Act2-1;コドモの恋VS大人の気持ち


 病室のクーラーはずっと切ったままになっている。明け放った窓から時折、さわっと涼しい風が入ってくるのを身に受けながら……マイヤーは長い時間荒川運河を見降ろす窓辺に立ちずさんでいた。
 その背後で、香南が眠っていた。
 マイヤーが香南をこの群島中央病院に入院させたのは、三日前のことだった。
 公営住宅の三畳間で薬物による幻覚症状に陥っている香南を見つけた時には、マイヤーは自分自身の手で香南を立ち直らせる積もりでいた。
 だが、軍事学部助教授としてのマイヤーの多忙な職務は、病人につきっきりで世話をする時間を与えてくれはしなかった。禁断症状のためか手のつけられない欝状態にある香南に食事をさせる事もままならず、ほんのわずか目を離した隙にさえ逃げ出そうとするのをこれ以上放置してはおけず……やむなく知人である群島中央病院の医師、津久井加奈子に預ける事を決めたのだ。
 逃げ出せば、香南はまた薬物を手に入れるだろう。
 そして……泥沼の繰り返しが待っているのだ。それがどんな種類のものであれ、麻薬にむしばまれた者の行動は変わりはしない。
 津久井は表向きは貧血の検査と称して内科病棟に個室を確保してくれた。入院の真相を知っているのはマイヤーと津久井の他は、病棟の主任婦長と、香南の担当となった中年の看護婦だけだった。

「……失礼」

 小さく扉をノックする音がして、病室に津久井が入ってきた。

「病人の具合は?」
「……ああ、さっきまで泣いていたんだが……ようやく眠ったようだ」
「彼女がそういう反応を見せるのは、きみが来たときだけだな」

 そう、ため息をもらすように津久井は言い、眠っている香南の顔をのぞき込んだ。
 この数日、食事はまったく受け付けていなかった。栄養剤の投与と流動食の注入を行ってはいるが、衰弱は免れない。男の子のように活発だった香南が……今は見る影もなくやせ細っている。

「……こんな事を続けるのは、感心しないな」

 津久井はマイヤーを振り返らず、香南の脈や体温を計りながら呟いた。
 香南を預かったときから……それはマイヤーの顔を見るたびに口にしている事だった。

 薬物中毒の患者を扱う事は、津久井にとっては専門外のことだった。本来ならば警察に届け、然るべき施設で治療を行うのが筋である。
 だが、マイヤーはどうしても津久井のその言葉に従おうとはしなかった。

「警察は信用できん」

 それが……津久井の言葉に返されたマイヤーの返事だった。
 マイヤーはもともと警察という存在を好意的には感じていなかった。かつて関わった事件で、金や権力の言いなりになる警察の姿を目撃したことが、その不信感に拍車をかけている。
 そして何より――香南の将来を考えたときに、警察を介入させることが躊躇らわれた。警察の手に事件として渡れば、香南は薬物中毒者としてのレッテルを、その前歴に貼りつけられることとなる。
 確かに過去にそうしたレッテルを貼られながら立ち直った者もいるだろう。だがマイヤーの脳裏に浮かんだのは、事務的な手続きの連続に無慈悲に裁かれ……社会的な信用をすべて失墜させられて希望を失った者たちの、淀んだ無気力な瞳だった。
 その瞳が……今もマイヤーの中で禁断症状に喘ぐ香南の表情に重なっている。

「彼女を裁くために警察が必要だとは私も思わない。……だが、あの錠剤がどんな効果を持つ薬物か分からない以上、こうしてとどめておくのには常に危険がつきまとうのだという事も、考えるべきではないのか? あの錠剤が即座に死につながる効果を持っているとは考えられないが……この状態が長引けば生命の危険にさらされる事は免れない。速やかに専門の病院に移して精神的な治療を受ける必要がある。……医師の立場で言えるのはそれだけだ」
「……分かっている」

 マイヤーはそう低く呟き、流動食の管を鼻から挿入されている香南の寝顔を見つめた。眠っているときだけは症状が落ちついているようにも見える。見る影もなくやつれた表情にも、軍事学部の助教授室に大胆にも潜り込んで眠りこけていたときと同じ、がき臭い寝顔が浮かんでいた。それがマイヤーにとって……今、唯一と言えるだろう救いだった。
 軍事学部助教授としての仕事。そして仕事の合間を見てはこうしてこの病室を訪れる毎日……その疲労感がマイヤーの顔にも濃い影を落としていた。
 だが、疲労など思い出す事もないほどに……彼の意識は怒りに支配されていた。
 それがどんな効果を持つ、どんな種類の薬物なのかはまだ不明だが、香南が自分から麻薬に近づいて行ったとはどうしても思えなかった。ヤクザか、金目当てのゴロツキか……それは分からないが、誰かが香南に麻薬を渡したのだ。そしてその怒りはそのまま……守らねばならないと思った子ども一人守りきれなかった自分自身を責める怒りに変わって行った。

(香南を……立ち直らせてやらなければならない)
(そしてあの娘を追い込んだものを……俺の手で暴いてやる)

 どこにぶつければいいのか分からない凶暴な思いが、マイヤーの中に逆巻いていた。
 へとへとに疲れた身体に自ら無理を強いて、マイヤーはドロップスの缶に入っていた薬物の事を調べていた。麻薬を資金源としている暴力団、19号埋め立て地を根城にする麻薬の売人、その背後にある巨大な流通組織……。
 だが、結果はマイヤーの苛立ちを増すばかりのものだった。
 手がかりと言えそうなものはなに一つ掴めないまま……いたずらに時間ばかりが流れていく。もともと情報戦の得手な男ではないのだ。

(このまま……香南の事を俺の胸のうちにしまっておく事はできない……)

 衰弱する一方の香南を見つめて、マイヤーにもその思いが沸き上がり始めていた。
 家出しているとは言え、香南には両親がおり、マイヤーは言ってみれば名目上の保護者に過ぎないのだ。
 生命に関わるかもしれない現在の状況を……香南の両親に黙っている訳には行かなかった。

(ゼロワンSTAFFの中川が……香南の実家を知っていると言っていたな……)

 入浴をさせるために入ってきた担当の看護婦と入れ違いに病室を出たマイヤーは、津久井と別れ、そのままエレベーターホールへと向かった。
 中川は数週間前に結婚し、現在は新婚旅行中なのだが、社長代理を勤めるアーマスも香南を可愛がっていた。中川からなにかを聞かされていたということも考えられる。
 とりあえず彼を訪ねよう。
 マイヤーはそう考えて駐車場に止めてあった車に乗り込んだ。

 

 

 

 


