、なんとなく印象的だった。いつも彼女は……寂しそうな表情をしていた。
 しかし、今日の陽子は違った。
 ほんのりと上気した頬。
 友人たちに話しかけるはずんだ声のトーン。
 恋の夢を見せる薬の効果とは……つまりこういう事なのだろうか、と感じさせるほど、陽子の表情は図書室で闇沢の見かけたそれとは違っていた。


 今日は朝から……考えているのは世莉の事ばかりだった。授業の内容も、ちっとも耳に入ってはいなかった。
 こんなに胸をときめかせる感触はこれまでに味わった事はなかった。

『明日の放課後、迎えに行くからさ……デートしてみる?』

 その世莉の言葉が、陽子の意識から一時だって消える事はなかった。
 囁くような世莉の声を思い出すだけで、胸がどきどきしてくるような気がする。
 薬の見せるあの夢の中で、幾度も繰り返してきたはずのデートだった。夢の中で、陽子は幾度も世莉と肩を並べて歩き、映画館でポップコーンを飛ばし、出来たばかりの水族館へ行き、別れ際にはいつも次のデートの約束を交わした。
 だが……こんな風にどきどきした事は一度だってなかった。
 19号埋め立て地のライブハウスの喧噪の中で、隣に座っている世莉に手を触れる事さえできなかったあの甘酸っぱい心の痛みが、陽子の意識に鮮明に蘇る。
 夢の中では……世莉の唇の感触さえ知っていたのに……隣に座っている世莉の顔を見上げる事さえ躊躇われたあの一瞬の方が、ずっと世莉の存在を間近に感じていたような気がする。

(……黒沢くん)

 授業の内容も、陽子の耳には入っていなかった。
 同じ教室の中で自分を見つめている真奈美の視線にも、陽子はまったく気付いていなかった。

(手帳が見つかったら、何色のペンで書こう)

 嬉しい事があるたびに、陽子はいつも手帳にその事を書きとめていた。マンスリースケジュールの小さな欄に、日記を綴るように細かい文字でメモを取っていたのだ。
 デートをしよう、と言った世莉の言葉を……その手帳に書き込んでおきたかった。
 それは陽子にとってこれまで書きとめたどんな事よりも大切な記憶だった。

(……あの手帳、どこにいっちゃったんだろう)


「橋本さん……」

 闇沢が陽子に声をかけたのは放課後−−昇降口を出たところでだった。

「……なんですか? ええと……」
「三年の、闇沢です」
「あの……何の御用ですか?」

 警戒するように陽子は闇沢を見つめた。
 迷いながら……だが闇沢は言わなければならないと感じていた。誰かが止めてやらなければならない。誰かが陽子に、薬をやめさせてやるための手助けをしてやらなければならないのだ。
 彼女がラブシックの中毒だと知った自分にも、それはできる。
 陽子を助けてやるなどと言うのはおこがましいのかも知れない。だが、病院へ彼女を連れていってやることならできる。彼女の心の傷をいやしてくれる者たちのいる場所へ連れ行くことなら、できるはずだ。
 そうする事で、闇沢には得るものはない。
 ただ……このまま見過ごすことができないだけだ。

 



ACT4ー2;恋の夢が醒める時

「僕はきみが飲んでいる薬の事を、知っているんだ」

闇沢は低くそう言葉を発した。
 その言葉にびくっと陽子の身体が震えた。
 一歩、じりっと後ずさって闇沢の事を見上げる。

「きみは病院へ行かなくちゃいけない。……そして薬を止めるんだ」
「あ……あなたどうしてそんな……」
「薬をやめて……そしてもう二度と、誰かを傷つけたりしちゃいけないんだ」
「……あ」

 小さく陽子の喉から声がもれた。
 一瞬、握りしめたカッターナイフの手ごたえが、手のひらに蘇ったような気がして陽子は足元をふらつかせた。
 視界が赤く染まったあの悪夢。
 ナイフを握りしめたまま世莉の身体に抱きつくようにすがりついた感触。世莉の身体にぶつかったあの衝撃、そして苦痛に身を歪めて陽子の手を掴んだ……世莉の指。

