act.5-5;希望の人の希望


 今さらのようだが、バイオスフィアJ−U計画は洋上大学がその存在の基幹とする総合プロジェクトである。そして三宅準一郎教授、金居祐三教授、白葉透教授の洋上大学の誇る3大名物教授が思想的・技術的指導者としてこのプロジェクトを牽引している。
 人間と環境の共存、もしくは開発と環境保護という命題は、最近になって提示されたものではない。オゾンホールが観測され、人類が自分たちが地球に対してしてきたことに気付いた前世紀末、ひとにぎりの科学者の訴えから我々のゆりかごが危ないことを知らされた人類は、自分たちの力でどうにかしなければならない時期にきていることを自覚したのである。
 だが、具体的に何ができるのか。この先どうしたらいいのか。そういった専門的なことに至っては、当時は基礎研究の基の字も考えられていなかった。問題はあまりに巨大すぎ、どこから手をつけていいのかさえわからなかったのである。
 事態解決のため、政治家は環境会議や賢人会議を開き、開発による地球環境の汚染速度を緩める手段を練った。科学者は地球環境保全と人類の将来のための具体的な方法を模索して、様々な理論をぶちあげていった。
 しかし、理論ばかりが先行していつまでたっても実を結ばない旧時代の研究者は次第についえていった。この難題を乗り越えるには、若く、優秀で、そして熱意に燃えた者たちでなければならなかった。世界は必ずしも平穏ではなく、繁栄にばかりむかっているわけではなかったが、明日への希望を胸に持つ者たちでなければ明日を切り開くことはできなかった。
 信仰心溢れる老人たちの言葉を借りるなら、人類が好奇心を持ち英知を得ることはパンドラの箱を開け、災厄のすべてを世に放つようなものだったのかもしれない。かくして人の好奇心は世を乱した。
 だが、パンドラの箱の底に希望が残ったように、人類の手にもまだ希望が残されていた。洋上大学の存在する人工群島は、パンドラの箱の底に作られた箱庭にも等しい。群島の回りには災厄の霧が立ちこめている。
 だが、箱庭には箱の入口を天高く仰ぎみる希望たちが満ちている。群島に暮らし、明日を見つめる希望たち。それが人工群島に暮らすすべての人々に託された希望そのものではないだろうか。
 自分たちが「希望」そのものであることを自覚しつつある、熱意に燃えた人々……白葉教授もそういった人々のうちの一人であった。
 希望は明日へ顔を向けることではない。明日への一歩を踏み出すことである。

 白葉教授は多忙だった。

「教授、最近家に帰ってないんだって?」

「うむ。見ての通り研究が佳境に入っていてなぁ」

 白葉教授は研究所に顔を出したジーラ・ナサティーンに、自ら入れた茶を奬めながら言った。

「もう猫の手も借りたい忙しさというのはこのことだな。もっともそんなこと三宅さんや金居さんの前で口にしたら何をされるかわからんからなぁ。三宅さんのところに学生を貸すとみんな泣いて帰ってくるし、金居さんに貸せば帰ってこないし。いやぁ、まったく困ったもんです。
 でも、今を乗り越えれば楽しい未来がやってくるってもんだしね。ここはひとつがんばらねばってところですな」

 ジーラは、茶をすすりながら研究について話す白葉教授の言葉は半分も聞いてはいなかった。どうせ専門的なことなどその道の人間ではないジーラには理解できないであろうからだ。

「……そんなことを聞きにきたんじゃないのよ」

 ジーラは湯呑をテーブルの上においた。あられに手を伸ばしかけた教授の手がぴくりと止まる。

「千尋のこと、いつまでほっとく気なの?」

「ほっとく?」

「教授、千尋のことどう思ってるの?」

「どうって……それはまぁ、えーとね……」

「……ったく、煮えきらない男だね。どうして群島の男どもはどいつもこいつも煮えきらない半端ものばっかりなんだ」

 ジーラはいらついた表情をあらわにした。

「千尋のこと嫌いじゃないんでしょ?」

「そりゃまぁ……」

 ジーラは畳み掛けるように続けた。

「三宅教授から聞いたわ。昔、好きな人がいたんだってね。大竹……さんだっけ? まだその人のことが忘れられないの?」

「三宅さん、そんなことまでしゃべったのか……まったく困った人だな」

「話を逸さないで! どうなの!」

「ああ、その通りだ。えーとね、私はだね、一度に一人の人しか愛することはできない男なのだ。千尋くんのことは……好きだ。だが、全身全霊をかけて彼女を愛するためには、まず文恵……大竹くんのことをすべて忘れてしまわなければならない。だから、千尋くんを好きになるために、大竹くんとの思い出を捨ててしまわなければならない。そのための努力はしている」

「努力? 努力ですって?」

「そうだ。努力だ。研究の合間を縫い、彼女との思い出を少しづつではあるが始末している。手紙とか、思い出の品とか……」

「……いつまで過去の人に関わっているつもりなの! その人はもう過去の人かもしれないけど、千尋は今に生きているのよ! そうやって今に生きている千尋を待たせておいて、いつまで彼女が待っていてくれると思ってるの!」