Act2-2;恋の日和作戦

 ゼロワンSTAFFの留守番をアインシュタインと幸子に任せて(「幸子とアインシュタインに」ではない。念のため(^^;))、アーマスは外出していた。

「人手が足りない……」

 出て行くとき、アーマスはそうぽつりと漏らした。
 つまり……まぐまぐバーガーからの依頼に応える為の人員が足りない……いや、もっと正確に言うなら、キッパリと「いない」のである。
 だが、

「じゃあ、ユッコがアメデオ(注/アインシュタインのことである(^^;))と一緒に行ってこよっか?(^_^)」

 という、幸子の意見を「背に腹は代えられまい」と飲み込むほどにアーマスは捨て鉢にはなっていなかった。幸子にお茶汲みと留守番以上の芸当ができるわけはないのだということは、ハナから承知の上なのである。
 群島プロムナードにアップロードした人材募集の広告には、相変わらずマトモな反響はない。そうとなれば『恋の日和作戦(注/国際電話の高い料金を払って一時間考え込んだ末の中川による命名)』の為の人員をどこからか「調達」してくるより他にはなかった。

 

 その人員を求めてアーマスが訪れたのはWWL(ワールドワイドリース)――ストッキングからスペースシャトルまで何でも貸します――という宣伝文句がウリのレンタル屋だった。
 看板に偽りなし、借りられないものは何もないという噂はアーマスも耳にしている。
 胡散臭いという点ではゼロワンSTAFFに負けず劣らず……の稼業である。

「ゼロワンSTAFFのアーマス・グレブリーです。……実はこちらで人材をレンタルしてもらいたいんだが……」

 さすがにアーマスのその言葉に、WWLの店員も唖然とした表情を見せた。

「あのーー、ゼロワンSTAFFって、人材派遣屋さんじゃありませんでしたっけ?」
「ええ、まあ(^^;)」
「その派遣屋さんが、レンタル屋で人材を借りてくってのは……」

 冗談でしょ?
 と続く言葉を言いたげな表情が、店員の顔に浮かんでいた。

「実は……群島プロムナードで人材募集をしてるんだけど……」
「スパイの?」
「あ? ……ああ」
「でも……応募者がこない……と?」
「まあ、手っとり早く言えばそういうことだな」

 アーマスは簡単に企業内スパイの仕事の内容を話した。
 もちろん、まぐまぐバーガーからの依頼のことは伏せたままで、だ。
 店員は、そのアーマスの話しに興味を示したようだった。

「……代金は日給これくらいと……あと、危険手当がついて……こんなもんかな?」

 ぽちぽちと電卓を叩きながら、店員はアーマスの顔を見上げた。
 決して法外な値ではない。それでも中川なら、ここで二割はゴネるだろうが、アーマスはすんなりそれを受け入れた。

「その代金に、派遣先の給料が入って……全部でこのくらいにはなる……と思うよ」

 そう言ってアーマスは電卓のキーを叩き、さらに料金に上乗せをした。
 中川が見れば頭を抱えそうな人の良さである。

「で、どういう人材が御入り用?」
「派遣先はまぐまぐバーガーだ。アルバイトとして潜り込める女の子を借りたい。高校生か大学生位の年齢の……性別は男女どっちでも構わないから」
「ちょっと待ってください……」

 店員はそう言って店の奥の倉庫に入った。奥にいた店長のラバ・リブンセとなにかを話しているのが、カウンター越しにアーマスにも見える。
 やがてラバがうなずくのが見え、店員は店の方に戻ってきた。

「……商談成立、ですね。ぴったりの娘がいますよ。結城唯という名前で……年齢は19歳。耳ざとい娘ですから、そういう仕事にはもってこいだと思いますよ」
「この契約に関しては、他言無用。それも料金のうちに含ませてもらいたいな」
「もちろんですよ。人材派遣同様、信用が勝負の商売ですからね」

 WWLの店員――朝比奈うずめはそう言って、営業笑いと言うにはちょっと毒のある表情を作った。

 

 結城唯がゼロワンSTAFFを訪れたのは翌日のことだった。

「さっそくで悪いんだけど、明日からでもまぐまぐバーガーの方へ行ってくれるかな? 店長の高梨さんにはもう話はついてる。一応形だけ面接して、業務につくのは明後日からってことに……」

 玄関のインタフォンが鳴ったのはそのときだった。
 アーマスは稟が事件の詳細を書き留めて送ってきたきちょうめんな書類をテーブルに置いて立ち上がった。
 その書類を、テーブルの上に上がってきたアインシュタインが、

「ふむふむ」

 とでも言いそうなポーズでいちいちうなずきながら読んでいるのを見て、唯は驚きを隠せなかった。さっきこの部屋に通されたときに、この猿は天才なんだとアーマスから聞かされてはいたのだが、まさか文字を読むとは思ってもみなかった。

「……すごいわ」

 思わずそう、言葉がもれた。
 その唯をちょいっと横目に見てアインシュタインは得意そうな表情になっていたのだが、さすがにそこまでは気づいてはもらえなかったようだった(^^;)。

「どちら様ですか?」
『マイヤーだ』

 インタフォンから帰ってきたのはその一言だった。

(マイヤーがここに来るなんて……どういう風の吹き回しだ?)

 かつて佐々木建設の事件では仲間として戦った間柄ではあるが、マイヤーはゼロワンSTAFFからの派遣スパイではなかったし、与えられた役割の差のせいで顔を会わせる機会も決して多くはなかったため、親しいつきあいはないままだった。
 ……つきあいと言えそうなものがあるとすれば、

 アーマスはマイヤーに香南を押しつけられたことがある(^^;)というくらいなものだろう。

「珍しいな? 何かあったのか」
「客か?」

 アーマスの問には答えず、マイヤーは玄関先にきちんと揃えて脱がれた靴を見て、それから部屋の奥をのぞき込んで呟くように言った。

「ああ。仕事のことで来てもらってるんだ。待つか? ――話はすぐ終わる」
「そうだな。待たせてもらう」

 そう言って、マイヤーはダイニングの安っぽいテーブルセットの椅子を掴んで腰を降ろした。

(……大事らしいな)

 口には出さなかったが、アーマスはそう感じていた。
 マイヤーの表情が……そして相手を威圧するような雰囲気がそれを感じさせる。

「お客様ですか?」

 戻ってきたアーマスに唯がそう声をかけた。

「ん? ああ……まあね。面接は必ず通るようになってるから。……で、業務についたら、アルバイトの女の子たちの様子を調べて欲しいんだ。危険なことは一切しなくていいから。それで…………」