「嘘……あれは……夢だわ。だって黒沢くんは怪我なんかしてなくて……」

 そう言いかけて陽子の顔が強ばった。
 今朝、昇降口で聞いた噂話のこと……。
 三枝が刺された……確かそう言っていたはずだ。

「ラブシックがどんな薬なのかは……僕には分からない。でも、麻薬と同じように人の心を侵すってことは分かる。薬の見せる夢は魅力的なものかも知れないけど、でもそれは他人を傷つける狂気を生み出す元凶でもあるんだ。今すぐ、薬を止めなきゃいけない……これ以上……」
「嘘よ、信じないわ」

 そう言い放って陽子はきびすを返した。
 この人は嫌い。
 この人は恐い。
 この人は……私の事を責めている。

 陽子は校門へと走った。
 きっとあの向こうに世莉が待っているはずだ。
 昨日は出来なかったけれど、今日は世莉に自分の方から話しかける事が、きっとできる。
 そして夢の中でいつもそうしていたように、笑顔を彼に向ける事ができる。
 世莉に触れる事ができるのは……まだ先の事かも知れない。でも今は……もう夢を見なくても、世莉のいる方へ走って行ける。

 だが、走りきって校門を出たところで、陽子は何かにどんっと弾かれた。
 ふと顔を上げる。
 陽子の前に立っていたのは、グレイの背広を来た中年の男だった。

「橋本陽子だな?」

 男はそう言って、涙を溜めて見上げている陽子の肩に手を置いた。

「……橋本陽子だな?」

 男はもう一度、そう繰り返した。
 だが、陽子には答える事はできなかった。震える足で、立っているのがやっとだった。頭からすっと血が下がってくる。手も足も冷たくなって、背筋を這うように冷たい痛みが走った。
 逃げたかった。
 それなのに、一歩も足を踏み出す事ができない。全身が氷のように冷たくなって身動きする事ができなかった。ただ、涙のこぼれ落ちた頬の感触だけが熱い。
 男の背後に、立ちすくんでいる世莉の姿を陽子は見つけた。

(黒沢くん……)

 目の前に立ちはだかっている男を突き飛ばして、世莉に走り寄りたい。
 とがめられても構わない。
 例え、手を伸ばして世莉に触れる事ができなくてもいい。世莉に走り寄りたい。
 世莉に自分の手を掴んで逃げてもらいたいんじゃない。
 ただ、世莉の方へ走りたかった。
 それができないのなら、たった一言彼の名前を呼ぶだけでもいい。

「昨日の放課後、自分のしたことを覚えているかね?」
「……いいえ……でも……きっと私が、三枝先生を……刺して……」

 かすれる喉から、どうしてそんな言葉が出てくるのか陽子には分からなかった。
 なぜたった一言……世莉の名を呼ぶことができないのか……陽子にはどうしても分からなかった。
 男の背中の向こうから世莉は陽子を見つめていた。
 その場に立ちすくんだまま、彼もどうすればいいのか分からずにいるようだった。

「私たちと一緒に……来てくれるね?」

 陽子の肩を掴んだ男の手に、ぐっと力が込められる。
 その手を振り解くのが……陽子には恐かった。
 振り解いて世莉の方へ走っていくことができるなら、薬の見せる夢に望みを託したりはしなかっただろう。

(陽子ちゃん……)

 車に乗せられるときも、陽子の目はじっと世莉の方を見つめていた。
 だが、陽子が世莉に走り寄ることができなかったように、世莉もまた、陽子の方へ足を踏み出す事はできなかった。

 

 


ACT4-3;恋に追われて……

 ぼんやりと明るくなった視界に病院の白い天井が映っている。
 午前中の回診が終わった後、眠ってしまったようだった。
 だがその浅い睡眠のおかげで、身体にわだかまっていた倦怠感はほとんど消えている。
 夢を見ていたんだ、と三枝は思い出した。
 漂うような浅い眠りの中で、彼は自分を刺した女生徒−−橋本陽子の夢を見ていた。

(泣いていたんだろうか……)

 はっきりとは覚えていなかった。
 彼女が泣いていたように思えるのは、昨日……カッターナイフを握りしめていた陽子の涙のせいなのかも知れない。

(……なぜ、こんな馬鹿な真似を……)

 三枝もラブシックの噂は聞いていた。
 誰もいない教室で、陽子が何をしようとしていたのかは考えなくても分かる。
 だが、彼女は薬を飲もうとしたその現場を見られたから−−だから三枝を刺したのではなかった。

