act.5-35;フィルムの行方
「こんな旧式の機材じゃなく、ワイヤレスのCCDキャメラとWANのチャンネルを使って直接ASに映像を送れたら、こんな理不尽な苦労しなくても済んだのに」
久しぶりに触れるビデオ・デッキなどの機器類を前に悪態をつく根戸は、すっかり『下世話ジャーナリスト』の顔を取り戻していた。
思えば昨年末に、21号埋立地に『東京ガラパゴス』の名を与え密林探検番組をぶちあげる……と宣言してから、すでに半年近い月日が過ぎようとしている。
ある程度の見当をつけながらも、目だった行動を起こせば心当たりを持った邪な組織の接触が得られ、いやが上にもスクープとなるような事件に巻き込まれるに違いない……と期待しながらのおとり取材だったが、結末は期待をはるかに上回るものだった。ヤラセ原住民のヤリダンスどころか、さる高貴な血筋の方々を揺るがしかねない秘術の応酬と、血飛沫が飛び散り生と死を賭した戦慄の闘いを、ライブでキャメラに納める機会を得ることができたのである。
だが、肝心の瞬間を捉えた映像が持ち帰ったテープの中に見つからない。
飛鳥龍児が撮影した何巻かの旧式の8ミリビデオテープをくまなくチェックしてはいるのだが、火渡貴子が変化している映像や赤い怪光線を放っているシーン、鮮血をぶちまけながら息絶える天野いずみなど、あのショッキングな映像の数々がどこにもないのである。ところどころ真っ白くなってしまったりノイズで消えてしまったりしているものもあった。テープ交換とバッテリー交換以外、止めることなくテープを回し続けたはずであり、ほんの数メートルの距離で事件のすべてを撮影したのだから、映っていないはずはありえないのである。
結局、ビデオ・テープに映っているのは、惨劇の第二幕が始まる以前の穏やかな……原住民(原始力研)のセレモニー的な祭の光景ばかりだった。
「くそ、これもダメか!」
一人ごちて最後の一本となってしまった煙草を口にくわえ、空になった紙箱を丸めて屑篭に放り込む。安物のライターの火がスイッチの切れたディスプレイに映り、煙草の先に朱色の光点が灯る。
調整室のドアが開いて、飛鳥が現像所から戻ってきた。
「根戸さん、何か映ってましたか?」
「いんや。こっちは全然ダメだよ。なぜあの距離で撮ったの絵が全滅なんだろう……」
「テープを潰すほど強力な磁力源なんて何もなかったと思うんですがねえ。有るとしたら局に戻ってきてからだろうけど、肝心の映像が映っているところばかり狙ってノイズをかけるなんてできるわけないし……」
「まったくだ。で、どうだった? フィルムの方は?」
8ミリフィルムとはまた8ミリビデオ以上に大時代的なメディアではあるが、磁気の影響で磁気テープの記録が吹き飛ばされてしまっている以上、磁気の影響を受けない光学メディアに頼るより他に手はなかった。
飛鳥は、半ば諦め気味の表情を浮かべた根戸に言った。
「……ばっちし撮れてます」
「でかした!」
飛鳥は、調整室に運び込んだ年代物の8ミリ映写機に、現像所から上がってきたばかりの8ミリフィルムをかけた。
無音声、ピントがぼけたような霞んだフィルムには、時折露出がオーバーになったり足りなくなったりと不安定な映像ながらも、あの惨劇のクライマックスの一部がしっかりと焼き付けられていた。否、クリアでない映像が逆に妙な臨場感さえ与えている。
飛鳥がハンディカムを放り出し、境の名を叫んだ最後のあの寸前から、根戸が余剰機材だった8ミリ・フィルム・キャメラで撮影したものだ。
真っ赤な両眼から赤い怪光線を放つ火渡貴子の空虚な表情と、手足から鮮血をまき散らしながらのたうつ天野いずみの断末の苦悶さえ手にとるように見える。
根戸は唇の端をつり上げて目を細めた。
「これだ。こいつを発表したら一大センセーションを巻き起こせる」
あの惨劇の後、根戸たちは、重傷の金井大鵬と意識を失った火渡貴子を連れて、とるものもとりあえず21号埋立地を離れた。エッセンシャルと名乗る銀髪の女はいつの間にか一行からはぐれ、姿を消した。
