act.5-26;光臨


 2019-04-12 21:48:13

 濃密な森の空気の奥から漏れてきた微かな匂いと明りには、懐かしい気配とただならぬ気配が混じりあっていた。
 天を焦がすかがり火は6本の柱を照らしだしている。

「ヘキサグラム……」

 エッセンシャル・コンディショナーは、樹上から木製の柱からなる6つの頂点を持つヘキサグラムを見おろしていた。それはダビデの紋章によく似ている。
 ESSEに一足遅れてガジュマルの幹に身をもたせかけた境伸也は、その6本の柱の中心に舞う大鷹に心奪われた。
 翼を広げ、羽ばたき、舞い上がる仕草。
 円弧を描き彼方天空より大地の一点を射抜くように見おろす仕草。
 絞りこんだ標的に向けて、まっすぐに舞い降り、強靭な爪で獲物をつかむ仕草。

「鷹だ……」

 雄々しい姿で舞う大鷹が火渡貴子であることに気付いたのは、舞踊ってみせる鷹が獲物をつかんで空へ舞い上がったときだった。
 かがり火の外に座して貴子をとりまく者たちが、一人また一人とその身を地に横たえていく。いつしかリズムを刻んでいた樹のドラムの響きさえ絶え、貴子の狂おしいほどの激しい舞と、細く長い哄哭とも咆哮ともつかない叫びだけが、6本の柱によって囲まれた聖なる場所に響く。
 境はふらふらと茂みの外へ歩みでた。脇腹の怪我をおして歩く境の足取りは、次第にそうとは思えないほど早くなっていく。

「待って! まだ早い!!」

 ESSEは、半ば小走りにヘキサグラムに向かっていく境を制止したが、もはやその声は境の耳には届かなかった。
 舞う火渡貴子と、座したままの根戸宏と……それに向かっていく満身創痍の境伸也。
 柱の彼方に、すべての謎を掌中にする天野いずみが見えた。

「天野ォォォォォッ!」

 

 2019-04-12 22:03:23

「来たか、境……。
 だが、もう遅い。遅いぞ。式は起ってしまったのだから。
 遥かな縄文の過去に我々の地に下りて、やんどころなき血筋の源となった神の源流を、いま再びこの地に下らしめん」

 天野いずみは待かねていたふうに立ち上がった。
 6本の御柱の中央に、舞い終えた火渡貴子が臥している。

「火渡くんに何をした」

「火渡貴子はその身に神を降ろす者となった。そして……まだ誰にも名前を呼ばれたことのない神を宿して、原初の力を携えた生ける神となる。
 古代に行なわれた様を再現して、いま、この地に神を降ろすのだ」

「……ふざけるな!」

「ふざけてなどいない。
 古来、神事に伴う儀式には必ずその原型となる故事があった。ラーマーヤナはどうだ? あの壮大なバリの叙事詩は、バリ・ヒンドゥーの神話を体現したものだ。キリスト教における聖餐の儀はどうだ? あれも、ジーザスのはりつけの前夜……最後の晩餐を再現している儀式ではないか。宗教は、過去の重大な事件をそれを信仰する人々の力によって何度となく再現してみせることによって成立しうるのだ。その思いの力が、奇蹟として語りつがれる力は実在することを示してみせてきた」

 たとえばイングランドにおけるアーサー王伝説や、諏訪におけるタケミナカタ伝説など、語り継がれる伝説には必ずその源となったなんらかの事件が実在する。
 しかし、それらは必ず唯一人・唯一度の人物・事件に由来して語り継がれているのではない。複数の人々によって行なわれた業績が、次第に一人の超人的な人物の力によるものとして統合された結果、熱烈な信仰を伴う宗教として語り継がれるようになる。

「神は実在するのだ。そして、神はかつて実在したのだ。
 まだ神が神と呼ばれるようになる依然、強大な力を当時の人々に見せつけて、平伏し畏れさせた『何か』は確かに実在したのだ。
 人々がその『何か』に、ジーザスなり、エホバなり、アマテラスなりの名を与え『神』と初めて定義した……その最初の瞬間に、神の実在は確認された。
 人は神を知ったことによって、原初の暮らしを続ける獣であることから解放された。神が地から去って久しい。すでに名を持っている神の転生を叫ぶ者は少なからずいたが、今の時代に生きる我々には、まだ名を持っていない初々しい神がいない。
 今こそ、その純粋な原初の力を再びこの地に迎えるため、名のない神に名を付ける原初の式を起てなければならないのだ!」

 始めに言葉ありき。
 まず神の名を唱えることが、呪文の原型であるとするならば、すでに別の神の名を唱えることによって編み出されている呪文では、名を持たない神を呼び出すことはできない。故に、言葉をともなって作り出された『意味』によってではなく、『行為』と『想い』で作り出された『祈り』に意味を見いだすことによって、言葉をももたらす『最初の神』を作りだそうとしていた。
 そして、『最初の神となる以前の何か』が持つ力は他の名を持つ神々の力とは比較にならないほどに絶大であった。なぜなら、名を持たないがためにその存在は知られず、能力の上限も定められていない。つまり『神となる以前の何か』の持つ可能性は無限であるからである。

「それで得た力で、天皇政治を復活させるつもりか」

「そうだ。今この時代こそ、人々は神によって直接統べられるべきなのだ」

「そんなことのために火渡くんを利用したのか……」

「……我々は名を持つ神でなく、名を持たない神を迎えなければならない。
 神を得た縄文人が次第にその生活を変えていったように、神を得ることによって我々も原初の状態から脱していくのだ。そのためにはまず、原初の状態でなければならない。生きることと死ぬこと、食べることと眠ること。より純粋に、生物の本能に根ざして『生きる』ことができなければならない。
 火渡貴子はまぎれもない逸材だったよ。縄文人……などというレッテルはいらない。食べる、眠る……生きることを体現し、生きていることを堪能している。それができる人間でなければ、『何か』を身に迎えて神になることはできない」

 ヘキサグラムの御柱の中央に臥していた貴子の身体が、うっすらと白みがかってきた。

「今、この6本の天の御柱(あまのみはしら)を伝って火渡貴子の中に偉大な力が降りてきつつある。あるものは創造神ともいい、またあるものは裁判神とも言った。そうしてこの地に降りてきた偉大なる力を携えたものは……そう、神と呼ばれるのだ。
 平伏せ、境。
 神は光とともにあるという。我々は今、神がこの地に『光臨』する様を見ているのだ」

「火渡くん! 目を覚ませ!」

 境は、燃えるかがり火を圧倒するほど神々しく白く輝く貴子を呼び覚まそうと、力の限り絶叫した。

「貴子!!」

 

 

 


act.5-27;それぞれの使命
 2019-04-12 22:27:14

「……おい、起きろっ。起きろってば」

 根戸宏は、傍らで気持ち良さそうにしている飛鳥龍児と金井大鵬を揺り起こした。

「……ふに? なんれすか根戸ひゃん……」

「寝ぼけてるんじゃないっ! スペクタクルだよ、スペクタクル!」

「は。こうですか……?」

 飛鳥は両手をクロスさせた。

「飛鳥さん、それはスペシウム光線でしょう。スペクタクルといったら、これですよこれ」

 大鵬は口をすぼめて両手をひらひらとさせた。

「……もしかしてテンタクルかな? ……ってギャグをかましてる場合じゃないぞ。飛鳥くん、テープは後どのくらい残ってる?」

「ええと、3時間テープが3巻」

「9時間か。うん、充分、充分。いいかね? これから滅多に見られない映像が撮れる……いや、撮れそうな気がする。僕の勘は当たるんだ。飛鳥くん、君はこれから起こることを余さずそのテープに記録したまえ。それから、大鵬さん」

