act.5-12;出発


 2019-04-12 08:13:58

 21号埋立地の外縁部湿地にしつらえられた第二キャンプに朝が訪れた。
 出発の準備は昨夜のうちから整えてある。根戸宏救出と21号解明を旗印に掲げる探検隊は、十数分後の出発に備えて簡単な朝食をとっていた。
 飛鳥龍児の指示の元、撮影用機材、携帯用糧食、そして武器が森の中に持ち込まれることになった。
 飛鳥と境伸也は、登山ナイフというべきかどうかわからないが、20号の犬と雄鳥亭で借り受けることができたダガーをベルトに挟んだ。金井大鵬は、それよりはるかに重く丈夫そうな2本のショート・ソードを腹に挟み、いくつかの武器類とバッテリーや予備の機材・テープ類、人数分の糧食や飲料水などを軽がるとかつぎ上げる。
 密林の専門家としてその腕を白葉教授に見込まれた境は、背中に簡易照明器具を背負い山刀を片手にもって、一行の先頭をゆくことにきまった。一応、探検隊の事実上の隊長を務めることになっている飛鳥は、撮影用のキャメラをかつぎ上げて境の後についた。
 かつぎあげるとは言っても、片手にすっぽり納まるサイズの8ミリ・ハンディカムである。この場合、かつぐ……という描写は本来は正しくないのかもしれないが、現在普及しているプロ用キャメラや、WANをバイパスとして使用するタイプの微細キャメラに比べたら、カンガルーの赤ん坊とジャンボマッ○スほどの違いがある。
 ASからの一切の機材援助を断わられ、また何者かによる妨害を避けるためにはWANを使用するわけにいかないとなれば、自ずと旧型の機材に頼らざるを得ない。旧型の機材は、現在普及している多くの機材のように、ネットワーク外にデータを蓄積するタイプではないので、取材データを削除される恐れこそないものの、取材データをすべて持ち歩かなければならないという点で、非常にかさばり不便であった。

 その重くがさばるはずの機材のうち、大鵬は機材の重さにまるで気付いていないかのように、ライブ(生)で撮影に使っているもの以外の総てをかつぎ上げた。

「そいじゃ、いきましょうか」

 ほがらかな笑顔を浮かべた明るい巨漢の一言。
 ザックを背負おうとした飛鳥をESSEことエッセンシャル・コンデショナーが呼び止めた。

「あ、ちょっと待って」

「なんです?」

「飛鳥くん。貴方それじゃ、森の中を歩くのに邪魔でしょ☆」

 言うが早いか、ESSEは飛鳥の長髪を束ねて三編みにしはじめた。

「こないだから、ずっとやってみたかったのよね。……ほら。これでよし、と」

「ESSEさぁん……(^_^;)」

 飛鳥は腰まである長い髪を一本にまとめたきれいな三編みにされた上、ピンクのゴムで結ばれてしまった。

「いや、実によくお似合いですな。わたしも編んでほしいくらいだ」

 大鵬は緩い天然パーマのかかった自分の短い髪をかき回しながら言った。
 飛鳥は苦笑している。どうやら観念したらしい。

「ああ、そうだESSEさん。これ!」

 境は出発直前の微かな緊張をほぐしてくれたESSEに向かって、ポケットに納まっていた小石を放り投げた。
 ESSEが受け止めたのは、小さな翡翠の小石だった。

「なぁに?」

「縄文人の作った翡翠の鏃(やじり)。こうして21号の土を踏む踏ん切りをつけるきっかけをくれたこと、貴子くんの心配をして僕らを助けてくれようとしていること、いつぞやの19号でのお礼に……それに、僕らの留守を守ってもらう間のお守り代わりにね」

「ありがとう(^^)」

 碧の小石は、春の日差しの中で小さくきらめいている。
 ザックを背負い直した飛鳥は力強く言った。

「じゃ、ESSEさん、留守を宜しく!」

 ESSEは翡翠の鏃を握りしめ、にっこりと微笑んでそれに答えた。

 

 2019-04-12 08:33:01

 祭の朝の空気は澄んでいる。
 根戸宏の鼻孔を澄んだ森の空気がくすぐる。めっきり慣れてしまった青臭い匂いとお別れして、一刻も早くあの焼けたアスファルトとタバコの匂いの立ちこめる文明世界に戻りたいものだと考えた。
 まんじりともしないまま朝を迎えた囚れの根戸は、昨夜彼の元に現われた火渡貴子の言葉を思いだしていた。

「僕を逃がすとか言っていたが……本気かな」

 根戸の不審は貴子が現われるかどうかよりも、貴子の「自分を逃がす」といったセリフへと注がれていた。もちろん、文明社会に帰れるのはありがたいことなのだが……だがしかし、まだなにか疑念が残る。
 ……自分が逃されなければならないような何かが、これから起こる可能性がある。
 それを知りたいという欲求と根戸が闘っていたとき、約束通り貴子が現われた。

「迎えにきたわ。今なら誰もいない。すぐにここを出るよ」

 

 2019-04-12 09:02:23

 探検隊を見送ったESSEは、己のすべきことを確認した。あの晩、宮内庁からの使いが伝えてきた指令を思い出す。
 ひとつ、天野いずみのしようとしている天皇政復古を阻止すること。
 ひとつ、天野いずみを殺すこと。

