室内はすでに三十度を軽く越えていた。 クーラーも扇風機もない公営住宅の三畳間は連日の猛暑のため、灼熱の地獄と化していた。日中は窓を開けても温度がいっこうに下がらず、とても室内にとどまっていられるものではなかった。
夜になれば二、三度は温度が下がるが、それでも寝苦しい事に変わりはない。
……にもかかわらず、この部屋の住人はここ三日ばかりの間、外出もせずに室内で過ごしていた。
その住人とは、爆裂北海珍味娘・森沢香南(もうすぐ16歳)である。
それまでの浮浪児同然の住所不定の身分を返上し、この「群島一家賃が安い」という保証付きの部屋を借りて住み初めてすでに三週間余りになる。
……なるのだが、一度身に染み着いた放浪暮らしは、三週間やそこらでは抜けず、この劣悪な生活環境も手伝って相変わらずふらふらと腰の落ちつかない毎日が続いていた。
今日は豊島マリーナに泊まってみよう。 一昨日泊まったレジャーランドSNSの倉庫はなかなか寝心地が良かった。
でもやっぱり、最高のねぐらと言えば軍事学部の助教授室だな……。
……という具合に、この三畳ひと間のアパートには三日に一度も帰ってはいなかった。 九月から洋上大学附属高校に転入することが(夏休みの間補習授業に通うことという条件つきで)決定し、補習授業に通う毎日が続いていたし、補習が終われば生業としている北海珍味の行商が待っていたから、いずれにしても部屋にいる時間は短いものだった。
だがその香南が……どういう風の吹き回しか三日も部屋に閉じ込もっているのである。
ちびの癖に人の三倍食べる食欲も……滞りがちだった。 落第せずに洋上高校を卒業して、ストレートで軍事学部に入るんだ! という決意のもとに、香南にしては珍しく真面目に通っていた補習も、部屋に戻った三日前から休んでいる。
そして一日中……意識が朦朧とするほどの蒸し暑い室内でぼんやりと浅い眠りの中を漂っていた。
布団は持っていない。 そして、唯一の寝具である寝袋にくるまるには、この部屋は暑すぎた。
ひんやりと冷たく感じる擦り切れた畳の上に直に転がって、香南は宝物のM60のモデルガンを抱え込み、お守り代わりの二発の薬莢を握りしめて、着古した男物の大きな野戦服にくるまって眠っている。
浅い眠りをむさぼりながら、香南は夢を見ていた。 片思いの相手である軍事学部の助教授・マイヤーに、ウェスタンラリアットをかける夢だった。蠍固めをかけ、チキンフェイスロックをかけ、次々にプロレスの技をかけまくる夢を……三日の間、飽きもせずに見続けていたのである。
技は、その大半が失敗していた。 香南とマイヤーでは体格が違いすぎたし、かつて傭兵として鍛えに鍛えたマイヤーの体力の前に、テレビで覚えただけの香南の技が通用するわけはない。そのハンデはたとえ夢の中であっても克服されることはなかった。
だがそれでも、香南の寝顔は満足そうなものだった。 現実には決して香南のプロレスごっこにつき合ってくれることのないマイヤーが、思う存分プロレスごっこをしてくれる。
それは香南にとって、マイヤーのお古の野戦服をせしめたときよりももっと嬉しい出来事だった。そして浅い眠りからぼんやりと目覚め、再び浅い眠りに落ちていくのを繰り返すうちにそれが夢ではなく……現実の事のような気さえしてくる。
それは……幸福な錯覚だった。 出会ったばかりの頃から比べれば……香南とマイヤーの距離はずっと近いものになっている。
二十歳も歳の離れた香南の思いを「子供の恋愛ごっこだ」と言い切って、あからさまに避けていたマイヤーが、今ではこの部屋の家賃を援助してくれ、高校編入に骨を折り、軍事学部に入学したいという気持ちを容認してくれている。そして他の誰にも向ける事のない穏やかな表情で香南を見つめるようになった。
だがそれでも……過去を引きずって生きる心の奥底での迷いが、完全に消えてしまった訳ではない。
その事を、香南は敏感に感じとっていた。 平素は野放図で、余り物事を深く考える事のない香南だったが、人の心の奥底を見透かす勘の良さだけは人並以上に持ち合わせていた。マイヤーはいつも自分との間に一定の距離を保ち、そこから先に香南が立ち入ってくるのを好まない。