 大鵬は寝ぼけ眼をこすった。

「何があっても、このテープを死守してくれないか。まず撮影中の飛鳥くんを守ってほしい。それから、もし僕や飛鳥くんに何かあったら、そのときはハンディカムだけでも持ち帰ってくれ。キャメラが壊れたら、テープだけでもいい。僕らの屍を拾おうなんて考えなくていい。誰も救えなくてもいいから、とにかく生き延びてそれをASに届けるんだ」

 根戸の声は鬼気迫るものでもなければ、切迫したものでもなかった。いつもと代わらない瓢としたものだが、その内容にはある意味で戦場ジャーナリストのそれにも似た使命感に満ちていた。

「命にかえても真実を伝えようというわけですか……?」

「いや。こんなおもしろそうなことを誰にも話さないでいたら、それこそ死ぬより後悔しそうだから。話すだけ話して、実話だってことを映像で見せて視聴者を驚かしてたい」

 大鵬は一瞬でも尊敬しかけたことを後悔した。
 飛鳥は、根戸の意図はともかく結果として残されるテープになんらかの意味や価値が見いだすことができれば、それだけで満足であると思った。おまけにピュリッツア賞でも取れたら御の字だが、賞よりもジャーナリストとしての使命よりも、これから起ころうとしていることをリアルタイムに見られることへの期待で胸がいっぱいだった。誰よりも早くそれを知りたい……野次馬根性的な根戸流ジャーナリストの心得は、すでに飛鳥龍児を根戸色に染めつつあった。
 場違いな期待に胸を膨らませて騒ぐ探検隊3人組は、大鵬の隣で倒れ臥していた少年が目覚めたことに気付いてはいなかった。

 

 2019-04-12 22:43:05

 火渡貴子の身体の表面が白く光っていた。
 貴子を巡る6本の御柱の影はすべてその外側に向かってまっすぐにのび、貴子の身体からはひとつの影も見えない。
 貴子は固く瞼を閉じたまま、片膝をついてうなだれている。その姿は、羽を休める猛禽類のように見える。
 二度ほど、貴子の身体が脈打った。

「貴子くん……貴子……応えてくれ」

 境伸也の哀願を天野いずみの言葉が冷たく遮った。

「無駄だ。そこにいるのは火渡貴子ではない。火渡貴子の身体に降りた『神となるもの』なのだ。今や、貴様の声は届かない」

 天野は勝ち誇った笑みを浮かべた。自ら仕組んだ式が成就する喜びがこれほどのものであるとは、天野自身、思いもよらなかったのである。

「火渡貴子に宿りし神となるものよ、天のいずみより沸きいでし天の常立より遣わされしものならば、天のいずみたる我が声に応えよ」

 うつむいていた貴子は、天野の声に応じて小首をもたげる。今や、完璧な成就は目前だった。

 そのとき、御柱の中央に向かって歩み出る天野の頬が、ざっくりと裂けた。
 鮮血が細かい霧となって宙に舞う。

「誰だ!?」

 貴子の発する光に照らされて、細いワイヤのようなものが見える。
 ワイヤは貴子を掠めて天野を狙ってきたらしい。ワイヤの主は、天野の問いには応えなかった。
 ワイヤの先に、貴子に照らされたプラチナ・シルバーの髪を見つけた境は、力の限り叫んだ。

「柱だ! 柱を壊すんだ!!」

 再び延びてきたワイヤは、境の声に応えてヘキサグラムのように並んだ6本の御柱のうちの一本を根元から切断した。

 

 

 


act.5-28;玉
 2019-04-12 23:01:56

 ヌサ場を形作っていた6本の御柱のうちの一角が轟音とともに崩れ落ち、ヘキサグラムはいびつなペンタグラムに変わった。

「貴子は人間なんだ。決して神にはならない! 御柱を伝って神を降ろすと言ったが、それなら御柱さえなければ、それは成されまい」

「甘い甘い甘い甘い! 6本の御柱は神を迎えるためのブースターに過ぎない。大事なのは7本目の御柱だ」

「7本目?」

「6本の御柱の中央に立つ、火渡貴子の身体そのもの……それが7本目の御柱なのだ。
 すでに神は下られた。火渡貴子は、彼の地より遣わされた新たなる神を迎え入れ、生きた御柱となった」

 ワイヤは2本目の御柱を切り倒した。かしづいたままの火渡貴子に向かって倒れかかった御柱は、彼女の身体に触れる遥か以前に崩れるように朽ち落ちた。
 焚かれていたかがり火が崩れ落ちてきた御柱に燃え移る。火渡から発している光と、もうもうたる白煙と、森のせいばかりではない『熱さ』が、ヌサ場をとりまく空気を歪めはじめていた。

「我の勝利だ。神はもうそこにおわすのだ。
 後は彼の神に名を与えるだけ」

 天野は身体も顔も髪さえもますます白くなりゆく貴子に向かって歩みを進めた。
 その細い目は極大までに見開かれ、極度に充血して真っ赤に染まっている。

「……今日、この日をどんなにか待ちわびたことか。
 神に遣えるための家に生まれし我が先祖は、すでに抜け殻に過ぎない玉体のために随伴して死していった。我らは、真なる神に遣えるために生を受けた者であり、神の名を冠した、ただの器に命を捧げるために生きてきたのではないのだ。
 今こそ我が一族の悲願、真に力持つ神を奉じたてまつることが、いま正に現のこととなる。神でなく、その器に過ぎぬ玉体を奉じたてまつる宮内庁を滅し、今こそ神の御代を出現させることができる。そう、我が手でだ!」

 境伸也は、天野のそのすさまじい思念の前に、一歩も動くことができなかった。
 天野の思念は天野一人のものではなかった。彼の一族すべての数百年以上に渡るのであろう『想い』が、天野いずみという男をつき動かしている。その強力な思念の塊が、天野いずみを取り巻き、この実在すべからぬ事態を、現実のものとして出現させているのである。
 天野は自分の首にかかるいくつかの首輪から、ひときわ妖しく輝く瑪瑙の曲玉を引きちぎり、それを高く掲げて叫んだ。

「天の常立より遣わされし、力持つ者よ!」

 叫びと同時に、曲玉を掲げた天野の右手首がぽろりと落ち、ざっくりと切れた断面から鮮血が吹きあがった。間髪を置かずに、天野の背後で3本目の御柱が崩れ落ちる。

「がぁっ!!」

 天野は自らの血を浴びて赤く染まりながら、残された左腕で宙をまさぐった。天野の左腕は、右手首が取り落とした曲玉を巧みにつかみ取る。
 そして、血飛沫に濡れたワイヤの先に向かって語気を荒げた。

「出てこい、下賎の者」

 崩れさった御柱の影に、エッセンシャル・コンディショナーの姿が浮かび上がった。
 だが、それはこれまでに境が見てきたいかなるESSEとも違うものだった。そこにはとぼけた表情も、含みのある笑みもない。
 ESSEは余裕も容赦もない狩人の目をしていた。
 狩り立てる残虐さを楽しむハンターのそれではない。殺さなければ殺されるという狩りの厳しさを知る者の目であり、そして自分が狩られる側に回らないために、幾度となく狩る側であり続けてきた者のそれであった。