「……できるならば殺したくない、な」

 ESSEは、いわば宮内庁に飼われたエージェントである。今回のターゲットとされている天野という男もそうだったらしいが、天野が「陰陽」という日本のオカルティック・マジシャンであったらしいのに対して、ESSE自身はもっと現実的な工作に関するエージェントであった。
 忠誠を誓う義理もないこの国の中の機関に雇われたESSEの任務は、調査し処断すること。日本人以外の人間がいることが不思議でもなんでもなくなってしまった人工群島において、場所によっては日本人であるが故に不審であったり謎に思われてしまうようなダークサイドも存在する。ESSEはそういったダークサイドで活動する日本人以外のエージェントである。
 だが、宮内庁側から見れば所詮彼女は外人部隊に過ぎない。そしてそれを彼女自身も承知はしている。それでもするのはビジネスであるからだ。そういう待遇に身を置くこと、そして降り掛かる火の粉を追い払うスリルを味わうことに、彼女自身気付かぬうちに魅力と快感を覚えはじめているからでもある。
 ただ……ESSEに関わった処断されるべき人々は、ESSEが意図して手を下すまでもなく自滅の道を辿ることが多かった。いや、これまでに葬らざるを得ないことになったターゲットたちのほとんどすべてがそうであったかもしれない。
 あるものは事故で、あるものはまったく別のチンピラに絡まれて、意味なく絶命したりしている。ESSEがそういう目的で関わった人間は、ほとんど例外なく何がしかの不幸に遭っている。
 ESSEの主な管区である人工群島の中でも、特に物騒な地区である19号周辺の犯罪者たちの間では、彼女は「オルロフ・グリーン」の通り名で恐れられていた。まるでレストランでボーイを呼びよせるように「不幸を呼びよせる」ESSEにつけられた通り名「オルロフ・グリーン」の由来は、ロシア帝国を滅亡に導いた真の立て役者とさえ呼ばれる、呪われたダイヤモンドにある。
 ESSEの回りに起こるそういった災厄が自分自身の能力であるのか、偶然の恐ろしいまでの繰り返しであるのか、ESSE自身にはわからなかったし、気付いてもいなかったが、その筋の犯罪者たちは彼女のことを「不幸を呼ぶ不吉な者」として関わることを嫌う傾向があることだけは確かだった。

 ESSE自身、スリルは好きだけれども殺すことが好きなわけではない。相手を不幸にしたいと思っているわけでもない。だから、ことにあたるときはいつも「殺したくないな……」とは思う。
 しかし、いざ実戦に及ぶとなれば一瞬の躊躇は自らの破滅につながる。
 だが、ESSEはこう考えずにはいられなかった。これまでのように自ら手を出すことなく、天野いずみという男が勝手に自滅してくれればいいのに……。

 しかし何より、ここへきた目的は天野いずみよりも火渡貴子に対する興味の方が大きい。皮肉にも仕事絡みの来島とはなったが、ESSE自身の興味は断然貴子に向けられていた。
 ESSE自身、自分が貴子に何を感じているのかよくはわかっていなかったが、ESSEはこれまでの経験から、自分に内在する本能と自分の自然な欲求には逆らわないことに決めている。
 貴子に一目会ってみたい……この強烈な欲求を満たす。理由など今の所それだけで十分である。貴子に会うことによって何が起こるのかは、会ってみてから考えればいい。
 そのために、まずはどうしたらいいのか。

 第二キャンプの資材とホバー・トラックを任されたESSEは、何事か考えを巡らせ始めた。

 

 

 


act.5-13;密林
 2019-04-12 10:17:39

「根戸さんの送ってきた映像そのもの、まさにジャングルだな」

 ハンディカムを構えた飛鳥龍児は、ファインダー越しにあたりを見回しながらひとりごちた。探検隊がタコノキとガジュマルが繁る密林に入ってすでに1時間以上が過ぎている。

「ねぇ境さん。21号埋立地って、こんなに広大でしたかね」

「足場の悪い場所ですし、それに森の中っていうのは意外に広く感じるもんですよ」

 フィールドワークで林慣れしている境伸也は、飛鳥にそう答えたものの内心不安を覚えていた。
 境の不安を余所に、金井大鵬は言った。

「しかし、なんですなぁ。まるで数百年も前からずっと密林だった……みたいな場所ですな、ここは」

「馬鹿なこと言わんで下さいよ。人工群島ができてからまだ20数年ですよ? 特に群島区南は最後に埋め立てられた場所でもある。いくらこの島が放置されていたからって、せいぜいが十数年でしょ? こんなに風格のある……しかも熱帯性の密森ができるはずがない」

「しかし俺達の前にあるこの森は現実の産物です。かなり異質でふざけた存在ではありますがね。どうですか、境さん。密林の専門家としての分析ってヤツは?」

 境は山刀を振りながら飛鳥の問いに答えた。

「そうですね。まず森の入口あたりにツタがいっぱい生えてましたね。あれが、この森のフタになってるんじゃないかと思います。
 本来、森というのはずいぶんたくさんの湿気を含んでいるものなんです。森の中に入るとひんやりして湿気が多いような感じがするでしょう? あれは植物が葉っぱから蒸散させた水分なんですよ。あのツタは、森の中に含まれている水分が森の外に逃げないようにするためのフタの役割を果たしているんです。
 僕らは森というと大きな高い樹木ばかりが林立しているものを想像しがちですけど、本来はそうじゃありません。まずは下生えの草があり、低木があり、そして次第に高層の高木に移っていく。それらの森と森でない場所の境の部分にはツタが生えていて、森の湿気が逃げないように森の中を守っている。
 最近は元々あった森の中を切り開いて道路を通したりしますから、高木と森でない場所の間を埋める低木やツタがない。だから森が乾いてしまって……実際、低木やツタで守られていない森は、脆く死にやすいんです。
 ですが、この森は……しっかりツタに守られていてできている。異質というよりむしろこれが森のあるべき姿で、よりスタンダードな森だと言えないこともありませんね」