大鵬たちを炉島の群島中央病院に送り届けた後、根戸と飛鳥が再び21号に戻ってみたところ、ESSEの姿も天野や少年たちの死体もなくなっていた。天野によって眠らされていたとおぼしき原始力研究所(火渡派)を名乗る原住民たちの姿もなく、あの惨劇が実在した証拠の一切が消し去られていた。重大な鍵となっているのがESSEであることは疑いようもないのだが、その足取りは一切つかめなかった。
死体もなければ、それを証明するものもない。今となっては、あの惨劇の経緯を記録したこのフィルムだけが、事件が実在したことを証明する唯一の証人となったのである。
「よし。こいつを核に特番を組む。飛鳥くん。そのフィルムをテレシネに出してくれないか? その間に僕は安香に連絡をとる」
黙って諾くと、飛鳥は巻き戻したフィルムを手にして立ち上がった。
根戸はビデオテープの山に埋もれたヴィジホンを掘り出すと、安香が詰めているはずの企画会議室を呼びだす。2、3回のコール音の後、新人らしい若手がモニタに映し出された。彼の胸に揺れている、ポートレートの入ったIDプレートには『洋上大1年・紫沢俊』の名前が見て取れる。
『はい、こちら第3会議室……ああ、根戸さんのお兄さん』
「安香を呼んでくれないか?」
『妹さんですね? ちょっと待っ』
立ち上がりかけた紫沢の姿を最後に不意にモニタの映像が途切れ、回線が切断された。根戸の左脇からパールメタルのキュアリップに彩られた細い指が伸びて、ヴィジホンの通話ボタンを押さえている。聞き覚えのある女の肉声が、根戸の耳元に響いた。
「困るね。こういうことがあるから……本来なら関わった者はことごとく処分することになっているんだけど」
悪寒が背を抜ける。
肩ごしにゆっくりとふりむく根戸の視界に、細いテグスのようなものに手首を絡めとられた飛鳥の姿が見える。そして、テグスの末端にプラチナシルバーの髪とエメラルド・グリーンの瞳をした、あの女……エッセンシャル・コンディショナーが立っていた。
「お久しぶりね」
「……一応、心配したんだがな、あんたのことも」
「あら。気を使ってくれてありがとう。でも、わたしへの心配はいらなくてよ」
ほんのり桜色の唇から、淡々としたセリフがこぼれる。
「今日は何の用事かな」
「そのフィルムをもらいにきたの。貴方には手に余る代物だと思って」
「証拠隠滅かな? 僕はこいつを公開してピュリッツア賞をもらうつもりだったんだがね。変化した女、神を呼ぶ男、それを殺した女」
ESSEは、微かに笑みを浮かべた。
「やめておきなさい。貴方のことを心配してくれる人がいるうちは、無茶をしない方が幸せでいられるのだから」
「……それは脅迫かな? 僕は……僕はジャーナリストだ。悪いが、暴力と脅迫の前に屈するわけにはいかないな」
「……立派ね。でもそのスピリッツは、別の相手のためにとっておきなさい。貴方の死は丘一色と根戸安香を悲しませる」
二人の名前を耳にした根戸の眉に、わずかな動揺が現われた。
「あいつらは関係ない」
「あなたのフィルムは、あなたが思っているよりずっと重要な意味を持っているわ。天野いずみの死は、より多くの人間の死を防ぐために必要だった。それを理解せず、うかつで表面的な扱いしかできない大衆の知らせるわけにはいかないし、衆愚の上で旗を振るマスコミのおもちゃにさせるわけにはいかない」
飛鳥はきりきりと締まるテグスと格闘していた。これが、あの島でみた鋼線ならば、飛鳥の手首は天野のそれのように、当に切り落とされているはずだ。
ESSEにその気がないのか、それとも人跡未踏の密林ならともかく衆人監視中にあるAS局ビルの中であることを意識しているのかは定かではない。
どちらにせよ、必要と判断すればこの女は簡単に飛鳥の手首を落し、フィルムを持ち去るくらいのことはやってのけるだろう。仲間として行動していた大鵬の脚を躊躇なく折った、あのときと同じように。
「僕には、この目で見、聞いたことを広く知らしめる義務があるんだ!」
