act.2-1;「冷蔵庫」
「っくし!」
コンソールの前に座りっぱなし、モニターをにらみっぱなしのまま、コンピュータ・ルームで夜を明かしたのである。TK3半思考制御システムに関する情報を調べるためとはいえ、冬でも冷房をきかせまくり冷蔵庫の様な部屋の中でビールのようによく冷やされ徹夜などすれば、風邪を引いて当然というものだ。
「……えーくそ、えろう寒ぅなってきよったなぁ。これがあるから日本の冬は嫌いやねん。あー、ミラマーのあったかさを思い出しよるわ」
しかし、数時間に及ぶ格闘の末、そのシステムについてはさっぱりわからなかった。今度は別の方法を試してみようなどと考えつつルームを出たとき、すっかり夜が明けていた。
『ぐっもーにん! 東京人工群島の皆さん、おはようございます!』
自販機のあったかい缶紅茶をすすりながら、公開スタジオの前を通りかけたとき、ちょうど朝の番組が始まった。
「もう7時か……」
本番中のスタジオでは、鵜飼クーミンがいつもの明るい声を張り上げている。新田はガラス越しにちょいと手を振り、技術部の自分のデスクを目指した。
デスクの端末を操作し、AS局内の構内LAN(ローカル・エリア・ネットワーク)に接続して自分宛の留守番音声メッセージをチェックする。
短いBEEP音のあと、音声のメッセージが2件。どちらも大した用事ではないらしく、また電話するの一言が残されいる。
次に電子メールをチェックする。健康保険の引き落とし通知と水道代の領収通知の他に、根戸宏からのメールが入っていた。
『いやぁ、御苦労さん。そーいうわけでぇ、東京ガラパゴス探検隊を決行するんで、器材の手配よろしく。あいにくと取材日程は未定だが、些事が片付き次第あの島の謎に挑戦する所存だ。いつでも出発できるように用意を整えてもらいたい。キミも何かと忙しいだろうから、暇をみつけて準備しといてくれたまえ。あ、そうそう。取材にはもちろんキミにも同行してもらうことになると思うのでそのつもりで。現世に心残りがあったら、今のうちにすませておくように。あ、そうそう。今日は例の企画会議を味の屋でやるから、器材の準備が終わったら顔を出してくれたまえ。待っている』
「人の都合も知らんと……」
新田・アインワース・雅文は本当に忙しい。
ポスト・マスターの二つ名の原因「資格取得マニア」が災いして、各部署ではずいぶんと重宝がられている。つまり、諸般の雑事を含めて様々な仕事を押し付けられているため、忙しすぎるほどに忙しい人間なのである。
普段の忙しさに加えて、年末進行と言われる師走の風物詩が押し寄せているため、その忙しさはすでに尋常ではなくなっていた。
今日はたまたま次の仕事が夕方から始まるという、やや暇な日だったのである。だからこそ、少々無理をしてでも「TK3半思考制御システム」の調査などという仕事でもないことにも時間を裂けたのである。夕方までのほんの一時を、体力温存のために寝て過ごそうと思っていたのである。
が、根戸からのメールによって新田の予定は崩れ去った。
「……なんでやねん。なんでこんなんワシ一人で準備せないかんねん。ネトネトのどあほ!! せやから関東人は嫌いやねん。セロリもピーマンも汁の黒いうどんも大ッ嫌いや! 海のばっかやろー!!!」(;_;)
根戸宏は吠えていた。
時計は2時を回っている。いちばん慌ただしいランチタイムを過ぎて、すっかり客足が途絶えた味の屋店内は、がらんとしていた。カウンターの中では、人のよさそうな店のおかみ・榊原紀美枝が、平和そうな笑顔をたたえたまま汚れた皿を洗っている。
東京ガラパゴス探検の詳しい企画をたてるため、丹島の定食屋・味の屋を企画会議の場所に指定したものの、勇敢な探検隊への有志どころか、企画をたてなければならないASの制作部員さえ現れないのである。