 白葉は湯呑の茶を飲み干し、新たにいれ直した。

「千尋は今、とても寂しそうよ。
 研究が忙しいのはわかる。教授が過去に捕らわれている自分を千尋のためにフォーマットしなおそうとしている努力もわかる。でも千尋のために、今に生きている千尋のために少しでいいから時間をあげてほしいの。千尋は、教授が決め手になる一言をかけてくれるのを待ってるのよ。なのに、なんでその一言を言ってあげないの」

「その一言?」

「だあああああっ! 本当に煮えきらないわね! 『好きだ』『愛してる』『私と一緒にいてくれ』なんでもいいのよ。女の子は、好きな人からのその一言が欲しいの。それがないと不安なのよ。気持ちさえ篭っていればなんだっていいの!」

「……」

「教授、千尋のために3日でいいから時間をとってあげて。誰にも邪魔されずに二人っきりで過ごせる時間をね」

「だが研究が……」

「3日くらいならなんとかなるでしょ? 過去の清算なんか、あとで暇を見つけてじっくりすればいいし、研究をするための時間はまだまだいっぱいあるんでしょ? 千尋と過ごせる今は、今にしかないのよ!」

 白葉教授はしばらく考え込んでいたが、ポケットから古風なスケジューラーを取り出し、これとにらめっこをしはじめた。
 いつの間にか教授の後ろに回り込んだジーラも、一緒になってスケジューラーをのぞき込む。

「教授職って、比較的時間が自由になる職業だって聞いたけど……そんなに忙しいの? なにこの野良仕事って。これと、これと、この宴会の予定も削って、これをこっちにこうすれば……」

「ああっ、こら、よしなさい! 人の予定を勝手にいじるんぢゃない!!」

「千尋のためよ、千尋のため! ほら、こうこうこうっと。これで三日分予定が開いたじゃない。千尋と教授の幸せのためだったら、宴会の2回や3回できなくたって、誰も文句は言わないわよ。いや、このあたしが言わせないわ」

「参ったな。まったく強引な娘だ」

「教授がはっきりしなさすぎるのよ」

 こうしてジーラは、白葉教授に3日の緊急休暇と、千尋に指輪を贈らせることを約束させた。

「千尋の指輪のサイズは……これはあたしがさりげなく聞いておくから安心して」

「ストローの紙袋でも巻き付けて測るのかね?」

「(^_^;)……またずいぶんと古いネタを……」

 昔のトレンディー・ドラマでそういうシーンがあったのである(^_^;)。

「しかし……よくよくお節介が好きらしいね、キミも」

「幸せになるための努力はいくらしても辛くないのよ。自分のためでも他人のためでもね」

 

 


act.5-6;ぷれぜんと・ふぉー・ゆう
 りーん、りーん、りーん、りーん、りーん…………

「はい、もしもし白葉です……ああ、ジーラ」

やっほ☆ どう千尋、元気?

「うん………………」

そっか……相変わらずか……

「…………」

ねぇ、千尋。左手の薬指のサイズ、いくつ?

「え?」

いいから。左手の薬指

「ええと……6号くらいかな」

ふぅん、ずいぶんと細目だね

「それが何か?」

わからない?

「指輪……だよね」

そだよ(^_-)☆

「……それをどうするの?」

本当は私の口から言うのは反則なんだけど……白葉教授がね、千尋に贈りたいんだってさ

「……え」

教授が自分で言い出すまでは内緒だからね☆

「……(;_;)」

……ちょっと、千尋聞いてるの?

「……うん!(^_^、)」

本当はこっそり聞き出すことになってたんだけど、最近千尋元気なかったからさ。ちょっと元気付けにね☆

「……ありがと(^_^)」

もっとも、千尋にはもっと嬉しいプレゼントも用意してるみたいだけどね

「もっと嬉しい……?」

指輪の話を教えちゃったから、こっちは教えたげない☆ そのときまで楽しみにとっときなさいね。じゃ☆

「ジーラ? もしもし、ジーラ?」

 つー、つー、つー、つー、つー、つー、つー、つー…………

「明日は、透さんの所へいってみようかな……」

 

 


act.5-7;アクシデント
 白葉教授はますます多忙を極めていた。
 もともとカツカツのスケジュールで研究や講演、宴会などをこなしていたのだが、まったく予定外の休暇を3日も捻りださなければならなくなったのだ。むりやりこじ開けた分の仕事がなくなるわけではなく、寝る時間帰る時間を削って、それにつぎ込まなければ時間を作ることはできない。
 余暇は決して湧いて出るものではない。意識して作らなければ余暇などといったものは作れない。そして、休もうと意識しなければ休むことなどままならないのが現実というものだ。白葉教授のように、大いなる希望……人はそれを野望ともいうが……を持ってことにあたっている人間にとって、休むためにはそれ以上の努力が必要なのである。しなければならないことを放り出せばそれで済むというものではないからだ。
 宝石店まで指輪を買いにいく時間はとれなかったが、教授の秘書を務めてくれている女子学生が手ごろな店のカタログから候補を見繕ってくれたので、指輪屋を研究所に呼び出すことによって難題をなんとかクリアすることができた。
 だが3日まったく何もしないでいい休暇を作り出すことはそれ以上の難題だった。
 思えば、大竹文恵との恋に破れて以来、白葉教授は意識して休暇をとったことがないのである。何を考えても仕事に結びつき、わずかな暇があれば畑仕事につぎ込んで野菜たちとともに土にまみれ、夜は夜で宴会に……しかもどんなに飲んでも翌朝はきちんと研究所にやってくる。
 たまに自宅で過ごすことがあるかと思えばそういった時間は学会に発表するための論文を書くことに費やされる。白葉教授のスケジュールは教授自身では把握しきれず、数人の学生が秘書代わりとなって調整してくれている。ときおりそのあまりの激務のために秘書学生の方が倒れることがあったが、いかなる激務の渦中にあっても、白葉教授が道半ばにして倒れたことはなかった。
 この白葉教授の強靭さが学生たちに教授への信頼を覚えさせ、その熱意に満ち溢れたエネルギッシュな生きざまは教授への無上の共感を生み出した。農業工学科の、優秀でそして熱意ある多くの学生たちは、最初から皆そうであったわけではない。白葉教授の姿から己の目指す道を、しなければならない任務を見いだしていくのだ。
 そうした白葉教授の身体を心配する者たちもいた。教授の激務ぶりを間近で共有している秘書学生たちがそうである。