「貴方たちが自分のエゴで死ぬのは貴方たちの勝手よ。でも、残された者はどうなるの。貴方のエゴを理解して諦めろというの?」
「く……」
ESSEは飛鳥を振り向いた。
「貴方が平山恭子に託したメモはわたしが処分した」
「……なぜ、そんなことまで知っているんだ! 平山さんこそ、僕とは何の関係もない!! あんた、彼女に何をした!?」
今度は飛鳥の顔に驚愕の表情が浮かぶ。
ESSEは平然と続けた。
「大丈夫。平山恭子は無事よ。彼女が自ら話を漏らしたのでもなければ、拷問を加えたのでもない。この国に、真のプライベートなど存在しないわ。少し調べれば誰のことだってわかる」
ESSEが特殊な組織の密命を帯びたエージェントであろうことは、根戸と飛鳥にもおぼろげながら推測できた。彼女が平和な日常の時間の中に棲むべき者ではないことだけはすでに明らかである。
日常ではない時間に生きているからこその凄みとも言うべきものが、調整室の空気を歪ませている。
ただ、このESSEというエージェントは、その気になればいつでも誰にでも手をかけることができるのだ。エゴのため我を張ることを選べば『関係者はことごとく処分』されるのだ。あの悪夢の惨劇の中に登場していた冷酷無比な殺人者としてのESSEは、かき消されることなく未だ実在しているのである。
根戸が折れる前に、飛鳥が観念した。
「すみません、根戸さん。俺は……関係のない人間まで危険に巻き込む訳には……」
ESSEは、飛鳥の手に絡めていたテグスを解き、床に取り落とされたフィルムを拾い上げた。
リールからフィルムを引き出し、テーブルの上におきっぱなしになっていた根戸のライターで火を着ける。可燃性のフィルムは異臭を放ちながらどろどろに溶け、見る間に煤の混じった黒い塊に変わっていく。
オレンジや紫の炎を上げながら煌々と燃えるフィルムを灰皿の上に置いたESSEは、無言のままでいる根戸を一瞥した。
「今は殺さないでおいてあげる。
そのかわり……忘れなさい。あの島の最後の晩のできごと、天野という男のこと、火渡貴子のこと。これ以上、この件について無用な詮索を続けると、本当に長生きできなくてよ」
揺らめく炎の加減か、ESSEの口元にぞっとするほど恐ろしい笑みが浮かんだ。
「貴方たちには、まだ守らなければならない者たちがいるはずでしょう。そして、貴方が暴かなければならない社会の不正や問題は、もっと別の所にあるはずよ。あの島で見たものはすべて夢、幻だったものと思って忘れなさい。いいわね……?」
ヴィジホンのコール音が鳴っている。
根戸と飛鳥が、コール音で我に帰ったとき、すでにESSEの姿はなかった。開け放たれた調整室のドアから煙ったセルロイドの燃えかすの臭いが流れ出す。
「催眠術でもかけられたか……そうだ、フィルム!」
あわてて灰皿をまさぐる。しかし、そこにたまっているものは、もはやフィルムとしての形をとどめない、ただのタールに過ぎなかった。
「……ダメか」
根戸は、しつこく鳴り続けるヴィジホンをとった。
『兄さん? あたし!』
「安香か……」
『さっき電話もらったって聞いたんだけど……何の用?』
「ああ……実は……」
最前までここにいたはずのESSEの忠告が、頭のどこかにこだまする。
根戸はしばらくの沈黙の後、かぶりを振って続けた。
「いや、何でもない」
ひとつ、天野いずみのしようとしている天皇政復古を阻止すること。
ひとつ、天野いずみを殺すこと。
宮内庁の指令はエッセンシャル・コンディショナーによってすべて遂行された。天野いずみの目指していたことは、オカルティックな世界に興味のないESSEには理解し難いことであったが、天野いずみという男が死んでしまった今、すでにそれはどうでもいいことになりつつあった。
宮内庁の使者は、ESSEが生きて戻ったことによって天野の死を確認し、託された務めを果たしたエージェントとしての働きに満足した。