 アーマスの話は続いていた。
 ダイニングに入ってきたアインシュタインが、ティーバックを入れたマグカップに湯を注ぎ、茶菓子のアーモンドクッキー(アーマスは和菓子のことはよく分からないので、最近は洋菓子が中心である)を添えてマイヤーに差し出していた。
 そのアインシュタインを見つめて、マイヤーが言葉を失ったのは言うまでもない。
 彼もまた、中川に負けない現実主義者なのである。お茶汲みをする猿の存在を、理解できるわけはなかった。

 

 

 

 


Act2-3;恋の病

 唯が帰った後のオフィスで、マイヤーはこれまでのいきさつを話し、香南の実家に連絡を取りたいのだと告げた。

「……香南が……薬物中毒?」

 アーマスは信じられないと言う表情だった。

「俺だって……信じられん。薬物が何なのかはまだ分からんが、経口服用する錠剤だ。LSDか、あるいは強い鎮痛剤のようなものかもしれん。身体的依存性も認められたが、精神的依存性の方が深刻だと医者は言っていた。……今は口も聞かず、こっちの言っていることにも何の反応も示さないって状況だ」
「しかしな……待ってくれよ。LSDにしろ、他の麻薬にしろ……香南が手軽に買えるほど安価なもんじゃないだろう? あの娘がそう金を持ってるとも思えないし……」
「麻薬の売人が新しい顧客を増やす手っとり早い方法を知らないわけじゃあるまい?」

 マイヤーはアーマスの言葉を遮って低く言った。

「…………」

 言葉を失い、アーマスはマイヤーの顔を見つめる。
 中毒になるまで安価で……時には無償で好きなだけ薬を与え、身体が薬に充分冒され、薬なしではいられなくなるまで飼い殺しにする。中毒患者になってしまえば……薬の値段がつり上がっても、どこからかそれを工面してくるものなのだ。盗んででも、身体を売ってでも……。
 麻薬汚染の先進国である母国アメリカで……アーマスの身近でもそんな話は決して耳慣れないものではなかった。

「……じゃあ、香南もその手口に引っかかったと言うのか?」
「その可能性もあるとしかまだ言えんな。いろいろ探ってみたんだが、19号にたむろしてるチンピラ連中とはルートが違うらしい。香南の持っていた錠剤はしっかり糖衣されていたから、バックにはそれなりの組織があるはずなんだが、どうも尻尾を掴めない。売人連中もドロップスの缶に入った麻薬なんてのは初耳だと……」
「……ドロップス?」

 今度はアーマスがマイヤーの言葉を遮った。

「ドロップスの缶ってどういうことだ?」
「ああ、香南の持っていた薬は赤いドロップスの缶に入ってたんだ」
「サクマドロップス……じゃないのか?」
「……確か、そんな名前だったはずだ。知っているのか、グレブリー」
「19号をいくら探っても糸口が見つからないはずだ。そいつは……たぶんゼロワンSTAFFが今回受けた仕事の――まぐまぐバーガーで取り引きされてるらしいドラッグと……同じものだ」
「まぐまぐバーガー? あのハンバーガースタンドか?」

 マイヤーは鼻白んだ。
 アーマスが最初に稟からその話を聞かされたときと同じように、まぐまぐバーガーと麻薬とはイメージが重ならない。だがそういうルートを使って暴力団やチンピラとは無縁の若年層に広まっているのだとすれば、香南が麻薬を手に入れたというのもうなずける話だった。

「……どうやら、今回の事件はかなり根が深いらしいな」

 アーマスはそう言ってため息を漏らした。
 稟から仕事を受けたとき、麻薬絡みとは言え、アーマスは事態をもっと楽観的に見ていた。
 だが……おそらく実際にはまぐまぐバーガーのアルバイトだけには留まらないだろう、大きな事件なのだ。

 

 諒が群島中央病院を訪れたのはその日の夕方だった。面会時間はもうあと一時間ほどしか残っていない。
 アーマスから香南が入院しているのだと言う話を聞いて、すぐに駆けつけたかったのだが、見舞いの品やマイヤーでは用意しきれなかっただろうと思われる、着替えや下着などの身の回りのものを揃えているうちにすっかり遅くなってしまったのだ。
 大荷物を抱え、病室に飾ろうと持ってきた花束を潰さないように用心しながら、諒はエレベーターを降り、受付で教えてもらった香南の病室へ向かった。

(……少しは元気出してくれればいいけど……)

 鼻先をくすぐる花びらを見つめて、ため息が漏れた。
 殺風景な病室が、この花で少しは居心地の良い場所になって欲しい……と諒は思った。

 

「香南ちゃん、起きてる?」

 ノックしても返事がないので、そう声をかけてドアを開けた。
 面会謝絶の札はドアには掛かっていなかった。そのことが……諒を安心させていた。
 香南の症状はアーマスから聞かされていたのだが、思ったより悪くはないのかも知れないと言う期待が、一瞬諒の意識に浮かび上がった。

「あら、森沢さんのお友達?」

 部屋に入ろうとした諒に、背後から中年の看護婦が声をかけた。すぐにそれが、アーマスの言っていた香南の担当の看護婦だろうと気づいて、軽く会釈する。

「ええ。アパートの隣に住んでるんです。……寝てるのかしら、返事がなくて」
「起きてますよ。面会時間の間は……ずっと起きてるの。マイヤーさんを待っているのね」

 看護婦の表情には、柔らかい微笑が浮かんでいた。

「森沢さん、お友達が来てくれたわよ」

 そう言って看護婦は諒とともに病室に入った。
 香南はベッドから降りて窓ガラスに顔をくっつけるようにして外を見ていた。看護婦の声にも振り返ろうとしない。

「またベッドから起き出してたの? 駄目よ、いい子にして寝てなくちゃ……」

 小さな子どもに言い聞かせるような口調で看護婦は香南に話しかけた。窓際から離れようとしない香南をベッドに戻して、夏がけの薄いタオルケットを掛けてやる。
 その光景をベッドから離れたところから見つめて、諒は言葉を失っていた。

(香南ちゃん……!)