「教授、大丈夫ですか? 少しおやすみになった方がよろしいんじゃ……」

「いやなに。これしき(^_^)」

「しかし、今日はすでにいつもの倍は仕事されてるんですよ」

「だが休暇をとるためだ。仕方あるまい?」

「そうですね……いい機会ですから、休暇中はじっくり休まれるべきです」

「これまで休暇などとったことがないからなぁ。いったい何をしたらいいものやら」

「そうですねぇ……なぁんにもしないで、ぼーっと過ごすとかね」

「うむ。そりゃ贅沢でいいね。三日間もぼーっとしてたら、休み明けは仕事の仕方を忘れてるかもしれんよ」

 さりげなく談笑しながらも、白葉教授の目はモニターの数値を追っている。
 バイオスフィアJ−Uは今年の夏には総合的かつ本格的な実験段階に突入する予定である。インチキ温室などと言われた古き時代のアリゾナのバイオスフィア2や、青森県六ヶ所村で行なわれてきたバイオスフィアJの試行錯誤や蓄積から得た経験を元に、より完全な「最適地球環境の再現」をテーマに行なわれる。
 そのための基礎実験データをまとめる最終段階に入りつつあるのだ。今の白葉教授にとって、私人・白葉透をすべて切り捨てて何ものに代えても最優先すべきことが、バイオスフィアJ−Uに関する研究であった。
 中嶋千尋との関係は白葉教授の人生の中では、これに匹敵するほど重要なことがらではあったが、決してバイオスフィアJ−Uと同じレベルで比べられるような事柄ではなかった。
 そんな白葉教授の事情を知ってか知らずか、ふらりとジーラ・ナサティーンが研究所を訪れた。

「白葉教授☆ 調子はどぉ?」

「おお、ジーラくんかね。おかげさんでこの通り、猫も杓子も借りたいくらい忙しいよ」

「で、明日からの三日間、休暇はとれそうなの?」

「まぁ、なんとかね。もっとも、三日間はぶったおれていそうだが……」

「それでもいいのよ。千尋と一緒にいてあげてくれればね☆」

 白葉教授は秘書の女の子に言って、ジーラに茶を奬めようとした。

「ああ、おかまいなく。今日はちょっと寄っただけだから」

「そうかね? 遠慮なんかしないでくれたまえよ」

 どんなに忙しくても、自分を訪れた者をもてなすことだけは手抜かりない白葉教授であった。こうして「誰かをもてなす」という口実を作ることが、激務に溺れる白葉教授をわずかでも休ませることにつながることを知っている秘書たちは、教授仕込みの素早さで茶をいれると、ジーラに奬めた。

「どうぞ」

「じゃ、一杯だけ……」

 ジーラが湯呑に手をのばしかけたそのとき、アクシデントが発生した。
 実験室の中にいた学生の一人が、真っ青な顔をしてモニター・ルームに駆け込んできた。

「どうしたのかね!」

「……教授! 容器の内圧が下がりません!!」

「メインがダメならサブがあるだろう! 補助弁は!?」

「ダメです!」

「ダメも何もあるかね! 中には生き物が入っているんだ! 手動で弁をこじ開けたまえ!」

「それが、中から何かがつかえていて……」

「ええい、私がやる!」

 ジーラには計り知れない専門用語の応酬の後、白葉教授はそれまでいたモニター・ルームを飛び出していった。

 

 


act.5-8;過酷な選択
 およそ1時間ほどの間、混乱は続いた。
 何が起こったのか、素人であり部外者であるジーラには理解できなかったが、今いる研究所が農業工学科のある千島のものではなく、夏本格始動と言われている瑠璃島のバイオスフィアJ−Uのものであることから察して、白葉教授の受け持つ研究の中において相当に重要な部位が、かなり重大な事態に発展しつつあることだけは、緊迫した空気から嗅ぎとることができた。
 その間、ばたばたと学生が走り回り、二度三度と小さな爆発音が聞こえた。
 耐震構造を誇るこの建物が、小爆発位では破壊されないものであることは設計に関わった三宅教授が保証していたが、コンクリートの床を伝って伝わってくる震動は決して心地よいものではなかった。
 やがて、憔悴しきった顔をして白葉教授がモニター・ルームに戻ってきた。
 怪我をしている様子こそないものの、白衣は焼け焦げ顔はすすで黒く汚れている。