『あたしのこと、嘘付きなんて言わないで……!』

 あのときの陽子のせっぱ詰まった声音には、薬のことを隠そうとする余裕は感じられなかった。

『あたし、嘘なんかつかなかったよね、黒沢くん』

 陽子には、三枝の存在など目に入ってはいなかったのだ。
 彼女の前に立っていたのは三枝ではなく……もっと別のものだった。


「……まだ起きるのは無理だわ」

 病室に入ってきたスジャータが、ベッドの上で身体を起こそうとしている三枝にそう声をかけた。

「橋本は……」

 そう小さく言葉を漏らして三枝はスジャータの顔を見つめた。
 だが、スジャータは顔を伏せて、小さく首を振っただけだった。三枝が何を言いたいのか……分かっているつもりだった。

「警察が彼女を保護したって……さっき電話があったわ」

 電話はジーラからだった。
 三日月が調査から降りた事、彼が警察に届け、橋本陽子の身柄を保護してくれるよう手配したのだと言う事……そして今日、下校しようとしていた陽子は校門の前で警察の手によって保護された。

「そうか……」

 三枝はスジャータの顔を見つめて小さく息を吐いた。
 これが陽子にとっていい事なのか悪い事なのか……三枝には判断できなかった。
 陽子に刺されたとき、三枝の意識に最初に浮かんだのは、

『倒れてはいけない』

 ……という自分自身への言葉だった。
 ここで自分が倒れれば……警察沙汰になれば陽子はさらに追い詰められて行くのだ。だから、倒れては行けない。
 半ば意識を失い、駆け寄ってきた三日月に身体を支えられて、教室を駆け出していく陽子の後ろ姿を見送ったときでさえ、三枝は陽子が警察に追われる事を恐れていた。
 それが正しい事だと思ったからではない。
 警察沙汰を避けて、陽子の罪を胸のうちに隠す事で、彼女を助けられると考えたからでもない。
 −−ただ、陽子が追われるのを見たくはなかっただけだ。

「自分のした事を覚えてはいないけど……きっと三枝先生を刺したのは私だろうって、そう言ってたんですって。抵抗せずに、大人しく保護されたそうよ」

 スジャータのその言葉が、せめてもの救いだった。


「ちわ−−−」

 面会謝絶の札がはずされるのを待ちかねていたと言うように、三枝の病室に花屋が訪ねてきたのはその日の夕方のことだった。

「あ……あの?」

 スジャータと三枝の静かな時間は、その花屋の出現でぶち壊されたと言っても過言ではない。
 そして、パチンコ屋の新装開店かと思われるような巨大な花輪が次々に病室に運び込まれてくる。さらにその花屋たちと一緒に、チャイナドレス姿の一人の女が病室に入ってきていた。

「あ、お邪魔しちゃった? ゴメンゴメン、だいじょーぶ、すぐ終わるから」

 ……チャンである(^^;)。
 何がどう大丈夫なのかは謎であるが、病室の壁一面を花輪で飾りたて、きっぱりと病人向きではなさそうなトロピカルフルーツを満載したバスケットをベッドの脇に置いき……チャン・リン・シャンはすごみのある笑いを二人に向けた。いや……予定では「微笑」だったらしいが……。

「………………」

 三枝とスジャータは、そのチャンの行動を見つめて言葉を失った。
 ……いや、ひょっとすると「コイツには何を言ってもムダだ(^^;)」と思っていたのかもしれないが、その辺は不明である。

「じゃあっ、お大事にね(^_^)。邪魔者は消えるから、あとは若い人同士でごゆっくり☆」

 どっかのやり手ババアのような台詞を残して、チャンは現れたときと同じように花屋を引き連れてあわただしく帰って行った。

「…………相変わらず、訳の分からん女だ……」

 昨日の今日で、チャンがどうやって三枝の入院を知ったのかは謎である。
 だが、そんな謎を解きたいとは思わなかった。……知ってしまったら、とてつもない後悔をしそうな気がする。


「いい事した後は気分もいいわー(^_^)」

 病室を出て、チャンはそうひとりごちた。
 嫌がらせをした後の間違いでしょー、と言いたい気持ちも花屋たちにはあったが、金払いのいい客を足下にするほど世渡りの下手な奴もいなかったため、チャンの言葉は訂正されないままに終わってしまった。

