Act2-1;コドモの恋VS大人の気持ち
病室のクーラーはずっと切ったままになっている。明け放った窓から時折、さわっと涼しい風が入ってくるのを身に受けながら……マイヤーは長い時間荒川運河を見降ろす窓辺に立ちずさんでいた。 「……失礼」 小さく扉をノックする音がして、病室に津久井が入ってきた。
「病人の具合は?」
そう、ため息をもらすように津久井は言い、眠っている香南の顔をのぞき込んだ。 「……こんな事を続けるのは、感心しないな」
津久井はマイヤーを振り返らず、香南の脈や体温を計りながら呟いた。
薬物中毒の患者を扱う事は、津久井にとっては専門外のことだった。本来ならば警察に届け、然るべき施設で治療を行うのが筋である。 「警察は信用できん」
それが……津久井の言葉に返されたマイヤーの返事だった。
「彼女を裁くために警察が必要だとは私も思わない。……だが、あの錠剤がどんな効果を持つ薬物か分からない以上、こうしてとどめておくのには常に危険がつきまとうのだという事も、考えるべきではないのか? あの錠剤が即座に死につながる効果を持っているとは考えられないが……この状態が長引けば生命の危険にさらされる事は免れない。速やかに専門の病院に移して精神的な治療を受ける必要がある。……医師の立場で言えるのはそれだけだ」
マイヤーはそう低く呟き、流動食の管を鼻から挿入されている香南の寝顔を見つめた。眠っているときだけは症状が落ちついているようにも見える。見る影もなくやつれた表情にも、軍事学部の助教授室に大胆にも潜り込んで眠りこけていたときと同じ、がき臭い寝顔が浮かんでいた。それがマイヤーにとって……今、唯一と言えるだろう救いだった。
(香南を……立ち直らせてやらなければならない)
どこにぶつければいいのか分からない凶暴な思いが、マイヤーの中に逆巻いていた。 (このまま……香南の事を俺の胸のうちにしまっておく事はできない……)
衰弱する一方の香南を見つめて、マイヤーにもその思いが沸き上がり始めていた。 (ゼロワンSTAFFの中川が……香南の実家を知っていると言っていたな……)
入浴をさせるために入ってきた担当の看護婦と入れ違いに病室を出たマイヤーは、津久井と別れ、そのままエレベーターホールへと向かった。
|
|
ゼロワンSTAFFの留守番をアインシュタインと幸子に任せて(「幸子とアインシュタインに」ではない。念のため(^^;))、アーマスは外出していた。 「人手が足りない……」
出て行くとき、アーマスはそうぽつりと漏らした。 「じゃあ、ユッコがアメデオ(注/アインシュタインのことである(^^;))と一緒に行ってこよっか?(^_^)」
という、幸子の意見を「背に腹は代えられまい」と飲み込むほどにアーマスは捨て鉢にはなっていなかった。幸子にお茶汲みと留守番以上の芸当ができるわけはないのだということは、ハナから承知の上なのである。
その人員を求めてアーマスが訪れたのはWWL(ワールドワイドリース)――ストッキングからスペースシャトルまで何でも貸します――という宣伝文句がウリのレンタル屋だった。 「ゼロワンSTAFFのアーマス・グレブリーです。……実はこちらで人材をレンタルしてもらいたいんだが……」 さすがにアーマスのその言葉に、WWLの店員も唖然とした表情を見せた。
「あのーー、ゼロワンSTAFFって、人材派遣屋さんじゃありませんでしたっけ?」
冗談でしょ?