 境は息をつきながら説明してみせた。だが一見スタンダードのように見える森が、明らかに異質なものであることもまた事実だった。
 最後尾から大鵬の質問が聞こえる。

「しかしですなぁ、普通、森ってのぁこんなに暑いものでしたかな。わたしが修業で立ち寄った青木ヶ原樹海は、もっとひんやりして涼しかった」

「そう、そうなんです。この森は暑すぎる。まるでビニールハウスだ。島の内側から全然熱が逃げない。保水性ばかりか、保熱性も高いようです。この蒸し暑さが、疑似的に熱帯のような環境を作りだしている……ようですね。本来自生している筈のない熱帯性樹林が生えていられるのは、この天然の温室のおかげというわけです」

「なるほどね。しかし、本当に『天然』の仕業なんですかね。こんな作為的としか思えないような……」

 訝しむ飛鳥を大鵬がたしなめた。

「自然はときに作為的に振舞ってみせるもんです。樹氷に、黄昏に、散際の桜。どれをとっても作為的ではないかと疑ってしまうほど美しい。それらが人の手による美しさではないことがわかっているのにも関わらず、作為と考えてしまうほどにね。つまりは、この21号をすっぽりかこむ天然の温……ぬお!?」

 不意に大鵬が言葉を切った。
 歩みを止めて振り向いた飛鳥の鼻先を黒い細い影がよぎる。

「わっ!?」

 草に足を取られた飛鳥は、ハンディカムを守ろうとしてしりもちをついた。
 黒い影は、ほんの数秒前まで飛鳥の頭があった場所を通り抜け、その延長線上にあった枝を薙ぎ払ってガジュマルの幹にざっくりと突き刺さった。
 鞭のようにしなる尻尾のようなものの先についた、鋭い爪がガジュマルの幹に見覚えのある傷跡をつける。
 飛鳥は頭上に残された傷跡の記憶にたどり着いた。

「……こいつは……こいつだったのか! 新田の持ち帰った映像に映ってたあの傷跡は!」

 ガジュマルに突き刺さった尾爪は、一瞬たるんだ後、シュッという音とともにピンと張って遥か頭上に戻っていった。  

 

 

 


act.5-14;密林2
 2019-04-12 10:21:19

 火渡貴子は黒い女豹のように密林の中を疾駆していた。
 息を乱す事なく走る貴子は、低木や枝葉を揺らしても枝を無駄に落とすことは一切なかった。まるで誰かに導かれているようだ。
 だが、根戸宏はそうはいかなかった。
 タコノキのむきだしの根に足をとられ、ツタにつまずき、バランスを崩してつかまった低木の枝葉をむしり、モクセイシダの葉をちぎる。根戸自身としては、森を破壊してしまうのではないかというくらいの勢いで驀進しているのだが、それでも貴子の進む速度には到底かなわない。

「こら……おい……待てぇ!!」

 根戸がついてきていないのに気付いた貴子は、ふと足を止めた。

「なんだ」

「少し……休ませろ……」

「まだ半分もきていない」

 立ち止まった根戸は滝のような汗を拭い、はぁはぁと荒い息をつきながらぼやいた。

「僕は文明人だぞ。あんたらのような原始人と一緒にするな」

「ひ弱な文明人が……人間はすでにそこまで弱くなっているのか」

「人間は文明の鎧を得て強くなり続けてるさ。ときに、自分の作った鎧の強さを御しきれないほどにね」

 根戸に答えようとした貴子は、不意に言葉を切った。

「所詮、文明なんて仮の…………!?」

「どうした?」

「しっ! 悲鳴が……誰かが襲われてる!」

 貴子は目を閉じ、耳を済ました。
 葉ずれの音に混じって、怒号のようなものが微かに流れてくる。
 聞き覚えのない男の叫び声に混じって、飛鳥龍児の怒号が聞こえてくる。

「あの声……」

「知合い?」

「僕の知合いだ」

 手近のモクセイシダにたてかけてあった槍を手に取った貴子は、まだ座り込んだままの根戸を一瞥して言った。

「ここでじっとしてなさい。いいわね?」

「冗談じゃない! こんなところに置いていかれてたまるか!」

 根戸は大きく息をついて立ち上がり、貴子の後を懸命に追った。

 

 2019-04-12 10:31:58

 この島の森は亜熱帯と同様の気候を保ち、住むものに果実や木ノ実などの豊富な食糧を与えてくれている。また、本来なら空気中に蒸散してしまうはずの水分を蓄える植物などのおかげで、天然の湧水源や海水の浄化システムなどをいっさい持たないにも関わらず、水に困ることもない。そのため、ネズミ、犬などの野生化した小動物の天国となっていた。
 原始力研究所を名乗り磐田研を飛び出してこの21号埋立地にやってきた火渡貴子たちにとっても、この島の森から受ける恩恵は計り知れなかった。だが、この森には警戒すべき生物がいた。