 香南と諒は決して長いつきあいではない。諒がこの群島にやってきてからの……まだほんの数週間のつきあいだ。そのあいだに……諒は香南の笑顔しか見たことがなかったような気がする。
 いつも元気に走り回っていた香南の表情は、だが、信じられないほどに変わり果てていた。痩せて頬には影が落ち、その目はぼんやりと宙をにらんで……目の前にいる看護婦も、諒も見てはいなかった。
 鼻から胃に通された管が、頬にまで延びてテープで止められている。
 そんな香南の姿が、諒には辛くてならなかった。

「マイヤーさんが来ているときは……それでも少しは反応を示すのよ。泣いたり……話しかけると、振り返ったり……」

(このままじゃ――死んじゃう)

 看護婦の声を聞きながら諒はそう感じずにはいられなかった。

「香南ちゃん……」

 力なく一歩、二歩と近寄って、諒は香南の寝るベッドに腰を降ろした。香南の頬に手を触れ、涙をこらえて必死に笑顔を作った。

「早く良くなって……。アーマスとね、話してたのよ。27日は……香南ちゃんの誕生日でしょう? 香南ちゃん、16? 17? みんなで『味の屋』でパーティしよう。ね? だから……それまでに良くなって」

 その諒の言葉に……香南はちょっと顔を上げたように見える。
 一瞬、その目が焦点を結び、諒のことを見つめたようにも思えた。何かを言いたがっているような……そんな表情だった。

「香南ちゃん……」

 だが、そのわずかな変化は、すぐに香南の顔から消え去ってしまった。
 そしてまた元通りの……無表情でやつれきった顔つきに戻ってしまう。タオルケットを抱えこんで、香南は赤ん坊のように親指を口へ持っていった。

「……治るんです……か」

 諒は背後に立っている看護婦の顔を振り返るのが恐かった。

「分からないわ。ここは専門外で、特別な治療は出来ないし……。でも、最初にここへ来たときに比べれば、ずっと症状は安定してきてるのよ。禁断症状の苦痛も、ずいぶん落ち着いたようだし……」
「信じられない……信じたくないわ」

 指をくわえて宙を見つめている香南の表情を、これ以上は見ていられなかった。
 諒は腰を上げ、足早に病室から出て行ってしまった。ドアの閉まる音に、香南はびくっと身体をこわばらせる。その拍子にベッドの上に置かれた花束がばさっと音を立てて床に落ちた。

 

 

 

 


Act2-4;恋と言うにはまだ……

 諒が自宅に戻ったのは深夜になってからだった。
 息が酒臭い。病院で香南に会った後……ずっと飲んでいたのだと、何も聞かなくても分かるような状態だった。

(香南は……そんなに悪いのか……)

 狼狽を表に出すことのないマイヤーからは、それは感じとれないことだった。
 医師の言葉をそのまま伝えた彼の言葉から得ることのできた感触は、もっと事務的な――ニュースでも聞いているかのように実感の伴わないものだった。
 マイヤーもまた、辛かったんだ。
 冷静そうに見えたマイヤーを思い返して、アーマスはそう気付いた。

「……諒」

 何も言わずに寝室に閉じ込もってしまった諒に、アーマスは声をかけた。

「ごめん……アーマス。私、疲れてるの。少し休ませて。話は明日するから」

 今日は香南のことを話したくはないのだと、そう言いたげな強い口調だった。
 泣いていたのだろう。
 諒の目は赤く腫れ、化粧もすっかり落ちてしまっている。

「ゼロワンSTAFFの派遣スパイとして……まぐまぐバーガーへ行ってくれないか、諒」

 アーマスのその言葉に、諒は驚いたように目を見開いた。

「……まぐまぐバーガーにって……、アルバイトを装って、てこと?」

 平素、アーマスはあまり諒に仕事の話をすることはない。
 だが一緒に暮らしていれば彼がどんな仕事をしているのかくらいは分かってくる。香南の入院に関して、諒もすでにアーマスからまぐまぐバーガーで麻薬の取引が行われているらしい……という話は聞かされていた。

「人手が足りないんだ。真奈美が帰ってくるまで、WWLから借りてきた唯ひとりじゃ、どうにもならない」

 アーマスはそう言って諒の顔を見つめた。
 マイヤーから伝えられたドロップスの缶の麻薬が、深刻な症状をもたらす未知の薬物であるということを、アーマスは諒が病院に香南を見舞っている間に稟に伝えていた。
 稟もまた、その話から事態を重視しているようだった。
 一刻も早くスパイの人材を揃えてください。
 彼女はヴィジホンのモニターの向こうから哀願するような目でアーマスを見つめてそう言った。
 せっぱ詰まっているのは諒にも良く分かっている。ゼロワンSTAFFでの社長代行、舞い込んでくるスパイ派遣の依頼を一人でこなし、その上アーマスはキャノンボールレースの準備にも追われている。
 自宅に戻ってからも毎日明け方近くまで仕事をしているのを諒は知っていた。

「でも……無理よ。まぐまぐバーガーで……どんな仕事をするの? アルバイトに混じってカウンターでハンバーガーを売るんでしょう? 私にそんな仕事できるわけないわ。……客商売なんて……苦手だもの」
「他に頼める人はいないんだ。頼む、諒。真奈美が帰ってくるまで……それまででいい」
「そんな……じゃあ、香南ちゃんはどうするの? マイヤーさん……だっけ? 香南ちゃんの彼氏だって言うあの人だって、つきっきりで世話してあげられるわけじゃないんでしょう?」
「香南のことは病院に任せるべきだよ。諒がついていても……酷な言い方だけど、してやれることは何もないだろう? 香南のような娘をこれ以上出さないためにも、麻薬ルートを一刻も早く解明しないと……。頼む、協力してくれ」

 

「……私って……嫌な娘……」

 パブのカウンターでビールを煽って、諒は飲み友達の弥生葉月にそうぼそりと漏らした。
 まぐまぐバーガーに行く行かないの話しから、喧嘩越しの議論となって結局諒は家を飛び出してきたのだ。公営住宅を出たところで葉月と会い、そのままなだれ込むようにこのパブへ入ったのだ。
 諒も葉月もイギリスでの生活が長く、その思い出話から親しくなった友人だった。
 諒にとっては気軽に飲みに誘えるボーイフレンドのひとりと言ったところだろう。
 ……葉月はまだ高校生なので、本来なら「飲み友達」とするには多少の問題を含んではいるのだが……。

「お客さん相手の商売なんて……商売なんて……」

 店に入ってから、諒は愚痴の連発である。
 その諒の話を、葉月は黙って聞いていた。まだ高校生の癖にプレイボーイを気取るだけあって、葉月は女の子の扱い方を心得ている。だから、諒も愚痴がこぼしやすかった。誠実だが真面目すぎるところのあるアーマスは……こんな愚痴を気安く聞いてくれることはない。

「女に稼がせようなんて……サイテーの男だな」

 葉月がそう……諒の言葉に相づちを打つように言った。
 同じ公営住宅に住んではいても、多忙を極めるアーマスと葉月はほとんど近所つきあいもなく、その人柄にも触れたことはない。
 愚痴にまぐまぐバーガーの麻薬取引の話まで持ち出す訳には行かず、アルバイトの件だけを諒が話していたのも、葉月を誤解させる原因でもあった。