マイヤーがそこにいるのなら、軍事学部へ行きたい。そしていつかマイヤーが戦場に帰ろうとするのなら……その時は一緒に連れて行って欲しい。そのためなら、軍事学部の訓練がどんなに辛くても頑張るから……。
だが、香南のその純粋な気持ちは……マイヤーにとって受け入れるには重すぎるものだった。
マイヤーは傭兵として生きてきた年月の中で戦場の泥の苦さを知っている。そんな場所に香南を連れて行きたいなどと思えるはずはなかった。
「うーん……」 ひどく喉が乾いて、香南は目を覚ました。
服も髪も、汗でじっとりと濡れている。のろのろと身体を起こすと香南は部屋の出口にある流しへ行って、蛇口を目いっぱい開け、溢れ出してくる水に直接口をつけて飲み始めた。
いくら飲んでも、汗をかくばかりで喉の乾きは癒されなかった。
頭から水をかぶって束の間の涼気を味わうと、再び部屋の奥に戻る。立っているだけで目眩を感じるほどの倦怠感が身体にわだかまっていた。
「まーちゃん……」 汗を吸った野戦服をかき抱いて、香南はまたごろりと床に転がった。
濡れた髪から滴る水滴に混じって、溢れ出た涙が頬を幾筋も流れる。さっきまでの満ち足りた気分が嘘のように、今度は絶望感が襲ってきた。
『生きる場所が、違うんだよ』 『俺は常に死と隣り合わせに生きてきたし、これからもそれを変える積もりはない』
そのマイヤーの言葉が、心に突き刺さるように記憶の底から蘇った。
全身に鳥肌の立つ不快感。 身体の奥には息苦しいほどの熱が篭もっているのに、皮膚は凍えて震えているのだ。
(まーちゃんは……いつかひとりで行っちゃう……) (ひとりで、戦争に行っちゃうんだ)
(そして香南の知らないところで…………死んじゃうかもしれない)
着古した野戦服に確かに染み着いているように感じられたマイヤーのにおいが、急速に薄れて行くような気がした。いくらかき抱いても、それは決して手の届かない遠いものなのだと思い知らされたような心地だった。
(まーちゃんは香南の知らないところで……死んじゃう) (もう……帰ってこないかも知れない)
マイヤーがすでにこの地を離れ、傭兵として戦場に戻ってしまったのだとさえ、香南には感じられた。
いくら堪えようと思っても……涙が止めどなく溢れてくる。 (まーちゃん……)
寝返りを打ったその時、香南の背中にドロップスの缶があたって倒れた。ふと手を伸ばしてその缶を取り、堅く閉まった蓋をこじ開ける。指先が震えて、なかなか上手く開ける事ができなかった。
「あっ……」 蓋が開いた瞬間、汗で濡れた手が滑った。缶が畳に落ち、中に入っていたピンク色の糖衣錠がざっと床に散らばった。
床に寝そべったまま香南は一掴みの錠剤を拾い上げて口へ運んだ。
からからに乾いた口の中で甘い糖衣が剥がれ落ち、苦い薬の味に変わって行く。それをぼんやりと天井の染みを見つめて味わっているうちにまた強烈な睡魔が襲ってきた。
意識が次第にぼやけ、白濁していく。 うだるような部屋の暑さが、感じられなくなっていく。
身体の中にわだかまっていた倦怠感も、鳥肌の立つほどの悪寒も……マイヤーの死を予感させた絶望感もすべてが散漫な印象となり、静かに消えて行った。
そして……再び甘い陶酔が香南の意識を支配し始めていた。
「いるのか? ……入るぞ、香南」 そう声をかけて、マイヤーが室内に入ってきたのにも、香南はまるで気付いていなかった。
いつもなら、ドアが開いた瞬間に、 「きゃーーーっ、まーちゃんっ!」
と、奇声を上げて飛びついているはずの香南が、野戦服にくるまって床に転がったきり、ぼーっと天井を眺めている。
「……香南?」 そう声をかけてみたが、香南の反応は帰ってこなかった。
ぽっかりと目を開いてはいるのだが、その瞳は焦点が合っていない。床に散らばった大量の錠剤を見て、マイヤーはすぐにそれが薬物による幻覚症状なのだと気付いた。
「……?」 ふと、人の気配を感じとって、マイヤーは背後を振り返った。開けっ放しにしたドアの向こうに、金髪の少年が立っているのを、視界の端に捕らえたのだ。
(ルイス……?) だが、振り返ったときには……もうそこには誰もいなかった。
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