「実は……群島プロムナードで人材募集をしてるんだけど……」
アーマスは簡単に企業内スパイの仕事の内容を話した。 「……代金は日給これくらいと……あと、危険手当がついて……こんなもんかな?」
ぽちぽちと電卓を叩きながら、店員はアーマスの顔を見上げた。 「その代金に、派遣先の給料が入って……全部でこのくらいにはなる……と思うよ」
そう言ってアーマスは電卓のキーを叩き、さらに料金に上乗せをした。
「で、どういう人材が御入り用?」
店員はそう言って店の奥の倉庫に入った。奥にいた店長のラバ・リブンセとなにかを話しているのが、カウンター越しにアーマスにも見える。
「……商談成立、ですね。ぴったりの娘がいますよ。結城唯という名前で……年齢は19歳。耳ざとい娘ですから、そういう仕事にはもってこいだと思いますよ」 WWLの店員――朝比奈うずめはそう言って、営業笑いと言うにはちょっと毒のある表情を作った。
結城唯がゼロワンSTAFFを訪れたのは翌日のことだった。 「さっそくで悪いんだけど、明日からでもまぐまぐバーガーの方へ行ってくれるかな? 店長の高梨さんにはもう話はついてる。一応形だけ面接して、業務につくのは明後日からってことに……」
玄関のインタフォンが鳴ったのはそのときだった。 「ふむふむ」 とでも言いそうなポーズでいちいちうなずきながら読んでいるのを見て、唯は驚きを隠せなかった。さっきこの部屋に通されたときに、この猿は天才なんだとアーマスから聞かされてはいたのだが、まさか文字を読むとは思ってもみなかった。 「……すごいわ」
思わずそう、言葉がもれた。
「どちら様ですか?」 インタフォンから帰ってきたのはその一言だった。 (マイヤーがここに来るなんて……どういう風の吹き回しだ?)
かつて佐々木建設の事件では仲間として戦った間柄ではあるが、マイヤーはゼロワンSTAFFからの派遣スパイではなかったし、与えられた役割の差のせいで顔を会わせる機会も決して多くはなかったため、親しいつきあいはないままだった。 アーマスはマイヤーに香南を押しつけられたことがある(^^;)というくらいなものだろう。
「珍しいな? 何かあったのか」 アーマスの問には答えず、マイヤーは玄関先にきちんと揃えて脱がれた靴を見て、それから部屋の奥をのぞき込んで呟くように言った。
「ああ。仕事のことで来てもらってるんだ。待つか? ――話はすぐ終わる」 そう言って、マイヤーはダイニングの安っぽいテーブルセットの椅子を掴んで腰を降ろした。 (……大事らしいな)
口には出さなかったが、アーマスはそう感じていた。 「お客様ですか?」 戻ってきたアーマスに唯がそう声をかけた。 「ん? ああ……まあね。面接は必ず通るようになってるから。……で、業務についたら、アルバイトの女の子たちの様子を調べて欲しいんだ。危険なことは一切しなくていいから。それで…………」
アーマスの話は続いていた。
|
|
唯が帰った後のオフィスで、マイヤーはこれまでのいきさつを話し、香南の実家に連絡を取りたいのだと告げた。 「……香南が……薬物中毒?」 アーマスは信じられないと言う表情だった。
「俺だって……信じられん。薬物が何なのかはまだ分からんが、経口服用する錠剤だ。LSDか、あるいは強い鎮痛剤のようなものかもしれん。身体的依存性も認められたが、精神的依存性の方が深刻だと医者は言っていた。……今は口も聞かず、こっちの言っていることにも何の反応も示さないって状況だ」 マイヤーはアーマスの言葉を遮って低く言った。 「…………」
言葉を失い、アーマスはマイヤーの顔を見つめる。
「……じゃあ、香南もその手口に引っかかったと言うのか?」 今度はアーマスがマイヤーの言葉を遮った。
「ドロップスの缶ってどういうことだ?」
マイヤーは鼻白んだ。 「……どうやら、今回の事件はかなり根が深いらしいな」
アーマスはそう言ってため息を漏らした。
諒が群島中央病院を訪れたのはその日の夕方だった。面会時間はもうあと一時間ほどしか残っていない。 (……少しは元気出してくれればいいけど……)
鼻先をくすぐる花びらを見つめて、ため息が漏れた。
「香南ちゃん、起きてる?」
ノックしても返事がないので、そう声をかけてドアを開けた。 「あら、森沢さんのお友達?」 部屋に入ろうとした諒に、背後から中年の看護婦が声をかけた。すぐにそれが、アーマスの言っていた香南の担当の看護婦だろうと気づいて、軽く会釈する。
「ええ。アパートの隣に住んでるんです。……寝てるのかしら、返事がなくて」 看護婦の表情には、柔らかい微笑が浮かんでいた。 「森沢さん、お友達が来てくれたわよ」
そう言って看護婦は諒とともに病室に入った。 「またベッドから起き出してたの? 駄目よ、いい子にして寝てなくちゃ……」
小さな子どもに言い聞かせるような口調で看護婦は香南に話しかけた。窓際から離れようとしない香南をベッドに戻して、夏がけの薄いタオルケットを掛けてやる。 (香南ちゃん……!)