「アーマスは……優しい人よ。でも何だかちょっと物足りない。優しいってだけならね。香南ちゃんに対してだって、オフィコンのユッコちゃんに対してだって……」

 諒はアーマスからの……もっと強いアプローチを求めていた。
 ただの同居人から、もう一歩前進した関係になるために……アーマスの積極的な言葉なり、行動なりが欲しかったのだ。
 だが、アーマスはその諒の思いを気づいてはくれない。
 アーマスもまた……諒が自分を必要とする時を待っているのだ。
 互いに歩み寄ることができないまま、一緒に暮らしはじめてすでにひと月以上になるのにふたりはいつまでも「同居人」のままなのだ。
 それなのにそのアーマスが、こんな時にだけ諒を頼りに思うのは……なんだかひどく不公平な気がしてしまう。

「香南……?」

 葉月は眉を寄せた。
 SNSの常連客であるマイヤーと、そのマイヤーを慕ってまとわりついている香南のことは葉月も知っていた。香南は公営住宅の中で北海珍味を売り歩くことも多かったので言葉を交わしたことも何度かある。
 葉月は……多少酒が入って判断力が鈍っていたと言うのも手伝って、諒の言葉をすっかり誤解してしまっていた。つまり……諒の言った言葉の意味を……アーマスが他の女にも手を出しているのだと、そう勘違いしてしまったのだ。しかも諒が妹のようにと可愛がっている香南にまで……。
 そう誤解すれば、葉月でなくともアーマスに対して怒りを感じるのは無理のない事だった。
 諒と葉月は別に特別な関係ではない。
 だが、葉月にとってはイギリス時代の思い出を語る事のできる数少ない友人なのだ。大切にしたいという気持ちがあった。不誠実な男に言い寄られて困っている(……と葉月は勘違いしている)のなら、何とか力になってやりたかった。

「そんな男の言いなりになってアルバイトになんか行くなよ。そいつの部屋を出て、行くところがないって言うんなら、俺のところに泊めてやるからさ。俺のトコなら同居人がたくさんいて賑やかだし、女の子だっているから気楽だろ?」

 そう言って葉月は諒のためにもう一杯ビールを注文した。
 葉月は公営住宅に親戚の水無月雪美、友人のルイス・ウー、居候の黒沢世莉、そしてルイスの妹であるクラレッタ・ウー、さらに猫一匹という賑やかな面子で同居生活を送っているのだ。

「ありがと……。でも、約束しちゃったから、アルバイトに行くって。約束破るのは、私好きじゃないし……。出て行きたいわけでもないんだと思うの」

 諒はウェイターの差し出すビールを受け取って、小さくそう言った。
 もう決めてしまったんだというその表情は、だがまだ言い足りない愚痴を、喉の奥に飲み込んでいるようでもあった。

「じゃあ……俺も一緒に行ってやるよ、そのアルバイト」

 薮から棒に葉月がそう言った。
 言ってから、自分でもその提案が気に入ったようだった。うんうん、とうなずきながらカクテルのグラスを口に運ぶ。

「な? それなら安心だろ? ……いつでも守ってやるからさ。安心しろって」

 その葉月の言葉に、諒はどう答えていいのかわからなかった。
 そう言ってくれたのがアーマスだったら、この不満も全部吹き飛んだかも知れないのに……そう考えてみるとなんだかこうして愚痴っている自分が、どうしようもないダダっ子のように思えてくる。
 年下の葉月にこんな風に慰められるのは、自分の甘えなのだと感じた。
 そして、小さくため息をつく。

(結局……行くしかないんだな、アルバイトに……)

_

 

 

 


Act2-5;恋の日和作戦の前途……

 すでに唯はアルバイトとしてまぐまぐバーガーで働き始めていた。
 だが、例の合い言葉を聞くことも……サクマドロップスの缶を見かけることもないままに三日ほどが過ぎてしまっている。
 諒と葉月が面接に来たのは、その日の午後の事だった。

『俺も一緒にアルバイトする』

 ……というその言葉が、どこでどうよじ曲がったのかは謎だった。実際、待ち合わせたSNSでその姿を見たときには、思わず諒は絶句してしまった。
 葉月は……女装していたのである(^^;)。
 確かに葉月はきっぱりと女顔である。高校生の男にしては幾分高いその声も、充分女のものとして通用する。

(……でも、しないわよね、フツー)

 そう思いながらも……それが葉月の「善意」なのだろうと理解する事にして(実際には単におちゃらけていただけだが……)諒は葉月とともにまぐまぐバーガー縁島洋上高校前店を訪れた。

 そして……、

「………………(^^;)」

 面接をするために店内の一角に腰を降ろした諒と葉月を見て、店長・高梨稟も言葉を失っていた。

「ええと(^^;)、大西さんお一人って伺ってたんだけど……?」
「私、彼女の友達なんです。ここでアルバイトするって聞いて、私も一緒に働いてみようかなあーって。友達の誰もいないところでバイトするのって、勇気がいるでしょ? でも、ここなら安心……って思ったんですけど…………駄目ですか?」

 葉月の演技力は……百点満点と言ってもいい。
 その声色も、ちょっと恥じらった仕草も、どこをとっても「高校生の女の子」そのものなのである。

「……ダメってことはないんですけど……」

 稟は諒の顔を見つめ、

 この人もスパイなの?

 と聞きたそうな表情になっていた。
 その取り乱し方を見ていると、諒もなんだか気の毒になってくる。

(この子……ホントに女の子かしら?)

 そう思い浮かんだ疑問を、だが稟は口に出す事ができなかった。履歴書には『弥生葉月』とある。女でも男でも通る名前だ。そしてしっかりと『女』のところに丸がつけられている。
 淡い化粧。特に派手とも言えないブラウスとスカートという服装……。
 だが、稟は……それが巧みに作られた外見なのだと感じてならなかった。もともと男性という存在には、かなり敏感な方である。
 さらに葉月は女の子と言い切るにはやや身長が高すぎた。

(でも……でももし本当に女の子だったら…………あまりにも失礼だわ)

 そして、困り果てている稟に助け船を出したのは、またしてもアルバイトの高校生だった。

「弥生先輩に『女装』の趣味があるなんて知らなかったわ。ここでバイトするのは勝手だけど……更衣室覗いたらただじゃおかないから!」

 コーヒーのお代わりを持ってくるついでに、アルバイトの少女はそう捨て台詞を残して言った。

「…………(^^;)」
「やっぱり……男の子なの、ね?」
「……だから止めたのに……」

 上から順に、葉月が、稟が、そして諒が漏らした言葉である。
 ちなみに諒は、

「そんな格好で来るなんて思いもしなかったわ」

 とは言ったが、

「やめなさいよ」

 とは一言も言っていない。念のため……(^^;)。

 

