act.3-1;食事に誘われた女の子の悩み


 平山恭子は悩んでいた。

「これってデートに誘われたってことなのかなぁ」

 もちろん食事に誘われるということ自体はうれしい。

「西石さんが彼だったら……ちょっと素敵かな」

 ふ、と笑みがもれた。
 生で見たルフィー西石は、少しはにかみ屋のように見える明るい青年という印象だった。イギリス人とのハーフだけあって肌もきれいで、なかなか見栄えのいい二枚目だし、清潔でさっぱりしているし、何よりもあの栗色の髪がきれいだった。
 でも、なぜ自分が? もちろん、うれしさはあるが、自分は初対面の人に食事に誘われるほど、特別美しい人間であるとは思えない。碧の黒髪とすべすべの白い肌にはちょっと自信があるけど、背もない胸もない、なんにもない。十人並みの普通の女の子のはずだ。
 ルフィーには、何か特別な思惑があるのだろうか。

「西石さん、どういうつもりなのかしら」

 少し疑心暗鬼になった。
 理容師と探偵。一見、接点のまったくない仕事のように見えて、それぞれ噂話を聞かされやすい仕事と噂話を嗅ぎ廻る職業という、奇妙な縁がある。恭子の得た噂話を知りたがっているのだろうか。何かを恭子から聞き出そうとして近づこうとしているんだろうか。自分は世間を賑わすような凶悪犯罪には関わっていないし、国家絡みの大謀略の関係者にも知り合いはいない。少なくとも、美容院経営者という本業に限って言えば、その手の大物との関わりはない。と思う。

「実は、わたしって思ってたよりずっと魅力的だったのかな」

 一目会ったその日から、恋の花咲くこともある。
 今まで誰も気付かなかった恭子の魅力を見出したルフィーが、その虜になってしまったのかもしれない。人類永遠の謎のひとつ、一目惚れという奴だ。ルフィーと恭子の中に、あい通じるものがあって、それが二人を再び呼び合せようとしているかもしれない。

「でも、ただの社交辞令なのかもしれないし……」

 舞い上がった気分がすぅっと覚めた。

 ルフィーは英国紳士である。レディには花とお世辞を捧げるものと教育されて育ったのかもしれない。イギリスでは『お嬢さん、一緒に食事でもいかがですか』というのは『またいずれお会いできるといいですね』という、さよならの挨拶にすぎないのかもしれない。まさか恭子がそれを本気にしているとは思ってもいないのかもしれない。
 また、(少なくとも恭子にはそうは見えなかったけれど)ルフィーはただの女好きで、恭子だけでなく誰にでも声をかけているのかもしれない。

 どう返事をしたらいいものだろう。

「くよくよ悩んでないで、とりあえず電話してみたら?」

 味の屋のカウンターの隅で、頼んだ定食にはとんど箸もつけずにぼんやりしていた恭子は、女将・榊原紀美枝の声で現実に引き戻された。

「へ?」

「西石さん、西石さんってつぶやきっぱなしなんだもの。せっかくデートに誘ってもらったんでしょう? 自信持ちなさいよ。恭子ちゃんは、わたしからみたって絶対に可愛いもの。誰か意中の人がいるなら話は別かもしれないけど、まだそういう人いないんでしょ? だったらチャンスじゃない」

 紀美枝はすっかり冷めてしまった味噌汁を暖かいものと替えながら笑った。

「仕事も軌道にのってきたんだし、いつもお店の中に篭ってばかりじゃよくないもの。年頃の女の子なんだから、たまには羽を伸ばすべきだと思うわぁ」

「そ、そうでしょうか……」

「そう、絶対にそう☆ 今すぐアタックよ!」

 紀美枝に励まされて、恭子もなんとなくその気になってきた。

「そうよね、西石さんの方から誘ってくださったんだし、少なくともお礼の電話くらいはしておくべきよね。じゃ、ちょっと……かけてみようかな」

 恭子は、促されるままに店の隅にある公衆動画像映話機にカードを差し込み、西石探偵事務所をコールした。




act.3-2;肝臓が疲れている人たちの考え
 年末と言えば忘年会。忘年会と言えば宴会。
 が、忘年会とは関係なしに、飛鳥龍児の肝臓は休まることを知らなかった。根戸宏の意図する「21号島取材のための探検隊に参加する有志を募るための勧誘宴会」と称する怒涛の宴会攻勢が、彼を酒浸りの日々に縛りつづけていたからである。
 連日、味の屋を発端に二次会へ三次会へとなだれ込みつづけ、今日も今日とて朝帰り。昨晩の宴会では、『前世紀末の一般的大学における伝統的な酒の呑み方を復元する』と称してスピリタスの一気飲みをしたあたりまでは覚えているが、その後の記憶が無い。わかっているのは、猛烈な頭痛と込み上げてくる吐き気が今も続いているということと、どこでつけたのかわからないアザが疼いているということだけだ。

(俺はいったい何をしているんだろう……)

 飛鳥は自責した。
 ともすれば目的を見失いがちになる自分を叱咤して毎日を過ごしてきたものの、ただ酒を飲み騒ぐだけで本当にいいんだろうか。自分の目指していたジャーナリスティックな方向性から、だんだん離れていっているような気がする。
 根戸というディレクターは本当に凄いジャーナリストなんだろうか。尊敬に値する 人物なんだろうか。学ぶべきものを持っている人間なんだろうか。
 ASに現れた飛鳥を待っていたのは、根戸の晴れやかな笑顔だった。

「いやぁ、飛鳥くん。昨日は凄かった。いや、実に素晴らしかったね」

 根戸はヒゲを剃る手を休めて、飛鳥に手を振った。

「俺……なんかまずいことしてました?」

「いやいや、まずいだなんて。スピリタスの一気飲みを見せてくれた後が凄かった。突然店を飛び出したかと思ったら、飯くんクラスのいい体つきした連中に片っ端から声をかけまくって。で、『まずは飲め。そして入隊試験はこれだ!』つって片っ端から殴り倒すという……いや、あれは凄い。飛鳥くんは江戸川大学から洋上大学に編入するにあたって特別に研究費まで貰ってきているいわばエリートなわけだろう。その君があそこまでやれる男だとは知らなかった。だが、最後のアレはちょっと勘弁してほしかったね。27年間生きてきて、僕にケンカを止めさせたのはキミが二人目だよ」

「……え?」

「覚えてないの? 凄かったんだから。キミは軍事学部の留学生に後ろから殴りかかって、一人昏倒させたの。いやあ、実に痛快で楽しかったんだけど、あれ僕が止めなかったら、キミあのまま南の未開発地区で埋立ての材料にされちゃうところだよ。酒はほどほどにしときなさいね」