ESSEは天野に関する一切の記録を破棄し、21号で起こったことの記録を隠滅した。根戸宏と飛鳥龍児が抑えていたフィルムは処分できたし、天野いずみ等の死体も硫酸で骨まで解かして21号の土に返した。が、そういった細かいことは宮内庁の使者には告げなかった。それを伝えれば恐らく彼らは、21号のあの惨劇にいあわせた者たちをすべて殺せと言い出すだろうし、火渡貴子を確保しようとするに決まっているからである。
だが、ESSEは指令されたことのみを忠実に果たし、それ以上のことはしなかった。進んで謀略に巻き込まれるつもりもなければ、自ら誰かの手駒になる気もない。
境伸也や金井大鵬や……そして火渡貴子を、わざわざ危険に巻き込む気になれない。無理に彼らをかばう義理はなかったが、売る気にはもっとならない。ならば、捨て置いておくのがいちばんだろう。
死んだ者たちは行方不明として処理されるだろうし、秘密を知っている一握りの者たちのうち、もっとも気のおけない人物であった根戸宏にはしっかりクギをさしておいた。おそらくこれ以上は関わってこないはずだが、根戸の性格を考えれば今度は対象をESSEに絞ってこないとも限らない。そうなれば今度は根戸を手にかけなければならないような事態も起こりうる。
「潮時……かな」
秘密を守るために口封じをする……これを完璧にやろうと思ったら、自分を含めたすべての人間を殺してしまわなければならないだろうし、そんなことが不可能であることは考えるまでもない。
スパイがスパイであることを知られたら、もうそれはスパイとしては活躍できない。エージェントもまたしかり。広く正体が知られたわけではないが、少なくともあの場にいあわせた者たちとは二度と顔を合わせるべきではないだろう。
もうこれ以上、この街にはいられない。根戸の追求を逸し、自分と誰かとの間にこれ以上の縁(えにし)を作らないために、旅立つべきときが近づいている。
ESSEは、ふと天野へ明確な殺意を覚えた瞬間のことを思いだした。
あのとき、ESSEは確かに「命令」によるものとは別の次元で、天野に殺意を覚えた。天野を殺してやる、この男は殺されなければならない……とはっきり自覚したのは、他ならない火渡貴子のためであった。貴子を穢そうとしていた天野を排除するために、天野を殺そうと思ったのだ。
母を亡くした後、引き取られた教会での日々、神父の計らいによる外交官時代、SPへの転身、そして……大抜擢の末にたどり着いた今の身分。これまで過ごしてきた永い時間の中で、鍛え抜かれた身体だけが機械的に動くエージェントとなり果て、ESSEの心はとうに死んでしまったと信じてきた。
だが、貴子に憧れを感じそれを穢そうとする天野を許せない……そんな人間的な感情が、まだ自分の中に残っていたことが、ESSEに軽い驚きを与えた。
ESSEの自嘲気味の笑みがクラックド・アイスの表面に歪んで映りこんだ。
客が訪れるには遅すぎる時間である。バーテンを務める女の子たちはとうに引けて、店内に残っているのはESSEとBAR・白薔薇のマスター、青木礼の二人だけだった。
シェリーグラスを磨いていた青木は、カウンターの上に置かれた二つの小石に気付いた。
妙に赤みの多い瑪瑙と、ペンダントにするには形がいびつすぎる翡翠。
「えっちゃん、どうしたの、これ。久しぶりに現われたと思ったら、ため息ついたり、にまにましたり……どこかにイイ人でもできた?」
「ん……まぁね」
「結構、結構。大いに結構。彼氏か彼女か知らないけど、今度、連れておいでよ。えっちゃんがきてくれないと、寂しくてね」
「……(^_^)」
ESSEは黙って微笑み、そしてグラスの中のラスティー・ネイルを干した。
原始技術研の顧問である磐田正史教授は、単刀直入に聞いた。
『で、貴子くんの容態はどうなのかね?』
「はぁ……それが、意識は回復しているんですが、外部からの刺激に何の反応も示してくれないんです。目が開いているのに何も見えず、鼓膜が破れていないのに何も聞こえていない……といいますか……」
『心身喪失状態って奴だな。強いショックからくる自閉症とでも言うべきか』
病院の公衆ヴィジホンのモニタには、日焼けした磐田教授の黒い顔と、嘘のように青い空が映し出されていた。半年も行方をくらましていた磐田教授は、どうやら南の島に腰を落ちつけていたらしい。