 そして諒と葉月がアルバイトの面接をしている頃、アーマスもゼロワンSTAFFのオフィスでようやく訪れた“マトモそうだと判断できる”スパイ志願の応募者の面接をしていた。
 白葉衿霞と沫雷のふたりだった。
 このふたりは……別に示し合わせてゼロワンSTAFFを訪れたわけではない。まったくの、見知らぬ他人である。
 そして白葉衿霞は……日本人名を名乗ってはいるが本名はエリカ・フォン・シーラッハという、れっきとしたドイツ人である。DGSの主催する交換留学生制度で洋上高校に転入が決定している16歳の少女だった。

(16歳……やっぱり……ヤバいよなぁ(^^;))

 かつて真奈美がゼロワンSTAFFを訪れた時に中川が漏らしたのと同じため息をアーマスもまた漏らさずにはいられなかった。
 スパイとして未成年の……しかもまだ高校生の少女を雇う。
 いくら胡散臭さがウリのゼロワンSTAFFでも、人材派遣会社の看板を出して法人を名乗る以上やってはならない事がある。だが、真奈美を雇ったときに中川が、

「背に腹は代えられない。……人手が……足りないんだ」

 と、半ばヤケになって真奈美の雇用を決定したのと同じ判断を、アーマスも下すしかなかった。
 つくづく……中川の新婚旅行中の「社長代行」なんてものを引き受けた事を後悔せずにはいられなかった。
 さらに折りよく掛かってきた中川からの国際電話は、

『高校生ねえ(^^;)、うーん……でもまあ、仕方ねえよなあ。派遣先が派遣先だし……表向きは“人手不足のまぐまぐバーガーにアルバイトを紹介”ってことにしとけよ」

 ……という無責任とも思えそうなものだった。
 ヴィジホンのモニターに映った衿霞を見て、

「可愛い娘だし……」

 と言ったその言葉さえなければ、アーマスは中川の決断力を評価する事もできたかも知れないが……(^^;)。

「社長代理はん、うち……雇ってもらえますん?」

 ヴィジホンの前にへたり込んでいるアーマスに、衿霞はそう声をかけた。ドイツ人の癖に……この娘はなぜか京都弁を使う。
 その光景を無言のまま見つめて……沫雷は、すでに伝え聞いていたゼロワンSTAFFの胡散臭い噂が、根強く語り続けられている原因のすべてを見たような心地になった。

(……とんでもない会社に来てしまったような気がする(^^;))

 

 そういう経路を経て……ともかくゼロワンSTAFFは新たな「スパイ要員」を得た。白葉衿霞はアルバイトとしてまぐまぐバーガーに潜入。そして沫雷は宝飾デザイナーとして、時折高校生や中学生を相手に露店を出しているその本業を利用して、麻薬汚染が広がっていると思われる高校生、中学生の女の子たちの方面から調査を開始することとなった。

 

 アーマスは衿霞と雷の面接を終えた後、留守番を幸子に頼んでボーナスの査定の査定に出かけた。帰国したのは今日もまた夜十時を過ぎてからだった。
 そして、面接に行ったその足で、

「今日からお店に出てみましょう」

 という稟の言葉で無理矢理売り娘をやらされ、くたくたに疲れ果てて諒が帰宅したのも……ちょうど同じ頃だった。
 互いに、言葉がなかった。
 葉月の下したアーマスの評価を……別に諒が間に受けているということではない。
 何より疲れていた。
 そして……まだ葉月に愚痴を漏らしたときに抱いていたこだわりを、捨てきれなかったせいもあった。

(疲れているようだな……)

 アーマスの方には無理矢理アルバイトを強いた罪悪感があった。
 せめてゆっくり休ませてやりたい。
 それはアーマスなりの思いやりだった。
 しかしその思いやりが裏目に出て、気まずい沈黙がふたりの間にあるのだという事には気づけないほど……彼もまた疲労していた。

 何の言葉もないままふたりはそれぞれの寝室に入り、心の底に屈託を残したまま浅い眠りについた。
 明日もまた……同じような沈黙があるのだろう。
 いや、それ以上にアーマスと過ごす時間はこうしてどんどん減って行くのだ。

(……ダメ……なのかな。私と……アーマス)

 そんな重い気持ちが、ベッドに入ってからも諒の心の中から消えなかった。

 

 

 

 


Act2-6;恋の麻薬

 夏休みの間も、補習授業やクラブ活動に参加する生徒で洋上高校のキャンパスは賑やかなものだった。
 校舎の窓からは校庭でトレーニングを続ける陸上部やテニス部の生徒たちの姿が見える。息を切らしてトラックを走る生徒を見つめて、仁科雄二は先刻の校長の話の事をぼんやりと考えていた。
 教師としてこの洋上高校に赴任してからの時間――彼は幾度となく生徒たちの抱える問題を身近に感じてきた。能力の限界、家庭の不和、友人とのいさかい、異性との関係……数えあげればキリがない。
 だが、今この高校に忍び寄っている問題はそれらのすべてをひっくるめたよりもっと深刻なものなのだと思わざるを得なかった。

(……この学校の生徒が、麻薬に冒されているだなんて……信じられん)

 確かに、他の多くの高校がそうであるように、この洋上高校にも素行不良の生徒はいる。洋上大学という一風変わった大学への進学校というイメージが強いためか、集まってくる生徒は変わり者が多い。型破りな生徒、個性の強すぎる生徒が他校より多く、そして彼らを締め付ける規則のきわめて少ない自由な校風が、そうした素行不良の生徒を野放しにしているのだと言う批判がある事も事実だ。

 校長は広川というフリーのジャーナリストが高校生の麻薬汚染の状況を調べるために校内に出入りするのを許可した、と伝えただけだった。
 つい先頃も、仁科が先学年度に担当したクラスの女生徒・花村桜子が傷害事件を起こして新聞沙汰になったばかりなのである。
 桜子の事件は、彼女がまだ未成年であると言う配慮から名前を伏せ、「A子」という仮名で報道された。だが……九月になって新学年が始まり、桜子が登校してこなければ、やがて生徒たちはその意味に気づくだろう。
 この上……真偽はともかく麻薬汚染の噂までが立ったのでは……。
 生徒たちが動揺し、傷つく事になるのではないか。
 仁科にとって、学校の体面などより、その懸念がもっとも辛かった。

(そういえば……編入生の森沢は、花村とは親しかったようだったな)

 森沢香南は転入試験にぎりぎりで合格し……その成績の悪さと以前籍をおいていた神奈川県の県立高校からの、『出席日数不足』という報告書から、9月から二学年に編入するためには夏休みの間補習授業に出席する事、という条件を申し渡されていた。
 まじめな生徒とはお世辞にも言えなかったが、