「……あれ?」

 花屋たちにチップを弾んでやって駐車場へ戻ろうとしたとき、チャンは病院の玄関へ入って行こうとする一人の男の姿を見つけた。
 人混みの中を歩いていても肩から上がはみ出しているその金髪角刈り頭が、面会時間も残り少なくなって人の少ない場所で目につかないわけはない。

(スキャンダルの匂いがするわ(^_^))

 その考えが頭をかすめた瞬間、チャンは車を離れ、マイヤーの尾行を始めていた。

 

 


ACT4-4;恋する群島の探偵事情

 夜中の電話にドキッとさせられる事は、実際結構多かったりする。
 それが、眠い目をこすりながらぬくぬくしたベッドから起き上がり、受話器を掴んで、

「モシモシ?」

 と言ったところでぷっつりと切れたりすると、ドキッとした上にムカッとすること請け合いである。

(どーして、どーしてあとせめて一回、呼び出し音を聞いてから切ろうって思えないんだよおおおお、せっかく寝入ったところを起こされた苦痛が分からないのかっ!)

 電話の向こうの相手にそれを分かれったって無理な話なのだが、こういう時、人間はどこまでも自分勝手な感情に身を任せるものなのだ。
 だが、それが一晩のうちに……しかも三十分、一時間と時間を置いて掛かってくれば、三回目くらいには、

「嫌がらせだろう、おいっ!」

 と、大抵の者は気付く。
 よほど鈍感な者でも、四回目くらいになれば、

「どーしてオレが寝入ったところを見計らって掛けて来るんだろう……」

 ……くらいの疑問は抱きそうなものである。
 だが、その日、通算五回目になる「無言電話」に出たときも、羽山巧の口調は眠気を必死に堪えて愛想のいい対応を心がけたものだった。ごそごそと布団から這い出してラックの上の眼鏡を探してヴィジホンのスイッチを入れる。その間に、呼び出し音はすでに十二回目を鳴らしていた。

「…………」

 モニターのスイッチを切った音声のみの通話から、その無言の気配は感じられる。
 だが、そもそも羽山はヴィジホンしか知らずに育った世代である。音声のみの通話から、しかもそれが「無言」であったときの相手の感情を推し量るような概念はまったく培われていない。

「モシモシ?」

 半ば寝ぼけていたが、その羽山の声は無言電話の嫌がらせを受けているとは思えないほど良心的なものだった。

「羽山……くん」

 ようやく受話器の向こうで男がそうしゃべった。
 だが、それが誰の声なのか……そのたった一言から気付く羽山ではない。

「どちらさんですか?」

 羽山はこれでも探偵見習いである。
 決して勘が鋭い訳でもなく、方向音痴の上に人の顔を覚えるのが苦手という……端から見れば致命的な欠点をいくつも持ちながら−−ともかく探偵見習いという肩書きを持った高校生なのである。

「ワシだ。寺島だ」
「……所長?」

 この晩、羽山を散々に悩ませた(ちっとも悩んでいなかったと言うハナシもある)無言電話の主こそ、羽山のアルバイト先である寺島探偵事務所の所長、寺島富雄だったのである。

「すまん……羽山くん」
「いえ、いいんです」
「……いいのかね?」

 あっけに取られたような寺島の声が、ハンドセットのスピーカーから聞こえてくる。

「探偵にとって時間は問題じゃありませんよ。見習いとは言え、探偵である以上、夜中に電話で叩き起こされたくらいでヘソを曲げたりは……」
「いや……(^^;)、ち……違うんだ」
「違いませんよ。事件はいつ、どこで起こるか分からない。仕事とあらば即参上、これが僕の信条なんです。……で、仕事はなんです? ラブシックについて何か新しい情報でも……?」

 羽山は……これでも精いっぱい真面目なのである。

「すまない、羽山くん。もう仕事はないんだ」
「……はい(・_・)?」
「寺島探偵事務所は……潰れたんだよ」

 その時の寺島の声は、困惑しきったものだった。

「……なんで?」

 その羽山の疑問に応えるように、寺島は深いため息をひとつ、受話器のすぐそばでもらした。マイクの表面を撫でた息がゴソソッと耳障りな音に変化する。

「聞かんでくれ……この苦悩を打ち明ける事など……私には…………」
「じゃあ……聞きません」
「え?」
「は?」
「いやその……せめてもうちょっと押してくれたっていいんじゃないかね……」
「あ、そうですか?」

