三枝が刺されて病院へ運ばれたという噂は、翌日には学校中の噂になっていた。
犯人が誰であるのかは生徒たちにはまだ知らされておらず、さまざまな憶測が校内に渦巻いている。
そして陽子は、その日もいつもと同じように登校していた。
「ねえ、三枝先生が刺されたって話、聞いた?」
「聞いたわ。さっき、昇降口で一年生の娘たちが話してたの……」
陽子の言葉に、真奈美はふっと顔を上げた。
橋本陽子が三枝を刺した。
唯が目撃したのだというその事件のことは中川から聞かされていた。
だがそれなのに……陽子は今朝噂を耳にするまで事件の事さえ知らなかったのだというような口ぶりなのだ。
その噂自体に、まるっきり興味がなさそだった。
友人たちの話など半ば聞き流して、机の引き出しやカバンの中にしきりに目をやっている。
「捜し物?」
「うん……手帳、なくしちゃったみたい。しばらくアルバイト休んでたし、使ってなかったから、どっかいっちゃった」
「手帳ってどんなの? 捜すの手伝おうか?」
「いいの……。ここにないならきっと家だわ」
その陽子の手帳捜しで、三枝の事件の噂は終わってしまった。
他愛ない世間話に笑顔を見せる陽子からは、追いつめられて人を傷つけるようなかげりはまったく感じとる事ができない。
そして、陽子の事を観察するように見つめているのは真奈美ひとりではなかった。
(ラブシックの禁断症状の中で事件を起こした事を……覚えてはいないのか)
親しい友人たちと話している陽子の表情を教室の外から見つめて、闇沢はそう感じていた。
闇沢に陽子の事を教えたのは三日月だった。
『決して追いつめないでくれ。彼女もまた……薬の被害者なんだ』
三日月はそう言って、自分はもうラブシックの調査からは手を引くのだと言った。
自分の行動を悔いているような、そんな口調だった。
三日月もジーラも……ジーラの要請で調査に乗り出した多くの探偵たちも、事件を知れば同じ気持ちになるに違いない。彼らが追いつめたかったのは、薬の誘惑に勝てなかった陽子ではない。陽子にラブシックの見せる恋の夢の味を教え込ませた者たちの方だったはずだ。
だが、実際には中毒になっている少女たちを追う以外に調査の方法はない。
『警察に……任せるべきだよ』
その三日月の言葉が、闇沢の耳の奥にまだ残っている。
だが、その三日月の残した言葉を肯定したい一方で、闇沢には陽子が警察に追われ、捕らえられるのを見たくはないという気持ちも強く残っていた。
彼女が自分から薬をやめようと思い、自分から警察へ行くのが一番なのだ。
三枝を刺したことで、彼女が思い罪に問われる事はないだろう。
警察の保護を受けて薬を止めることが、何より彼女の為だと思えたのだ。
だが、その日一日中……ずっと陽子の行動を追いながら、闇沢はなかなかそれを言い出すことができなかった。
実際、陽子は印象の薄い生徒だった。
一学年下であるということもあり、今回の事件で三日月からその名を聞かされるまでは、名前も知らなかった。
ただ、図書室で二、三度見かけた事があった。
窓際の席に座って……開いた本には目を向けようとせず、ぼんやりと窓の外を見つめている姿が、なんとなく印象的だった。いつも彼女は……寂しそうな表情をしていた。
しかし、今日の陽子は違った。
ほんのりと上気した頬。
友人たちに話しかけるはずんだ声のトーン。
恋の夢を見せる薬の効果とは……つまりこういう事なのだろうか、と感じさせるほど、陽子の表情は図書室で闇沢の見かけたそれとは違っていた。
今日は朝から……考えているのは世莉の事ばかりだった。授業の内容も、ちっとも耳に入ってはいなかった。
こんなに胸をときめかせる感触はこれまでに味わった事はなかった。
『明日の放課後、迎えに行くからさ……デートしてみる?』
その世莉の言葉が、陽子の意識から一時だって消える事はなかった。
囁くような世莉の声を思い出すだけで、胸がどきどきしてくるような気がする。
薬の見せるあの夢の中で、幾度も繰り返してきたはずのデートだった。夢の中で、陽子は幾度も世莉と肩を並べて歩き、映画館でポップコーンを飛ばし、出来たばかりの水族館へ行き、別れ際にはいつも次のデートの約束を交わした。
だが……こんな風にどきどきした事は一度だってなかった。
19号埋め立て地のライブハウスの喧噪の中で、隣に座っている世莉に手を触れる事さえできなかったあの甘酸っぱい心の痛みが、陽子の意識に鮮明に蘇る。
夢の中では……世莉の唇の感触さえ知っていたのに……隣に座っている世莉の顔を見上げる事さえ躊躇われたあの一瞬の方が、ずっと世莉の存在を間近に感じていたような気がする。
(……黒沢くん)
授業の内容も、陽子の耳には入っていなかった。
同じ教室の中で自分を見つめている真奈美の視線にも、陽子はまったく気付いていなかった。
(手帳が見つかったら、何色のペンで書こう)
嬉しい事があるたびに、陽子はいつも手帳にその事を書きとめていた。マンスリースケジュールの小さな欄に、日記を綴るように細かい文字でメモを取っていたのだ。
デートをしよう、と言った世莉の言葉を……その手帳に書き込んでおきたかった。
それは陽子にとってこれまで書きとめたどんな事よりも大切な記憶だった。
(……あの手帳、どこにいっちゃったんだろう)
「橋本さん……」
闇沢が陽子に声をかけたのは放課後−−昇降口を出たところでだった。
「……なんですか? ええと……」
「三年の、闇沢です」
「あの……何の御用ですか?」
警戒するように陽子は闇沢を見つめた。
迷いながら……だが闇沢は言わなければならないと感じていた。誰かが止めてやらなければならない。誰かが陽子に、薬をやめさせてやるための手助けをしてやらなければならないのだ。
彼女がラブシックの中毒だと知った自分にも、それはできる。
陽子を助けてやるなどと言うのはおこがましいのかも知れない。だが、病院へ彼女を連れていってやることならできる。彼女の心の傷をいやしてくれる者たちのいる場所へ連れ行くことなら、できるはずだ。
そうする事で、闇沢には得るものはない。
ただ……このまま見過ごすことができないだけだ。
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