香南と諒は決して長いつきあいではない。諒がこの群島にやってきてからの……まだほんの数週間のつきあいだ。そのあいだに……諒は香南の笑顔しか見たことがなかったような気がする。 「マイヤーさんが来ているときは……それでも少しは反応を示すのよ。泣いたり……話しかけると、振り返ったり……」 (このままじゃ――死んじゃう) 看護婦の声を聞きながら諒はそう感じずにはいられなかった。 「香南ちゃん……」 力なく一歩、二歩と近寄って、諒は香南の寝るベッドに腰を降ろした。香南の頬に手を触れ、涙をこらえて必死に笑顔を作った。 「早く良くなって……。アーマスとね、話してたのよ。27日は……香南ちゃんの誕生日でしょう? 香南ちゃん、16? 17? みんなで『味の屋』でパーティしよう。ね? だから……それまでに良くなって」
その諒の言葉に……香南はちょっと顔を上げたように見える。 「香南ちゃん……」
だが、そのわずかな変化は、すぐに香南の顔から消え去ってしまった。 「……治るんです……か」 諒は背後に立っている看護婦の顔を振り返るのが恐かった。
「分からないわ。ここは専門外で、特別な治療は出来ないし……。でも、最初にここへ来たときに比べれば、ずっと症状は安定してきてるのよ。禁断症状の苦痛も、ずいぶん落ち着いたようだし……」
指をくわえて宙を見つめている香南の表情を、これ以上は見ていられなかった。
|
|
諒が自宅に戻ったのは深夜になってからだった。 (香南は……そんなに悪いのか……)
狼狽を表に出すことのないマイヤーからは、それは感じとれないことだった。 「……諒」 何も言わずに寝室に閉じ込もってしまった諒に、アーマスは声をかけた。 「ごめん……アーマス。私、疲れてるの。少し休ませて。話は明日するから」
今日は香南のことを話したくはないのだと、そう言いたげな強い口調だった。 「ゼロワンSTAFFの派遣スパイとして……まぐまぐバーガーへ行ってくれないか、諒」 アーマスのその言葉に、諒は驚いたように目を見開いた。 「……まぐまぐバーガーにって……、アルバイトを装って、てこと?」
平素、アーマスはあまり諒に仕事の話をすることはない。 「人手が足りないんだ。真奈美が帰ってくるまで、WWLから借りてきた唯ひとりじゃ、どうにもならない」
アーマスはそう言って諒の顔を見つめた。
「でも……無理よ。まぐまぐバーガーで……どんな仕事をするの? アルバイトに混じってカウンターでハンバーガーを売るんでしょう? 私にそんな仕事できるわけないわ。……客商売なんて……苦手だもの」
「……私って……嫌な娘……」
パブのカウンターでビールを煽って、諒は飲み友達の弥生葉月にそうぼそりと漏らした。 「お客さん相手の商売なんて……商売なんて……」
店に入ってから、諒は愚痴の連発である。 「女に稼がせようなんて……サイテーの男だな」
葉月がそう……諒の言葉に相づちを打つように言った。 「アーマスは……優しい人よ。でも何だかちょっと物足りない。優しいってだけならね。香南ちゃんに対してだって、オフィコンのユッコちゃんに対してだって……」
諒はアーマスからの……もっと強いアプローチを求めていた。 「香南……?」
葉月は眉を寄せた。 「そんな男の言いなりになってアルバイトになんか行くなよ。そいつの部屋を出て、行くところがないって言うんなら、俺のところに泊めてやるからさ。俺のトコなら同居人がたくさんいて賑やかだし、女の子だっているから気楽だろ?」
そう言って葉月は諒のためにもう一杯ビールを注文した。 「ありがと……。でも、約束しちゃったから、アルバイトに行くって。約束破るのは、私好きじゃないし……。出て行きたいわけでもないんだと思うの」
諒はウェイターの差し出すビールを受け取って、小さくそう言った。 「じゃあ……俺も一緒に行ってやるよ、そのアルバイト」
薮から棒に葉月がそう言った。 「な? それなら安心だろ? ……いつでも守ってやるからさ。安心しろって」
その葉月の言葉に、諒はどう答えていいのかわからなかった。 (結局……行くしかないんだな、アルバイトに……) _ |
|
すでに唯はアルバイトとしてまぐまぐバーガーで働き始めていた。 『俺も一緒にアルバイトする』
……というその言葉が、どこでどうよじ曲がったのかは謎だった。実際、待ち合わせたSNSでその姿を見たときには、思わず諒は絶句してしまった。 (……でも、しないわよね、フツー) そう思いながらも……それが葉月の「善意」なのだろうと理解する事にして(実際には単におちゃらけていただけだが……)諒は葉月とともにまぐまぐバーガー縁島洋上高校前店を訪れた。 そして……、 「………………(^^;)」 面接をするために店内の一角に腰を降ろした諒と葉月を見て、店長・高梨稟も言葉を失っていた。
「ええと(^^;)、大西さんお一人って伺ってたんだけど……?」
葉月の演技力は……百点満点と言ってもいい。 「……ダメってことはないんですけど……」 稟は諒の顔を見つめ、 この人もスパイなの?