「……ふぅっ」

 大きなため息をひとつついて、教授はソファにどっかりと腰を下ろした。

「何が……あったの?」

「密閉容器の内圧が……いやすまん。キミに言ってもわからんか。実は……事故が起きた。原因はまだ不明だ。実験に当たっていた学生が五人ほど病院送りになって、実験体の豚さんが……」

 教授は呻くように言葉を吐き出した。

「死んだ」

 室内の空気が重くよどんでいる。
 ジーラは無言だった。

「原因の解明は速やかに行なわれなければなるまい。このプロセスが足踏みすれば、バイオスフィアJ−Uの本格始動に影響が出る……」

 教授は腕を組んだまま、むっつりと黙り込んだ。

「……明日からの休暇は?」

「……残念ながら取り消しだ。いや、ジーラくんには感謝しなければならんのかもしれんな。キミの助言で3日分ブランクを作っておけた。決して長い時間ではないが、3日あれば原因の究明と装置の改良はできるはずだ。不幸中の幸いと言えるやもしれん」

 白葉教授は常に研究優先の思考をしていた。
 うつむいていたジーラは、とっくに冷たくなっている湯呑がのったテーブルを力の限り叩いた。
 応接用のガラス・テーブルが砕けちる。

「……不幸中の幸いだってぇ! いい加減にしてよ、教授! 明日からの3日間の休暇は、誰のためのものだと思ってるのよ! 千尋のための3日じゃなかったの!?」

「もちろん、そのつもりでいたよ。だが、人生にアクシデントはつきものだ」

「教授! 千尋と研究とどちらが大事なの!」

 それは、決してしてはいけない質問だった。

「……千尋くんと研究……かね?」

 白葉は躊躇した。
 世の中には答えられる質問と答えられない質問がある。決して比べてはいけないものがある。だが、今のジーラはこれに結論するまで引かないだろう。
 そして白葉の中にはこの問いに対する答えは、躊躇する前から出されていた。一瞬の躊躇は、その答えを口に出すべきか出さないべきか、それだけだった。

「どうなの!」

 再びジーラの強い問いかけが白葉教授を揺すった。
 教授は青ざめた唇をゆっくりと動かした。

「……研究だ」

 ジーラの白い顔が青ざめた。

「……もう一度言ってみなさいよ」

「……何度でも言おう。研究が大事だ」

 それが本心であったとしても、ふだんの白葉教授ならそれを口にすることはなかっただろう。千尋への気持ちと研究を比べることは、教授にとってしてはならないことであったが、にも関わらず答えを出せと言われたらこう答えるより他になかった。

「売り言葉に買い言葉で、ヤケで言ってるんじゃないわよね。そうなら……あたし本気で怒るよ」

 ジーラは、白葉教授の予想外の答えに驚き、そして落胆していた。暴発してしまいそうな自分の怒りを抑えるのに必死であるようにも見える。

「私は……私は……そりゃ、私だって千尋くんとの幸せな時間には魅力を感じている。否、もうこんなチャンス、二度とこないんじゃないかと思ってる。千尋くんが私なんかのことを思ってくれていることに、至上の喜びと幸福を感じている。それは事実だ!」

「なら、どうして!」

「わからんかね!? 私が千尋くんを選んだら、私と千尋くんは幸せになれるかもしれない。いや、きっとなるだろう。だが、ここで研究をとらず千尋くんをとったら、その分だけ研究は遅れていく。研究が遅れたら、どうなる?
 私の研究は、人類すべてが幸福になるための研究だ。遠い未来にではなく、近い未来に人類すべてを幸福にするための基礎研究をしているのだ。私の研究が一年一日遅れていくたびに、地球の命が滅んでいくんだ。人間も。動物も。植物も。そして地球自身もまた、滅亡へ、ひた走っている。
 私の研究はそうしたすべてを救うための基礎研究なんだ。後世に地球そのものを残すために、絶対に必要な第一歩なのだ。
 だから、これ以上遅らせるわけにいかない。私だけの幸せをなげうって、より多くの幸せが得られるなら、私は喜んでこの身を投げ出そう。人類の幸福のための生け贄にもなろう。
 私と千尋くんだけが幸せになれたとしても、幸福になれるのはたった二人だ。だが、人類と、そして地球そのものが幸福になれるとしたら、その差は計り知れない」

「でも、でも……たった3日やそこら休んだくらいじゃ、大して違わないじゃない! そのくらいなら、地球だって待ってくれるわよ!」

「……たった……だと? この3日の遅れがどんなに重要なことだかわかっているのかね? いつかやればいい、今にどうにかなる……これまでに、そんな調子のいいことばかり考えてきたから、我々は今の状態におかれているのではないかね?
 人間に残された時間はもう残り少ないんだ。基礎研究には時間がかかる。これ以上、地球が疲弊したら、基礎研究をするだけの余裕はなくなるんだ。今! 今しなければ、人類と地球が生き延びることはできんのだ!
 そして、私の寿命だって限りがある。これまで費やしてきた時間は……そう20数年になる。だが、もう20数年も使ってしまった。まだ、目指す目標は遥か彼方にあるにも関わらず、だ。ここで、3日を犠牲にするなど私にはできん!
 人間は不死ではない! 一人の人間にとっての時間は有限であり、わずかなりとも無駄にしてはならないのだ! それを、たったよばわりするとは何事か!」