 繰り返すが……羽山は別に寺島を虐めて楽しんでいるわけではない。
 これで、精いっぱい真面目なのである(^^;)。

 寺島は涙ながらに事務所を畳まねばならない理由を話し始めた。

「理由を聞かせて下さい」

 ……という羽山の言葉を待っていたのでは、明日の晩になっても理由を話す事はできないと考えたのだろう。
 賢明な判断である。
 賢明な判断だが、話したいのなら最初からもったいぶらずに話せばいいのである。

 寺島探偵事務所は、業界では決して大手ではない。
 毎月主に不倫と家出人捜索などで食いつないでいる小規模な事務所だ。そこへ持ってきて……今回のラブシック騒動である。

 ラブシックを追わなきゃ探偵じゃない。

 麻薬という熱病にうかされていたのは、高校生や中学生の少女ばかりではない。群島に潜伏する多くの探偵たちも……同じようにひとときの夢に浮かされていたのである。
 そしてその煽りを食ったのは寺島探偵事務所のような−−小規模な事務所だった。
 小規模な事務所には、少人数の調査員しかいない。
 その少人数の調査員がラブシックの調査に駆り出されれば……つまりそれまで事務所を支えてきた「くだらない仕事」による収入はなくなってしまうのだ。そんな事態が一か月も続けば、事務所の家賃と各種維持費、調査員への給料と必要経費だけで金は底をついてしまう。
 すでに傾きかけていた事務所の存亡をラブシックに賭けた寺島の思惑は見事にはずれ、この電話を羽山にかけるに至った訳である。

「……という訳で、スマン。探さないでくれ」

 そう、ぽつりと一言呟いたのを最後に、羽山の返事を聞かずに寺島は通話を切った。

「これはつまり……」

 いくら羽山が鈍感でも、ここまでやられればさすがに気づく。

「夜逃げだ……」


 ラブシック騒動は、こういう場所にも影響を及ぼし始めていた。
 だが、群島に300人いるという噂の陰で『実は三万人らしい』という説も新たにささやかれていると言う探偵たちのすべてが貧乏クジを引いていた訳ではない。
 この一か月の間、群島にはいつものようにさまざまな事件が起きていた。浮気、不倫、家出、身元調査に、行方不明の猫の捜索まで……探偵たちのもとに持ち込まれる事件の元だって、ちゃんと起こっていたのである。
 そしてラブシック騒動にてんやわんやの探偵事務所に門前払いを食った依頼人たちは、日頃閑古鳥の鳴いている事務所への依頼を余儀なくされた。

 例えば、

「あたしの依頼、受けてくれたんじゃなかったのかい? 何か手がかりは……」

 というジーラ・ナサティーンからの電話に、公営住宅の三畳間でカップラーメンをすすりながら書類をめくりつつ、

「……そんな時間、とてもじゃないが取れないよ」

 と、答えた探偵だっている。

 ヴィジホンのモニターの向こうで、ジーラが何かを言っているようでもあったが、とりあえずそれに構っている暇はなかった。今日中に、できれば三件分くらいの浮気の証拠をつかまなければならないんじゃないかと思われるほどの……多忙ぶりなのだ。

「群島中の浮気調査が……全部俺のところにきたとでもいうのか……?」

 カップラーメンのスープを最後の一滴まですすって、富吉はそう呟いた。

 

 


ACT4-5;恋する群島の転職事情

「………………と、言うわけで雇ってもらえますか」
「あ、うち今人手足りてるんだわ」

 きちっと膝を揃えて正座している羽山を前に、中川は事も無げにそう言い放った。

「…………」

 その中川を見つめて、羽山は思わず言葉を失った。
 履歴書を興味津々に眺め、探偵見習いという職歴に興味を示し、ゼロワンSTAFFに応募するまでのいきさつを事細かに聞き、ラブシック騒動で事務所の潰れたせっぱ詰まった身の上話に腹を抱えて笑っておいて……、