「教授、今どちらにいらっしゃるんです?」
『バリ島だ。パプア・ニューギニアのほうから流れ着いてな。確か火渡くんはインドネシアの出身だったろう? だから、火渡くんの力を借りようと思ったんだがなぁ……』
火渡貴子は父親の仕事の都合で、小学校から高校までの多感な時期をインドネシアのジョグジャカルタで過ごしている。
ホームヘルパーとして働いていた老女に可愛がられた貴子は、旧王家の流れを引くという老女からバリ島の民間医療薬ジャムゥの調合法を習うなどを経て、次第にバリ島に引かれていった。
実際、中学・高校の長期休暇のほとんどをバリ島で過ごした貴子にとって、バリ島は心の故郷とも言うべき場所である。熱帯の森に抱かれることに安らぎを覚え、21号埋立地に心引かれたのも当然と言えば当然のことだった。
都会の真っ直中で見つけた原始技術研が、次第に『自然を管理する』『林を作り出す』といった方向へ進みつつある農業工学科との関係を深めんでいったことは、天然の森への回帰を目指していた貴子にとって『人間の傲慢』と映ったのかもしれない。
しかし、森は手を着けずにいれば、いずれ失われてしまう。傲慢と言われようとも、保存し、管理し、作り出し、再生していかなければならない。その方法を担っている農業工学科に、できるだけ天然に近い森に関する情報を与えていく……それは、あの時点で原始技術研が選び得る道であった。
だが貴子は、原始技術研の選択を『農業工学科の箱庭のような牧場で草をはむ家畜になりはてること』と考え、原始技術研と袂を分かった。その選択が誤っていたとは誰にも言うことはできないが、その選択を促したのが天野いずみであったこと、そして天野のまったく別の次元にあった思惑を見抜けなかったことが貴子自身の不幸となった。
「教授、バリ島には当分いらっしゃるんですか?」
『お? ああ。しばらく中部のプリアタン村に逗留することになると思う。すまんがもうしばらく留守を頼む』
「半年前もそう言ってたじゃないですか、教授」
『いつもすまんな、境くん』
「ひとつお願いがあるんですが……」
『何かね?』
「火渡くんをバリに行かせたいんです。このまま東京の病院においても容態は変わりそうにないですし……精神的なショックが原因というならばなおのこと、心が安らぐ場所でゆっくりと養生すべきだと思いまして」
『ふむ。彼女はウチのゼミにとって将来が楽しみな人材だしなぁ。21号における彼女が辿り得た境地にも興味がある……』
短い沈黙の後、モニタの中の教授が答えた。
『よし、わかった。火渡くんはこちらで引き受けよう。そのかわり、君にはもう一仕事してもらうぞ。原始力研……火渡派の救済のために』
外部との関係一切を断っていた火渡派が、幕末のペリーの来航の如く「開国」を迫られたのは、祭の晩から10日目の朝のことだった。かつて袂を分かった磐田研の使いとしてやってきた境伸也によって、磐田研への復帰が薦められたのである。
火渡派の内部に、対立と論争が巻き起こった。貴子と天野を失いつつも、このまま21号での生活を続けるのか。それとも、境の薦めに従って、これまでの21号での生活レポートや研究成果をまとめて発表する作業を行なうために、島を出て磐田研へ復帰するべきなのか。
だが、攘夷派と開国派のごとき対立は長くは続かなかった。21号への居残りを決め込もうにも、これから何を目的にして行けばいいのか、残された者たちには皆目見当がつかなかったのである。一人転び、二人転び……そうして、とうとう火渡派全員が、レポート作成と磐田研への復帰を決め、21号埋立地「おんごろ」を後にし、原始力研・火渡派は消滅した。
「おんごろレポート」が公開されたのは、火渡派が事実上消滅した日から数えて6日目のことである。極めて短期間の作業であったにも関わらず、そのレポートがもたらした内容は実に多彩かつセンセーショナルなものだった。
曰く、
21号島を取り囲む「葛」が、原生森を天然の温室に変えていたこと。