根戸宏はいらだって席を立つと、店の入り口から外の様子を伺った。
「探検だぞ。南の島だぞ。血沸き肉躍るのが正しい姿勢というもんだろうが。どーして、誰もこないのだ! 嘆かわしい。現代人はこうも知的好奇心を失ってしまったのか!?」
勝手な理屈である。
「やっぱり、『未開の南の島を探検』って企画意図は受けないんじゃないすか?」
飛鳥龍児はカウンターのすみで頬杖をつきながらほうっとため息をついた。
「東京人工群島は、日本が技術と金を注ぎ込んで建設している未来都市っすよ。そりゃま、確かにまだ工事の手の入ってない場所だって残ってますけどね、それだってすぐに工事して新しいビルでも建てちゃうんじゃないすか? 常識的に言って。今更、草ぼうぼうの埋立地ひとつくらいクローズアップしたところで、誰も興味持ちやしないと思いますけどねぇ」
「あーあー、キミの言ってるのは確かに正論かもしれないね。正論すぎてセイロン紅茶が飲みたくなっちゃうくらいだね。だがね、正論ばかりじゃ世の中渡ってはいけないぞ。特に我々のように真実を見極める職業を営んでいるものが、一見正論にみえるような正論にばかり気を取られていてどーするんだ。もっと世の中を斜めに見なければいかん。常識ばかりにとらわれて、柔軟な発想ができない人間になってしまうぞ。あ、紀美枝おかーさん、紅茶ひとつね」
「はいはい」(^_^)
ぶつぶつと愚痴る飛鳥をへ理屈ですかしてみたものの、やはり誰一人やってこないのは根戸自身不安ではあるらしい。自信の塊のように熱弁を振るう癖に、賛同者が一人もいないと、心配になってくる。詐欺師タイプの癖に度胸が足りない。その癖、一度自信をつけたが最後、鬼の首をとって天下を手に入れたように舞い上がる。
「このままではらちがあかん。何かいい案はないかな」
「……そーですねぇ。そのへん歩いている暇そうなヤツをつかまえて、『キミ、ASに出て有名人になってみないか!』とか声かけてみたらどうでしょ?」
「それだ!」
「本気ですか?」
「本気だとも。いいアイディアだ。さすが江戸川大学マスコミ学科卒特別研究生」
根戸はいつでも本気だった。
「飛鳥くん、計画はこうだ。いいかね? まず僕が使えそうなヤツを見つけて声をかける。で、次にそいつを味の屋に連れ込んでだな、飯をおごるわけだ。これは経費で落とす。味の屋じゃいろいろ世話になってるからね」
「ふむふむ」
「で、そいつが箸をつけたところで『おっとお客さん、そいつを食ったからにゃあもうイヤとは言わせませんぜ。もし、探検隊に参加してくれないんって言うんなら、こっちにも考えってもんがある。あんたの恥ずかしい秘密を明日のアーキペラゴ・モーニング・ステーションで……』と悪役っぽく言う」
「それじゃ、キョーハクですってば!」
「冗談だよ。さぁて。一発カモを探してみるとするか」
どこまで本気なんだろう、この男は……。
飛鳥には、この男が局一番の売れっ子ディレクターであるとはどうしても信じられなかった。
一方で、これらの技術や科学の進歩を快く思わない人々もいる。
かつて、多くの工場に産業ロボットが導入されて、大規模な自動化・機械化・省力化が図られた時代があった。これによって失業した労働者は決して見過ごせるほど少ないものではなかった。
今でこそ東京人工群島建設という一大工事のため失業者も目立たないが、これらの工事現場に新たな技術や便利な機械が導入され、職を失うのではないかと恐れているのだ。現実には、人間の細やかで広い汎用性に対抗できるだけの機能とコスト・パフォーマンスを持った機械は市場に現れていない。
しかし、いずれ、それらの便利な機械に職場を追われていく職業も多く現れるかもしれない。科学技術の進歩は、産業界にプラスのインパクトだけでなく、マイナスのインパクトを与えることも充分ありうるのだ。