 軍事学部。国際色豊かな洋上大学の中にあって、一際異色を放っている学部である。一般の学部と違い、軍事学部に入学できるのは医学部並みの学費を支払うことのできる組織の支援を得られる身分にある人間か、各国軍隊に従軍してきた経験を持つ、いわゆる『職業軍人』に限られている。
 日本人学生もいないわけではない。しかし、第三国を含めた世界中の国家軍隊の軍人に『学生』の身分を名乗らせている軍事学部は、大学の一学部というよりはむしろ『軍事教練所』に近い。設立の表向きの理由は『国際協力の立場にたって、軍事知識を持つシビリアンを広く養成する』という立派なものだが、蓋を開けてみれば各国軍隊の技術交換・知識吸収の場となっている。シビリアンになぜそれが必要なのか分からないが、射撃、格闘技などの実戦戦闘技術訓練が施されているという噂も絶えない。
 いつもの長口上で申し訳ないが、端的に言うなら飛鳥は『ヤクザにケンカを売るより危ないと言われている職業軍人』に殴りかかったのである。

「ま、報復はないと思うから安心したまえ」

「なぜ断言できるんです。相手は軍事学部でしょ? 米軍司令部の目と鼻の先で軍事演習をしていると噂され、航空研の九鬼涼子を誘拐して洗脳したとかいう……」

 根戸宏は九鬼涼子の名を耳にすると少々真顔で言った。

「さすが特別研究生、もう聞きつけたんだ。しかし憶測でもの言っちゃダメだよ。軍事学部が本当に関わっているのかどうかは、まだ確たる証拠が何もない。航空研と軍事学部の確執はわからんでもないが……今の所、航空研側の主張があるだけだし、事実は何一つ判明してない。センセーショナリズムに走って煽るだけならそれもいいが、君が目指しているものはそれとは違うんだろ?」

 根戸はいつもの不真面目で不敵な表情に戻った。

「それで、だ。君が殴り倒した……えーと、クルピンスキーとかいったかな。彼らの仲間が言うには『今回に限りヤツへの非礼を無制限に許す』とのことだ。彼、何か仲間の気に触ることでもしたんじゃない? 君が殴り倒してくれたおかげで気が晴れたというわけだな。その場の飲み代をこっちが持つということで和解したので報復はないよ。これで安心したかな?」

「根戸さん……この際だからはっきりお伺いしたいことがあるんですが」

 飛鳥は、ヒゲをそった後の顎を撫でながら鏡を覗きこんでいる根戸に食いよった。

「なーに?」

「僕らは何のために毎日飲み明かしているんでしょう」

「そりゃ探検隊の隊員を募るため」

「前にも伺いましたが、本当に21号を取材するんですか。あんな何にもないところを」

「何もない? 21号に何もないって? ……うーん、そうか何もないか……。何もないからこそ取材するんだって言ったら怒る?」

 根戸のいつもの手口だ。わかりにくい言葉を選んでわかりにくくしゃべる。自分は真実を知っているぞ、といういうふうに見せるのだ。

「その手には引っ掛かりませんよ。今日という今日は、根戸さんの真意ってヤツを聞かせてもらいましょう。なぜ、我々が21号を取材しなければならないのか」

 根戸は周囲を見回すと飛鳥に顔をよせた。

「……そうか。じゃ、ここじゃ危ないから別の所いこか」

「また、そーいう……」

「ほーんーと。本当に危ないんだってば。僕の知ってることを誰かに漏らしてごらん? 軍事学部くらいじゃすまないよ。お金持ちの組織に雇われたヒットマンとか、どこかの国のエージェントがわらわらやってきちゃうんだから」

 根戸はにたりと笑って指を口にあてた。

「待ってください。それじゃどうして根戸さんは狙われないんですか!」

「考えられることは3つ。僕がその秘密を知っているということを彼らに知られていないからか。実は今までも狙われつづけてきたが、運よく生き延びてこられただけなのか。僕が事実をつかんでいるというのは真っ赤な嘘で、僕がただのパラノイアだからなのか」

「3番……かな?」

 根戸は周囲を見回し、誰にも聞かれないように小声で話した。まるで、本当に誰かに監視されているのではないかと思わせるような念のいった演出だ。

「だといいんだけどね。前にいっぺんだけ命に関わる目にあいかけたことがあるんで、建設現場とかホームの先頭にはできるだけ立たないように気を付けているんだ。それに、何か秘密を知ったら誰かと……そうだな、より多くの人々とそれを共有して自分だけが狙われないように気をつけている。知ったその場でニュース・ラインに流しちゃうとかね。
 僕だって命が惜しいもの。本当のことばっかり言ってて消されちゃうのは誰だって嫌でしょ? 周りの信用は多少落とし気味にしておかないと。僕が皆に信用されていて、皆が本気で耳を傾けるようなニュースを僕が取材しているって知れたら……僕が取材を思いついたところで都合が悪いと思った奴に消されてしまう。
 一般に僕の名前がついているニュースを聞いた人は、皆それを半分くらいにしか本気で受け取ってくれないでしょ。だから僕の身の安全が図られている。危ない、やばいニュースも僕だから取材できる。真実を知っても誰にもそれを信じてもらえない、と思われているから取材できる。
 そうして取材した『本当にやばい、本当に知らせなきゃいけないニュース』は、僕じゃなくて誰か別の人間の名前で流せばいい。そのニュースを流した当人の信用が高ければ高いほど、ニュースは真実味を帯びてくるし……それに、伴う危害もその流した当人の方へ矛先が向いてくれる」

 根戸宏というのはジャーナリズムに燃えていて、功名心が強くて、それでいて保身を第一に考えているという矛盾をはらんだ人間だった。飛鳥は、その詭弁に富んだ言葉の中に根戸宏という人間の一部分が垣間見えてきたように思った。
 口で何を言おうが、この男は調べることと吹聴することという行為そのものが好きなのだ。社会正義と公正な義務感からそれをしているわけではなく、情報を玩ぶことそのものに心酔している人間の一人なのだ。その行為を楽しむためなら、得られる解答が何であってもかまわない。かくして言葉遊びとセンセーショナルな映像のオブラートに包まれた、番組の出来上がりというわけだ。
 視聴者が彼の作った番組に群がるのは、『ならべられた虚構の中に真実が混じっている』からなのだ。最初から真実と信じられているものに嘘が混じっていれば、その真実の報は疑わしい信用されざるものになってしまうだろう。だが、最初から嘘とたかを括っていたものに、真実が混じっていたとしたら? 半分真実の混じった嘘ほど面白く、もてはやされやすい。そして、ある日ふと嘘の中の真実に気付いたとしたら、彼らは何を感じるだろう。
『根戸という男は嘘つきだとばかり思っていたが、どうやらそうでもないらしい』
 そして、自らそれに気付くという、発見するという行為こそが、日頃、情報を与えられることだけに慣れ、情報に対して受け身でいるパッシヴ・ユーザーが、自分を翻弄する情報の渦の中で、他のまだそれに気付かない人々に対して優越感に浸るという快感を得られる瞬間なのだ。
 これなのだ。これこそ、根戸が求められている理由のひとつなのだ。