と聞きたそうな表情になっていた。 (この子……ホントに女の子かしら?)
そう思い浮かんだ疑問を、だが稟は口に出す事ができなかった。履歴書には『弥生葉月』とある。女でも男でも通る名前だ。そしてしっかりと『女』のところに丸がつけられている。 (でも……でももし本当に女の子だったら…………あまりにも失礼だわ) そして、困り果てている稟に助け船を出したのは、またしてもアルバイトの高校生だった。 「弥生先輩に『女装』の趣味があるなんて知らなかったわ。ここでバイトするのは勝手だけど……更衣室覗いたらただじゃおかないから!」 コーヒーのお代わりを持ってくるついでに、アルバイトの少女はそう捨て台詞を残して言った。
「…………(^^;)」
上から順に、葉月が、稟が、そして諒が漏らした言葉である。 「そんな格好で来るなんて思いもしなかったわ」 とは言ったが、 「やめなさいよ」 とは一言も言っていない。念のため……(^^;)。
そして諒と葉月がアルバイトの面接をしている頃、アーマスもゼロワンSTAFFのオフィスでようやく訪れた“マトモそうだと判断できる”スパイ志願の応募者の面接をしていた。 (16歳……やっぱり……ヤバいよなぁ(^^;))
かつて真奈美がゼロワンSTAFFを訪れた時に中川が漏らしたのと同じため息をアーマスもまた漏らさずにはいられなかった。 「背に腹は代えられない。……人手が……足りないんだ」
と、半ばヤケになって真奈美の雇用を決定したのと同じ判断を、アーマスも下すしかなかった。 『高校生ねえ(^^;)、うーん……でもまあ、仕方ねえよなあ。派遣先が派遣先だし……表向きは“人手不足のまぐまぐバーガーにアルバイトを紹介”ってことにしとけよ」
……という無責任とも思えそうなものだった。 「可愛い娘だし……」 と言ったその言葉さえなければ、アーマスは中川の決断力を評価する事もできたかも知れないが……(^^;)。 「社長代理はん、うち……雇ってもらえますん?」
ヴィジホンの前にへたり込んでいるアーマスに、衿霞はそう声をかけた。ドイツ人の癖に……この娘はなぜか京都弁を使う。 (……とんでもない会社に来てしまったような気がする(^^;))
そういう経路を経て……ともかくゼロワンSTAFFは新たな「スパイ要員」を得た。白葉衿霞はアルバイトとしてまぐまぐバーガーに潜入。そして沫雷は宝飾デザイナーとして、時折高校生や中学生を相手に露店を出しているその本業を利用して、麻薬汚染が広がっていると思われる高校生、中学生の女の子たちの方面から調査を開始することとなった。
アーマスは衿霞と雷の面接を終えた後、留守番を幸子に頼んでボーナスの査定の査定に出かけた。帰国したのは今日もまた夜十時を過ぎてからだった。 「今日からお店に出てみましょう」
という稟の言葉で無理矢理売り娘をやらされ、くたくたに疲れ果てて諒が帰宅したのも……ちょうど同じ頃だった。 (疲れているようだな……)
アーマスの方には無理矢理アルバイトを強いた罪悪感があった。
何の言葉もないままふたりはそれぞれの寝室に入り、心の底に屈託を残したまま浅い眠りについた。 (……ダメ……なのかな。私と……アーマス) そんな重い気持ちが、ベッドに入ってからも諒の心の中から消えなかった。
|
|
夏休みの間も、補習授業やクラブ活動に参加する生徒で洋上高校のキャンパスは賑やかなものだった。 (……この学校の生徒が、麻薬に冒されているだなんて……信じられん) 確かに、他の多くの高校がそうであるように、この洋上高校にも素行不良の生徒はいる。洋上大学という一風変わった大学への進学校というイメージが強いためか、集まってくる生徒は変わり者が多い。型破りな生徒、個性の強すぎる生徒が他校より多く、そして彼らを締め付ける規則のきわめて少ない自由な校風が、そうした素行不良の生徒を野放しにしているのだと言う批判がある事も事実だ。