だが世の中にはまだまだ機械には任せられない職業の方が多いようだ。
平山恭子の営む美容師という職業は、当分は機械に取って代わられる可能性はなかった。
「ありがとうございましたー。またお越しください☆」
美容師の専門学校を卒業後、ずっと務めていた先輩の店をこの春独立した恭子は、若干22歳にしてビューティサロン「プリンセス」という店のオーナーを務める一国一城の主となった。上京後ずっと世話になってきた叔父の知己の紹介でかの地に店を開いたが、最近では常連やお得意様もつきはじめ、やっと軌道にのりはじめた。
どんなに道具が進歩しても、人の髪にハサミをつける商売ばかりは、機械任せにはならないだろう。注意深く、そして細やかな感性がある人間でなければ、この仕事はこなすことができない。仕事への誇りが恭子の自信につながっていた。
「あら、恭子ちゃん。お仕事の調子はどう?」
プリンセスの隣の食堂・味の屋のおかみ、榊原紀美枝だった。
「ええ、おかげさまで。お店にもだいぶ慣れましたし、お客様も増えてありがたい限りです」
「あらぁ、よかったわねぇ。あ、そうそう。わたしも後でお願いできるかしら?」
「ええ」(^_^)
いつも平和そうな笑顔を浮かべている紀美枝だが、5年前に夫に亡くし、中学生になる娘の奈緒美と二人で店を切り盛りしているという。
髪結いの昔から、髪をいじる商売をしていると噂話にことかかない。髪にハサミを入れている間、客が動かすことが出来るのは唇と舌だけなのだ。天気の話、世間話、噂話。客はそういった話を理髪師や馴染みの客と話す。
当然、理髪師は硬軟様々な話題に富んだ活弁士となり、ときに客の熱弁の聴衆ともなる。聞き上手の理髪師がいる理髪店は必ず流行るとまで言われている。
以前、恭子が務めていた店の先輩も、無口な客に語りかけ雄弁な客の話を聞いてみせる技に富んだ人物であった。
恭子自身は未知の他人と話すことはあまり得意ではなかった。
一見、ツンとすましてみせようとする癖は、独立を目指して仕事一徹であったことからくる、彼女なりの気張りの現れなのかもしれない。が、この癖のせいで仕事をしている最中の恭子は、あまり雄弁であるとは言えなかった。
だが、天性のものなのか、どうにも色々な話を話しかけやすいらしく、客から様々な話を聞かされる機会に恵まれた。こういった技ばかりは磨こうと思って磨けるものではない。ひとえに天賦の才能なのである。
紀美枝の話も、そうした近隣の常連たちの噂話と、そしてそうした過去を屈託なく話す紀美枝自身から聞かされたものだった。
「じゃ、後でお願いね。今はちょっとお店から手が離せなくて」
「え? ランチタイムはとっくに過ぎたし、もうそんなに忙しい時間じゃないでしょう。どうかされたんですか?」
「いえね、洋上大学の学生さん……ASの人達がねぇ。なんでも探検隊の隊員を集めているとかで、ちょっと賑やかなのよ。まだ奈緒美も学校から帰ってこないし、もうしばらくは、忙しそうなのよねぇ」
「まぁ☆ 商売繁盛で何よりですね」(^_^)
「ほんとにね。じゃ、また後で」
紀美枝に軽く微笑み返し店内に戻った恭子は、床に落ちた髪を掃いた。
時間はもう3時に近い。そういえば、今日は昼過ぎからずっと客が途絶えなかったおかげで、昼食もとっていない。そう大きくはないとはいえ、プリンセスは恭子一人で切り盛りされているため、交代のできる店員がいないのだ。
結果、食事や休憩ともなれば、客足がとぎれたのを見計らって店を一時的にしめなければならない。
鏡台の前にあるチェアについた髪を手ほうきで払いながら、遅い昼食のメニューをぼうっと考えていたとき、その人物が現れた。
「あの……いいですか?」
少し背が高い。スリムな体にふわっとした栗色のショートヘア。顔つきに東洋人の面影を残してはいるがその目は青く、肌はきめ細かく白い、女性。いや、男性?