「……だから、君に危険が及ぶといけないと思って黙ってきたんだけど、僕と危険を共有してくれるというなら話してもいいなぁ」

 飛鳥龍児の顔に根戸宏と同じ精気が満ち満ちていた。くだんの根戸のような笑みを浮かべた飛鳥は、瞳を凛々と輝かせて言った。

「覚悟はできてます。俺は根戸さんについていくって決めてるんすから。さあ、どこへなりともお供しますとも」




act.3-3;イギリスから来た探偵さんのこと
 メイクの始めは、まずは洗顔から始めるのが基本である。
 洗顔フォームを使って丹念に顔を洗い、毛穴の一つ一つまですっきりさせる。素肌に水分を与えた所で、今度は肌の水分を奪いすぎないように気を配りながら余分な水気を乾いたタオルで拭き取り、ファウンデーションを薄く伸ばして下地を作るのである。
 あまりけばけばしい化粧は「彼」自身の好みとする所ではなかった。シャドウは控え目に、あまりきつくならないように気を付けながら、微妙な陰影を飾り付ける。
「彼」は元々眉尻が少し薄いので、そこへ眉を少しかきたす。そして、僅かに鳶色のコンタクトレンズをはめて、瞳の色を隠す。人の顔の特徴は、目と眉で半分以上が決まってしまうというが、これでまぶたを一重に変えれば、元の「彼」のイメージは半分以上払拭されてしまったも同然だ。
 ルージュの色はオレンジに限りなく近い自然な薄いピンク。
 175センチの身長を目立たせず、凹凸の少ない体形を隠すための服装を考えた。クロークルームから、流行のオールドスリムのジーンズとざっくりとした手編みのセーターをひっぱり出す。
 ヒールの低いパンプスに手をかけたが、ジーンズとの組み合わせが気に入らないため、ハイカットのコンバースにした。
 そして、栗色の髪をすっぽりと隠すように、肩にかかる黒髪をかぶる。増毛法などを開発したかつらメーカーに特注して作ったオーダー物である。まるで本物のようにフィットし、不自然さを見せない。
 静電気の発生を押さえるバブル・ジェルを吹き付け、何度かブラッシングをして髪に馴染ませる。ジェルが馴染むと髪はさらさらのシャンプー・ヘアに、「彼」は「彼女」に変身した。
 立ち上がって、鏡台の前でポーズを取ってみる。ちょっと色白だが、どこから見ても日本人の女の子に見える。
 見事なまでの変装を終えたルフィー西石は、自分の端末AIVALに自分の変身具合を訪ねた。

「これで、よしっと。どうだ? VAL」

『ベリー ナイス Sir. ムシャブリツキタイ ホドデス』

「そういう言い回しはよせ、VAL……」

 探偵・ルフィー西石に女装趣味はない。いや、おそらくないと思う。
 彼は、ある場所にいかんなく潜入するため、しかたなく変装をしたのである。大概の場所へ出向くだけなら、普通の変装で間に合うのだが、今回の潜入先はアーキペラゴ・ステーションである。数週間前に自分が出演したばかりの放送局に入り込むからには、ルフィー西石の姿のままでは目立ちすぎる。
 音声認識端末VALは、ルフィーの流暢なイギリス英語に答えて続けた。

『Sorry Sir. 先日ノ指示通リ 岩西みやこ名義ノIDヲ 用意シマシタ. 群島内デノ行動ニ 支障ハナイト思ワレマス. コレニ伴イ ルフィー西石ノ IDヲ 停止シマシタ. 今後シバラクノ間 ルフィー西石ハ パリ・ダカール・ラリー参加ノタメ 群島内ニハ 存在シテイナイコトニ ナッテイマス』

「よし。では、今日の行動を確認する。依頼に基づいて、僕はこれから西石探偵事務所アルバイト・岩西みやことしてASに行き、根戸の持つ情報を探る。
 彼は、これまで人工群島絡みの報道番組製作を通じて、東京人工群島について一定以上の秘匿情報を得ていると思われる。また、最近ではここ数ヵ月以上に渡って群島区南についての裏付け取材を進めている。これまでの彼の行動・取材経緯からみて、今回もロクでもない番組しか残さないであろうことは明白であるが、その裏で開発の遅れている群島区南について、すでに膨大な未公開の秘匿情報を得ているはずだ。
 今回の目的は、根戸の得ているこれらの情報を探りだすことにある」

 VALは壁面のイメージ・モニタのウィンドウを幾つか点滅させて、ルフィーの行動予定・目的を記録していった。
 これらは後に依頼人あての報告書を作成するときの資料となる。

『……確認シマシタ』

「なお、『岩西みやこ』のIDが24時間以上に渡って群島プロムナードを始めとするWAN、LANにアクセスされなかった場合、アクシデントに巻き込まれている可能性がある。この場合、VALの端末を通じて岩西みやこの痕跡を追跡しろ。以上だ」

『ラジャー』

 VALはルフィーの発言をすべて記録し終えると、データベースに収納した。
 群島プロムナードを始め、彼のIDで調査できる限りのLANの情報、直接接触することによって得られた情報など、人工群島に関わる膨大な量のデータが外部ネットワークと切り離された西石探偵事務所の小規模構内LANのデータベースに集められている。
 これらの情報はルフィーが人工群島へやってくるずっと以前から、彼のイギリスの生家に請われている密偵たちが幾年もさかのぼって調べあげてきた事実である。
 そのイギリス本家からルフィーに託された仕事は、それら多くの情報を整理統合し、人工群島の現状を明らかにして本家に報告することにあった。
 気に入った依頼以外は受けないことを信条としているルフィーにとって、今回のイギリス本家当主からの直接依頼「群島について報告せよ」はあまり気乗りのしない仕事だった。  本家が人工群島の何について知りたがっているのかわからなかったが、調べれば調べるほどダーティな謎が現れてくる。それも世界中の財閥や犯罪組織、国家組織などがひしめきあっているのが見えてくるのだ。それらのダーティな関わりの網の中には、ルフィーに調査を依頼した本家の痕跡も見え隠れしている。
 実際のルフィーは綿密に調査・観察し、ひらめきで結論を導きだすホームズのようなタイプの探偵なのだが、彼自身は、自分は猟奇殺人事件や怪盗相手の捕り物など、知恵者との駆け引きなどを楽しむタイプの探偵であって、決して謀略に関わる巨悪に立ち向かうことは好まないと思っている。
 しかし、しかし、家のためとなれば話は別である。欧州の有力貴族の閨閥の一員として、家のために尽くさなければならない。例え自分の母の死にめに合えなかったとしてもだ。
 身仕度をすべて終えたルフィーを、VALが呼び止めた。