校長は広川というフリーのジャーナリストが高校生の麻薬汚染の状況を調べるために校内に出入りするのを許可した、と伝えただけだった。 (そういえば……編入生の森沢は、花村とは親しかったようだったな)
森沢香南は転入試験にぎりぎりで合格し……その成績の悪さと以前籍をおいていた神奈川県の県立高校からの、『出席日数不足』という報告書から、9月から二学年に編入するためには夏休みの間補習授業に出席する事、という条件を申し渡されていた。 「軍事学部に入りたいの」
というその熱意は強いものだった。 (森沢がこのところ補習に顔を出していないのは……花村の事件を知って落ち込んでいるせいなのかもしれないな……) 一度、彼女の保護者である軍事学部助教授を訪ねる必要があるのかも知れない……仁科はそう感じ始めていた。 「仁科先生、どうしたんですか?」 ぼんやりと窓際に立ちすくんでいる仁科に、9月から三学年になる闇沢武士が声をかけた。
「……いや。補習か? 闇沢」
闇沢は仁科の担当のクラスではなかった。
「大丈夫だよ。考えごとをしてただけだ」 そう言って一礼すると闇沢は身を翻した。
仁科の言った通り、SNSはすぐに見つかった。
闇沢が入ってきたとき、カウンターの中にいたのは三日月ではなかった。
「悪いな……呼び出して。店の方はどう?」
シータはそう言って営業用の笑いを作った。 「……でね、電話で言ってた“ラブシック”なんだけど……」
そう言ってシータは小さくため息をついた。 「僕も……色々調べてみたんだ。あっちこっちのデータベースに……かなりヤバい領域まで侵入してね。でも……見つかったのはこれだけだった」
プログラマーであるシータは、仕事上のコネもあってあちこちのデータベースにアクセス権を持っている。情報を収拾する事には長けている彼女の、平素なら口にすることはないだろう愚痴っぽい台詞が、その作業がいかに困難であったかを物語っていた。 『【ラブシック】 薬物の名称か?』 という短い一行が三日月の目に飛び込んできた。 「クエスチョンマーク付きってことは……未確認の情報ってことだな」 そう言って小さくため息をもらす。
「迅のところに来たその女子高校生って……占いの結果を聞いて、『ラブシックの方がいい』って言ったんでしょう? その話を聞いて、最初はおまじないみたいなものじゃないかと思ったんだけど……もしこの情報通り、ラブシックっていう名前の薬物があるんだとすれば、どんなものだろう? 麻薬とか媚薬とか……そういうものじゃないかな」
三日月はそう言って、もう一度あの女子高校生の行動を振り返ってみる。 『それまでは、彼と恋に落ちる夢を見る』
というあの言葉……。
「……多分、シータの推察通りなんだと思うよ。僕ももう少し調べてみるけど、シータの方でも引き続き調査をしてくれるかな? こんな事、後になってから“間違いでした”じゃ済まないからね」 そう言ってシータは端末をバッグに戻すと立ち上がった。
シータ・ナサティーンと三日月迅が交わしていた会話は、カウンターでジュースを飲んでいた闇沢に、全て聞こえていた。 「ラブシックが欲しいなら、桜子に頼めばいいのよ。あの娘なら売ってる店を知ってるから」
と話しているのを聞いた事がある。 (……どうやら大事になりそうだ)
|
|
探偵事務所を訪れた中年の女は、花村佐和子と名乗り……大柏製紙開発部長と肩書きの入った夫の名刺をテーブルを挟んで座る夜木に差し出した。名刺には、花村孝弘という名前が印刷されている。 「花村と申します……」
そう言った女の声は暗く沈んでいた。 「依頼の内容はどういうものなんだ? 旦那の浮気? それとも……隠し子とか、職場での評価とか?」