「異人よ。何故、我が使命を脅かす。器を奉じるものたちに頼まれたからか」

 ESSEは、無言のまま天野のプレッシャーに耐えていた。

「天野いずみを始末しろと言われてきたか? これまで、その使命を負った者達がどうなったのかは聞かなかったのか?」

 ヌサ場の周囲に横たわっていた数人の男達が手製の武具を手に、ふらりと立ち上がった。
 殺気はない。しかしESSEを阻むため、一歩また一歩と力なく近づいてくる。

「貴様、宮内庁の人間だな。隠密……この天野と同じく、器を奉じる者たちに遣える使命を帯びたものだな? そうだろう?
 案ずるな。今、貴様をとりまいている者たちもそうだ。いや、かつてはそうだった。
 だが、この者たちは、このおんごろへ下りて自らの過ちに気付いたのだ。奉じるべきは器ではない。器に満たされる神であるべき……それが執るべき道であることに、だ。だから、我に従いてこの地に根を降ろしたのだ。我とともに真なる神に臨み、神に遣えし崇高なる使命を全うせんがためだ。
 我が右腕を断ち落したことは許してやる。神の下僕たらんがための心得ならこれからでも教えてやろう。まだ遅くはない。貴様も神に従う者となれ」

 ESSEの真後ろに控えていた男の石斧が、彼女の背に振り降ろされた。
 空気の微かな揺らぎ。
 半歩踏み出し、身を逸す。
 石斧が地を掘り返す音。
 左の男が伸びきったESSEの胴を大きめの鏃をくくりつけた槍で薙ぐ。
 踏み出した右足を軸足に身体を捻り、振り向きざまに槍を折る。
 返す踵で背後の男の喉笛を蹴り潰す。
 次の瞬間、ESSEの軸足が右の男の石斧に薙ぎ払われる。
 左足で地を蹴り、意識を逸した背後の男の肩を踏み越えて陣の中央から退く。
 右手甲が男達の中で一閃する。
 この間、わずか5秒。
 もし男達の血が宙に舞い散らなければ、最前より使っていたワイヤよりさらに細いピアノ線のような鋼線がESSEの右手甲から伸びていることは、誰も気付かなかったかもしれない。

「おもしろいものを使うな。だが、それとて所詮は人の力。神の力には及ぶまいぞ」

 天野は右腕からどくどくと噴き出す血を止めようともせず、発光する貴子の身体の前にかしずき、その身体に触れた。

「感じる。感じるぞ。神の力が溢れている。我が身体にもその力が流れ込むのが感じられる」

 ぴくりとも動かない身体に焦りを感じながら、境は叫んだ。

「天野! 貴様に都合のいい名前などつけさせはしない! お前が名付ける前に、僕が彼女が呼ばれるべき真実の名を付けてやる。彼女の名は火渡だ。火渡貴子だ! 彼女は火渡貴子であって、それ以外ではありえない!!」

「無駄だ。声に出して伝える言葉では、神の名を呼ぶことなどできはしない。
 神を呼ぶのに必要なのは、声などではない。
 想いだ。
 何者よりも強く、強烈な、求め訴える想いが神に名を付ける。その思いを込めたものが神を欲し、神に名を与えしめ、神の答えを獲られるのだ。
 そして、我が一族より伝えられし『想い』を注ぎ込んだ御霊を神に知らせ賜う!」

 天野いずみは、左手に握りしめていた曲玉を火渡貴子の喉の奥へ押し込んだ。

 

 

 


act.5-29;凶眼
 2019-04-12 23:52:47

「神よ! 我が一族に伝わりし『想い』、とくとご覧あれ! 今日、この日のために我が一族の念のすべてを込めて磨き続けられた『想い』の結晶たる御霊を聞かれよ!」

 ぴくりともしなかった火渡貴子の身体に変化が訪れた。
 白く輝いていた身体は次第に赤く変わっていく。
 静寂は天野いずみの勝ち誇った声によって破れた。

「神よ! 我は神に遣える者なり。真なる務めを果たすべき神よ……我が想いに応えよ!」

 かしずいていた貴子は、ゆっくりと立ち上がった。髪も身体も、そのすべてを赤く染め、瞳さえも赤い。
 汚れなき真っ白いイノセントは、今や天野の欲した色に染まりつつあった。神を入れる器である貴子は陰りもないほどに純粋であるが故に、何色にでも染まることができた。
 そして天野によって染められた赤い色は、天野が神に付けた名を象徴するものだった。
 貴子はゆっくりとESSEを振り返った。
 それはすでに貴子ではなかった。真摯で一片の汚れもない貴子は、天野が付けた赤い名前によって穢されてしまったのだ。
 ESSEが初めて天野に向けた言葉は怒りの宣告だった。

「……ここへ来たのは確かに命じられたからだ。オマエを殺さなければならない理由は、少なくともわたしにはなかった。
 でも、今はその理由ができた」

 ESSEは周りに残っていた数人の男を斬り裂き、数メートル離れた場所に立つ天野の首級を狙って鋼線を振りだした。
 だが天野の首をはねるはずだった鋼線は、貴子の脇を掠める寸前に弾かれた。天野は至福の笑みを浮かべた。

「所詮、人の力よ。神の力にはかなわない。
 我は神に遣える者である。と、同時に神に名を与え、神の名を知る者となった。名を知る者は、知られた名前を持つものを意のままにできるのだ。
 今、神は我と共にある。今の我を倒すは神を倒す等しい。否、まず神を倒さずば我を倒すことはできない。
 異人よ。火渡貴子の姿をした、この神に手をかけることができるか?」

 ESSEは端正な顔を歪めて鋼線を構えた。
 命令には背けない。いかなる犠牲を払おうとも、天野いずみを消さなければならない。穢れなき貴子は、ESSEの羨望の的であり憧憬であった。その貴子を穢した天野を生かしておくことは、ESSEにはできそうになかった。
 しかし、その天野を滅するために、まず火渡貴子を手折らなければならないとは!
 葛藤はごく短い時間の間、ESSEを揺り動かした。

「止めろ! ESSE! 貴子! 止めてくれ!」

 境伸也の短い叫びが引き金となった。
 突如、火渡貴子の両眼から赤い光線がほとばしり、ESSEの肩を灼いた。

「!?」

 すでにそれは尋常な人間同士による闘いの光景ではなかった。
 息を潜めて闘いの様に見入っていた根戸宏は、こらえきれなくなってついに声をあげた。

「すごい。すばらしい!」

 飛鳥龍児はすでに声さえでない。
 根戸は飛鳥の肩をつかみ、目から怪光線を発する火渡貴子を指さして叫んだ。

「いいぞ! 撮れ、撮るんだ! あの火渡って女をとれ! それから、あっちのESSEって銀髪のねーちゃんもだ! こいつぁ絵になる!」

「やめろ! 下衆野郎!」

 身じろぎ一つできないでいた境は、この期に及んで俗なままでいられる根戸に、吐き気がするほどの嫌悪感を感じた。
 だが、根戸は涼しい顔で言ってのけた。

「何とでも言え! 下衆野郎じゃないジャーナリストがこの世にいるか! 僕は自分が見たいシーンは、なんとしてでも他人にも見せたい主義なんだ。神だか使命だか、そんなことは知らん。あるのは現実だ。眼前で起こっていることは、紛れもない事実だ。これを記録しないで何がジャーナリストか!」