「軍事学部に入りたいの」

 というその熱意は強いものだった。
 その熱意から、補習授業でもずいぶん頑張っていた。
 補習授業のクラスに……花村桜子はいた。共に軍事学部をめざしている事がきっかけでふたりは親しくなったようだった。仁科には……そう見えていた。ハンバーガー屋でしゃべっているふたりを見かけた事もあるし、一緒に下校する事も多かったようだ。

(森沢がこのところ補習に顔を出していないのは……花村の事件を知って落ち込んでいるせいなのかもしれないな……)

 一度、彼女の保護者である軍事学部助教授を訪ねる必要があるのかも知れない……仁科はそう感じ始めていた。

「仁科先生、どうしたんですか?」

 ぼんやりと窓際に立ちすくんでいる仁科に、9月から三学年になる闇沢武士が声をかけた。

「……いや。補習か? 闇沢」
「はい。もう終わって帰るところです。なんか、顔色が悪いようだけど……誰か他の先生を呼んで来ますか?」

 闇沢は仁科の担当のクラスではなかった。
 礼儀正しい生徒だ……という以外にあまり知っている事はない。占いをやるとか、霊感が強いとか言う……女生徒たちの噂話を耳にした事がある程度だ。

「大丈夫だよ。考えごとをしてただけだ」
「……それならいいけど……。ああ、先生SNSっていうレジャーランドがどこにあるのか知ってますか?」
「SNS? ……それなら、正門から大通りに向かって……駅のそばにまぐまぐバーガーがあるのを知ってるか?」
「ええ」
「その二、三軒隣だ。看板が出てるから、すぐ分かる。――入会をしてスポーツをやるのか?」
「いえ……会いたい人がそこにいると聞いたので……じゃあ、失礼します」

 そう言って一礼すると闇沢は身を翻した。

 

 仁科の言った通り、SNSはすぐに見つかった。
 ラウンジに入り、闇沢はオレンジジュースを注文して店内を見回した。彼が会おうとしている男――三日月迅は、ここで占い師をしているはずだった。
三日月と闇沢は知己ではない。
今日こうして闇沢が三日月を訪ねてきたのは、クラスの女の子たちがSNSにいる三日月という男の占いがよく当たるという評判を聞いたからだった。
 同じ占い師としての……純粋な興味だった。彼が優れた占い師であるのなら、ぜひ知り合いになりたかった。

 

 闇沢が入ってきたとき、カウンターの中にいたのは三日月ではなかった。
 キャノンボールレースの準備に飛び回っていた店長のシータ・ラムが、今度は急な帰郷をすると言ってインドに一時帰国したため、相変わらず店の事は三日月に任されている。だが、今日は友人のシータ・ナサティーンが訪ねてきたのでそのお役目からしばし解放されているのだ。

「悪いな……呼び出して。店の方はどう?」
「まあまあ。最近お客さんが減っちゃったんだ。今度遊びにきて。おごるから」

 シータはそう言って営業用の笑いを作った。
 最近、彼女は炉島の「エルトリウム」という店で雇われマスターならぬマストレスをしているのだ。

「……でね、電話で言ってた“ラブシック”なんだけど……」

 そう言ってシータは小さくため息をついた。
 アイスコーヒーのグラスに立っている赤と白の縞模様のストローを手にして、グラスの底をとんとんっと叩いた。

「僕も……色々調べてみたんだ。あっちこっちのデータベースに……かなりヤバい領域まで侵入してね。でも……見つかったのはこれだけだった」

 プログラマーであるシータは、仕事上のコネもあってあちこちのデータベースにアクセス権を持っている。情報を収拾する事には長けている彼女の、平素なら口にすることはないだろう愚痴っぽい台詞が、その作業がいかに困難であったかを物語っていた。
 シータは小型の端末をバッグから取り出してテーブルに乗せた。
 モニターに映し出された文字の中の、

『【ラブシック】 薬物の名称か?』

 という短い一行が三日月の目に飛び込んできた。

「クエスチョンマーク付きってことは……未確認の情報ってことだな」

 そう言って小さくため息をもらす。

「迅のところに来たその女子高校生って……占いの結果を聞いて、『ラブシックの方がいい』って言ったんでしょう? その話を聞いて、最初はおまじないみたいなものじゃないかと思ったんだけど……もしこの情報通り、ラブシックっていう名前の薬物があるんだとすれば、どんなものだろう? 麻薬とか媚薬とか……そういうものじゃないかな」
「麻薬か……なるほどね」

 三日月はそう言って、もう一度あの女子高校生の行動を振り返ってみる。
 店に入ってきたときのおどおどとした様子。一度トイレに立ち、戻ってきたときはまるで別人の様になっていた。『ラブシック』が依存性のある麻薬なのだとすれば、その変化も頷けるような気がする。
 そして帰りぎわに言った、

『それまでは、彼と恋に落ちる夢を見る』

 というあの言葉……。
 それは、麻薬による幻覚症状――いわゆるトリップの事を指していたのではないか? だとすれば……すべてに合点が行くような気がする。

「……多分、シータの推察通りなんだと思うよ。僕ももう少し調べてみるけど、シータの方でも引き続き調査をしてくれるかな? こんな事、後になってから“間違いでした”じゃ済まないからね」
「そうだね。じゃあ、僕はデータベース以外にも、製薬会社とか、薬物を扱ってる研究所とかを探ってみる」

 そう言ってシータは端末をバッグに戻すと立ち上がった。

 

 シータ・ナサティーンと三日月迅が交わしていた会話は、カウンターでジュースを飲んでいた闇沢に、全て聞こえていた。
 その会話の内容から、『ラブシック』のことを少女(……と断言するのは、ちょっと不安でもあったのだが……)に尋ねていた男が三日月迅なのだと気付いたが、声をかけずに席を立った。
 クラスの少女たちが以前、

「ラブシックが欲しいなら、桜子に頼めばいいのよ。あの娘なら売ってる店を知ってるから」

 と話しているのを聞いた事がある。
 ラブシック――恋患いという名のそれが何であるのか、その時は闇沢は考えてもみなかった。
 だが、それが本当に麻薬なのだとしたら……。
 桜子……と呼ばれていたその少女が、九月になると二年に進級するクラスの花村桜子なのだということは、その時にも気付いていた。桜子は目立つ生徒だったし、何より滅多にない名前である。
 そしてその桜子が……先日の軍事学部生殺人未遂の犯人A子なのだという事も、闇沢は噂で聞いていた。

(……どうやら大事になりそうだ)

 

 

 

 


Act2-7;娘の恋・母の涙

 探偵事務所を訪れた中年の女は、花村佐和子と名乗り……大柏製紙開発部長と肩書きの入った夫の名刺をテーブルを挟んで座る夜木に差し出した。名刺には、花村孝弘という名前が印刷されている。