『Sir. エアメール ガ 届イテ イマス』

「手紙か? 珍しいな。誰からだ」

『差出人 ハ チヅル 西石』

 最近では、たいがいの連絡は電話かメールで済ましてしまう風潮がある。しかし、受け取った本人にとってのみ重要な意味を持つような知らせは、まだまだ郵便による手紙という伝統的な手法の方が人気がある。家族からの手紙、ラブレターなど、手書きの方が嬉しい「手紙」は数知れない。
 ルフィー西石あてに届けられた昔ながらの青赤のストライプで囲まれた封筒には、イギリス本家の紋章が刻印された蝋で閉じられていた。封筒の裏には小さく彼の母親の名前が記されている。
 封を切り、数枚の便箋をとりあげた。そこには、タイプライターのアルファベットではない、母の手による端正な筆致の漢字が並んでいた。

『拝啓

 年の瀬も押し詰まってまいりました。かわりなく元気に暮らしていますか?
 近ごろは発作の回数も減り、以前よりずっと楽になりました。

 今年こそは家族全員そろってクリスマスを迎えたかったけれど、以前くれた手紙の様子では、まだまだ帰れそうにないようですね。残念です。あまり危ないことばかりしないでね。

 ルフィーがいないのは寂しいけれど、ジェームズもいるので私は大丈夫です。
 心配せずにあなたの目指すことをおやりなさい。
 無理をせずに、ただし毎日をいつも一生懸命に過ごしなさい。

…………敬具』

 実に短い手紙だった。
 あまり見せない哀しげな表情を振り払い、ルフィーは立ち上がった。

「……では、いってくる」

 そのとき、室内の映話機からコール音が鳴り響いた。




act.3-4;ビッグサイトとバイオスフィアのこと
 前世紀末、晴海にあった5.6ヘクタールの晴海国際見本市会場を大きく上回る62ヘクタールの面積を誇る巨大なコンベンションパークである東京ビッグサイトは、東京テレポートシティ計画の一環として、晴海・有明地区再開発の目玉のひとつと目された世界水準の規模と機能を備えた国際展示場である。
 世界中の様々なものを集めるコンベンション・ホールの建設や、イベント・アトラクションの日常的な開催は、東京が世界の情報発信基地となり続けるために必要不可欠な事項のひとつであったとも考えられる。実際、各種展示会、会議や集会、シンポジウム、一時期JR潮見操車場跡地がその任を担っていた特設テーマパークなどの集客イベントを催すための「整備された敷地」は、東京が高度情報化社会の一員として振る舞うためにはなくてはならない施設だった。
 ビッグサイトの発達は、産業界に新たなビジネスチャンスを産み出す。ロンドンシティ、ウォール街と比肩するアジアの大市場・東京は、ビッグサイトの建設によって、アジア各国の産業が発展した。それらのアジア企業による世界進出のための身近な、そして最大最新のビジネスチャンスをつかむ場所として、ますますビッグサイトは重宝されたのである。
 当初の計画に盛り込まれていた目論見通り、今や東京無しでは世界経済は考えられない。世界市場に売り出されていく「優良品」選び出す、製品への審議眼に肥えた消費者の住む「モデル・シティ」としての機能は、十分すぎるほどに果たしている。今や、東京で生き残れない商品・企業は世界では成功できないとさえ言いだす向きもある(もちろんこれには異論もあるわけで、21世紀を迎えた今でも世界の中心、金融の中心は未だにシティにあると考える欧州経済評論家も決して少なくはない)。
「海に浮かぶ新しい東京」の象徴となって東京人工群島開発を推し進める人々の希望の旗印とされているビッグサイトは、国際会議場としても重要な役割を果たしている。
 東欧共産主義国の変動、中東湾岸戦争、旧ソ連邦の解体に続く民族主義・民族対立による激動の時代を迎えつつあった西暦1994年(平成6年)の開設以来、多くの歴史的サミットの舞台として内外にその隆盛ぶりを知らしめてきた。

 東京ビッグサイトの大会議室は、ちょっとしたコンサートホールかライブハウスのくらいの広さがあった。収容人数は500〜1000人ほどと聞いているが、今日のシンポジウムに出席している研究者や関係者の人数はこれをはるかに上回っているのではないかという錯覚さえ感じさせる。
 器材を据えて発言者を見守るプレスの一群の中に、根戸宏と飛鳥龍児の姿が見えた。

「根戸さん、たしか今日は……」

「そう。『バイオスフィア開発推進委員会』の第17次総会って奴だよ。知っての通りここ東京ビッグサイトは、東京人工群島の青写真の原図となった東京テレポートシティ開発の目玉だった施設なわけだな。奇しくも東京人工群島の中で、東京テレポートシティにとってのビッグサイトと同じ位置付けがされているのが、この『バイオスフィア開発推進計画』なわけだ……ってことは僕が今更、説明するようなことではなかったかな?」

『バイオスフィア開発推進計画』とは、今を去る2001年に開催された『環境制御技術シンポジウム』の決議に基づいて作られた『バイオスフィア開発推進委員会』のまとめた計画推進大綱にそって進められている巨大プロジェクトである。