 根戸という男は超現実主義者である。見ないものは信じない……というタイプではない。起こりうると納得できたもの・ことのみならず、目前で起こっていることはすべて受け入れてしまう。
 最前まで神を降ろすだのなんだのといったことは、狂人の発言と信じて疑わなかった。だが、いま自分の目前で起こっている「神が降りたとされる女と、右腕を失ってなお主張を曲げるどころか勝ち誇る男と、それに挑む女の闘い」は現実である。根戸は、目前で起こっている現実を直視することこそジャーナリズムの基礎であると信じて疑わない男であり、境がそう感じたように吐き気がするほどのリアリストで……そして俗物であった。

「境くん、君も当事者なんだろう!? この光景から目を離している暇なんかないはずだ!」

 根戸の言葉の次の瞬間、ESSEの鋼線が貴子の肩を掠めた。
 だが、なんのダメージをも与えることができない。
 貴子は再び怪光線を発した。
 ESSEを掠めた怪光線は、4本目の御柱を霧散させる。

「異人よ。身を隠す場所などないぞ。諦めろ。諦めて神にその身を差し出すがいい。
 貴様らには神への供物として捧げられる、高貴な務めを与えてやる」

「供物だとぉ!?」

「神事の基本は饗膳にある。人は神によって与えられた獲物を食い、酒を飲む。神とともにだ。そしてさらに、人の中に溜めた獲物や酒の力を神に捧げるのだ。人の身体は神に力を捧げる為の器に過ぎん!
 今、火渡貴子は神をその身に降ろし神と一体となっている。貴様らの身体に満ちた今日の晩の宴で得た力を、神となった者へ捧げろ」

 根戸は自分の置かれた状況を反芻した。

「おとなしく、その女に食われろってか?」

「……わかりがいいな。貴様からその身を捧げてもらおうか」

「なにぃ!?」

 真っ赤に光る貴子の目が、根戸をじっと見ていた。

 

 

 


act.5-30;赤と白
 2019-04-13 00:31:01

 閃。
 闇を裂いた赤い怪光線は、根戸宏の胸を貫……くはずだった。
 だが、放たれた怪光線は目指すものとは別の標的を差し貫いた。
 堪えようと期待した熱さや痛みを感じられずに拍子抜けした根戸の前に立ちはだる18、9歳の少年が崩れ折れる様は、まるでストップモーションの映像を見るようだった。

「……って、おい!?」

 少年は、自分の胸を焦がす妙に美しい赤い光に見とれていた。
 ざっくりした繊維の服は、火渡貴子や天野いずみのそれと同じものだが、今や少年の胸のあたりの服は皮膚とともに焼け焦げて、肉の焦げる香ばしい臭いをたてている。
 怪光線に圧されるかのようによろけた少年は、根戸の腕の中に倒れ込んできた。

「馬鹿、なんでわざわざ立ち上がった!?」

 少年の胸の肉は二目と見られないほどにただれていた。皮はひび割れてめくれ上がり、むき出しになった肉は焦げ、ぐずぐずに火ぶくれを起こして崩れ落ちた脂肪が剥がれて肋骨らしき白いものが見えている。
 別に、少年は根戸を助けるために立ち上がったわけではない。貴子の様がどうしても信じられなかっただけなのだ。だが、結果的にはこの男を生き延びさせることになってしまった。
 少年は、自分の身の上に起こった事を信じきれないでいるようだった。むき出しになった自分の肋骨を指で触れ、そして貴子の赤い目を見つめた。

「ひわたり……せんぱい」

 肺が焼けているらしい。ひゅーひゅーと喘ぎながら言葉をつぐたびに、真っ赤な動脈血が泡のように吹き出してくる。

「しゃべるな! しゃべらなくていい!」

 金井大鵬は手早く少年の傷の具合いを診た。
 助かりそうには見えなかった。

「せんぱい……かみのために……しぬとか……やくにたつとか……」

 おんごろ……21号埋立地に赴いた火渡派の中で、火渡貴子の唯一の学年上の後輩だった少年は、貴子に無上の尊敬と全幅の信頼を寄せていた。
 磐田研にいた頃から貴子を慕う少年を、彼女は弟のようにかわいがっていた。いたはずなのに。

「ぼくら……が……してきたのは……そんなことじゃないですよね? ち……ちがいますよね?」

 少年は呼吸の苦しさのためか、喘ぎながら言葉を続けた。

「いきる……って……たのしかった……よね……せんぱ……」

「おい。おい!?」

 少年の両目はうっすらと貴子を見ていた。
 その瞼は、おそらくもう二度と自分の力では閉じられることはないだろう。

「……死んだ」

 根戸は少年に何もしてやれなかった。
 飛鳥龍児はその職務を全うすべく、目前で起こるすべてを記録しようとしていた。
 大鵬の身体が怒りに打ち震えていた。

 かつて火渡貴子だった器の中では、赤い名前を与えられたものと白いままの名のないものと、そして貴子そのものが葛藤していた。

 

 火渡貴子の意識は押しつぶされることなく、はじき出されることもなく漂っていた。

 意識が続いていたのがどこまでなのか、よく覚えてはいない。
 舞をはじめて、森と自分がどこかでつながっているような、あのいつもの気持ちになりはじめたとき、自分の中に何かが入ってくるのがわかった。
 これまで森の中で一人静かにしているとき、何かが語りかけてくるのが手にとるようにわかった。声が語りかけてくるわけではない。静かな、しかし大事な何かが思い出されるような、穏やかなひらめきが貴子を促すのだ。何かが心のドアの隙間から貴子の心を覗いていた。
 日々の終わりに、自分たちが獲物を得られたのが嬉しくてたまらなかった。誰かに感謝したい、何かにお礼を言いたいという気持ちが高じて踊るようになった。いつしか、何か……ではなくそれが『誰か』であるような気がしてきた。
『きっとこれが神っていうものだろう』と合点してきたが、それが本当に『神』なのかということまで考えは回らなかった。
 日々の舞を繰り返していくうちに、舞い踊っている最中に何かが自分のこころを覗いている気がしていた。
 それは森の中の促すような穏やかに促される閃きとは異なり、突き動かすようなエネルギッシュな問いかけだった。頬を打たれるように強く、そして激しく心のドアをノックしていた。

『早く開けて、ここを開けて』

 のぞき込む何かも、激しくノックする何かも、正体は分からずじまいだった。しかし、次第にその『何か』は外側から自分の心の中に押し入ろうとしているのではなく、『扉』によって隔てられてしまった自分の中にある『何か』と再会しようとしているのだということが分かってきた。

『早く開けて、早く会わせて』

 それはもうずっと昔から……火渡貴子が火渡貴子になる前から、貴子はその『何か』の部分にすぎなかった。いや、部分なのではない。ずっと昔かずっと未来か……貴子もまた『何か』自身だった。森にいると周り中に何かが溢れていて、とても懐かしい気持ちがした。抱かれていることへの安心感。
 その『何か』が、とうとう自分の中に流れ込んできた。
 身体の中と外が解け合うような、そして切れていたコードがつながったような、ついにひとつになれたような……。
 抱かれている安心と、抱いている安心。子になった気持ちと同時に、貴子がまだ知るはずのない母になった気持ちが交錯する。
 このうえない至福に満たされた。このままでいいと思った。このままいたいと思った。

 誰かの気持ちが入ってきた。
 赤い、赤い、赤い気持ち。
 何かしなきゃというせき立てる気持ちと、何がなんでもしなきゃという責任。そして、赤い気持ちは『やらなきゃ』と言った。白い気持ちは『やれる?』と聞いた。
 どうにかしなきゃ。なにかできることはない?
 こうしなきゃ。それ、あたしにできそう?
 こうして。じゃあ、そうしたげる。
 赤い気持ちが言うとおり、一生懸命何かした。
 でも、何かおかしい。何か変だ。
 目の前は真っ赤のままで、赤い気持ちは収まらない。白い気持ちは振り回されて、どんどん赤く染まってく。
 あたしは。
 あたしは?