「あ、はい、どうぞ」
一瞬戸惑ったが、恭子は客を店に招きいれた。
これが、恭子とルフィー西石の出会いの始まりである。
「どうぞ、おかけください」
ルフィーにチェアをすすめ、タオルと白布を取り出す。
恭子は、仕事にかかる前の仕度をしながら、注意深くルフィーを観察した。
特にメイクはしていないが、張りのあるきめ細かい肌をしている。そのおかげで、無言のままでいると女性とも男性ともとれる風貌をしている。
彼から受け取った少々古風なデザインのコートには、流行のコロンではなくどことなく古めかしい匂いが染み着いている。古びた屋敷の書斎を連想させるそれは、最近ではすっかり珍しくなったパイプタバコの匂いかもしれない。
ノリのきいたシャツを無駄なしわひとつ作らず着こなす上品さは、丹島の商店街に似つかわしくは思えなかった。
タオルを巻くために襟元のボタンを外したとき、微かにトニックの匂いがした。
そして、どこかでルフィーを見たことがあると思った。
「髪はどうなさいますか?」
「ええと……襟元を……いや、あなたにお任せします」
ルフィーの栗毛色の髪を霧吹きで濡らし櫛を入れる。
よく手入れされた髪は驚くほど滑らかで、そして細い。まるできらきら光る黄金の糸のようだ。
(綺麗な髪……)
恭子はルフィーの髪を梳きながら、うっとりとした。
「お客さん、綺麗な髪をなさってますね。なんだかハサミを入れるのがもったいないくらい」
普段の恭子なら、初めての客に自分から話しかけるのには少々の緊張と勇気が必要だった。こんなに自然に言葉が出て来るのは珍しいことだ。
「大昔の映画で、こういうシーンがありませんでしたっけ? お忍びのお姫様が、長いとても綺麗なブルネットを『ショートカットにして』って理容師に頼むのだけれど、理容師はなかなか切る踏ん切りがつかなくて……」
「ああ、『ローマの休日』ですね。オードリー・ヘップバーンの映画だ。僕も見たことありますよ。でもあの映画では髪を切るのはイタリア人のナンパな男の理容師だった」
「わたし、あの理容師の人の気持ちがわかるような気がします。髪を切る仕事をしていると、毎日いろんな人の髪にさわるでしょ。さらさらの髪、しっとりした髪。傷んだ髪を見ると髪がかわいそうだし、綺麗でよく手入れされて大事にされてる髪を見ると嬉しくなっちゃうんです。そういう綺麗な髪を見てると、ハサミを入れるのがなんだかもったいないような気がしてきちゃって……」
「髪がお好きなんですね」
「ええ。髪をいじることではなくて、髪そのものが好きなんです。でも、わたしは髪を切るのが仕事ですから切らないわけにはいきませんよね」(^_^)
そう言うと、恭子はすきバサミで前髪を揃え始めた。
湿らせた髪が数本ずつくっついて白布の上に落ちる。
午後遅くの店内にピアノのか弱い調べが流れている。
恭子のお気に入りの曲ばかりを集めたものだ。クラシックからニューロックやポップスまで、様々なジャンルの曲が一見無秩序とも思えるような順列で続いているが、恭子にとって、どれも皆、思い出のある曲ばかりだった。
月光小夜曲からウォーターマークに変わるくらいの時間、店内はピアノの調べと髪を切る心地よい音だけが続いた。
沈黙を終わらせたのは恭子だった。
「失礼ですが、もしかしたら外国の方ですか?」
「ええ、スコットランドです」
「まぁ。イギリスというと……名探偵ホームズのお国ですよね。探偵……? ええと……あっ」
恭子は手を止めた。
「あなた、ルフィー西石さんじゃありません?」
ルフィーは一瞬驚いたようだが、鏡の中でにこりと笑った。
「僕をご存じとは光栄ですね。でも、どうして?」
「先日のアーキペラゴ・モーニング・ステーションで拝見させていただきましたもの」
「いやはや、TVメディアの影響力は健在だな。たった一回の出演で有名人になってしまった」
