「………………」 稟は絶句していた。 固く結んだ唇の端が、ぴくっと震える。
彼女を寡黙にさせている原因は……もはや雷鳴ではない。さっきまで吹き荒れていた暴風雨もすっかり上がり、稟も一時は平静さを取り戻していた。
……が、アルバイト募集の広告を見て来たという少年の出現が、またしても稟を、
(ああ……私、取り乱してしまいそう……) という心境に追いやっている。
アルバイト志願の少年は、 「じゃあ、軽く食事でもしながら話しましょう」
と言ってハンバーガーとコーラを差し出した稟の言葉をどう誤解したのか、彼女の膝に座ってがつがつと食べ始めたのである。
アルバイト志願の名は、小泉六甲。 九月から洋上大学に入学する18歳の少年だが、中学生の男の子でも通りそうな、小柄な外見をしている。おいしい食べ物には目がなくて、しかも食べるときに女の膝の上に座るのが何よりの幸せ……という変わり種である。
が、膝に乗られている稟が、そんな六甲の事情を知っているわけはない。
(こ……ここで取り乱したりしたら、店中の笑いものだわ。でも……でもでも、どうすればいいの……?)
「ねえー、何なの、あの子」 「店長……叩き落としちゃえばいいのに……人がいいんだから……」
「助け船出した方がいいんじゃない?」 アルバイトの女の子たちがそんなことをささやきあっているのを、この状態で稟が気づいたはずはない。そして勿論、ハンバーガーに食らいついている六甲も、気づいていなかった。
「店長、コーヒーですぅ」 そう言って近づいてきたアルバイトの一人が、稟の膝の上にちんまりと座っている六甲をどつき倒したのはそのときだった。
「……あ」 稟が小さく声を上げた。 突然の攻撃を食らって、六甲は稟の膝から転げ落ち……たように見えた。が、ひらりと身をかわすと、狭いテーブルの間でくるりと一回転して立ち上がる。
「………………」 そして再び、稟は絶句した。 六甲をどついたアルバイトも……今度は稟と同じように絶句する。
「わ、わしのハンバーガーは無事ねっ!」 ハンバーガー……と言っても、すでに最後の一口が残っているだけである。
思わず握りしめてしまったハンバーガーを大事そうに口に運ぶと、六甲は唖然とした表情で自分を見つめている稟とアルバイトを振り返って意外そうな表情を作った。
「わしの顔になんぞついとるか?」 別に、六甲のこのどこの方言とも知れぬ謎の訛りが、稟とアルバイトを絶句させたわけではない。念のため。訛りに関してはすでに六甲が訪ねてきたときに、すでに充分唖然としていた。
(…………忍者かしら) 稟は引きつった顔に何とか笑顔を浮かべて、六甲に椅子を勧め、アルバイト用のマニュアルを閉じ込んだファイルを開いた。
とりあえず、仕事の話に移るのが最善の方法−−と稟には思えたからだ。
「し、仕事の話ですけどね、小泉くん。週に三回くらい来ていただけるかしら? 初めはお掃除から覚えてもらって、だんだんにハンバーガーの調理も覚えましょう。大丈夫、すぐに上手になるわ。あなた用のロッカーを用意して、制服もそちらに準備しておきますから……そうね、明後日くらいから出られるかしら?」
「よか」 こくん、と頷いて六甲はきょろきょろと辺りを見回した。
「じゃあ、明後日の一時から……その時間だったら私もいるから。−−どうかした?」
「ハンバーガー、お代わりはないのけ?」 「…………。お腹減っているの?」
「うみゃーハンバーガーじゃけ、ぎょうさん食わしておくれやす」
「じゃ、そうね。仕事の話はこれくらいにしましょう。あちらで注文してらっしゃいな。今日は特別に私がご馳走するわ」
「ホ、ホントね、きれーなねーちゃん」 六甲は嬉しそうにそう言って椅子から飛び上がると、カウンターへと走って行った。
そして残された稟は、耳まで真っ赤に赤面していた。 (……ば、馬鹿ね。子供のお世辞なんかで照れたりするなんて、私らしくもないわ。全然、似合わないのよ。お世辞に頬を赤らめるなんて、もっと可愛くて、もっと若い女の子のすることだわ。平然としていなさい、稟。“ご馳走してくれてありがとう”くらいの意味でしかないのよ。いくら言われ慣れてないからって……取り乱したりしたら……笑いものだわ)
つくづく……人の言葉に左右され易い性格なのである(^^;)。 28年間も男に騙されずに生きてきたのは、奇跡という以外にないことだった。
そして、トレイに山盛りになったハンバーガーを持って戻ってきた六甲が、再び稟の膝の上にちょこんと座り、がっつき始めた。
「……………………」 もうすでに、稟は諦めていると言うハナシもある。
とにかくまあ、こういう訳で小泉六甲のアルバイトは決定した。洋上大学に入学する事を条件に親からもらっている仕送りと併せれば、まずまずの生活をして、美味しいものを腹いっぱい食べられるくらいの金額になる。
店の自動ドアが開き、新しい客が入ってきたのはその時だった。洋上高校のセーラー服を着た少女だった。
「恋をするには絶好の日和ですね。−−まぐまぐチーズバーガーひとつ」
(…………?) その言葉にふと稟は眉を寄せた。 ついさっき、暴風雨の吹き荒れる中に現れた少女も……確かそんな事を言っていたはずだった。
とっさに、稟はカウンターの方を振り返ろうとした。 だが、膝の上に六甲が乗っているため、思うように身動きがとれない。
「なんしよるね、きれーなねーちゃん」 突然稟が動いたため、六甲は一瞬バランスを崩したが、ハンバーガーを取り落とすことも、膝からずり落ちる事もなく巧みに体勢を立て直す。
「……あ、ごめんなさい」 そう言いながらも、稟の視線はカウンターの方へ投げかけられていた。
アルバイトの高校生が、ハンバーガーの包みと一緒に、小さな赤い箱のようなものを袋に詰めるのが見えた。
(……何かしら) 「店長、コーヒーですか?」 不審そうにカウンターを見つめている稟に、その声が飛んだ。
まるっきり、後ろめたさなど感じさせない声だった。 (気のせい?)
アルバイトが袋の中に入れた小さな箱は……子供の頃に良く食べたサクマドロップスの缶のように見えた。
そしてもちろん、まぐまぐバーガーのメニューにはドロップスは載っていない。
「……いえ、いいの。何でもないわ」 稟はそう言ったが、その声は得体の知れない事件の発端を掴んだ様に……小刻みに震えていた。
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