 どこかに何かひっかかってる。
 この赤い気持ちはあたしのじゃない。白い気持ちがいやがってる。
 赤い気持ちはあたしのじゃない。
 違う。
 違う!

 

 

 


act.5-31;色神
 2019-04-13 01:42:52

 天野いずみは右腕の切り口を押え、失血で少し青ざめてきた顔に鬼相ともとれる凶的な笑みを浮かべて言った。

「言葉を得る遥か以前の我々の祖先が、如何にして神を定義したか。原初の神に名づけられる名は、人語によるものではありえない。だが、それでいて、我々すべてが一目でわかるものでなくてはならない」

「言葉ではなく、そして一目見て分かるもの?」

「我々の祖先がおそらく最初に気付いたのは、明確な言葉でも形でもない。はじめに言葉ありき……ここでの言葉とは『色』だった」

 自然にはあらゆる色彩が溢れている。明度で分けるなら、白と黒。色相の三元素に例えるなら赤、青、黄色。光の三元素と言えば赤、青、緑。
 人が初めて色に気付いたとき、周囲の世界は様々な色に満ちていた。
 青い空、白い雲、緑の森、赤く揺れる炎、蒼い海、虹。
 同じ色でも、言語が違えば呼び名は変わってくる。だが、あくまでも白は白。赤は赤。例え言葉が異なろうとも、近くする色は同じものである。
 天野が気付いた「言葉より古く、意味をなすもの」は色そのものであった。
 遺跡や出土品などは確かに色あせている。だが、言葉が生まれ物が作られる以前に、最初に知覚識別できたはずのものが「色」であることは疑いもないはずだった。
 そして、太古の人々が最初に知った「色」を、神に与えずにいたことは考えられない。神の名前は、最初、色による印象に基づいて区分けられた。

 例えて言えば、火渡貴子は白い。
 白の印象は「イノセント」であり「何者にも染められていない、または何者にも染めることができる無限の可能性」である。
 そして、天野いずみが「神」と名づけようとした存在もまた、名を付けられる直前までは、一定の方向性を持たない「エナジーそのもの」であり、無限の可能性を含んだ白い存在であった。
 対して、天野いずみは赤い。
 赤の印象は「熱き想い・情熱」であり「燃える炎」であり「血」である。
 母なる地球の内に満ちているものと、すべての動物の内に満ちているものは、どちらも熱くたぎっている。
 だが熱き想いは、ともすれば「禍禍しさ」をも連想させる。怒りと、そして憎しみが炎のごとく赤く燃え上がり、その炎に捧げられるかのように多くの赤い血が流される。
 火渡貴子がその身に抱いた白い力は、白いが故に無限の可能性を持っていた。だが、白いが故に別の色に染め変えることも容易だった。

「そして、我が神は赤い!
 赤は、人々の血のあがないと炎で歪むほどの想い……怒りを代償に、情熱と大地の内に満ちる力をもってして変化する」

 怒りは人々の内に生じ易く、人々の身体の内に流れる赤いものをたぎらせた。

「……赤だろうが白だろうが、そんなことはいい。今、わたしは非常に怒っているんです」

 それまで一言も口をきかなかった金井大鵬が、押し殺したような静かな語調で呟いた。大鵬の身体から沸きだした憤怒の闘気が、あたりの空気を歪めている。

「ぬぅぅぅ……」

 次第に大鵬の身体が赤銅色に変化していった。肌の色だけでなく、髪もまとっている着衣さえも鈍い赤に変わっていく。まるで今の火渡貴子のように。
 大鵬は、天野いずみに向かって踏みしめるように歩みを繰り出した。

「大鵬さん……いけない!」

 火渡貴子の両眼から迸った赤い怪光線が背後から大鵬の胴を掠めた。
 だが、大鵬は怯むことなく天野を目指して歩みを進める。
 天野いずみは、呪詛のように呟いた。

「怒れ、怒れ! 赤は怒りの色でもある。貴様らがそうして怒るほど、我らが神の力を増大させる。赤く燃える熱き想いが、血によってあがなわれる怒りこそが、我が神の糧となる。
 そして、我が怒りがあらぶる神を突き動かす!」

 再び貴子から赤い怪光線が発せられ、轟音とともに大鵬の巨体が地に倒れ臥した。
 大鵬を打ち倒した怪光線は、そのまま境の左肩を薙ぎ払う。左肩を抑えてもんどりうった境は、なおも大鵬の名を叫んだ。

「大鵬さんっ!」

 境の言葉に応えるように、再び大鵬が立ち上がった。そして天野に背を向け、ゆっくりと境を振り返る。
 だが、そこには大鵬の温和な表情はなく、怒りに支配されただけの憤怒の形相を張り付けた『赤い』大鵬がいた。

「大鵬さん……?」

 だが、大鵬はその言葉に耳を傾けることなく、突然、味方であるはずの境に襲いかかってきた。
 拳法使いの巨体から繰り出される掌が、立ち尽くしていた境の鳩尾に決まる寸前、境の身体は大鵬の攻撃によるものとは違う方向へ強く突き飛ばされた。
 数メートル以上離れた所に立っていたはずのエッセンシャル・コンディショナーが、土の上に放り出された境の腕をつかんでいる。

「無駄よ。怒りに我を忘れ……たのか催眠術かは知らないけれど、大鵬には貴方の声は聞こえてない。貴子と同じよ、たぶん」

 ESSEは再び繰り出された大鵬の掌を受け流し、地を蹴って大鵬の右腕の付け根に鋭い蹴りを叩きこんだ。
 大鵬の動きがわずかに鈍り掌の連打が止まる。

「……これ以上、貴方を守りきれるかどうかわからない。大鵬には物理的な力で対抗できるかもしれないけれど……攻めを凌ぎきれたとしても、まだ貴子も天野も残っている」

「……それは大鵬さんを殺して、貴子を殺さなければ、天野を殺すことができないという意味なんですか?」

「そうよ」

 話す間にもESSEの蹴りが大鵬の左膝の裏に決まった。鞭打つようなしなる蹴りを喰らった直後、大鵬の膝が落ちる。
 ESSEは、バランスを逸して大地にうつ伏した大鵬の丸太のような右足に、一見華奢とも思える自分の手足を絡めて足首を極めた。
 ESSEには手加減するつもりもギブアップを待つつもりもなかった。自分に危害を加えるものから順に戦闘能力を奪う。
 大鵬の足首は極められた瞬間に鈍い音とともに折れた。
 憤りの表情に支配されていた大鵬の顔に、苦悶が浮かぶ。
 ESSEは地に倒れたままの大鵬の脇腹に膝をたたきつける。
 激痛に身をよじって天を仰いだ大鵬の鳩尾にESSEの膝が落とされる。
 大鵬の身体は、一瞬びくっと脈打ち、そして動かなくなった。

