その日……ASの天気予報ははずれた。 今日は一日、快晴だろうという予報に反して、昼過ぎから雨となった。いわゆる、バケツの底が抜けたような……と形容される、大雨である。しかも、暴風と雷のオマケ付き。
まぐまぐバーガー縁島洋上高校前店の店長、高梨稟は店内の片隅ですっかり冷めてしまったコーヒーの紙コップを片手に、電子手帳タイプの端末で本日のニュースを確認していた。
その顔は、青ざめている。 入力用のスタイラスペンを握るその手も……心無しか震えている。
雷が恐いのである。 あの腹の底に響くような落雷の重低音を聞いただけで、心臓鷲掴み、椅子から腰が飛び上がるほどの衝撃を感じずにはいられない。思わずほろほろと涙をこぼし、誰か頼りになる男(今のところそういう相手はいないのだが……)に抱きついてしまいたくなるほどに……恐い。
だが、稟は雷鳴におびえているのを客のいない店内で暇そうにしているアルバイトたちに気取られまいとペンを握る手に力を込めた。
(私がそんなことをしたら大爆笑だわ。私みたいに……気丈なだけが取り柄の可愛い気のない女が『雷……コワイ』なんて行ったって見苦しいだけよ。男性の気を引くための下手なお芝居だって思われるのが関の山だわ……。ああ、でも恐い。いいえ、ダメよ。気をしっかり持つのよ、稟)
そう必死で自分に言い聞かせる。 だが、間接が白くなるほど握りしめても、手の震えは止まらなかった。無理して履いた5センチのヒールが、かたかたと音を立てている。堪えているはずの涙がじわっと沸き上がってきて、マスカラのラインを崩す。
「ねえねえ、店長真っ青よ」 「雷が恐いなんて、店長らしい……くすっ」
「万年少女って感じよねぇ」 「高梨店長って、もうすぐ三十でしょう? クスクス」
などとアルバイトの女の子たちが囁きあっているのにも、稟はまるで気付いていなかった。もともと、噂話にはこれでもかと言うほど鈍感な性質なのである。こんな緊迫した状態で、バイトの私語に気が回るわけがない。
(私は……私は気丈な女なのよ……) 震える手で紙コップを掴み、冷めたコーヒーを一口飲む。
稟は今年で28になる。彼氏なんかいないまま、この歳まで仕事一筋に生きてきた。
髪をショートに切りそろえ、いつもクリーニングしたてのぱりっとしたスーツタイプの制服を身につけ、細いヒールを履き、かっちりとしたメイクを施した顔に、細いメタルフレームの眼鏡をした……キャリアウーマンの外見を、いつも崩さない。
仕事をこなしていく能力は、決して人に劣るものではない。この縁島洋上高校前店の店長というポストを与えられたのも、その能力を高く評価されたからだった。
デスクワークをてきぱきとこなし、クレームにも適切な対処を心得ている。清潔好きで上司からもアルバイトからも信頼されて、笑顔を絶やさない−−上司の言葉を借りるなら、“まぐまぐバーガーの店長になるために”生まれてきたような女なのである。
ただひとつ欠点があるとすれば……その思いこみの激しさだった。
つまり……、 「私は気丈な女なのよ……」 という、自分自身に対する大きな誤解である。
彼女は決して気丈な性格をしてはいない。いや、それは自分で分かっている。
問題なのは、『周囲が私のことを気丈な女だと思っている』というその思いこみなのだ。
確かに、小学生の頃の稟はひとつ上の兄の影響もあって、男の子と間違えられることもある元気な子どもだった。ままごと遊びをしていて同じクラスの男の子に「気の強い男女のくせに、似合わない」とからかわれた事もある。
その言葉が……今も尾を引いている。 周囲が未だに自分の事をそういう目で見ているのだと、稟は誤解しているのだ。
いつまで経っても彼氏のひとりもできないのは、周囲に「可愛い気のない女」だと思われているせいに違いないわ。……でも、気が弱くて可愛い女なんて、私に似合うわけはないのよね……。
その思いが、彼女を仕事一筋の人生に駆り立てていた。 周囲の男たちが声をかけるのを躊躇うほどに小心者に見えているのだと言うことには、稟はまったく気付いていなかった。つくづく……鈍感な女なのである。