「があっ!」

 その生物の鋭い尾爪が、境の脇腹を襲った。

「境さん! 大丈夫か!?」

「……な、なんとか」

 直撃は逃れたもののシャツの脇が大きく裂かれ、境の脇腹のあたりから二条の血痕が浮かび上がっている。
 飛鳥は草むらに身を潜め尾爪の獣をハンディカムで追いながら、用心棒として雇われた巨漢の拳法使い・金井大鵬に向かって叫んだ。

「大鵬さん、なんとかなりませんか!?」

「なんとかもなにも、テキは樹の上です。そして、わたしらには飛び道具がない。となれば……」

「となれば?」

「最良の方策はただひとつ。逃げるコトです」

 大鵬の言葉には一理ある。
 昨今のゲームなどでは「敵に出会った!」というシチュエーションでは、必ず闘って相手を撃破することになっているが、実際にはさっさと逃げるのがいちばん効率がいい。なぜなら、自分より強いかもしれずなおかつ最終的な仇でもないものをいちいち相手にしていくことは、現実では無駄な体力の消耗以外の何者でもないからである。
 特に、現在の飛鳥たちのように「生き延び続けなければならない」という命題を抱えている場合は、まず敵と遭遇したら逃げるのがもっとも利口である。

「逃げる!? 闘って倒すとか生け捕りにするというわけにはいかないんですか? あのなんだかよくわからない獣は実に貴重だ。いままで見たこともない動物のようだし……なんとかあれをキャメラに納めたい」

「冗談はよしこさんですな。闘うというのは命を賭すということです。死ぬ覚悟がないとき、闘いの後で死んではならないときは、絶対に闘うべきではない。わたしらの今回の目的は根戸氏を救出することでしょう?
 あやつは後回しにすべきです。今の我々が命を賭けるほど価値のある敵ではない。ならばこそ、ここはもっとも高い確率で生き延びることができる方法を選ばねばいかんのです!!」

 武術は敵を倒すためにあるのではなく、身を守るためにあるという。そして、その目的において、闘わずして身を守ることほど卓越した方法はないのかもしれない。その一方で、武術を習い覚えるとどうしても自分の腕前を試してみたくなるものでもある。
 だが、真に武術を極めた者は、本当にそうすべき一瞬まで技を披露したりはしない。居合抜きがそうであるように、刀は抜くべき瞬間まで鞘に納めておくべきものである。
 武術者のはしくれである大鵬の直感は、今が拳を振るうべきではないときであることを感じとっていた。

「飛鳥さん、境さん、ここはわたしが時間を稼ぎます。先に逃げてください!」

「大鵬さん……!」

 大鵬は腰にさしたショート・ソードを抜きはなって構えた。
 離れた相手に向かっては何の効力も発揮できないとわかってはいるものの、素手で対峙するのは少々心許ない。

「ホバートラックで合流しましょう!!」

 じわじわと自らも後退しながら叫んだ大鵬の声を合図に、尾爪の獣の長い尾が三人に襲いかかった。

 

 

 


act.5-15;出られないジャングルの外
 2019-04-12 11:05:24

「離せ、離してくれ! 僕はあれをキャメラに納めるんだ!」

「おとなしくしなさいってば! ええい、聞き分けのない!」

 すでに境伸也の姿が見えないのは、きっとうまいこと逃げ延びているせいに違いない……と合点した大鵬は、その場に踏みとどまろうとぐずつく飛鳥龍児をひょいと担ぎあげ、その場からスタコラサッサと逃げだした。
 山刀で切り開きながら道を付けてきたはずだったが、軟らかい茎を持つ熱帯性の草は、たちまちのうちに踏み荒した侵入者の痕跡を消し去っていた。

「むぅ、こんなことならパン屑でも撒きながらくるべきでしたかなぁ」

 この緑の迷宮には、目印になるようなものはなにひとつない。そして、コンパスさえきかない。可能な限りまっすぐ進んできたはずだから、まっすぐ戻ればすぐに島の外に行き着けるはずなのだが……だが、なぜか島の外に行き着けない。
 大鵬は自分たちが、磁性溶岩帯に迷い込み同じ場所を何度も通っている哀れなハイカーのようにも思えてきた。
 磁性溶岩帯とは、磁気を帯びた溶岩帯のことである。微弱な磁気を帯びた溶岩帯はコンパスなどを狂わせてしまうため、その付近では正しい方位を知ることが困難となる。
 著名な磁性溶岩帯と言えば、富士山の北部山梨県側に広がる青木ケ原樹海のそれだろう。迷い込むと抜け出せないのは、そこがランドマークとなるはずの富士山をいただくことさえできないほど、深く鬱蒼とした樹海であるからという理由ばかりではなく、富士山の火山活動に起因する磁性溶岩帯のためであると言われている。
 磁性溶岩帯のためであるのか、それとも深く鬱蒼とした樹木の海のためであるのか理由は判然としないが、青木ケ原樹海が幾人もの死者・行方不明者を産している事実は変わらない。樹海が人間を阻んだ結果として人が死ぬのか、それとも樹海が人を呑み込んだ結果として二度と戻れぬ緑の迷宮に捕らわれてしまうのか、それは定かではない。
 そして、この21号埋立地もまた迷い込んだ人間を飲み込もうとするかのように、逃げまどう人々の行く手を阻んでいる。