「諦めなさい。あれはもう貴方の知っている火渡貴子じゃない。天野の野望を阻み生き残りたいなら、目前のすべてを葬らなければならない。
 貴子を傷つけたくないという貴方の気持ちはわかる。でも、このまま放っておいたらどうなると思う? 神だかなんだか知らないけど、実質的には貴子は天野いずみの操り人形として、無為な殺戮を繰り返していくことになる。
 貴方も見たんでしょう? いずれは、さっきのあの子みたいに意味もなく死ぬ者が山と出る。きっと手始めに殺されるのは、今この場にいあわせている私たちなんでしょうけどね」

 ESSEは大鵬の身体から立ち上がると、次なる標的……火渡貴子を見据え、そして背後の境に言い放った。

「私はこれから貴子を殺す。そうしなければ、天野を殺すことができないからね。天野を殺せという命令は確かにあったわ。恨みも憎しみも抱いたことのない天野を殺めることに、少しは抵抗だってあった。そして、関係のない人間は一人だって傷つけたくなかった。
 でも、今、貴子と天野を殺さなければ、殺されるのは自分。悪いけど、黙って殺される義理は私にはない。だから……死にたくないから、生き残りたいから闘う。私を殺そうとする者がいるならば、それはすべて排除する」

 生き残ること。恐らくそれは生きることの基本である。その意味で、エッセンシャル・コンディショナーの生への執着は正しいと言える。
 だが、命を奪おうとする者が存在するとき、生き残るためには敵対者を排除……殺さなければ自分が生き残ることが出来ない。それもまた事実である。自分の理想でもなければ、自分が期待もしていない者のために命を無駄にすることは正しくない。
 ESSEは繰り返した。

「私はこれから貴子と天野を殺す。命令を遂行し、自分が生き延びるためにね。もちろん、あなたに私の行動をすべて肯定しろなんて言う気はないわ。
 私の身の振り方はもう決めてあるの。そして、貴方がそれに賛成するもしないも自由よ」

 ESSEは振り返ると、懐から翡翠の小片を取り出して境伸也に握らせた。

「これ、鏃だって言ってたわね。鏃はお守りにするものじゃない。立派な武器よ。
 これで矢を作って……貴子の命を救うために貴子を殺そうとする私を射抜いてもいい。生き延びるために私を支援して貴子を射てもいい。
 最後の決断は貴方に任せるわ」

 

 

 


act.5-32;それぞれの思い
 2019-04-13 02:33:43

 人類は、旧石器時代に狩人となった。
 長い氷河時代の間に手にいれた石器は着々と進化を遂げ、石斧になり、ナイフ形石器になり、石槍になった。岩石の加工技術は、時代の流れとともにより微細なものにまで渡るようになる。
 やがて縄文時代に入って発明されたと言われる弓矢の先端に、岩石を削って作った箔片が付けられるようになった。これが鏃の始まりである。
 初期の鏃は歪んだ菱形をした岩石片に過ぎなかったが、実際の狩りの現場で得た経験から幾度とない改良が施された。矢の先端に付けやすいように、石鏃はV字形や……それこそ矢印〈↑〉のような複雑な形に加工されていった。
 硬く小さい小石を鏃という道具に変える。これを成し遂げた技術は、その後の人間に多くの恩恵をもたらした。

 境伸也の手のひらに握り込まれた小さな翡翠の小片も、そうして作られた狩りのための「道具」である。
 ただし、その鏃は遺跡から掘り出された縄文人の手による出土品ではない。境たち原始技術研究室の人間たちによって、再現されたレプリカである。翡翠から削り出された小さな鏃の表面には、波のような文様が幾つも浮かび上がっている。古代の技術の粋を極めた小さな鉱物片は、高硬度を誇る翡翠の原石から少しづつ削り出されて作られた。
 だが縄文人の技術に敬意を表して彼らのそれと同じ手法を用いて作られた鏃は、境にとって紛れもない「縄文の鏃」なのである。縄文の時代へ思いを馳せ、原始技術の再現に燃える同輩たちとともに、翡翠の小片を幾度となく叩いた。この鏃には、境の想いそのものが込められている。

 境が磐田教授の講座に籍をおいて、もう10年近い年月が過ぎた。
 遺跡や出土品を調べるといったフィールドワークもさることながら、磐田教授によってすでに確立されつつあった原始技術研の手法は、実に魅力的だった。磐田教授に師事する多くの学生は皆、磐田教授の実験考古学の虜となった。
 なぜ、実験考古学が魅力的だったのか。誰かが調べた資料を読むのではなく、偉い教授の学説を暗記するのでもない。自分自身の目で見たものを、自分自身の手で作り出す。自分自身の身についた技術をどう扱うべきか考える。その作業が何より楽しかった。
 境が実験考古学と称する手法を通じて知り得た縄文の技には、生きるための知恵と驚くほど豊かであった生命に溢れていた。
 生きるために獲物を狩り、生きるために森の恩恵を受ける。緑深き恵みの森は生命に溢れ、人間は自らの生命を長らえるために森が施してくれた別の生命をその身体に取り入れる。生きるとは森を食べることに相違なかった。
 境の内にある想いは、ゆっくりとある色に結晶しつつあった。

 矢の先に結わえつけられた森の象徴ともとれる緑色の翡翠の鏃の先に、ふたつの標的が見える。しかし、境はそのどちらも選びきれずにいた。

 

 エッセンシャル・コンディショナーは、常に自分に課せられた使命を果たしつつ、自分が死なずに済む方法を選んで生きてきた。
 これまでの標的の中に、ESSEの能力を大きく上回る者はそう多くはなかった。もし敵がESSEの個人的能力を多少上回ろうとも、戦術と駆引き・戦略的行動によって、敵を凌ぐことができた。その自信は、ESSEが自分と相手の能力を冷徹なまでに見極められるが故に引き出されてきたものであった。
 だが、今回の闘いはESSEに分が悪い。というより、ESSEは貴子には事実上勝てないと踏んでいた。自分が知っている技を扱う者が相手ならば、それが体術であれ剣術であれ銃器であれ、対応しそれを凌ぐ自信があった。なぜなら、相手が繰り出してくる攻撃の流れも威力も、ある程度読むことができるからである。
 貴子の駆使するそれは、すでに技と呼べるものではなかった。原理はわからないし、とても素手の人間の技として認められるものではない。しかし、大鵬も境も……そしてあの少年も、貴子の放つ怪光線によって確かな傷を負った。それは事実である。例えにわかには信じられないようなできごとであったとしても、現実に起きている出来事を無視するのは愚かなことだ。
 そして、ESSEにとって今の貴子は恐怖する敵であった。その攻撃に抗う一切の方法が思いつかない。あの赤い怪光線にせよ、天野へのESSEの攻撃を弾いた技にせよ、貴子はESSEの知らない力と技を支配していることは間違いない。それが何であるか理解できない以上、ESSEに一切の勝ち目はない。それがESSEの出した答えだった。