 白葉教授の剣幕はジーラを圧倒しつつあった。
 ジーラは教授の信念に触れてしまったのだ。そして、おそらくは白葉教授の人生をかけ、その全人格、全存在をかけたものへのあまりに純粋な熱意を軽んじた……ととった白葉の怒りが、魂の叫びともいうべき奔流がジーラを押し流しつつあった。

「でも……時間が限られているのは千尋だって同じじゃない!」

「問答無用! それに関する答えはもう出したはずだ!」

 熱くなった二人は、戸口に中嶋千尋が立っていることにも気付いていなかった。
 研究所の事故を知らされた千尋は、白葉教授の身を案じて丁度研究所にたどり着いた所だった。

「いい? もう一度聞くわよ。千尋と研究とどちらが大事なの!」

「くどい! 研究だ!」

 すでに、ジーラは怒りを抑えきる自信をなくしつつあった。なぜ、この男はここまでに頑ななのか。千尋があんなに、あんなにも思っていることに答えようとしないのか。白葉の言い分もわかる。だが、彼の本心の中に千尋への想いが苦しくなるほどに詰め込まれていることも手にとるようにわかる。
 なぜ、この男はそれを素直に認めようとしないのか。
 ジーラが白葉教授を殴り倒したい衝動と闘っているとき、千尋の小さなつぶやきが二人をモニター・ルームを支配する時間に引き戻した。

「そう……そうですよね。あたしは小さな存在で……研究の方が、大勢の人を救うことの方がずっと大事で……最初から比べようなんかなかったわけで……」

 喉の奥から絞り出された言葉のひとつひとつが、千尋の頬を伝う涙と一緒に床に落ちていった。床に弾けた涙の雫のように、千尋のつぶやきは次第にか細くなっていった。

「千尋……」

 ジーラの一声が、トリガーとなった。
 千尋はモニター・ルームから駆けだしていった。

「……千尋!」

 戸口までよろよろと歩みでたジーラは、教授を振り返った。

「……ここで、追いかけていかないんだったら、私はあんたを軽蔑するよ。地球を救うだって? はン。惚れた女の一人も救えないような奴に、地球なんか救ってほしくないね」

「ほっといてくれ。
 キミはそうやって思ったことをずばずば言ってればそれでいいかもしれん。だがね、世の中には理不尽に思えてもしなければならないときがある。どうしても選びたいことを諦めてでもしなければならないときがある。
 何もかも自分の思い通りになると思ったら大間違いだ」

 白葉教授はソファに腰掛けたまま、身じろぎもしなかった。
 ジーラは再び言った。最後通告のように重い口調で。

「……教授。追っかけなさいよ」

「……研究が……忙しいんだ」

 教授の喉元から絞り出される言葉。
 モニター・ルームに重苦しくやるせない気まずい空気が満たされた。  

 

 


act.5-9;散り桜
 花見ができる丘公園の桜は散りはじめていた。
 公園は桜吹雪に覆われ、白雪のような花びらは公園の随所を埋め尽くそうとしている。そよ風が花びらの絨毯を巻き上げ、公園に散りばめられた花びらは砂丘の砂紋のそれとよく似た、波のような模様を作り上げている。
 花見のシーズンを終え誰もいなくなった夜の公園は、しんと静まり返っている。花見の間の人いきれをうしなった公園は、その気温までが冬に逆戻りしたかのようだ。

 夜の桜吹雪の中に立ち尽くす影がひとつ。

 とうに陽は沈み、園内には青白い街灯がともり始めている。
 中嶋千尋はもうずいぶんと前からそこにいた。

「透……さん……」

 拭っても拭っても涙が止まらない。
 白葉教授の言葉を受け入れなければいけないと、それはもうわかっていたことなのに、どこかでそれを拒んでいる自分がいる。
 研究が大事だって……それはわかっていたけれど……せめて一言あたしが大事だと……その場限りでもいいから言って欲しかった。
 嘘でもいいから言って欲しかった。
 公園を囲む染井吉野は葉桜になりかかっている。ほのかに光る桜吹雪が、千尋の頬を撫でて流れていく。

 そう。あの一言が嘘だったらいいのに。
 今にも白葉教授がこの公園に現われて、こういう。

『すまん。冗談だよ』

 そして、ASのみんなが……根戸安香や三宅教授がどこからともなくキャメラを担いで現われるのだ。

『ナーイス、ナイス! ナイスだわぁ!』

 そう思い続けてもうどれほどの時間が過ぎたのだろう。
 立ち尽くす時間ばかりが過ぎ、千尋の身体を、心を冷やそうとする。
 千尋は闇に沈む夜の公園に向かって呟いた。

「……出てきてよ、みんな。これじゃ特番にならないじゃない。安香さん、三宅教授? ジーラ……いるんでしょ? そこにみんな……いるんでしょお……」

 答えはない。

「ねぇ……返事してよ。茄子……いないの? 誰か……透……さん……」

 涙が止まらない。もう、涸れ果てたと思っていたのに、あふれでる涙は千尋の頬を伝い公園を湖に変えてしまいそうにさえ思える。
 どうすることもできない。
 どうすればいいのかわからない。
 唱えることのできる名前を、呪文のように繰り返すことしかできなかった。