ルフィーは頭をかこうとして白布の下でもぞもぞ手を動かし、それができないことに気づいて照れ笑いを浮かべた。
「軍事学部の探偵さんでしたよね」
「いや……正確には違います。軍事学部では射撃実習の講師をしていたんですが……今期限りで講座が終わってしまいましてね。契約の更新通知がなかったので、来年7月くらいまでは軍事学部から離れることになりそうです」
「探偵もやめてしまわれるんですか?」
「いやいや、そんなことはありません。といっても、探偵業は半ば趣味みたいなものですから……気に入った依頼しか受けないし、とてもこれだけじゃ食べていけませんから当分は家の仕事でも手伝うつもりです」
「そうなんですか。大変ですね」
ルフィーの髪を洗い、ドライヤーで乾燥させる。
そして仕上げ。
「西石さんのご実家の仕事って何をされるんですか?」
「ええ、家の者から頼まれてちょっと調べ物をね」
「何かの事件ですか? 縁島の殺人事件みたいな……?」
「あれに関わってるのは、明智探偵事務所の麗夢奈さんですよ。僕が調べてるのは、そんな物騒なものじゃありません。それにまだ事件にはなっていない」
「……ということは、まだこれから事件になる可能性があるんですね?」
「……察しのいい方ですね」
白布に落ちた髪を払い、布とタオルを外す。手ほうきでルフィーの肩を払う。
「僕の調べているのは、この群島の謎です。図らずも、あの根戸氏も似たような考えをお持ちらしい」
「根戸さんって、あの冒険ディレクターの、ですか?」
恭子は根戸に関する記憶を蘇らせた。
根戸宏。ルフィーと同じ日にAMSに出演していた、特番ディレクター。
社会派の番組を造ったり、ヤラセっぽい番組を造ったり。最近では冒険番組ディレクターとして売りだしているらしい。
……確かにおもしろい番組を造っている人かもしれないけれど、彼の言うことはどうにも胡散臭くて信用ならないように感じられる。恭子が見た限り、これまでの番組だってどこまでが真実でどこからが虚偽なのかわからなかった。ばかばかしさはあったけど、確かに真実も混じっていたような気がする。
玉石混合な情報を流す、情報詐欺師。
それが、恭子の感じる根戸宏のイメージである。それはルフィーも同じようだった。
「不本意ながら。東京人工群島について調べていくと、どうしても彼の痕跡に出くわしてしまうんですよ。どうやら、根戸氏は僕が調べたことの幾つかについて、僕より早くそれを調べているらしい。群島の表向きから、諸勢力の謀略渦巻くダークサイドまでね。僕の感想としては」
鏡の中の自分を見ながら、ルフィーはチェアから腰をあげた。
「……よく消されてしまわないものだと感心させられるくらいです。どうやら彼は、探検好きのお調子者ディレクターではないらしい」
「……」
恭子は黙ったままクローク・フックからルフィーのコートを外し、ルフィーの肩にかけた。
時計は4時を回っている。
「おっと、もうこんな時間か。お嬢さん、楽しいひとときをありがとう」
ルフィーはIDカードを取り出して恭子に手渡した。
恭子は店のPOS端末にルフィーのIDカードを通し、オンラインで支払いを済ませる。料金は自動的にルフィーの預金口座から引き落とされ、プリンセスに振り込まれるはずだ。
「いえ、こちらこそ。貴重なお話を聞かせていただいて」
コートを羽織り、店の扉に手をかけたルフィーは何事か思いだして振り向いた。
「ああ、そうだ、お嬢さん。もしよろしければ、お名前を教えていただけますか?」
「……恭子、平山恭子といいます」
「では恭子さん。またお話をさせていただきたいのですが、僕も毎日髪を切るわけにいきません。今度、一緒に食事でもいかがですか?」
「えっ……?」
「返事はいつでも結構です。ああ、何か困ったことがあったらベーカー街……じゃなかった、伊島の西石探偵事務所へ知らせてください。きっと力になれると思います」
