「恭子、死ぬな……お前に死なれたら俺は……俺はぁぁぁぁっ!」
「……気持ちはわかるが……」
「教授、恭子は……」
白葉教授は、沈んだ表情で首を横に振る。
「残念だか……時間の問題だ。今のうちに最期の別れをしておきなさい」
風邪をこじらせ肺炎にかかり、何も口にしなくなってから今日で4日目。彼女の身体はますます衰弱し、病気の抵抗力は削り取られていく。
白葉は彼女に抗生物質を注射したり点滴を施したりしたのであるが、効果は思うように上がらなかった。
青年の、徹夜の看病もいまとなってはむなしいだけだ。
「恭子ぉぉ……恭子ぉぉぉぉ……」
青年は、彼女がここにやってきた朝から、ずっと彼女と一緒に暮らしてきた。雨の日も風の日も、ずっとだ。
恭子は彼にとって、妹あるいは恋人のような存在だった。彼の生きがいだった。
その恭子の命が、いま尽きようとしている。
「何が欲しい?何でも好きなものをいってみろ! 何でも買ってやるから! 恭子っ!!」
そして苦しい死の床で
恭子はひとつ大きな息を吐いて
青年に向かって微かに微笑んだ。
そう、白葉には思えたのである。
恭子……ホルスタイン種4歳。雌。
今、乳牛が1頭、天へと召されたのであった。
農業工学科畜産研究室で1頭の牛が息を引き取った。
悲嘆にくれる飼育係の青年……しかし、さらなる悲劇が青年を待っていた。
正面から愛牛の死をみつめる感動の内輪話が、いま始まる。
冷たくなっていく死体に取り付き、青年は泣いていた。
「恭子ぉ……恭子ぉぉぉっ……」
白葉は青年に向かって、気の毒だという表情を浮かべている。
「命あるものはいつかは死ぬ……それが真理ってもんじゃあないですか。まあ、元気をだしなさい……スキヤキの用意もすぐできるから」
「……スキヤキ?」
「そう、スキヤキですよ」
そういう白葉の後ろで、農業工学科の女子学生達が長葱やら玉葱やらを刻んでいた。
どこから情報を手に入れたのだろう。畜産研はいうまでもなく、農業心理学研、有機化学研、植物遺伝子研……主だった研究生がハイエナのよーに牛舎の回りに群がりはじめている。
「……具は野菜だけですか……?」
「いや、お肉さんは現地調達しますよ。こんなに大きく育ってくれて恭子さん、本当にありがとう。ああ、鶏舎から卵も持っといで!」
青年の顔から血の気がみるみる失せていった。
やっぱり、みんなで恭子を……
喰うつもりなのだ。
「うあああっっ、やめてくれえぇっ!」
腑分けしようと脚をチェーンでくくる研究員に青年は殴りかかった。
暴れて腑分けを阻止しようとする青年。
しかし畜産研の同志が彼を押さえつける。
「気持ちはわかる! しかし……これが我が畜産研の伝統だ。こらえてくれっ!」
「いやだっ、いやだあぁぁっ!!」
「誰かそいつを外へ連れ出せ」
「恭子おぉぉぉぉっっっ!!」
青年は牛舎の外へ引き出されていった。
その間にも腑分けは行なわれている。
白葉教授はチェーンソーで大きく脚を断ち切り、胴体を肉切り包丁で喜々として切り開いていた。解体も畜産研にとって重要な講義の1つである。
白葉は学生たちに分かりやすいように臓器を取り上げて説明しながら解体していく。ノートを取る者、さらに肉を細かくバラす者、煮込む者。
やがて農業工学科の秘蔵酒、吟醸『夜明け前』が運び込まれると講義は宴会へと変質していった。
1頭の牛が息を引き取った。
そして、伝統のスキヤキは煮える。
傷ついた青年の心に聞こえてくる恭子の声……そして、愛。
愛は、そして食は、悲しみを超えるのか!
青年は畜産研から少し離れた、ポプラ並木のベンチに座っていた。
薄い闇が降りてきた、群島区東。
吐く息は白い。
やがて、彼の前に男がやってきた。
「……白葉教授」
青年は涙を拭い、見上げる。
「きみ、スキヤキが煮えているよ。食べたくないのかね?」
「教授っ、自分は……自分は、恭子を食べるなんて出来ません!」
白葉の表情から笑いが消えた。
そこにあるのは、まさしく研究に没頭する技術者の顔であった。
「……きみは、何か勘違いをしておるようだな」
白葉は、青年の横に腰を下ろす。
「生きとし生ける者は、必ず死ぬのだ。その屍を土に埋め、自然に帰すより他に手段がないならばそうしよう。だが、恭子は死んでもなお我々の為に役だってくれた……その肉は我らの腹を満たし、その骨は有機肥料研が試料の研究材料として、その死の記録は農業心理の畜産心理研究に、その脂肪は化成ソーダを混ぜて手作り石鹸にし、磐田研への贈答品にと……みよ、恭子の死は無駄ではなかった」
「教授……」
「ありがとう、ありがとう恭子! そして、きみの心に残った恭子の記憶は必ずや一回り大きく、きみを成長させてくれることだろう」
「教授ぅぅぅっ!!」
白葉教授と青年は、がっしりと抱き合った。
「教授っ、俺が間違ってました」
「そうかっ! きみの分として肩ロースのいいところを残してあるぞ。酒も用意してある……ホルスタインだから味はちと落ちるが、喰え。そして呑むぞ、きみぃ」
いま、無限の愛が農業工学科を満たしていた。
悲しみを乗り越え、こうして青年は1人前となる…………。
そして、白葉は思う。
志しなかばにして自分が倒れたらその灰を畑に撒いて欲しい、と。