 そもそもバイオスフィアとは何か。これは水と呼吸可能な大気とそれらを循環させる植物・動物によるサイクルが健康に巡っている生命圏……つまり、地球環境のことをさす。そして、地球それ自体のことをバイオスフィアTという。
 これに対して、前世紀から盛んに研究が始められた擬似地球環境もしくは人工地球環境のことをバイオスフィアU〜と呼ぶ。これらのバイオスフィアU〜は、将来、人間が地球以外の場所にその生活の場を広げていくであろうことを想起し、人間が生きていくことができる地球環境を地球以外の場所に持ち出すために研究開発され、実験が続けられている。 (それでもなお地球の重力の呪縛からは切り離されていないのだが)言ってしまえば、バイオスフィアU〜とは、地球上にありながら地球の本来の生命循環から隔絶された空間を故意に作り出し、水、大気、動植物など、大循環すべきすべての生物を、封じ込めた壮大な生命球であると言えよう。
 生命球はその内に封じ込められた水の中に共生する、プランクトンと藻と金魚の微妙なバランスによって生きている、小さな生命圏である。プランクトンが増えすぎてもいけないし、藻が育ちすぎてもいけない。そして金魚が育ちすぎてしまってもいけない。すべてが微細極まりないバランスによって保たれているのである。
 バイオスフィアは、そういった意味では確かに生命球そのものと同じコンセプトで作られたものである。ただし、その中に住まうのは金魚ではなく、人間であるという点が大きく異なる。

 人間を単にバイオスフィアTのサイクルから切り出して生活させる、というところから始まったバイオスフィア・プロジェクトは、NASAの委託研究を受けて行われているアメリカ各地の施設や欧州宇宙開発機構の独自施設など、その回を増すごとに、そして研究施設が新設されるたびに、求められる機能・研究目的が飛躍的に進化・増大していった。
 そして、当時整地の目処が立ち始めたばかりの東京人工群島に、運用期間5年以上を目標とした完全自立閉鎖型のバイオスフィア実験施設を建設しようという計画推進大綱が提起されたのである。

「……人類は今から30年前も前に社会共産主義の可能性をなくしてしまった。今、内戦やってるロシア共和国の前身……ソ連邦の崩壊って奴だな。もし、人間がこのまま人口を増やしつづけ発展しつづけようと思うのなら、地球を食べ尽くしてしまう前にゆりかごから出なくちゃならない。ゆりかごから一気に出る訳にはいかないから、ゆりかごと似たような環境を作ってやる必要がある。これがバイオスフィア計画の目指すことのひとつだ。
 が、ロマンティックな科学者には悪いが、これが実現されるに至った理由はもっと俗な所にある。
 地球のどこかで資源が足りなくなったら、自分でなんとかするよりは人が持っているものを横取りする方がよっぽど簡単だ。だから戦争が起こる。ここ数十年、世界規模の戦争は起こってないが、これからも起きないという保障はどこにもない。昔は……いや、今もそうだけど、戦争は国を疲弊させるっていうよね。
 でも、これで儲ける奴もいるんだよ。戦争ってなぁ、ワーテルローの昔から投機の絶好の材料だった。日露戦争でも、一次大戦でも、二次大戦でも。中東湾岸戦争なんか、ブッシュはわざわざ株式市場が開く頃合を見計らって爆撃を始めたってくらいだからなぁ。
 商売ってのは、『投機』と『潮時』を見計らうことができて、初めて儲かるものらしい。戦争の場合、始まる前に儲かる手筈は整ってるし、潮時だと思ったところで手を打てばいくらでも終わらせることができる。
 が、中東湾岸戦争のときのフセインみたいに、工場や資源精製施設をまるごとぶち壊す奴もいたりするわけで、どうにも利回りが悪くなってきた。頭の上の資源に手を伸ばせば届くらしいことがわかってきた時代に、横取りばかりじゃいかん、ということにやっと気付きはじめたんだな。金持ってる財閥の連中は。
 ヒトラーは国民の目をユダヤ人迫害と戦争に向けて、自国経済が火の車であることをごまかした。そしてケネディはマーキュリー、アポロと続く有人月面着陸で国民の目を混乱する内政から宇宙に向けた。
 いや、政治家ってのは、ほんっとうにやることがうまいよね。ケレン味たっぷりでさ。実際、ヒトラーのおかげでそれ以降の兵器の概念が根こそぎ覆されるんじゃないかってほどの、実に多様な設計概念が生まれたし、ケネディが赤字覚悟の出血サービスで宇宙開発・宇宙飛行という夢が実現不可能じゃないという技術的現実性を見せてくれたおかげで、シャトルオービター、ヘルメス、HOPEと続く宇宙往還機の開発が実現されていった、と。
 今は、アメリカが火星に有人飛行をさせるだの月面にベースを作るだの騒いでるから、日本もそれに便乗してるよね。
 で、宇宙は眺めるところではなく、開発して儲けることができる場所だということが、わかり始めた連中は、今度は宇宙開発関係に投資し、宇宙開発のための利権を押さえてしまおうって方向に動きだしつつある。宇宙で一山あてようって思ってる連中が増えてきたってことだろうな。かくして宇宙は19世紀末期のアフリカ大陸のように、利権と資源の宝庫となりうる様相を見せはじめてきたということなわけだ。
 バイオスフィアを作るためには、宇宙進出の足場を固めるために必要不可欠なキー・テクノロジーのひとつである環境制御技術の確立が必要だ。そしてこの実験施設を建造することによって、ここからあらゆる産業にポジティブ・インパクトを与えると思われる応用技術群を産み出す可能性を持っている。誰が見たって、飛び付きたくなること請け合いだよ」

 バイオスフィアに関連した近代科学史と経済史を、一気に説明した根戸の言葉を頭の中で整理しながら、飛鳥はぼそりとつぶいやいた。

「……バイオスフィアって、そんなに大層な代物だったんですか。僕はまた、カプセルの中に動植物と人間を封じ込める温室のことだと思ってました」

「……これが不思議なんだよね。いや、さすがというべきなのかな。ついぞ僕が話したことは、ひとつひとつは秘匿情報でもなんでもない、すべて公開されている情報だ。だからその気になれば誰だって、バイオスフィアが重要な鍵を握ってる代物だってことに気付くはずなんだ。それなのに、気付くどころかバイオスフィア計画自体に関心さえ持っていない人間の方が多いなんて! いったい誰の策略でそう思わされているんだろうねぇ。実にうまいやり方だよね」

 根戸は心底悔しそうに言った。彼は自分が一番やりたかったことを、先をこされてしまったような気分を味わっていたのだ。

「さて、バイオスフィアに関する最初の授業はここまでだ。飛鳥くん、もっと他の事も知りたいかい? 今度はもっとロマンティックな話だ。バイオスフィアと人工群島の甘い関係って奴だがね」

 飛鳥は根戸の誘惑に乗った。

「伺いましょう」



act.3-5;コールバックに期待する人々
 インカムを通じて聞こえてくるコール音が、恭子の頭の中に響いている。
 それと少しづつ慌て始める鼓動も聞こえる。すっかり客足の跡絶えた午後の味の屋には、自分と紀美枝以外誰もいない。紀美枝はにこにこしながら洗い物をしている。
 1回、2回、3回……繰り返されるコール音を聞いているうちに不安が込み上げてくる。4回目のコールが始まりかけたとき、モニタが瞬いて西石探偵事務所へのコネクトを告げた。