 これまで接してきた敵は、たまたま自分の能力より劣る者ばかりだった。たまにそうでない者もいたが、そうでない者の多くは自滅した。だが、奢りで自滅した者が、決してESSE自身に対して劣っていた訳ではない。ストイックなスウェーデン人は、それを「運も実力のうち」などと考えることこそ奢りであると信じて疑わなかった。
 一か八か、万が一の可能性などに自分の生命を委ねるのは、ESSEにとっては愚かしいこと以外の何ものでもなかった。万が一の可能性を頼りにあがいたりもがいたりといったことをするのは、無駄なことと信じていた。
 自分の能力が見えすぎてしまうだけに、ESSEは無駄な努力や見苦しいあがきはしない主義だった。

 背後に、原住民の弓に矢をつがえる境伸也の気配が感じられる。
 境がつがえた矢と同一線上にある、自分と火渡貴子。境がそのどちらに狙いを定めているのかは知る由もない。
 すべては一瞬の後に決まるはずだった。

 

 飛鳥龍児はハンディカムのファインダーを覗きながら、内なる葛藤と闘っていた。
 すでに間違いなく一人以上の人間が死んでいる。何人かは止める間もなく……あの少年は自分の眼前で力尽きた。ESSEは、そして火渡貴子と称する女は疑いもない殺人者であり、さらに互いを殺しあおうとしている。だがESSEが死ねば自分たちが助かる可能性はぐんと下がる。
 だからといって殺人の可能性を見過ごしていいのか? このままキャメラを回し続けることだけに専念していてもいいのか?

「根戸さん……豊田商事事件を覚えてます?」

「突然また懐かしいことを……。昔、ジャーナリズム論のレポートのテーマだったんだ、それ」

 いまから30年以上昔、豊田商事事件というジャーナリズム論の根幹に関わるような大事件があった。金の先物取引による詐欺まがい商法を展開した末に倒産した豊田商事という会社の社長が、天誅を下すと称した暴漢に襲われたという事件である。このとき、取材のために社長の潜伏先のマンションに張り付いていた報道陣は、銃剣を持って社長宅に侵入しようとする犯人を、誰一人として止めようとしなかった。刃物を持った犯人が社長をメッタ刺しにしている間も報道陣はその様子を淡々と撮影するのみで、報道陣は誰一人として犯人の殺人行為を止めようとはしなかったのである。
 そして、報道陣は社長を見殺しにしたというレッテルを張られた。

「犯罪が行なわれるのが分かっているとき、あのときの報道陣は未然にそれを防止できる立場にいながら止めなかった。社長を見殺しにしてでも目前で起こった事実のありのままを報道するのが正しいのか? それとも報道することを放棄してでも犯罪を防止するよう勤めるのが正しいのか?」

「根戸さんはどちらが正しかったと思います?」

「僕がレポートに書いた答えは前者だったよ。キャメラはそれを見るすべての人々の目であり、マイクはそれを聞くすべての人々の耳だ。キャメラもマイクも何も考えない。見えたもの、聞こえたものにコメントするのは、キャメラやマイクの仕事じゃないからね。コメンテーターであれ、お茶の間の視聴者であれ、まずコメントするためには初期情報が必要だ。我々の務めはその初期情報のための映像を仕入れてくることであり、意見を言うことじゃない。
 その辺は軍隊と似てるね。最前線の兵隊には、自分の攻撃が正しいかどうか判断する暇なんかありゃしない。だが、撃てと言われたらすぐに撃たなけりゃ、戦術や戦略は成立しない。軍隊の中で兵隊は頭じゃない。ただの手足、駒に過ぎないんだ。報道の最前線で取材を行なっているジャーナリストもまた、ただの『取材する駒』に過ぎない。
 僕はそう思うね」

 そう言いながら、根戸宏の目は一時も火渡とESSEから離れることはなかった。
 飛鳥も根戸の意見に賛成だった。江戸川大学時代、やはり同じようなテーマの試験問題に、根戸とほぼ同内容の回答を書いた記憶があったからだ。
 だが、今はなぜか自分がかつてはじき出した回答に対する自信が揺らぎつつあった。
 何もせずに記録することに専念するのは本当に正しかったのか。何かできる場にいあわせたならば、何かするべきではなかったのか?
 ファインダーの中の人々は、半ば膠着状態に入っているように見える。しかし次の瞬間に誰かが動いたら、彼らの内の誰かは確実に死んでしまうのではないか?
 自分はどうするべきなのか、このまま冷徹な目として事態を見つめ続けるべきなのか否か……。

 飛鳥の葛藤が頂点に差し掛かったとき、ファインダーの中で最初にアクションを起こしたのは、天野いずみだった。
 そのとき飛鳥は傍観者を徹することをやめた。

「境さんっ! 危ないっ!!」

 


act.5-33;一瞬の中の永遠
 2019-04-13 03:42:36

 いあわせた人々のすべての動作は、一瞬という時間の中に封じ込められた。
 そして、別のものになってしまった火渡貴子と対峙する、境伸也の脳裏に葛藤が一閃した。

(……貴子を死なせたくない。しかし天野の操り人形のまま無為に罪を重ねさせたくはない。貴子を止めるために、この一矢にすべてを込めて貴子を射殺さなければならない。だが、この一矢で今の貴子を殺せるかどうかはわからない。例え殺せたとしても殺したくない……)

 もし貴子を射殺せば、理由はどうあれ境自身もまた犯罪者となる。だが、境の迷いはそんなレベルの物ではなかった。
 貴子を救えるか否か。

(貴子……!)

 貴子の両眼は再び禍禍しく赤い光を満たしはじめた。
 引き絞られたツルがきしむ。
 永遠に支配された永い永い一瞬。

 境の眼前が開け、自分と貴子を結ぶ軸の上に一切の障害がなくなった。迫り来る天野の石斧も見えなかった。
 永遠のように永い一瞬が終わる寸前、境の心に貴子の声が聞こえた。

(……た……す……け……て……)

 その声は赤き神に奪われ代わり果てた貴子の身体の奥底から聞こえた。
 決して弱音を吐くことなく、境に救いを求めたことなど一度もない貴子とは信じられないくらいか細い……だが、確かな貴子の声だった。
 絶対的優位にいるはずの貴子から聞こえる救いを求める声が意味するものは、命乞いなどではない。今の貴子に救いが必要とするなら、それは貴子を呪縛しているものからの解放に他ならない。

「無駄だ、無駄だ、無駄だ! 火渡貴子は赤き神の生ける神輿なのだ!」

 天野いずみは、残された左手に石斧を握り、矢をつがえる境めがけて振り上げた。この膠着した状況を打ち砕くかのように、境の脳天を砕きにかかったのだ。
 天野のアクションを受けて、境に危機を告げる飛鳥龍児の叫びが響きわたる。
 エッセンシャル・コンディショナーは、貴子には勝てないと観念してか、それともESSE自身がもっとも選ぶはずがない「万に一つの可能性」に期待したのか、寸前に境と貴子を結ぶ軸の上から外れて、攻撃の手を天野に転じた。

「想いの総てイシに込めて……」

 境の頬を涙が滴り落ちるのと、翡翠の鏃を着けた矢が弓蔓から解き放たれるのとは、ほぼ同時だった。
 真っ赤に灼けた貴子の両目から赤い怪光線がほとばしり、放たれた矢を捉えた。
 矢は怪光線を浴びて蒸発する。だが、その先端に付けられた翡翠の鏃は、怪光線の光圧に屈する事なくまっすぐに飛び、貴子の口蓋の奥へ消えた。

 

 貴子の中に誰かの気持ちが入ってきた。
 碧い、碧い、緑の気持ち。
 懐かしい、森の気持ちが貴子の中に満ちてきた。真っ赤に燃えていた熱い怒りと焦りが納まっていく。
 御しきれないほどの熱い赤い想いが、抱かれるような緑の想いに抑えられていく。
 森と、生命に満ちた惑星の色が、ゆっくりと貴子の身体の隅々に行き渡る。
 赤い憤りはすっかり色あせ、緑の安堵に覆われていく。

 森の中の聞き慣れた声が言った。

『あとひとつだったのにね』

(あとひとつって?)