「透さん……」

 千尋の願いが通じたのか、暗がりにそれまで感じられなかった誰かの気配が現われた。

「……透さん!?」

「いや、透さんじゃないけど……」

「富吉……さん」

 それは、やつれた顔をした富吉直行だった。
 富吉はいつになくかすれた声で、少しだけ嬉しそうに言った。むりやり笑おうとしているようにも見えた。

「ああ、覚えててくれたんだ」

「ごめんなさい。あたしったら……」

 千尋は涙を拭って笑みを浮かべようと試みた。しかし、涙は止まる事を忘れたように溢れ続けている。

「あら? どうしたのかしら……あたし、あたし……」

「なんで、泣いてるんだ? あんたと白葉さんは、今群島でいちばん幸せなカップルなんじゃなかったのかい?」

「あたし……」

 涙はこぼれ続けた。
 富吉は千尋の涙を止める術を知らなかった。

「見たぜ、あの晩の報道特番。俺もさぁ、ガラにもなく思っちゃったよ。ああなりてぇなぁってさ。俺だけじゃない。あの番組を見た群島中の連中が思ってるぜ。きっと」

 千尋を慰めようとしているのか、それとも思いの内を飾ることなく明かしているのか。それは千尋にも、話している富吉自身にもわからなかった。
 富吉自身、こうして思いを明かすことなどしたこともなければ、泣いている少女を慰めるような経験もしたことがなかったからだ。

 なぜ、今そんな気分になっているのか。それはきっとルフィーアを失ったからかもしれない。富吉の前に忽然と現れ、そして消えていったルフィーア。身体を交わしたわけでも、愛を誓った訳でもない。
 ましてや、言葉さえわずかにしか交わしていない。わずかな時間、富吉と同じ時間、同じ場所にいあわせただけの恋人でもなんでもないすれ違いのルフィーア。
 そのルフィーアがいなくなったこと、そして何故だかもう二度と会えないような気がしてならないことが富吉を辛くさせていた。
 自分に起こっていることを考えたくないとき、いちばん楽になれる方法は、他人の心配をすることだ。富吉がその術を自覚したかどうかはともかく、ごく自然にその欲求に従って行動していることは確かだった。
 そして探偵としての彼の嗅覚が、今の自分とごく近い匂いを千尋に嗅ぎ付けたのである。

「……何かあったのかい?」

 千尋の涙は止まらなかった。
 富吉は頭をかきながらベンチに腰を下ろした。

「こういう役は……俺なんかの役目じゃないんだがなぁ。こういう……なんてんだろ。うーん、慰めるみたいなこたぁ、ジーラあたりが得意だろうに……ええと、とにかく最初から話してみな」  

 

 


act.5-10;いくつもの星の下で
 千尋が語り終えるまでの間に、流星が3つ流れた。
 聞き終えた富吉は、食費を切り詰めてまで買っている貴重な煙草に火を付けた。エコーの先にともる赤い小さな火口が、闇に蛍のように光る。
 ゆっくりと吐き出した煙は夜風にさらわれて消えた。

「……うーん、俺、頭悪いんでよくわかんねぇんだけどさ、なんていうか……」

 富吉は使い慣れない右脳をフル回転させた。

「つまり、なんだな。白葉さんと一緒にいたいんだけど、白葉さんは研究が忙しいと。まぁ端的にいやぁそうゆうこったね?」

「……」

 富吉の腰掛けているベンチの反対側の端に腰掛けた千尋は、こっくりとうなづいた。

「白葉さんが、あんたか研究のどっちを選ぶかって言われて研究を選んだんで、あんたは飛び出してきた……と」

 富吉は、必死に言葉を探しながら確認するようにゆっくりとしゃべった。

「うーん、俺は……何しろ浮気調査専門みたいな探偵なんでこういう言い方しかできねぇんだけど、あんた白葉さんの研究に嫉妬してるんじゃねぇの?」

「嫉妬?」

「うん。嫉妬。つまりさぁ、自分を選んでもらえなかったから、選ばれた方のモンを恨む。まぁ、浮気調査なんかやってると、よくある話なんだけどな。実際」

「あたし、嫉妬なんか……」

「してるよ。嫉妬。だから、白葉さんの所を飛び出して、あの人が追っかけてきてくれるのを待ってるんだろ? 報道特番のときみたいにさ。白葉さんに自分を選んでほしいから、わざと白葉さんから離れてみせて、おっかけてくるのを待ってるんだ」

「あたし、そんなこと……」

 していない、と言いきれなかった。確かにそうなのかもしれない。この公園に立っている間、千尋はずっと待ち続けていた。ASの誰かが、いや白葉教授が現われてくれることを。

「だがね、そいつぁ酷ってモンだろ。あんたはいっぺん逃げてるんだ。そして、白葉さんが追ってくるかどうか試した。で、報道特番ンときは白葉さんはあんたを選んでくれた。あんたは嬉しかった。選ばれたんだからな」