狼狽える女を前にしても、夜木はいつもの姿勢を崩さなかった。
「いえ……夫の事では……」 そう言って、夜木は渡された名刺をちらっと見た。
「え、ええ。その名刺は……ご挨拶の時に何も出すものがないのはちょっと決まらないんじゃないかと思って持参したんです。私は……専業主婦ですから、これと言った肩書きもないし……でも、何の肩書きもない者が伺うより、やっぱりそれなりの役職についてるんだっていう……なんていうか……その……ねえ? ステイタスっていうか……。商売に貴賎はないなんて言葉もありますけれど、初めてお会いする方に対しては、最初にこちらの身分をしっかりと分かっていただく事が結局分相応の扱いをして頂くためのコツだと思いましたもので……」 取り乱しているように見えて、このおばはんも結構な狸である。
「で……、大柏製紙開発部長夫人、依頼の内容は……」 花村と名乗った女は、夫の役職付きで呼ばれた事に誇らしげに礼を言うと、握りしめたハンカチを思い出したように震わせて話し始めた。 「これは、先日のニュース記事なんですが……」 そう言って、花村佐和子はバッグを探って群島日報からダウンロードしたらしいプリントアウトをテーブルの上に乗せた。ハンカチはキオスクで売っていそうな安物の花柄プリントのガーゼハンカチだったが、バッグはこれ見よがしのシャネルである。 「ああ、この事件なら覚えてるが……」 プリントアウトにちらっと目を通して、夜木は言った。 『女子高校生、殺人未遂……その奇行』 ……の見出しから始まるその記事は、洋上大学軍事学部の学生が、女子高校生A子に大トロの短冊で殴りつけられ、殺されかかった事件の概要を伝えていた。
「その……A子というのは……私の娘なんです」
唐突だが、説得力はある。 「で、何を調べるんだ? 相手の大学生の女関係か? それとも娘の男関係の方か?」 さっきから夜木の質問は極端に「そっち」方面に傾いているが、実際に探偵の仕事のほとんどが「その筋」の依頼なのだから仕方がない。こっちから質問を投げかけて無理矢理にでも話を進めなければ、三日経っても同じ事を言っている手合いと言うのは実在するのだ。……例えばこの、花村佐和子のように。
「実は……これは発表されていない事なんですが、娘は――桜子という名ですが、警察での取り調べの最中に倒れまして、今は警察病院の方にご厄介になってるんですの。何でも事情聴取の際に突然苦しみ出したと言うんです。病院に運び込まれて症状はなんとか落ちついたらしいんですが、今度はひどく暴れ出したとかで……明るい娘で、軍事学部に入りたいなんていうお転婆なところもあるんですけどね、理由もなく人様に暴力をふるう様なことは今まで一度だってなかったんです」
声を震わせて続く佐和子の話を聞きながら、夜木の頭にふっと浮かんだものがあった。それは、ほとんど直感だと言ってもいいひらめきだった。 「夜木さんに調べて頂きたいのは、娘がその大学生の方を殺そうとした動機なんです。警察は桜子がヒステリー体質の分裂症で……犯行もそのせいだと……、私、それが悔しくて悔しくて……」
佐和子の言葉には、すでにハンカチを食いちぎらんばかりの迫力が込められていた。
涙が枯れるまで事務所に居座って、しゃべり続けた佐和子がようやく腰を上げて出て行くと、夜木直樹は即座に調査を開始した。
最初に夜木が手に入れたのは、警察に証拠品のひとつとして保管されていた現場写真だった。 「……」
そしてその写真を見たとき、夜木は「群島の警察は名ばかりのものだ」と言われるその原因を、まざまざと見せつけられたような心地になった。 (薬物中毒とサクマドロップスの缶……何か関わりがあるのか?) 夜木の推理は……着実に真相に近付きつつあった。
|