(でも……でもでもいつかは……きっと私の気丈さを鼻で笑ってくれるような、頼もしくて男らしい男性が現れるわ……)
そしてその、男たちのアプローチにまったく気付かない鈍感さが、オールドミスへの道を確実なものとしているのである。
「店長、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」 そう言いながら、アルバイトのひとりが新しいコーヒーを稟のテーブルに運んできた。
「……ちょっと頭痛がするだけ。何でもないわ」 稟はそう言って青ざめた顔に必死で笑顔を作り、紙コップを受け取った。
自動ドアが開き、ずぶ濡れになったセーラー服姿の少女が、稲妻を背負って入ってきたのはその時だった。
「……?」 いらっしゃいませ、の声に迎えられて入ってきたその少女を見て、稟はなにか様子がおかしいと感じた。
沈んだ表情、虚ろな目。まるでこの世の終わりとばかりにやつれきっているのである。
雨に打たれてひだのなくなったスカートからぽたぽたと水滴を滴らせて、少女はまっすぐにカウンターの方へ歩いていった。その足どりも……どこかおぼつかない。
「いらっしゃいませ。メニューをどうぞ。こちらでお召し上がりですか?」
カウンターにいたアルバイトの女の子が、マニュアル通りの応対を始めたのを横目に、稟は椅子から腰を上げ、オフィスへと入った。
「まぐまぐシェイク……ひとつ。テイクアウトで」 少女の声は震えていた。
「ストロベリー、チョコミント、ヨーグルト、バニラ、パイナップルとございますけど、どちらになさいますか……?(^_^)」
ずぶ濡れの少女の醸し出すおどろおどろしいオーラなどどこ吹く風とばかりに、アルバイトのマニュアル通りの対応は続く。もちろん、営業スマイルも忘れてはいない。
カウンターを挟んで、少女とアルバイトはくっきりと明暗を分けていた。
「……ええと、ヨーグルト」 「サイズはMとLがございますけど(^_^)」
「……M」 「ご一緒に、ハンバーガーもいかがですか?(^_^)」
オフィスからタオルを持って稟が出てきたのはその時だった。 「……こ、恋をするには絶好の日和……で、ですね。まぐまぐチーズバーガーも……ひとつ」
再び、雷が鳴った。 しかし、その音にびくんっと身体を震わせたのは店内では稟ひとりだった。
「ちょうどお預かりいたします(^_^)」 ……その雷鳴のせいで、稟はずぶ濡れの少女が縦半分に細長く折ったくしゃくしゃの五千円札を差し出すところも、受け取った五千円札をアルバイトがポケットに忍ばせるところも目撃する事はできなかった。
「これ、お使いになって下さいな。……お待ち頂いている間にホットコーヒーのサービスをね」
「……ありがとう」 ずぶ濡れの少女は消え入りそうな小さな声でそう言って稟を振り返り、タオルを受け取った。
やつれた表情をしてはいるが、良く見れば可愛らしい顔立ちの少女である。
(失恋でも、したのかしら) 稟はカウンターのすぐ前のテーブルに少女を案内するとアルバイトから受け取ったSサイズのホットコーヒーを置いた。
「すぐに準備いたしますから、こちらでお待ちになって下さいね」
稟はそれだけ言って少女の側から離れ、さっきまで座っていた席に戻った。チーズバーガーとまぐまぐシェイクを袋詰めしているアルバイトの姿が、視界の端に映った。だがその時には、袋の中に注文の品の他にもうひとつ……サクマドロップスの缶が入れられた事には気付かなかった。
テーブルに戻ると、稟はまた電子手帳に目を戻した。 『女子高校生、殺人未遂……その奇行』
『女子中学生……失恋の果てに自殺?』 というふたつの見出しが、稟の目に飛び込んできた。
雷鳴が、また轟いた。 (……どうしてこんな天気で『恋をするには絶好の日和』なのかしら?)
雷の事を忘れようと、稟はニュースの記事に集中した。
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