 富吉は詰めよるでもなく、叱るでもなく、ただ淡々としゃべり続けた。

「報道特番のときは、比べるもんがなかった。だから白葉さんは迷わずあんたを選んだ。今回は研究と比べられたから研究をとった。だから、今回もまた自分を選んで欲しいと思って、白葉さんを試してる。何度も試されて、白葉さんがいい気分でいられると思っちゃいないよな?」

 千尋は耳を塞いだ。富吉は何度も同じことを繰り返し、慰めるよりむしろ千尋を追いつめているようにも思えた。

「逃げんな。あんたはこれ以上、逃げちゃいかん。今度は試されてるのはあんたじゃないのか?」

「あたし、どうしたらいいんでしょう……」

「どうって……うーん、そうだなぁ。どうしたらいいんだろうなぁ……あちっ!」

 富吉はすっかり短くなったエコーに指を焼かれ、あわてて踏み消した。

「まぁ、そうだな。白葉さんにとって、研究とあんたは本来比べちゃならんものだったんだろ。それをジーラが……突っ込んだか何かして選ばせたから、だから涙を飲んで研究を選んだんだろ。あの人もいっぺんにひとつのことしか考えられないタチなんだろうな。純真っていうか一本気っていうか……。たぶん。
 考えてみりゃアレだろ? あんたが大事じゃないなんて一言も言ってないんだろが」

「……ええ」

「だったら気に病むこたぁないじゃないか」

「……でも」

「なんだよ、まだなんかあんのか?」

「……でも、透さんが研究をしているときは、あたしのことは考えていてくれないと思うし……そのときあたしはどうしていたら……」

「そりゃぁ無理だよ。5年連れそったって、10年連れそったって、浮気するときゃぁするんだぜ、どんなに仲のいい夫婦だってさ。それに、だ。人間そんなにいつもいつも同じことばっかり、一人の人間の事ばかり考えていられるわきゃねぇだろう。いつもは離ればなれで、ときどき顔見合わせるから笑えるんじゃないのかな。よく、わかんねぇけどさ。
 白葉さんが夢中ンなってる研究に嫉妬するくらいなら、あんたも白葉さんに嫉妬させるくらい夢中になれる何かを見つけたらいいんじゃねえか?」

「……何か?」

「一昔前の奥さん連中は、旦那が会社でひーひー言ってる間、習い事やったりしていろんなことに夢中になってたそうだぜ。旦那が会社で仕事に夢中ンなってるから、旦那の仕事に嫉妬してたんじゃねぇのかな。で、悔しいから奥さん連中は自分たちもってんで習い事に夢中になったわけだ。旦那を仕事から取り戻して自分の方を向かせようってね。
 まぁ、定番としちゃぁ、習い事の先で知り合った他の男とデキちゃったりするんだけどな。結局、多少意味あいは違ってくるけど、旦那が嫉妬するような、夢中になれるものにのめりこんじまったわけで……。
 あっ。いっとくけど浮気しろって言ってんじゃないよ。んなこと奬めたのがバレたら、俺ぁ東京湾の埋め立てに使われちまう」

 富吉はあわてて自分の言葉を取り消した。ふだん、あまり多く語ることのない富吉は、自分があまり雄弁であることに内心、驚いていた。
 公園にきてから、千尋は初めて笑った。

「まぁ、ほれ、その……なんだ。あんたが光ってれば、白葉さんが口で何を言おうと放っておかんつうこったな。白葉さんが放っておいても、他の男どもが放っちゃおかんよ。報道特番見てから地団太踏んで白葉さんを羨んでる連中がいるらしいからな」

「……はい」

 富吉は2本目のエコーに火を点け、胸一杯に吸い込んだ煙を吐き出しながら言った。

「……なぁ、思うんだけどよ。白葉さんがどこかにいっちまわないように自分のもとにしばりつけとくのと、どんどん高みに駆け登っちまう白葉さんと……多少ジャンルが違ってもいいから同じ高さへ胸張って駆け登ってくのと、どっちがかっこいいと思う?」

 千尋は迷う事なく答えた。

「駆け登っていく方だと思います」

「そっかぁ。そうだよなぁ。それでいいじゃねぇか。駆け登れよ。でも、白葉さんも元気なおっさんだからな。頑張らねぇと、あの人の所にゃ追いつけねぇぞ」

「大丈夫。頑張ります!」

 答えながら、千尋の目にそれまで止まっていた涙が再び溢れはじめた。

「……おい、なんで泣くんだよ、そこで」

「富吉さん、あたし……あたし……」

「ダメだ! あんたが泣きついていいのは白葉さんだけなんだろ? 乙女の涙を俺みたいな赤の他人に見せてどうする! そいつは、白葉さんに見せるためにとっときな」

 富吉はこれ以上千尋の心に踏み入らないようにと、千尋を振り払った。

「あんた、相談相手ならいっぱいいるだんだろ? あそこに住んでる限り知合いにも不自由しねえだろうし、恋人っていうかそういうのなら、白葉さんがいるし……あーあ、やっぱり俺の役じゃねぇよ、こんなの」

 千尋は涙を拭った。今度こそ溢れる涙は止まるはずだ。
 ベンチから腰を上げた富吉は、2本目のエコーをベンチの裏でもみ消すと、半分ほどになった吸殻をポケットに押し込んだ。

