『群島中央病院に入院中の森沢香南をマイヤー助教授が見舞いに行った』
その噂の発端は、もちろんチャン・リン・シャンである。
そして軍事学部の噂はいつも、
「ちょいと、そこなきょんの字」
……という彼女の一声からねじ曲がり始める。
そしてチャンが病院でマイヤーを目撃してからほんの一週間ほどで、
『あのコアラ牛が自殺未遂で入院。原因はマイヤー助教授と高梨稟(まぐまぐバーガー店長)の結婚話らしい』
『マイヤー助教授と高梨稟はすでに入籍を済ませているらしい』
『森沢香南はラブシックを大量に服用し、自殺を計った』
チャンの悪気のない(注/本人談。信憑性は薄い)一言は、すでに軍事学部で広まっていた噂としっちゃかめっちゃかにミックスされ、噂を流した当人のチャンでさえまったく予期していなかった方向へと着実に発展しつつあった。
折しも、群島中がパニックに陥ったベビークライシス−−数知れぬ赤ん坊が捨て子として群島の住人たちにつぎつぎに託されるという怪事件−−のまっただ中である。
その育児戦争の惨禍は、軍事学部にも例外なく押し寄せ、話題はすべて赤ん坊たちにかっさらわれてしまうのではないか、とチャンでさえ危惧を抱いていた。しかし、実際には半ば育児ノイローゼとなった生徒たちが講義と育児当番のシフトをこなしていく多忙な毎日の中で、“助教授の噂”は心のオアシスとも言える「他人の不幸」であったのだ。
そして、噂は……瞬く間に広まっていったのである。
「マイヤー助教授!!」
赤ん坊の泣き声がそこかしこで響き渡る校舎の一角で、マイヤーを呼び止めたのは久慈だった。
「ラブシックの流通ルートを探るために、立ち上がるべきなんじゃないですか。群島にはびこる麻薬を、あなたが野放しにして平気な顔をしているとは思えない。戦うんなら、協力させて下さい」
「俺は調査からは手を引いた……そう言ったはずだ」
「あなたを慕っている少女が、麻薬に侵されて苦しんでいる……それでも何も感じないんですか」
久慈の口調は荒っぽいものだった。
平素なら、マイヤーを相手にこんな伝法な口を聞く者はいない。少なくとも軍事学部の学生には……。
だが、久慈はマイヤーを真正面から見つめ、一歩も退こうとはしなかった。
それだけ……彼は真剣なのだ。
久慈はアメリカからの私費留学生であり、過去に軍歴を持つ男である。同じ軍事学部の生徒とは言え、高校を卒業してそのまま紛れ込んできた(例えばきょんのような)新兵とは訳が違う。
「自分は、かつて南米の麻薬組織壊滅作戦に参加した事があります。その時に、組織に利用され、麻薬欲しさに情報を売り渡した隊員も目にしました。自分の……親友だった男です。あなただって麻薬の脅威を知らないはずはない。……麻薬は確実に、人間の身体も精神も蝕んで行くんだ。あなたはそれでも手をこまねいているだけなのか? 自分を慕う少女が……その麻薬に苦しんでいるのに、立ち上がろうとは思わないんですか!」
香南がラブシックの中毒になっている事を……久慈がどこから知ったのかは謎である。
できれば、軍事学部に溢れ返っている噂がその情報源でない事を祈りたい(^^;)。
「俺は同じ事を何度も繰り返す気はない。もう一度だけ言う。俺は調査からは手を引いた。−−もう二度とその話を俺の前でするな」
マイヤーの口調もまた、一歩も譲らない強いものだった。
ラブシックの調査を、探偵やスパイと称する連中がやっていることに、口を挟む積もりはマイヤーにはなかった。やりたい奴はやればいい。それで彼らが何を得るのかは分からないが、他人のする事にとやかく言いたくはない。
だが、香南が彼らの正義感の犠牲になることだけは絶対に許せなかった。
マイヤーは、一介の兵士に過ぎない自分の分という奴を知っている。すべての者を救う事などできはしない。自分が音頭を取って麻薬を根絶することなど不可能なのだ。
例え氷山の一角を崩す事ができたとしても、何の解決にもなりはしない。
麻薬の歴史は決して浅いものではない。
そしてその害はすでに幾度となく語られてきたのである。