「人手が足りてる」

 はあんまりである。
 それなら羽山が訪ねてきた時点でそう言えばいいのである。
 言わないでそこまで話を聞いたんなら、せめて(それが嘘でも)、

「きみは高校生だから、残念だが今回の募集にはちょっと……」

 ……くらいの事を言ってやるのが大人の思いやりってものだ。だがまあ、相手が可愛い女の子でない限り、中川に“思いやり”なんてものを期待できるわけはない。

「あのー」
「まあ、気にせず茶菓子食って帰れや。茶のお代わりが欲しいなら、あの猿に言えば入れてくれっから。さぁーてと、仕事仕事」

 要するに……羽山の身の上話も、息抜きに過ぎなかった訳だ。つくづく……外道な男である。

「……ハァー…………ポソポソ」

 それでもパソコンに向かった中川の背中を見つめて素直に利休饅頭を食っている羽山も、なかなかいい性格をしているのだが……。


「ただ今帰りましたぁ。あれ、お客はんどすか?」

 その端から見れば気まずい沈黙(なのだが、当の二人はちっとも気まずそうではない)に支配されたオフィスに入ってきたのは愛と勇気と友情のまぐまぐ戦士(注/本人の表現のまま)白葉衿霞だった。
 ちなみに、羽山は利休饅頭一個ですでに三杯の抹茶をお代わりしている。
 珍しく抹茶を飲んでくれる相手が嬉しいのか、アインシュタインが次々にそのお代わりに応えているのである。さすが……頭は良くても猿である。

「アインシュタインの茶飲み友達がちょっとな……」

 玄関を開けてやりながら衿霞にそう言って、中川は奥の部屋に戻った。

(採用するって言うまで粘る気じゃねーだろうなあ)

 そう思うと、意地でも“採用する”と言ってやりたくないのが人情ってもんである。

「茶飲み友達どすか。お猿さんにも風流な友達がいはる……あ−−−−−−っ!」

 羽山と目が合った瞬間、衿霞はその顔を指さして思わず声を上げた。
 抹茶の器を口へ運びながら羽山もまた衿霞を見上げる。
 ここで羽山も衿霞を指さし、

「あ−−−−−っ!」

 と声を上げるのが“お約束”ってもんだろうが、羽山の反応は、

「はい?」

 ……だった。

「あんたはん、ついにここを突き止めはったんやね。まさかうちのこと尾行しはったんと違いますやろな」

 まぐまぐバーガーの裏口から潜入しようとしていた探偵見習いの羽山の顔を、そう簡単に忘れる衿霞ではない。

「お会いしたこと、ありましたっけ?」
「……はい?」

 今度は、衿霞の目が点になった。
 シラを切っているのか、それとも……。

「いやあ、ぼく人の顔を覚えるのどーも苦手で……。女の人は着てる服でずいぶん雰囲気変わっちゃうし……」

 いや、単なる大ボケである。

「ちょいちょい」

 中川はそう言って衿霞に手招きした。狭いオフィスの片隅に衿霞を呼んで事情を聞く。

「……実はこの間の業務メモに書いた……ゴニョゴニョゴニョ……なんです。あの人が裏口から……ゴニョゴニョ……で、ゴニョゴニョゴニョ……」
「ふむふむ」

 衿霞の話を聞きながら、中川は吹き出したいのを必死にこらえた。
 くるりと羽山の方へ向き直るととってつけたような愛想笑いを浮かべる。

「えーと、羽山くんだっけ? 採用してやるよ(^_^)。ただし、待遇は見習い。給料は本採用まで三割引きな」
「ホントですかっ!」

 そう叫んで、思わず羽山は抹茶の入った茶碗を取り落とした。

「……とりあえず、最初の仕事は掃除な(^^;)」
「す、すみません。つい嬉しくて……雑巾、キッチンの方ですか?」

 照れ笑いを浮かべ、ぽりぽりと頭を掻きながら羽山はキッチンの方へ行った。
 その後ろ姿を見送り、それから中川を振り返って衿霞は怪訝そうな表情になった。

「本気どすか? 社長はん」
「あんなおもしれーヤツ、他に渡すのもったいないだろ」
「他に引き取り手になろういわはるお人、いないんと違いますか……」
「広田に部下だって渡してやろうか……それとも加賀美と組ませてボケと大ボケってのもいいかもしんねえな」
「…………遊んでますやろ、社長はん」
「人生楽しまな、損やろ(^_^)」

 からかうように衿霞の口真似をして、中川は暢気そうに笑った。

「そやかて……マジにならんと店長はんからせしめた金がヤバイ言うてはったんと違いますの?」
「…………ギクッ」

 一瞬、中川の表情が凍った。

「……忘れてはったんどすね……」

 所詮、どうマジになったところで、中川は中川なのである……(^^;)。