「ああ、腹減ったな。おっ……こんな時間じゃねぇか。もう味の屋は開いてないだろうし……あんた、おでんは好きか?」

「えっ、はい」

「そうか。この近くに屋台があるんだけどな。一緒に食ってくかい? 少しならおごってやるよ。ちょっと金が浮いたんでさ……」

 だが、その理由は言えなかった。
 きっと、いつまでも。
 きっと、誰にも。  

 

 


act.5-11;誰がために
 中嶋千尋が白葉教授の部屋に戻ったのは夜半遅くになってからだった。
 白葉教授は研究所から動くことができないため、ずっと瑠璃島に詰めっぱなしだったが、教授の自宅の留守番電話には数十分おきにメッセージが吹き込まれていた。

あー、私だ。今日はやはり帰れそうにない。すまん

あー、私だ。明日から3日間休もうと思ってたんだが、やはり難しい。すまん

あー、私だ。千尋くん、その……キミが大事じゃないわけではない。すまん

あー、私だ。その、なんだ。帰ってたら、連絡をくれ。すまん

あー、私だ。どうしても動けない。すまん

あー、私だ。声を……聞かせてくれんかね。すまん

あー、私だ。……その、すまん

 千尋は、次々に語り続ける白葉教授の、照れたような心配しているような困っているような声に聞き入っていた。いつまでも切れることなく続く教授の言葉を聞きながら立ち上がり、再びこみ上げかけた涙を拭う。
 玄関先にたってそれを見つめていた富吉直行は、千尋の背中に訊ねた。

「あんた、今夜はどうするんだ?」

「あたし……透さんの所に行ってきます。邪魔にならないように……これから、夜食を作ってもって行こうと思います」

「ああ、そうしてやんな。それがいいよ」

「富吉さん、今夜はありがとう!」

「礼なんかいらねぇよ。じゃーな、おやすみぃ」

 富吉はひとつ大きなあくびをして白葉教授の部屋を後にした。
 行く先は、もうルフィーア・ウェストストーンのいない自分の部屋である。もしかしたら、ルフィーアが帰ってきているかもしれない。そう考えようともしたが、なぜかそんな気が起こらないのだ。
 女の子がいる風景に慣れてしまうと、一人に戻るのが寂しくなる。
 慣れているはずの孤独が妙に重たかった。

 富吉の部屋の前には、また別の女が立っていた。

「おい」

 ジーラ・ナサティーンはぞんざいな口調で、富吉を呼び止めた。

「あんだよ」

「千尋と一緒にいたのか」

「いたよ」

「千尋に何をした」

「何もしてねえよ」

「そうか……」

 富吉はジーラを押し退けてドアノブに鍵を差し込んだ。
 ピンという金属音がしてロックが開く。
 だが、この扉の向こうにルフィーアはいない。
 ドアを開きかけた富吉は、ふと思いだしたようにジーラを呼び止めた。

「おい、ジーラ」

「何だ?」

「あんた白葉さんに何かしたか?」

「別に何も……」

「嘘つけ」

「わたしは……千尋の幸せのために……」

「幸せのために、か。それであの娘は幸せになれたのか」

「……」

「恋愛なんてなぁ、当事者同士の問題だぜぇ。回りがとやかく言ったって始まらねぇし、どんな結末になろうとも、そりゃ本人たちの決めた結果ってこった」

「そんなこと……」

「よかれと思ってやったお節介が、そいつのためにならないことだってある。どんなにしてやれることがあっても、やっちゃいけないときがある。わかるか」

「なんだよ、偉そうに……」

「わかるかって聞いてんだよ」

「……最初からわかってたよ」

「じゃ、なぜそこまで他人の人生に首を突っ込むんだよ。俺にゃわからねぇな」

「わたしは……」

「あんた。何様のつもりなんだ? 神様か? あの娘の人生はあの娘のもんだぜ。そして白葉さんの人生も白葉さんのもんだ。そうだろ? 人間の小せぇ、ささやかな幸せって奴か。そういうささやかな問題は、結局他人がどうこう言ってどうにかなるもんじゃねぇ。白葉さんにとっても、あの娘にとっても、そいつぁ当人たちのささやかな幸せって奴だ。で、白葉さんの研究ってのぁそれとは違う。きっと違うんだろな。人生かけてんだもんな。いい歳したおっさんが子供みたいな目ぇしておっかけてるのは、ささやかな幸せっていうのたぁ全然別の次元の幸せなんだろ。ささやかな幸せとは比べられないような、さ」

「そんなこと……おまえなんかに言われなくたって……」

「は。わかってたか。そうだよな、俺ごときがあんたなんかに今更言うようなことじゃねぇよな。……ったく、今夜はどうしちまったんだ。俺はよ。
 だいたい、こりゃ本来ならあんたが言うセリフだぜ、ジーラ。あんたがどういう人生送ってきたのか知らねぇけど、あんたならわかっていそうなんだけどな。いや、まだまだわかっちゃいなかったのかね」

 ジーラはドアに拳をたたきつけた。

「黙れ。それ以上何も言うな!」

「ああ、わかったよ。おやすみ、ジーラ」

 富吉がドアの向こうに消え、ジーラだけがその場に残された。
 自分のしてきたことを悔いるべきなのか、良い行いをしたと胸を張るべきなのか。
 ジーラにはわからなかった。

 

 


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(c)1992楠原笑美.