「花村と申します……」

 そう言った女の声は暗く沈んでいた。
 身なりはきちんとしているのだが……どこか落ちつきがない。その声も、今にも嗚咽に変わりそうな、震えた声音だった。

「依頼の内容はどういうものなんだ? 旦那の浮気? それとも……隠し子とか、職場での評価とか?」

 狼狽える女を前にしても、夜木はいつもの姿勢を崩さなかった。
 探偵という職業は、時として人間のもっとも脆い部分を見せつけられることもあるのだ。夜木の事務所を訪れて、突然床に伏してさめざめと泣き出すようなアカデミー女優賞ものの演技派だっている。今更依頼人に泣かれようが喚かれようが、一緒になって取り乱すほど素人臭い仕事はしていない。

「いえ……夫の事では……」
「……違うのか?」

 そう言って、夜木は渡された名刺をちらっと見た。

「え、ええ。その名刺は……ご挨拶の時に何も出すものがないのはちょっと決まらないんじゃないかと思って持参したんです。私は……専業主婦ですから、これと言った肩書きもないし……でも、何の肩書きもない者が伺うより、やっぱりそれなりの役職についてるんだっていう……なんていうか……その……ねえ? ステイタスっていうか……。商売に貴賎はないなんて言葉もありますけれど、初めてお会いする方に対しては、最初にこちらの身分をしっかりと分かっていただく事が結局分相応の扱いをして頂くためのコツだと思いましたもので……」
「……はあ(^^;)」

 取り乱しているように見えて、このおばはんも結構な狸である。

「で……、大柏製紙開発部長夫人、依頼の内容は……」
「ありがとうございます」

 花村と名乗った女は、夫の役職付きで呼ばれた事に誇らしげに礼を言うと、握りしめたハンカチを思い出したように震わせて話し始めた。

「これは、先日のニュース記事なんですが……」

 そう言って、花村佐和子はバッグを探って群島日報からダウンロードしたらしいプリントアウトをテーブルの上に乗せた。ハンカチはキオスクで売っていそうな安物の花柄プリントのガーゼハンカチだったが、バッグはこれ見よがしのシャネルである。

「ああ、この事件なら覚えてるが……」

 プリントアウトにちらっと目を通して、夜木は言った。

『女子高校生、殺人未遂……その奇行』

 ……の見出しから始まるその記事は、洋上大学軍事学部の学生が、女子高校生A子に大トロの短冊で殴りつけられ、殺されかかった事件の概要を伝えていた。

「その……A子というのは……私の娘なんです」
「………………なるほど」

 唐突だが、説得力はある。
 恋人でもない大学生をつかまえてわめき散らした挙げ句、冷凍の短冊で殴り倒した後に、大の男を昏倒させる凶器になるほど巨大な大トロを食うなんていうぶっちぎれた真似のできる奴は……確かにこういう母親から生まれてくるものなのかも知れない。

「で、何を調べるんだ? 相手の大学生の女関係か? それとも娘の男関係の方か?」

 さっきから夜木の質問は極端に「そっち」方面に傾いているが、実際に探偵の仕事のほとんどが「その筋」の依頼なのだから仕方がない。こっちから質問を投げかけて無理矢理にでも話を進めなければ、三日経っても同じ事を言っている手合いと言うのは実在するのだ。……例えばこの、花村佐和子のように。

「実は……これは発表されていない事なんですが、娘は――桜子という名ですが、警察での取り調べの最中に倒れまして、今は警察病院の方にご厄介になってるんですの。何でも事情聴取の際に突然苦しみ出したと言うんです。病院に運び込まれて症状はなんとか落ちついたらしいんですが、今度はひどく暴れ出したとかで……明るい娘で、軍事学部に入りたいなんていうお転婆なところもあるんですけどね、理由もなく人様に暴力をふるう様なことは今まで一度だってなかったんです」
「…………」

 声を震わせて続く佐和子の話を聞きながら、夜木の頭にふっと浮かんだものがあった。それは、ほとんど直感だと言ってもいいひらめきだった。
 麻薬中毒……。
 軍事学部生を殺そうとしたとき、そして病院にかつぎ込まれた時に見せたその狂暴性がもし、薬物の禁断症状によるものだとすれば……。

「夜木さんに調べて頂きたいのは、娘がその大学生の方を殺そうとした動機なんです。警察は桜子がヒステリー体質の分裂症で……犯行もそのせいだと……、私、それが悔しくて悔しくて……」

 佐和子の言葉には、すでにハンカチを食いちぎらんばかりの迫力が込められていた。
 この佐和子の娘の犯行の動機を、精神錯乱の方面に持って行った警察官の気持ちが、夜木にはちょっとだけ分かったような気がした。

 

 涙が枯れるまで事務所に居座って、しゃべり続けた佐和子がようやく腰を上げて出て行くと、夜木直樹は即座に調査を開始した。
 佐和子が予想以上に金払いのいい依頼主で、夜木の言った調査料金を、値切りもせずに前払いしたのだと言うことももちろんあるが、何より自分の「直感」を裏付ける物証が欲しかった。
 麻薬中毒の女子高校生が殺人未遂――。
 表沙汰になれば『女子高校生、殺人未遂……その奇行』なんて見出しははメじゃない位のショッキングな事件である。
 それが表沙汰になるかどうかは夜木にとってはどうでもいい事だった。
 ただ……自分自身の手でその真相を暴きたいという強い欲求があるだけだ。……久しぶりに、手ごたえのある仕事に巡り会ったのだという予感がした。

 

 最初に夜木が手に入れたのは、警察に証拠品のひとつとして保管されていた現場写真だった。
 こうした資料もすべてコンピュータで保管されているため、データベースにアクセスさえすれば、入手は困難なものではない。

「……」

 そしてその写真を見たとき、夜木は「群島の警察は名ばかりのものだ」と言われるその原因を、まざまざと見せつけられたような心地になった。
 ダイニングボードの下で、サクマドロップスの缶に「埋もれて」血塗れになって倒れている軍事学部生C。その写真を一目見ただけで、この事件の異常さに気付いてもよさそうなものだ。
 ダイニングボードの棚からこぼれ落ちたと思われるその赤い缶は、五つや六つではなかった。写真に映っているだけでも三十近い数があるのだ。そして、ヴェネチアングラスやマイセンの食器、シルバーのカトラリーのこれ見よがしに飾られたダイニングボードの中で、庶民的なサクマドロップスの缶は、あまりにも場にそぐわない。

(薬物中毒とサクマドロップスの缶……何か関わりがあるのか?)

 夜木の推理は……着実に真相に近付きつつあった。