ルフィーは帽子を目深にかぶり、扉を押した。
「キミ! そこのキミぃ! いい身体してるね。PKF……じゃなかった、根戸宏探検隊に入らないか?」
まるで一昔前の自衛隊のスカウトである。
「根戸さん、誰もこないっすねぇ」
「うーむ、これは都市に生きる者の堕落だ。墜落だ。日々の生活に慣れ、目新しいものへの興味を失ってしまうとは、都市生活者にとってあるまじき態度だ。いかん。こんなことではいかんぞ!」
根戸は探検隊隊員募集に振り向かない人々を糾弾しているようだった。
飛鳥龍児は暇を持て余して根戸宏に訊ねた。
「根戸さん。その都市生活者にあるべき態度ってなんすか?」
「物見高く、何にでも興味を抱き、常に新奇なものを追い、変化し続けることだ。いいかね? そもそも都市と言うものそのものが、そういった都市生活者の欲求に応えることによって成立しているものなんだ。都市が都市として発展し続けるために絶対に欠かせない条件はなんだかわかるかい?」
「ええと、人口の集中、公共施設の整備、交通網の整備……」
「もちろん、それもあるだろう。しかし、発展し続けるために、絶対に欠かせない条件はそれではない」
根戸は右手の人差指を一本、飛鳥の目前にぐいとつきつけた。
「それは、変化し続けること、だ。ひとつの概念、ひとつのパターン、ひとつの慣習に留まってしまったとき、都市はそこから死んでいく。常に新しい形に変化していくことによって、都市に価値が生まれる。例えば東京はこれまでも消費市場として莫大なマーケットを誇ってきたが、これは人口が増大し続けたというだけで存続できたわけではない。消費者の嗜好が常に変化し続けている結果として、常に市場は変動し、新製品が生まれ、生活に刺激が与えられる。これらの刺激を供給しうる『都市』の価値性は、それを求める消費者=都市生活者たちによってますます高められ、より多くの都市生活者が都市という市場に流れ込んでくるため、ますます都市は巨大化していく。この変化を呼び起こすパワーは都市から与えられるものではなく、まず都市を励起する都市生活者の変化への渇望があって初めてなしうるものだ。つまり……」
根戸は一息ついて続けた。
「都市がもし停滞し、その価値性が失われるようなことがあったとすれば、それはその都市に住まう都市生活者の態度に問題がある、と見るべきだろう。イコール、我々の行動に興味をまったく示さない、心躍る変化に身を投じようとしないのは、都市生活者として堕落の第一歩を踏み出していると言わざるを得ないのだ!」
根戸は、味の屋の表におかれた縁台の上に立ち上がり、右腕を高く差し上げて拳を握りしめた。周囲には買い物帰りの主婦や、部活帰りの高校生が人垣を造っている。
「というわけで、諸君! この東京人工群島を励起し、新たな変化を与えるために、根戸宏探検隊に参加してみないか!」
根戸の演説のほとんどの部分は、その場に居会わせた人々の右の耳から左の耳へ抜けていったに違いない。演説を聞き終えた人々は、三々五々に散っていった。
もっとも、主婦や高校生では、何週間に及ぶかも知れない探検行には随行しがたいのだが。
散りぢりに去っていく人々を見送りながら、さすがの根戸も力を逸して呟いた。
「むぅ。この崇高な理念をもってしても……」
しかし、世の中わからないものである。
その場から去らずに居残って立ち尽くしている見物人が、たった一人だけいたのである。
「むっ! キミ! なかなか体格してるね。どうだ? 探検隊に入らないか?」
それはでかい男だった。身長は優に180センチ以上あるだろう。がっしりした丈夫そうな身体つきは、『探検』という言葉をピッタリ受け止めて離さないように見える。
「はあ……」
根戸は飛鳥に目配せすると、男の巨躯を味の屋に押し込みながら言った。
「まあまあまあ、詳しいことは中で飯でも食いながらゆっくり話そうじゃないか」