「あのっ、あの、もしもし?」
……『はい、こちら西石探偵事務所です』

 判然としないモニタの中に映ったのはルフィーではなく、肩までの黒髪に鳶色の目をした女性の姿だった。少しハスキーな、女性にしては低めの声をしている。

「あの……わたし平山恭子といいますけど、
 ルフィー西石さんはいらっしゃいますか?」

 モニタの中の人物は、ほんの一瞬だけ黙った。が、すぐに返答した。

               ……『申し訳ありません。西石所長はただいまパリの方へ出かけています』

 モニタの下段にルフィーのパリ滞在スケジュールが表示された。2日前のJAL国際便の搭乗記録が明滅する。

「あ、そうなんですか……」

 せっかく決心して電話したのに、当のルフィーは留守ときている。その上、留守番電話にでもしておけば済むというのに、こんなに美しい女性にわざわざ留守を守っているだなんて。
 恭子はなぜだか少し腹立たしい気分になった。

                 ……『西石の不在中は私が御用件を承ります』
「あなたは、どなたですか?」

 モニタの中の人物は再びほんの少しだけ動揺しているように見えた。

                 ……『……私、西石探偵事務所でアルバイトをしております、岩西みやこと言います』
「そうですか」

 みやこはさらにそわそわしている。

……『あの、何か西石に御伝言がありましたら……』
「いえ、結構です。本人でないとお伝えできないことですから」

 みやこは困っている。

……『はぁ……でも……』
「では、西石さんにお伝えください。
お誘いいただいてとても嬉しかったの
ですが、あいにくと思うように時間が
とれません。どうやらこちらの都合の
よい日は、そちらの御都合がよろしく
ないようですので、残念ながら今回の
お誘いは辞退させていただきます。い
ずれまた機会がありましたらお誘いく
ださい」

 紀美枝がカウンター越しに『いいの?』と言いたげな表情で恭子をみている。
 恭子はそれに気付かない振りをしながら、もう一言付け加えた。

「よい、御旅行を、とお伝えください。じゃ」

                    ……『承服しました』

 最後の一言はちょっと嫌みだったかもしれない。

「恭子ちゃぁん、いいの? 断っちゃって」

「だって、だって……あんなきれいな人がいるのに、わたしに声をかけるなんてやっぱり変だったんですよ」

「だって、アルバイトだって彼女も言ってたじゃない」

「でもぉ……」

 どうしてこんなにムキになってしまうのだろう。ただ一度会っただけの、ただ一度食事に誘われただけの人のことなのに。
 紀美枝はにこにこしながら鋭く突っ込んでくる。

「西石さんの声が聞きたかったのに、他の人が、しかも女の子がいたりしたから、嫉いてるんでしょ」

「やっ、嫉いてるだなんて、そんなことありません! だって別にわたしあの人のことどうも思ってないんだもの。ただ勝手に食事に誘われただけで、それを断ったというだけのことです」

「そっかなぁ。けっこう嬉しそうにしてたみたいに見えたんだけどなぁ、おばさんには。ルフィーさんのそばに自分じゃない女性がいて、悔しいんでしょぉ?」

「紀美枝さんってば!」

 と、その頃の西石探偵事務所。
 白いモニタを見つめていた岩西みやこ=ルフィー西石は、後悔していた。

「NO! ……バッド・タイミング」

 ルフィー自身変装術には自信があった。声も変えていたし、恭子の態度を観察したところ、どうやら岩西みやこがルフィー西石の変装によるものであることは気付かれてはいないようだった。だが、どうやら恭子は『みやこ』という架空の女性に、わずかなジェラシーを抱いているらしい。

「あと2時間早く連絡くれたらルフィーの姿で答えたのに! しかし、留守番モードにだってできたはずなのに、ついうっかりみやこの姿のままで出てしまうなんて……。せっかく変装したのに、自分がルフィー本人だとばらすわけにはいかないし、何より『女装』しているなんてことは恭子に知られたくないし……。だからといって……あああああああああ……次はどういう顔して会えばいいんだ」

 今更悔やんだってもう遅い。

「…………VAL」

『Yes Sir』

「今日のスケジュールを変更する」

『出カケナイノデスカ?』

「……今日は……寝る」

 ルフィーは二時間かけた『岩西みやこ』のメイクもそのままに、ふらふらと寝室へ戻っていった。




act.3-6;新世界を開こうとする人
「……暑いわね」

 星明かりに照らされた夜。
 海岸に数人の人影が見えた。東京都の手による『立ち入り禁止』の札は半ばかすれ、波に洗われた根元には赤錆とフジツボがこびりついている。
 日夜開発が続く東京人工群島の中にあって、もう10年以上にも渡ってなんの進展も見せていないこの島のほとんどの部分は、誰に管理されることもなく放置されたままになっている。
 公園化・緑化のために植えられた他の島々の木々や、磐田研と農工学科が人工的に植林して作っている『雑木林』や、それらのデータに基づいた計画と膨大な予算を注ぎ込んで整備されているバイオスフィアとは違い、この島の植生は誰かの都合に合せて決められ、定められて作られたものでもない。
 帰化植物のアメリカ松や、どこからたどり着いて繁殖したのかもしれない、タコノキやマングローブのような熱帯性の木々に覆われ、むっとする熱気と湿気に覆われている。このマングローブによく似た植物は、本物のマングローブではありえなかった。なぜなら、熱帯性気根植物としてのマングローブは、こんなに汚れた東京湾岸の海辺に育つはずがありえなかったからである。しかし、その植物はマングローブのように育ち、マングローブのような気根のジャングルを島の周辺に張り巡らせている。
 マングローブもどきを中心に、この島は独特な植生を作り上げているようだった。何の排熱によるものなのか、それともこの付近の地熱だけが高いのか、鬱蒼とした木々はますますその高効率の保熱性を発揮し、島をとりまく緑を『ジャングル』のように見せていた。  島の奥には、アメリカ松とそれを取り巻く葛植物が垣間見える。どこから入り込んだのか、『山猫化』した大型の野良猫や、明らかに『獣』のそれと思われる遠吠えが響いているが、その姿を直接見ることはできなかった。

 繊維と動物のなめし皮で作った、およそ文明的とは思えないいでたちをした女が、じっと目を閉じた。傍らの男は星明かりに光る女のペイントを施した横顔をみつめる。
 女ははっきりとした日本語で言った。