「どっちだ? どっちに行けばいいんだ!?」

「こういうときは、悩んだら負けですぞ! 敵から逃れる最良の方法は、ひたすらまっすぐ逃げる! これに尽きる!」

 言うなり、大鵬は飛鳥をかつぎ上げたまま森の中を一直線に駆け出した。
 とげのある草やツタ、低木の枝などが大鵬にかつがれた飛鳥の顔を叩く。

「いでっ! 大鵬さんっ! 前、前!!」

「なんのっ!」

 進行方向上に木が在ろうがなにがあろうが、いっさいの迂回ルートをとらずに目前に立ちはだかるすべてを粉砕しながら進む。サボテンのように水分を多量に含む性質を持つ多年草が大鵬の驀進によってなぎ倒され、甘い草汁の匂いをまき散らした。
 大鵬の「戦略的後退」のための驀進は一見すると自然破壊的行動に見えないこともない。しかし、大鵬は大地の恵みであるうまいものを美味しくいただいて日々過ごすことを旨とし野草や野鳥(^^;)など食べられそうなものはなんでも食べる自然生活主義者であって、盲目的な自然保護主義者ではない。
 そして、この森の繁殖力ならば枝を手折る位のことは自然破壊の「し」の字にも至らないであろうことを信じていた。大鵬によって一度は地に落ちた枝葉はこの島の大地に帰り、再び森の糧として草木を繁らせることに一役買うであろう。枝葉から延びた新たな根や、枝の先に実っていた新たな芽が芽ぶき、落ちた枝葉は決して無駄にはなるまい。
 自然破壊とは林の中で草木の枝葉を落とすことではない。落ちた枝葉が再生できないような、閉じたサイクルに向かって袋小路の進化を遂げてしまうこと……それこそが自然破壊と言われるものなのではないだろうか。

 ……青臭く、そしてわずかに甘い森の匂いに、潮の香りが混じりはじめた。
 21号の森を覆うように生えていたツタが木々の幹に多く絡みつきはじめる。ひときわ厚い緑のカーテンの隙間から、春の陽光に照らされた海面がきらきらと輝いて見える。

「飛鳥さんっ、もうすぐだ!」

 大鵬は肩に担いだ飛鳥を元気付けたが、飛鳥から返答はなかった。
 飛鳥は度重なる枝葉と蔓の猛襲を、すべてその顔面に受け失神していたのである。三編みにされた髪にこびりついたシダの胞子と潰れたアケビが、密林の反撃のすさまじさを物語っている。
 緑のカーテンをめくり上げ、密林から湿地に設営した第二キャンプにたどり着いた大鵬は、ホバー・トラックの守備とベースキャンプである20号埋立地の犬と雄鳥亭への緊急連絡を受け持っているはずのESSEことエッセンシャル・コンディショナーの名を叫んだ。

「ESSEさん、ESSEさんっ!!」

 しかし返答はない。
 ホバー・トラックも第二キャンプも荒された様子はない。また、何者かと争った様子も見られない。にも関わらず、ESSEの姿だけが見られないのである。あたりは妙に閑散として人の気配もない。
 農業工学科から借り受けたこのホバー・トラック以外に、この島に上陸する方法もここからでていく方法もないはずだ。

 ふと背後に何者かの気配を感じた大鵬は、振り向きざまに訊ねた。

「……ESSEさん?」

 だが、そこに立っていたのは、シルバー・プラチナに場違いなジャケット姿の美麗なESSE……ではなく、泥に汚れたジャンパー姿の髭の濃い男であった。

「僕はESSEではないが……君は誰だ?」

「君は誰だというあんたこそ何者ですかな?」

「君は誰だというあんたこそ何者ですかなという君こそ誰だ?」

「君は誰だというあんたこそ何者ですかなという君こそ誰だというあんたこそ何者ですかな?」

「君は誰だというあんたこそ何者ですかなという君こそ誰だというあんたこそ何者ですかなという君こそ……だあああっ、やめやめやめやめっ! 久しぶりの文明人との会話にするには情けなさすぎる! 僕は根戸宏だ!」

「じゃ、あなたがこの島にロケハンにきて迷子になったというASのディレクターさんですかな?」

「そういう言い方はやめてくれ。ますます自分が情けなくなる。それより、その三編みの男は……ああっ、飛鳥君じゃないか! 君は何者だ!? 飛鳥君をどうするつもりだ!? そうか、わかったぞ! 君は飛鳥君をさらって19号あたりの男娼売春宿に売り飛ばすつもりなんだなっ!? そうだろう! ええい、この人さらいめっ!」

「……(^^;)」

 人の話を聞かずに自分の推理と直感を口走る当たり、まったくよく似た兄妹である。

 

 

 


act.5-16;インターミッション
 2019-04-12 11:52:43

 失神から回復した飛鳥龍児と、飛鳥からの説明を受けて納得した根戸宏は、これまでに各々が集めた情報を交換しあった。
 飛鳥からは、WANのデータ削除、ASが21号から手を引いたこと、ゴールドシュミット公爵来日に関連した一連の事件。そして根戸からは、21号の密林が豊かであること、この島に住む原住民たちのこと、あの柱のこと、今の所国際的謀略の痕跡は見られないこと……。
 飛鳥はハンディカムに予備のバッテリーを込めながら訊ねた。