麻薬中毒が社会問題となり、その駆逐のために国家規模の対策が取られた事も少なくはない。
だがそれでもなお……麻薬は存在し続けている。
そして心弱い犠牲者を侵し続けているのだ。
確かに久慈の言うように戦う事をマイヤーだとて考えなかった訳ではない。しかしそれで氷山の一角を崩す事ができたとしても……裁かれるのはその心弱い犠牲者ばかりなのだ。
マイヤーがしなければならないのは、そんなことではなかった。
「俺は……あんたを英雄視しすぎていたようだ」
険しい表情で自分を見つめるマイヤーを見据えて、久慈は吐き捨てるように言った。
久慈の目には明かな怒りが込められていた。
「苦しんでいる少女ひとり救う事ができずに、戦士といえるのか? −−あんたは、最低の男だ」
そう言って、久慈は身を翻した。
(俺が香南にしてやれる事は……麻薬の謎を暴いてやる事じゃない)
その場に立ちすくんだままマイヤーは身体の中を激流の様に逆巻く怒りを堪えていた。
(あの娘の待っている言葉を、見つけてやる事だ)
『誰だって……自分の好きな人からの言葉を待っているんですよね。私がアーマスの言葉を待っていたように……香南がマイヤーさんの言葉を待っていたように……』
そう言っていた諒の声が、今もマイヤーの意識に鮮明だった。
「きょんの字、首尾はどう(^_^)?」
次の講義の準備をするため、校舎の出口へ向かったマイヤーは、開けっ放しになっていた会議室の扉から漏れるチャンの声に足を止めた。
「えーと、とりあえず“マイヤー助教授の赤ん坊は実は捨て子ではなく、実子らしい”ってトコまでいってるっす」
「ふーん、割とイイ線いってるじゃない。この勢いなら明日の午後には母親が判明するかな? マイヤーは知ってるのかなあ、まだ知らないなら、噂を耳にしたときの顔が見てみたいわ(^_^)」
チャンは……ご機嫌そうである。
「まあ、こーゆー事なら俺に任せて下さいよ(^_^)」
そして、きょんも上機嫌である。
だがマイヤーは……その二人の嬉しそうな声を聞いて怒りに身を震わせていた。
ラブシックの噂、捨て子の噂と並んで軍事学部を席巻する口にするのもはばかられる極めて馬鹿馬鹿しい不愉快な噂(注/マイヤー助教授の表現を引用)が、どうしてしつこく囁かれ続けているのか……その元凶の全てをふたりの会話から悟ったのだ。
「取り柄のないどーしよーもない生徒かと思ったけど、ホンっトこーゆー時「だけ」は役に立つわね。レポートはとりあえず受理する。ご苦労だった、きょん一等兵」
「おありがとうごぜえますだ、お代官様」
チャンもきょんも……ノリノリである。
「うむうむ。本日よりは教官命令によりきょん・リン・シャンと名乗るがよろしい」
「分かりましたっ! 単位宜しくお願いしますっ!」
「……助教授命令で却下だ(ー_ーメ)」
悪ノリがいささか度を越していたため、きょんはもちろんチャンも……その怒号が低く響きわたるまでマイヤーの存在には気付かなかった。
「さぁーてと、おシゴトおシゴト。ああ、忙しくてやんなっちゃわよねえ」
そしてこういう時の、チャンの逃げ足は早い。
「ほんっと、年度頭って事務処理の仕事が溜まって大変だわ」
そう言ってチャンは机の上にあった書類をぱたぱたとしまい込み、作り笑いを浮かべてマイヤーの脇をするりとすり抜けて行ってしまう。
「そ……そりゃあねえっす(T_T)」
「よっぽど実弾射撃の的になりたいらしいな、<u>篠田清志</u>」
いつもなら「きょん」の一言で済ませるところをわざわざフルネームで呼ばれるその恐怖は……すでに去年一年間だけで骨身に染みるほど味わった。
マイヤーとふたりっきりで部屋に取り残されたきょんには……もちろんチャンのような脱出のキメ台詞はない。
待っているのは……地獄のハイポート走である。
それでも、実弾射撃の的にならずに済んでいるのは、マイヤーの鋼鉄の自制心のおかげだった。
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