「……誰かが、おんごろにこようとしてる」

 物語は少々さかのぼる。
 根戸宏が東京ガラパゴス探検をぶちあげるほんの数週間前のことだ。

 都立東京洋上大学で原始技術研究を手掛ける一派・原始技術研究所こと磐田研に、小さな変化が起ころうとしていた。

「境さん、私はいやです!」

 磐田研所長磐田正史の留守を預かる助手・境伸也は、目前の少女の猛反対を一身に浴びていた。磐田研最若手でありながら、磐田研が目指す精神にもっとも近いと期待されているホープである火渡貴子は、先輩であり自分を指導する立場にある境に対して一歩も引く気配を見せなかった。

「原始技術研究というのは、研究者自身が自分を験体として原始技術を習得履行し、古代人のソフトウェアを見つけだす学問なんじゃなかったんですか!」

「もちろん、そうだ」

 原始技術研究とは、実験考古学の一分野である。
 原始に生きた人々の技術を実際に使って石器・石斧を作り、弓と矢を作り、食べ物を採集し、酒を作り、楽器を作る。これらの道具を作ることは原始人のハードウェアを再現することだが、磐田研ではさらにもう一歩踏み込んで、当時の人々の生活におけるソフトウェアを再現することを目的としている。
 生活におけるソフトウェアというのは、物理的な形を残さないにも関らず、重要な役目を果たす事象のことである。例えば、音楽や舞踏。話し言葉。習慣・習俗。思考や精神活動……そして宗教。内なる思いがそれら原始人のソフトウェアを発展させたのだとしたら、それは一体どんなものだったのか?
 彼らのハードウェアを使って、ソフトウェアを再構築し、原始人の精神活動を知る……それが原始技術研究の目指すところのひとつであると言えよう。

「そのための研究フィールドを確保するために、この縫島に雑木林を育ててきたんだ。しかし、知っての通り我々のしている研究は極めて特殊なものだ。研究成果が得られても、それをすぐに何かに応用することも難しい。金にもならない。独立採算を旨とする洋上大学では、なにかしらの成果を産み出せない学部に明日はない」

「だからって……!」

「そう、だからって研究をしないわけにはいかない。いや、原始技術を通じた原始人の精神活動を知りたいという気持ちが僕らの中に残っている限りは、この研究に終わりはないだろう。だが、雑木林を、研究フィールドを確保できなければ、我々はそもそも研究することができないだろう。磐田教授が農業工学科と提携することを決めたのは、その研究フィールドを確保するためであって、それはどうしようもないことなんだ」

「でも、今の私達は牧場の中の家畜じゃないですか。農工学科の作ってくれた牧場の中で、のんきに草を食む牛と変わらない。農工学科が作った柵の内側で、農工学科が作った林の恩恵を、さも自然の恵みみたいに受けて、それで原始人ごっこをやっているだけじゃないですか!」

 境の平手が貴子の頬を打った。
 温厚で人付き合いがよく、ぼーっとしていていつも困ったような顔ばかりしている境を知っている者には、とても信じられない光景だった。
 打たれた貴子も、そして打った境自身も茫然としていた。


Illustration by Kunio Aoki

「あ、いや、すまない……」

 我に返った境は慌てて貴子に詫びた。が、貴子は、きっと境をにらんだ。

「私は牧場の家畜にはならない! もっと自由な精神のまま、私の精神の囁くままにいきます! では、これで失礼!」

「あっ、おい火渡くん、火渡くんっ!」

 ……それから幾日もしない間に、貴子と他数人の賛同者たちによって、磐田研への脱退届けがなされた。彼ら火渡一派は『原始力研究所』を名乗り、磐田研とは袂を分かってさらなる世界へ進むことを宣言して去っていった。




act.3-7;パフェの好きな教授の思いつき
 パフェのおいしい喫茶エルトリウムは群島区北・炉島にある。
 東京ビッグサイトの大会議室で行われたシンポジウムに出席した二人の男たちは、遅い昼食も兼ねてこの店を訪れていた。
 店内には落ち着いたBGMが流れ、賑やかな数人の女子高生とカップルが1組、それぞれ自分達の世界を紡いでいる。
 カウンターの奥では、いかつい大男が可愛いエプロンをしてティーカップを洗っている。  若い方のひょろりとした青年はカウンターのスツールをきしきしと揺らしながら、横に座る中年の男に訴えた。

「……教授。僕、こういう場所はあまり得意じゃないんですが」

「そうかね? 初々しいじょしこおせえが戯れ、風に色があるとかないとか他愛もない会話を繰り広げる暖かな部屋の中。熱いコーヒー。そして極め付けは何と言ってもこのパフェだ。これがまた最高だとは思わないかね?」


Illustration by Kunio Aoki

「白葉教授はこういった場所がお好きなんですか」

「境くん。気になるな、その言われ方は。それではまるでわたしがじょしこおせえのために喫茶店に出入りしているように聞こえるじゃないか。えーとね、わたしはだね、ただうまいものを気に入った場所で食することを人生の楽しみとしておるのだよ。とくにこのエルトリウムのパフェときたらどうだ。パフェグラスだけで、優に2リットルはあるに違いない。ここにバナナ、パイン、ピーチなど、我が農業工学科の誇る果物さんたちが、年頃の食べ頃の美少女達のようにみずみずしく振る舞い、甘いシロップを含んだままクリームの海に身を浸すのだ。このクリームもまたただものではないぞ。新鮮な生クリームをきんきんに冷やしてホイップしておる。この空気の混入がまた難しいのだ。時間をかけすぎてもいかんし、手際よくやらねば空気は入っていかん。しかし、この店では電動泡立て器を使わずに、手作業でそれをこなしつつ、電動泡立て器などでは出せぬこの滑らかさ。人の手によるやわらかさ、そして優しさとでも言おうか。この店にはむさいおっさんのマスターがおるが、なかなかどうしてやるものだ。いや、あんな無骨そうな男にこの味が出せるものだろうか。もしや、店の奥にパフェ作りのためだけに存在する繊細な少女が囲われているのではあるまいか」