「で、どうやってここまできたんです?」

「その火渡貴子って女が『僕を逃がしてやる』って言って、例の集落から連れ出してくれたんだがね……君たちの声が聞こえたんで、それを頼りに走っているうちに森の中ではぐれたんだ」

「しかし、妙ですね。さんざん引き留めておいたくせに……その男の方は根戸さんを『客人』だって言ったんでしょ? それを『逃がす』なんて……」

「やっぱり変だよねぇ。おそらく、僕はなんらかの目的のために囚われていたんだと思うんだけど……それをあの女が『逃がし』てくれたのは、何か意図があってのコトなんだろうか?」

「根戸さんを逃がしちゃまずい理由ってなんでしょうね? 根戸さんが彼らのことを吹聴して歩くのを止めようとしたとか……?」

「そうだな……でも、あの集落に囚われている間、特に重大な謎らしいものを見知った……ということはなかったと思う。せいぜいが、彼らの宗教的儀式らしいものを見せられたくらいだが……あの程度じゃ、おもしろい番組にはならないな。真面目にやりすぎって感じで、あんまりギャグになってないしさ」

「それで結局、国際的謀略の痕跡はありました?」

「ないね。いっさいない。いや、あったとしても記録も痕跡も残らないよ。この島の新陳代謝は激しすぎる。どういう仕組みか知らないけど、自然治癒力っていうのかな……何があっても、大して時間をおかずにみんな森に埋まってしまうだろう。
 それを別にしても、僕らが推測していた類の謀略の痕跡は、この島そのものにはほとんどないね。だけど、事件の痕跡が何もなさすぎることが、逆に怪しい。どうしてこの島には誰も手をつけないんだろうかってね」

 根戸は肺一杯に吸い込んでいた数週間ぶりの煙草の煙をため息混じりに吐き出した。

「ただね……ひっかかるんだよ。いや、これが僕らが追っていた現実的な謀略であるかどうかはわからないんだけど……むしろ、この理不尽極まりない島にしっくりくるような、もっと怪しい類の策謀があるのかもしれない」

「怪しい策謀……ですか?」

「君も見たんだろう? 鼻で樹にぶら下がって尻尾で襲ってくる、あの気味の悪い動物とかさ」

 東京湾のただ中に出現した、密林のような植物相を持つ島。そして、その内部の生態系、これらのすべてを人為的に調整することなどできるのだろうか。ある程度の理論に基づいた机上の理論としてなら、生物工学担当の金居研や農業工学科あたりでも考えつくかも知れない。況や農業工学科など、バイオスフィアJ−U計画を推進している原動力であり、閉鎖生態系研究の第一人者である白葉透教授を擁している。決して、不可能な作業とは言いきれない。
 だが、それを彼ら流の流儀で実際に行なうとなれば、相当な人材を投入しての大実験となっているはずだ。記録を取らずに行なう実験など実験とは呼べない。根戸が見る限り、この島の環境を作るために農業工学科が入り込んだ形跡は見られない。

 かといって、この島の環境が完全に無作為の自然の産物であるとしたら、それはいくらなんでもあんまりすぎる。

 こんなふまじめな環境を自然の産物などと疑いなくストレートに認めてしまえるほど、根戸は猜疑心のない人物ではなかった。

「この島の環境は、誰かの作為と作為を越えた偶然が作りだした冗談の産物なんじゃないか……って気さえしてるんだ、僕は」

「根戸さんは、この島は誰かが何かのために作った場所だとでもおっしゃるんですかな?」

 近隣の森から帰ってきた金井大鵬が、唐突に話題に加わった。

「もちろん、憶測に過ぎないけど……それで、彼女は見つかったのかい?」

「いや。痕跡もなしです。いったいどこに行ってしまったんでしょうなぁ。ESSEさん……」

「どうしましょう、根戸さん」

「この島について、当初僕らが考えていたのとは少し違うタイプの策謀……というか、誰かの思惑による何か……が進んでいそうなのは確かだと思うんだ。それについて知りたいとは思わないか? それから、その行方不明になっている彼女を探し出す」

「そうと決まれば、再出発ですね!?」

「もちろんだとも! 我々の番組のタイトルを思い出したまえ!

『実録・南海の21号埋立地東京ガラパゴスに謎の原住民を見た!』

 まさか本当に原住民までいるとは思わなかったが、これはこれで番組のネタになりそうじゃないか。本来の目的はひとまずおくとして、この機会を逃さずあの原住民の連中に密着取材を敢行するぞ!」

「がんばりましょうっ!!」

 

 2019-04-12 12:31:31

 繁る青い葉の隙間から日差しが差込み、森はますます暑くなってきている。
 昼食を済ませた一行は、先ほど逃げだしてきたばかりの密林に再び挑みかけている。
 意気あがるASコンビとは裏腹に、金井大鵬はしきりに何かを思いだそうとしていた。

「……大鵬さん、どうしたんです?」

「いや、何か忘れているような気がしましてな」

「何を?」

「取材を敢行して、ESSEさんを救いだして……それはいいんですが、まだもう一人誰か足りないような……」

「あ」

 境伸也のことは完全に忘れ去られていた。

 

 