島全体に、食用となる果実や樹木が繁茂しており、実に豊潤な森であったこと。
島内に湧水はなかったが、森が湿気を逃さなかったため、夜露やある種の草の樹液などによって水分の補給には事欠かなかったこと。
魚・鳥・小動物の捕獲・狩猟によって、蛋白源の補給がまかなわれたこと。
21号で手に入る材料によって作られたいくつかの石器・道具の類が、実際の生活に充分耐え得ること。
自生している植物の繊維などによる衣服のこと。
そういった環境に身をおくことによる、精神的変化のこと。
これらの「おんごろレポート」は、根戸宏や飛鳥龍児が21号から持ち帰った、彼らの儀式や21号内の密林を撮った映像と併せて、『根戸宏探検隊/潜入! キミは東京湾に浮かぶ秘境・東京ガラパゴスに暮らす謎の原住民を見たか!?』と銘打たれたASの報道特番の中で広く公開されて物議をかもした。この番組の放映によって、根戸宏及びASの一応の面目が保たれたことは言うまでもない。
後になって21号から持ち帰られた「葛」のサンプルが、農業工学科から紛失されたものと遺伝子的に同一であったことがわかり、バイオハザード騒動が持ち上がったが、結果として21号の特異かつ活発で豊潤な自然環境を作り出す前提として役だっていたことから、このバイオハザードの件はうやむやのうちに不問にふされた。
一方、おんごろレポートの中には問題の生物「キノボリオニハナアルキ」に関する詳細な研究レポートも含まれていたのだが、いつの間にか公式資料から削られ、ついに日の目を見ることはなかった。一説には金居研資料室に持ち込まれたまま行方不明になったという誠しやかな噂もあったが、結局の所このキノボリオニハナアルキの存在も「野生化した猫か何かを見間違えたもの」として忘れられていった。
ASで報道されたことも引き金となって、21号埋立地は広く注目を浴びた。
実際、埋立地であるせいで緑の少ない群島区の中にあって、21号は皇居をはるかに凌ぐ広大な面積の(半)天然緑地として存在しているのである。南の島をイメージしたリゾート化の話や大がかりな開発計画などがあげられたが、不思議なことにどれも途中で計画が頓挫してしまい、ひとつとして実現しなかった。
そうこうしているうちに東京都は21号全域の天然林の保護を決め、これを都の保存林に指定。例の「葛」の件も含めて、洋上大学基礎工学部・農業工学科に21号緑地の保護と管理を依頼した。農業工学科は、ごく小規模の調査団を一度だけ派遣して島内の追調査を行なった後は、農業工学科を含めた一切の21号への立ち入り禁止を決め、緑地の保護に努めた。
最初で最後の調査団に団長として参加した農業工学科顧問の白葉透教授は、後の著作でこう綴っている。
『21号埋立地は、ある意味で〈開放生態系〉であると言える。(……中略……)我々の研究しているバイオスフィアJ−U(閉鎖生態系)との違いは、密閉された容器の中にあるかないかぐらいでしかない。否、地球という惑星が、大気という容器に封じ込まれた閉鎖生態系であるとするならば、21号こそが本来的意味での生態系そのものであり、地球はかくあるべきである……という理想を体現している場所であったとも考えられる(以下略)』
そして、図らずもおんごろレポートの最後は、天野と火渡を欠いて瓦解の際にあった火渡派に、最後の務めとして「おんごろレポートの作成」を達成させるという偉業を成し遂げた功労者である、3年生の橋本という学生による以下のような文でくくられている。
『……(略)おんごろは、我々が地球と折り合い地球の上で暮らしていく上で最上の場所と方法を、地球自身が示してくれた、いわば〈エデンの楽園〉であった。思えば、昔は地球のあらゆる場所がエデンの楽園だったのだ。だが、我々は楽園を捨て、楽園は我々を見捨てた。楽園に見捨てられた我々は、すでに地球の上で暮らしていく術を失いつつあるのかもしれない。(……中略……)
我々火渡派が垣間見てきたかつての楽園の記憶が、人類が新たに見いだそうとしている楽園像を現実とするのに役立つのか否か。未来は考古学者以外の手に託されている』