 農業工学科総括教授・白葉透は、こんもりともりあがったパフェの頂上をじっと凝視するとおもむろに顔をあげた。

 ぱりーん。

 目前のカウンターに座る白葉の唐突な行動に驚いたエルトリウム店主・秋月竜二は、思わずティーカップを握り潰してしまった。

「そしてこの、柔らかく優しい生クリームの海に浮かぶトッピングたちはどうだ。青いクリスタルのようにぷるんと揺れるゼリーたちは、わたしの舌の上で……おお、この上等の吉野葛のようなとろけるような感触。舌に、口蓋に広がる快感。そして、見たまえ。果肉だ。果物さんたちの細胞ひとつひとつが白い生クリームと青いクリスタルの上にちらばり、まるで雲の上で宝石箱をひっくりかえしたようなきらめき。薄い肌色ともとれるオレンジシャーベットのこの軽さ。我々農工科のもてる全ての力を投げうって作った果物さんたちを、こんなにおいしく、美しくしてくれてありがとう。娘の晴れの門出を喜ぶ父のような気分だ。ああ、ああ、これは至福というものか。至福の味……ああ、ああ」

 人文学部原始技術研究科助手を務める境伸也は、人付き合いのいいのと気が長いことでは定評のある青年である。その境伸也が滅多に見せない他人の目で白葉教授をじっと見た。

「羨ましいかぎりです。パフェひとつでそんなに幸福感を得られるなんて……」

 境は肺の中身をからっぽにしてしまうくらい、深いため息をひとつついた。
 白葉は芸術的パフェを堪能する手をはたと止めた。

「君の所の行方不明になっちゃった研究員……えーと、ヒマワリくんだっけ」

「火渡貴子です、教授」

「ああ、そうそうヒワタリくんね。まだ見つからないのかね?」

「ええ、方々探したんですが……。いきなり呼び出されて絶縁状というか、袂を分かつ宣言をされちゃって……。最後に会ったときは、原始力研究所を作るといきまいていましたので……」

「原子力研究所? そりゃまたずいぶん畑違いな」

「原始力です、教授」

 説明しよう。境伸也が属する原始技術研究科とは、この分野の草分けの一人である人文学部教授・磐田正史によって創設された原始技術研究所(磐田研)を中心に、古代に暮らした人々の生活技術を再現習得することを通じて、彼らの文化の実際を研究するという世界でも類例を見ない分野の学問である。
 土器や石器などの出土品や、ニューギニア、バリなどの土着民の生活などを参考に、弥生人や縄文人の生活を再現し、さらに彼らの持っていた形に残らない文化に体当たりでたどり着こうという理念に基づき、土器や石器を作り、原始人と同じ手法で日々の糧を得、唄い踊る。たとえ茶碗や石斧は残っても、文字を持たない人々がどんな歌を唄い、どんな音楽を奏で、どんな踊りを踊ってどんな信仰をしていたのか、それを知る手掛かりはほとんど残されていないのだ。そのため、原始人の行動をできるだけトレースし、研究者自身が身も心も原始人と一体化していかなければ、研究は成しえられない。
 だが、これだけの努力を強いられてなお、磐田研の地位は決して安泰ではない。学科・研究所単位での独立採算を旨とする洋上大学は、非生産的な学問に対して決して優しくはないのである。

「何か心当たりはないのかね? 原始生活に嫌気がさしたとか」

「それはないでしょうね。彼女は磐田研の中でももっともピュアで、もっとも縄文人に近い存在でしたから。運河の向こうにビルが見えなければ、頭の上に羽田に降りる飛行機が見えなければ、自分たちを縄文人だって言い出しかねないくらいに縄文人的でした」

「直感的なんだな。自分の本能の赴くままに動いている。……美しいが決して牧場では飼えない野生馬というべきかな」

 白葉は青いクリスタルをひとつ口に含んだ。

「原始技術研究のホープであったのは、彼女が意図してそうなろうとしていたからじゃなく、原始人のような暮らしをしているのが彼女にとっていちばん自然だったからだろう。専門外である以上、私にはなんとも言えないのだが、私が見たところ君達の原始技術研究というのは、研究自体が極めて個人的な学問なのではないのかね。これといったマニュアルがあるわけでもなければ、目的とする到達点が決まっている訳でもない。研究者自身が疑問に感じたことを研究者自身が納得するまで続けられる、そういったタイプの学問だ。どういう結果が得られようと、それが自分以外の人間のためになろうとなるまいと関係ない。孤高の探求者というか……まさに学を追求する者としての『学者』のあるべき本来の姿だ。ときとして、その姿はマッドでさえある。余談だが、昔のSF小説に出てきたマッド・サイエンティストというのは、まさにそういった『職人的学者』の究極の姿なんだろう。
 火渡くんが孤高の探求者・研究者であるとすれば、だ。磐田研というグループが、彼女自身の内なる思い、内なる指標と異なる方向に向かい始めていると感じ取った時点で、磐田研を自分から切り離すことは別に不自然なことではない。先にも言ったように、原始技術研究とは研究者自身に目指す研究事象を体験させることを通じて極める学問であるとするならば、何も磐田研というひとつの『群れ』の形に固執する必要はまったくないわけだ。磐田研という群れでなくとも原始技術研究はできるわけだからね。
 とすれば、火渡くんはやっぱりどこかで原始人ゴッコ……いや失礼。原始技術研究に燃えているのではないかね。もしそうなら、群島内の……少なくともビルの立ち並んでいるような場所にはおらんだろう。内地の山の中にでも逃げ込んでしまったのではないか」

「しかし、今の時期、秋の貯えもなく雪深い内地の山中で冬を越すなんて、縄文人でなくとも不可能でしょう。縄文人的住環境には向かないし、それに何より内地は群島以上に一般人の介入が多いですからね。100年以上前の中伊豆・下伊豆や南房総ならまだしも、リゾート開発され尽くした今の状況じゃ、人知れず原始生活を送るのは無理でしょう。どちらも本州では唯一の亜熱帯域ですから。冬を過ごすにはもってこいの場所なんですが……。
 一般に原始技術研究の継続的な研究フィールドに向いている所といったら……雑木林のような、食用となる木の実や葉、木の芽や根などが採集できる植生があって、気温がやや高め、そしてもちろん一般民間人の邪魔が入らず……ああ、群島に鬱蒼とした密林とかあったら狂喜しちゃうんですけどねー」

「そんなとこ、こんな東京湾のド真ん中にある群島にあるわけ……」

 白葉は不意にスプーンをクリームの中に取り落とした。
 クリームの海にそそり立っていたバナナ・スライスが、シャーベットの島の横に倒れこむ。

「どうしました、教授」

「ある。あるぞ、鬱蒼とした緑に囲まれ、誰も出入りせず、御丁寧に『部外者立ち入り禁止』の立て札までたてて、放り出されちゃってる島が!」

「まさか、あの」

「そう。21号埋立地だよ」




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(c)1992楠原笑美.