店内にかけられた古めかしい柱時計から、4時半のチャイムが響いた。
「そろそろ夕飯どきだし、何でも好きなもの頼んでくれたまえ。あ、ところでキミ、名前は?」
「飯亭男です」
「なかなかいい身体をしているようだけど、何かスポーツをやっているのかい?」
「球技を中心になんでも。後は登山とダイビング、ですか」
「結構。そりゃ大いに結構。探検隊といっても、別に難しいことがあるわけじゃない。うん。去年なくしちゃった物を探しに……いや、我々とともにあの21号埋立地へ赴いてだな、その全貌を明らかにしようというものだ。あそこはまだカメラが立ち入った事のない前人未到の場所だし、ここで我々が足跡を記せば、はっきりいって有名になれるぞ」
飯は『有名』という言葉にピクリと反応した。
「オレ、マスコミ関係に進もうと思ってるんですけど……」
「ますます結構。この探検隊に参加すれば、ASのアイドル・鵜飼クーミンにも会えちゃうぞ」
「ひぇ〜! ほ、本当っすか!!」
飛鳥が根戸の脇をこづく。
「……根戸さん、そんなこと言っちゃっていいんですか?」
「大丈夫だって。僕に任せたまえ」
「紀美枝おかーさん、納豆定食とイチゴシェークちょうだい☆」
実によいタイミングであった。ちょうどそこへ、新田・アインワース・雅文を引きずって鵜飼クーミンが現われたのである。
「よ! おひさ☆」
「きゃー、根戸さん久ぶりー☆」
「今ちょーど鵜飼ちゃんの話をしてたんだよん」
「えー、なになに? 何の噂?」
飯亭男はホンモノの鵜飼クーミンを前にして、感動と緊張とミーハー根性が入り交じっているようだった。
「こ、こ(こちらが)……う、う(鵜飼さん)……ね、ね(根戸さん、紹介してくださいよ)」
「根戸さん、こちらの方は?」
「ちうわけで、鵜飼ちゃん。彼は例の根戸宏探検隊の有力な隊員候補として志願してくれた飯亭男君だ。彼が本採用となった折りには、探検隊で一緒に仕事することになるかもしれない」
「あ、そうなんだー。飯さん、よろしくねっ☆」
「あっ、はい!」
根戸は人を扱う(騙す)のが得意だった。
「おー、新田君。キミも来てくれたか。これで探検隊隊員は、僕、飛鳥君、新田君、飯君」
「それでも、たったの4人っすよ。それに、取材の全体構成は、結局のところさっぱり決まってないわけですし……ほんとにこんなんで大丈夫なんすか?」
飛鳥がぼやいた。これでは探検隊どころかニュース番組の取材クルーに毛が生えた程度であり、とても探検隊という陣営にはほど遠い。
「だぁいじょうぶ。原始人……あ、いや、原住民の専門家に出演を願うから」
「原住民の専門家?」
怪訝な顔で飯が訊ねる。
「ジェーン壱代寺っすか!?」
「ジェーンはもちろん連れていく……といったところで、あいつがおとなしく取材現場についてくるはずないだろうが。せいぜい、飯喰らってネタ喋り散らすくらいのもんだ。そうじゃなくて、原始人の生活とかの再現をやってる研究所があるんだよ。そこを探検隊に巻き込む。原住民に関するエキスパートという触れ込みで」
「原始技術研……磐田研ですか」
「うん。やっぱり餅は餅屋。原住民は原住民屋に喋らせるのがいちばん。こうすれば真実味が増すだろ?」
根戸はにんまりと笑った。
「さて、じゃ次は『演し物』を決めようか」
「え。でもまだ企画屋がきてませんよ」
「大丈夫。呼べばすぐ来る」
「呼ぶ?」
「そ」
根戸は店の入口に向かって叫んだ。
「ジェーン!! 飯だ!!」
「はぁ〜いな! 呼ばれて飛び出てぢゃぢゃぢゃぢゃーんっっ! 企画のことならジェーンにお・ま・か・せっ☆」
味の屋の玄関を力いっぱい開け、ジェーン壱代寺は本当に現われた。
……この後、二次会、三次会と河岸を変えながら夜半遅くまで続いた怒涛の企画会議(と称された宴会)については、あえて詳しく記さない。