 


act.5-17;まみえる
 2019-04-12 11:07:21

 散りぢりに森の中を走り続けた境伸也がはたと気付いたとき、背後で獣の足止めをしているはずの金井大鵬の姿も、獣と剣を交えようとする大鵬の姿をハンディカムに捉えようと踏みとどまる飛鳥龍児の姿も見えなくなっていた。決して飛鳥と大鵬においてけぼりを食ったわけではない。単に境がぼーっとしている間にはぐれてしまったというだけの話である。
 しかし森はどこまでも深く、踏み込んだ境が逃げだせないように彼を包み込もうとしている。もはや、どこをどう走ったのかさえも定かではない。
 むっと青臭い茂みの中に倒れ込んだ境は、枝を伝う獣の気配を感じた。シュッ、シュッという圧搾空気の音が響いている。あの獣のたてていた鼻をすするような嫌な音だ。

「……僕の方についてきたのか」

 大鵬と飛鳥がどうなったのか知るよしもなかった。大鵬がいながらみすみすあの獣に倒されてしまったのだろうか。それとも無事に逃げ仰せたのであろうか。そして、飛鳥が探している根戸という男もまた、この獣の餌食となってしまっている可能性がある。
 どちらにせよ、いま境自身がピンチに置かれているという事実だけは変わりそうになかった。
 圧搾空気の音がぴたりとと止まった。獣の姿は見えないが、きっとどこかから境を狙いすましているに違いあるまい。
 境の脳裏に、自分の脳天に爪のついた鞭のような尾が振り下ろされる光景がよぎる。
 覚悟を決めた境は、歯を食いしばってその瞬間を待った。

 森の遥か上の方から、潮風に揺られるさらさらという葉音が聞こえる。

「……」

 だが、それっきり圧搾空気の音は止んでしまった。
 きつく結んだ両瞼をこわごわ開いたとき、そこに捜し求めてきた者が立っていた。

「火渡くん……」

 久しぶりに見る火渡貴子は、その出で立ちと手にした槍を別にするなら、昨年の秋に別れたときとなんら変わってはいなかった。
 この島で手に入るツルのような植物を編んで作ったものと思われる、粗い布で作った着衣。そして、別れたとき着ていたシャツの切れ端と思われる布を細工してまとっている。

「境さん……どうしてあなたがここに……」

「相変わらずのようだな。無事に生きているみたいで安心したよ」

 境は少し照れたような笑みを浮かべて立ち上がろうとし、左の脇腹を押さえた。

「境さんその傷……」

「たいしたことない。かすり傷だよ」

「いいから、診せて」

 出血の割に傷はたいして深くはなかった。しかし、傷の周囲は赤く腫れ、少し熱を持ってきている。
 間近に見る貴子の首筋に、貝や木ノ実を加工して作った首輪が揺れている。
 香水もルージュもなく、沐浴さえ毎日はできないこんな島に、化粧もしたい盛りだろう年頃の彼女が執着する理由……境が知りたいのはそれだった。

「爪のついた尻尾のある四つ鼻にやられたんでしょう? あれにやられたら、ちゃんと手当しておかないと後で熱が出るの」

 傷を見るなり、貴子は近くの草むらから自生している長い茎を持った草を数本集め、軽く揉んで境の脇腹に擦り込んだ。
 にじみ出した豊潤な草の汁が傷口に滲みる。

「……あいつはね、この島で唯一の肉食獣なのよ。あたしたちを別にすればだけどね。雑食性らしくて、いままでは虫や大きめのネズミなんかを食べたりしてきたみたいなんだけど……食べ物がなくなれば共食いもするような貪欲な連中よ。その貪欲さのせいで、森の中に入ってくる『動くもの』には何でも襲いかかるの」

 貴子は、萎びかけた蔓を手近の樹からむしり、軽くしごいて汁をすり付けた茎を境の脇腹に縛りつけた。

「あれは何の仲間なんだ? 哺乳類ではあるみたいだけど、猿でもアライグマでもないようだし……あんな獣、見たこともない」

「さぁね。食べてみたけど、あんまり美味しくはないわ。わかっているのは、この島で暮らしていく上で、剣呑な付き合いになる唯一の動物であるってことだけ」

 貴子は興味なさそうな表情を浮かべて視線を逸し、再び最初の質問を繰り返した。

「それより、境さん。どうしてここへ?」

「君に聞きたいことがあるからだ。なぜ磐田研をやめたんだ? 君は何を求めているんだ? そして、なぜこの島にきたんだ?」

 火渡貴子の足取りを追い続けてきた境伸也は、ずっとくすぶっていた問いへの答えを、数カ月の時を経て火渡貴子当人に求めた。

「君が磐田研を飛び出していった後、僕も色々考えた。考えの異なる研究員が袂を分かつのはしかたないことなのかもしれないけれど……その真意を理解できないままに、道を違えるのは納得の行くものじゃない。そうだろう? 農業工学科と共同開発になる雑木林の中でのフィールドワークが、そんなに嫌なのかい?」

 貴子はゆっくりと言葉を選びながらその問いに答えた。

「そうね……まず磐田研をやめたのは……磐田研でやっていることが遊びに思えたから。古代……縄文人のシンプルな生活(やりかた)なら人間同士の争いもなく、そして人間が自然を御するのでも自然が人間を淘汰するのでもない、豊かで理想的な生活ができたんじゃないかと思った」