『赤くて、緑で、青ければよかったのにね』

『そう、青ければよかったのにね』

(青って?)

『赤くて、緑で、青ければ、もっとよかったのにね』

『赤くて熱い大地の火照りと』

『緑で優しい森の息吹と』

『青くて深くて透き通った海の厳しさと』

『全部揃えばよかったのにね』

『そうよね。せっかく赤いのも、緑のも持ってきてもらったのにね』

『みんな揃ったと思ってたのにね』

(揃ったらどうなるの? ねえ、どうなるの?)

『揃ったら……本当に白くなれたのにね』

『染められていない白ではなく、染めることのできない白になれたよね』

『本当に白くないと星と同じになれないものね』

『そうよね。白くなれれば星になれたのにね』

(わたし……星になんかなりたくない)

『この星と同じになれたのにね』

(このほしと……)

『地球とひとつになれたかもしれなかったのに、残念だったよね』

 幼い少女の囁くような声が、ひそひそと唄うように話しているのが聞こえた。それは貴子に向かって話しているのではなさそうだった。声たちが貴子に気付いているかどうかも怪しい。
 声たちは次第に小さくなった。まるで貴子から遠ざかっていくように思える。

『でも、またいつか次があるよね』

『そうよね。いつになるかわからないけど、次があるよね』

『その頃、この星に誰か残っていてくれるかなぁ』

『わかんない。もう誰もいなくなっちゃってるかもしれないね』

『でも、またいつか次があるよね』

『そうよね。いつになるかわからないけど、次があるよね』

『きっと誰かがこの星とひとつになって、この星の想いをみんなに伝えてくれるよね』

『そうなるといいね……』

『そうよね。そうなるといいね……』

 少女たちの声はひいていく小波のように小さくなり、やがて聞こえなくなった。

 貴子の身体の中に残されたのは、貴子一人だけになった。

 

 

 


act.5-34;祭の終わるとき
 2019-04-13 03:45:11

 振り上げられた天野いずみの左手が肘からぽろりと落ちた。
 石斧を握りしめた腕は支点を失って宙を反転し、血にまみれた切り口を大地に転がした。

「!?」

 エッセンシャル・コンディショナーの放った鋼線が天野の血に濡れて鈍く光る。

「何故だ!?」

 天野の顔に明らかな動揺と困惑が浮かんだ。
 絶対の自信と天野一族の悲願ともとれる想いをもって火渡貴子を赤く染め上げ、原初の神の大いなる力を手中に納めたはずだった。原初の神を統べる神官として、絶対の加護を得たはずだった。
 ESSEは血に濡れた鋼線を振るい、天野の右脚を薙ぎ払った。鋭さを失いつつある鋼線は、天野の右膝から先を断ち払う。

「赤き神よ!」

 天野の奉ずる赤き神は、その信奉者の加護を放棄した。
 貴子の赤い両目から大粒の涙がこぼれ落ちる。真紅の涙は後から後から絶える事なく流れ出す。
 その姿はさながら血涙を溢れさせて悲しみを訴えるマリア像のようだ。
 赤い涙……しかし、それは血涙とは異なり、ほんのりと透き通ってルビーのように見えた。
 真っ赤に染まっていた貴子の身体の中心に、ひときわ赤い点が現われる。
 鳴咽。
 赤い点は腹から喉へ押しやられた。
 そして赤い点は、口蓋の中にまで押し返される。貴子は激しい鳴咽と嘔吐を繰り返した。
 両腕と右足を失った天野の顔は、途方もなく大量の失血によって青ざめていた。天野は自分への加護の一切が消失しつつあることさえ忘れて、火渡貴子に這いずるように向き直った。
 天野の絶対の自信が崩れ落ち、信じられないほどの絶望へ変わる。頂点まで駆け登った男には、それ以上の高みに登ることはできなかった。己のすべてを吐き出して上り詰めた後、天野には下る道しか残されていなかったのである。

「そんな……」

 赤い涙に濡れる貴子の喉の奥から、紅に染まった小粒が吐き出された。
 小粒は血反吐の糸を引いてまっすぐに飛び、絶望の表情を張り付けた天野の眉間に深々と突き刺さった。大きく見開かれた天野の両目に、眉間から流れ出た鮮血が流れ込む。
 赤き神の残照が貴子の身体から吐き出され、神を奉じた天野自身にたたきつけられているかのようだ。
 だが、何者にも染まり得る白きものでなければ、神の色を受け入れることはできないことは、天野自身が先刻宣言した通りである。神をその身に迎えるには、天野自身では役不足なのだ。瑪瑙の小石に詰め込まれた天野一族の想いは、天野自身の身体には耐えきれないほどの膨大なものだった。だからこそ、それに耐えられる貴子に想いを託そうと謀ったにも関わらず、その禍禍しい想いは尽き、ついに果たされることはなかった。
 自ら支えきれないほどの想いを詰めた瑪瑙の小粒を額に受けた天野は、ゆっくりとのけぞり仰向けに倒れた。

 貴子の身体に新たな変化が起こった。
 身体全体から赤みが薄れていく。
 一陣の風が吹き、紅に染まった貴子の身体から放たれていた火照りが静まった。あたりを包んでいた赤い光と、怒気と、禍禍しさのすべてが、吹き抜けた風に払われたかのようだ。

「貴子!」

 貴子の身体が地に崩れ落ちる。
 境は繰り返し貴子の名を叫んだ。

「貴子! 貴子、貴子、貴子……!!」

 つぶやきながら狼狽える境の脇から歩み寄ったESSEは、貴子のおとがいに手を添えた。微かに脈が感じられる。

「大丈夫。貴子は生きているわ」

 境に抱きしめられた貴子の身体から、微かに焦げ臭いにおいがたちのぼる。
 虚ろに見開かれた両の目には、先ほどまでの妖気ともとれる赤さはない。
 乾いた唇にはうっすらとごく普通の赤みが戻りってきている。
 ESSEは激しくせき込む貴子を介抱しつつ、惚けたように立ち尽くしている飛鳥龍児に声をかけた。

「大鵬を介抱してあげて」

 落着き払ったESSEの声に我に返った飛鳥は、倒れふしたままぴくりともしない金井大鵬にこわごわと歩み寄った。
 ESSEは薄笑みを浮かべた。

「そんなに怖がることないわ。大丈夫、大鵬は〈殺して〉はいないから」

 大鵬は、いつもと変わらない大きないびきでESSEに応えた。

 

 2019-04-13 05:11:03

 おんごろに朝日が訪れ、永い一夜が明けた。
 祭は終わりを告げたのである。

 

 

 


act.5-35;フィルムの行方に続く ->
ガラパゴスクエストの目次に戻る->
revival-GL1 Contentsに戻る->
江古田GLGの玄関口に戻る->

(c)1992楠原笑美.