ルフィー西石 | |
ルフィー西石本人と確認できる死体は上がらず、 扱いは未だ行方不明のまま。伊島の西石探偵事務所 ビルは、管財人の手によって売りに出され、デァ・ グルッペ・シュペーア極東支部の本部ビルとして落 札・改装された。 警察当局の指名手配は解除されていない。 | |
白葉透 | |
中嶋千尋との関係は良好。周囲の盛り上がりを余 所に、まだ結婚の意志はないと宣言。プライベート の盛り上がりも去ることながら、バイオスフィアJ −U計画もその後は順調に進み、本夏のバイオスフ ィアJ−U実験の本格始動と西瓜祭りの準備に向け て日々邁進している。 | |
中嶋千尋 | |
白葉教授に甲斐甲斐しく弁当・夜食を届ける毎日 が続く。最近の悩みは、「透さん」の健康状態。激 務の続く白葉教授の身体を心配している。 | |
富吉直行 | |
あれからしばらくの間、極度の欝状態が続いたが、 生活が困窮を極めたため、経済的事情から仕事を再 開せざるを得なくなった。最近では一風変わった依 頼もぽつぽつと入りはじめているようではあるがこ なしきれず、やはり主力は浮気調査業となっている ようである。 | |
境伸也 | |
火渡貴子をバリ島の磐田教授の元へ送り届けた後 は、在東京の火渡派を磐田研に再編入する作業に追 われる。相変わらずのめりこみたい自分の研究テー マと、磐田研全体の面倒、農業工学科との折衝など、 どちらつかずの「境」に暮らす日常が続く。 | |
火渡貴子 | |
バリ島で療養生活を送る。地元のシャーマンのま じない等により、次第に心身喪失状態を脱しつつあ るが、記憶の混乱などの障害はまだなくならない。 磐田教授立会いの元、何度目かのまじないの最中に 軽いトランス状態に陥り、何度か「青が足りなかっ た」と繰り返していたが、その意味はシャーマンに も、目覚めた後の火渡貴子本人にもわからなかった。 父親とは未だ絶縁状態にある。 | |
原始力研(火渡派) | |
一連のおんごろレポート発表はセンセーションを 巻き起こしたが、3年生の橋本の結びの文章が問題 になり、保守学派から「おんごろレポートは学術論 文ではない!」との異端宣言を受ける。結局、火渡 派のおんごろレポートを支持し擁護してくれた磐田 研への全員の復帰が決まった。 | |
天野いずみ | |
表向きは行方不明とされている。関係省庁の後の 調査によれば、日本国の戸籍上に天野いずみという 人物は、元から存在していないことが判明。今とな っては彼が実在したのかどうかさえあやふやになり はじめている。 | |
エッセンシャル・ コンディショナー | |
BAR・白薔薇でマスター相手に赤と緑の小石を 弄んでいる姿を見かけられたのを最後に、ふっつり と消息を断った。今もきっとどこかにいるのかもし れないが、おそらくこの街で「ESSE」と名乗る 彼女を見ることは二度とないだろう。 | |
飛鳥龍児 | |
報道特番「根戸宏探検隊/潜入! キミは東京湾 に浮かぶ秘境・東京ガラパゴスに暮らす謎の原住民 を見たか!?」の構成として能力を発揮。その後A S報道部に正式に配属が決まり、もう誰も彼のこと を研究生とは呼ばなくなった。 | |
金井大鵬 | |
右足首複雑骨折、右肋骨粉砕骨折、胸骨骨折など をはじめ、全身に傷を受け、群島中央病院に収容さ れる。が、至って元気で、順調に快方に向かってい る。 昨日、病院を抜け出して近所の喫茶店にカレーを 食べに行ったことがばれて、看護婦に外出禁止令を 喰らった。 | |
根戸宏 | |
報道特番放送後、しばらく天野いずみに関する調 査を続けていたが、ある日を境にぷっつりと一連の 事件から手を引く。後に飛鳥に語ったところによる と、聞き込み先でESSEに再会したらしい。 その後、消息を断ったASの同僚ディレクター・ 中島えりか絡みの事件を追いはじめ、イギリスへ取 材に発つ。 | |