 縄文時代は実に豊かな時代だったという。諸説は様々だが気候は全体に温暖で、年間を通して木ノ実や果実を手に入れることができた。また、狩猟や漁猟などによって動物性蛋白を採ることもできた。
 自然は豊かだった。縄文人たちは、生きていくのに必要なだけの食べ物を自然から受け取り、食べきれない分までは採らなかった。
 縄文時代の遺跡から出土する道具と言えば、土器、石斧、石匙、鏃など、食と狩のためのものばかりで、剣や盾などといった人間同士の争いのための道具は、ほとんどまったく見られない。
 争いの原因となるものが食糧の確保にあるとするなら、長きに渡った縄文時代には食糧の確保を理由とする争いは起こりえなかったし、事実、致命的な部族同士の争いの理由にはならなかった。
 だからこそ、あの時代は1万2千年も続いたのである。

「……古代に生きた彼らと同じ道具を作り、それを使ってみる……磐田教授の『方法』は素晴らしいと思うわ。でも、彼らの暮らしを『研究』と称して興味本位で真似ているだけでは、それは『ままごと』に過ぎない。私がバリにいたころから、ずっと求めてきたのは、決して文明人のままごとじゃないの」

 民俗学と考古学は姻戚関係にある。数百年から数十年来の過去の因習を研究する民俗学は、近過去から現在を対象にした考古学である。近過去を生きた人々の生の言葉や文献、語り継がれた伝承などを元に近過去を知る……それが民俗学だとするならば、考古学は同じ時代を生きた人間や言葉による伝承が残っていないような遠い過去を知るために、その時代に使われていた道具から、過去に暮らした人々に思いを馳せる学問であると言える。
 旧来の考古学がそうした過去を知る手がかりである出土品を、大学の研究室に大事に飾っておく陳列学問であったのに対し、磐田研こと原始技術研の責任者である磐田正史教授によって拓かれた実験考古学は、古代人の道具を彼らと同じ手法で作り、同じように使ってみることからはじめることを提唱した。
 民俗学のフィールド・ワークの手法の基本は、対象となる文化や土地を外から眺めてあれこれ言うのではなく、実際にその土地に住み、その土地の人々に混じって彼らと同じ生活を営んでみることにある。
 実験考古学は古代人と同じ道具を作り、実際に使ってみる……というあたり、この民俗学の手法によく似ていると言える。

「それじゃ、君の望みは縄文人になりたいってことなのか」

「縄文人……というレッテルさえ不要だわ。それは、分類上必要な呼び方に過ぎない。
 私は、ごく自然に、この惑星の上で人間が無理をせずに……誰かや何かを犠牲にせずに長く暮らしていくための『方法』を知りたいの。1万年近くも続いた縄文人の『方法』が、たまたま私が求めている方法にもっとも近いかもしれないっていうだけの話よ」

 多くの優秀な学究者がそうであるように、貴子もまた真摯で純粋な探求者であった。その精神の部分において、先輩にあたる境伸也よりも、否、実験考古学を編みだした磐田教授よりも、古代人のそれに近いところへ達しつつあるのかもしれない。
 境は、以前農業工学科の白葉透教授が述べていた、貴子の考察を思いだした。ストイックな求道者であるという点において、大いに共通点の多い白葉教授であればこそ、彼はあの時点でそのことに気付いていたのだろうか。
 考古学者の多くは、古代人たちの領域と現代人の領域の境界に立っている。ただし、立っているのは境界線の現代人側であって、それを踏み越えて古代人側の領域へ達することのできる者は、ごく少ない。境が、その境界線を前にして思い悩む存在にすぎないのに対して、貴子はすでにその境界線を踏み越えつつある。いや、もう踏み越えてしまっているのかもしれない。
 境はあまりに真摯であまりに純粋な貴子に軽い羨望を覚えた。それは、所在を決めきれないでいる自分へのいらだちと、一線を踏み越えつつある貴子への憧憬でもあった。

 南中した太陽の日差しが、木漏れ日となって貴子のオリーブ色の肌を照らした。女豹のような精悍さは以前と少しも変わるところはない。しかし、今は少しだけその表情が柔らかく見えた。石造りの都市の中よりも、森の中にいる方が自然に見える。森に身を任せて暮らすことによって、森が彼女から優しさを引きだしているようにも思える。

「これで納得して貰えた?」

 境にとって、貴子の答えはある程度は予想されていたものだった。それを本人の口から聞きたいがため、そして本人から聞かない限りは認めたくなかったという思いが、境をこの島までこさせた。貴子自身からそれを明確に確かめられた今、返す言葉はもうないはずだった。
 だが、まだ何かが境の中にわだかまっていた。

「もうひとつ。なぜ、この島を選んだ。いや……誰が君にこの島のことを教えたんだ」

 貴子は和らげていた表情を再び硬くした。

「私と考えを同じくしてくれた同志から」

「……誰なんだ? 天野……天野いずみか?」

 使い込んだ槍を携えて立ち上がった貴子は、境の問いには答えず短い会見が終わりであることを告げた。

「話したくない。境さん、早くこの島から出た方がいいよ。ここは文明人が長居をするところじゃないわ。ここへくる前にはぐれてしまったのだけれど、根戸という男に会ったら、彼も連れて早くこの島から出て。そして、二度とこないで」

「どういうことだ? おい、火渡くん!」

 茂みの奥に消えた貴子から答えはなかった。

 

 

 


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(c)1992楠原笑美.