act.1-1;貧民は苦悩する
「武士ぃ……仕事探そうよ(;_;)」
シータ・ラムはため息混じりに言った。
「トムは食いしんぼうの食べ盛りでおなか空かせてばかりいるし、ルナは育ち盛りで
手がかかるし……この子たちと暮らしてくには、お金がかかるんだからさぁ」
まるで、二人目の子供が生まれて途方に暮れている貧民夫婦の会話のように聞こえ
ないこともないが、彼らの事情は少々異なる。
メカフェチ・インド人のシータ・ラムは、運び屋ライディング・ナイトを自称する
聖武士の愛車フォードGT40のエンジンの魅惑的な鼓動に惹かれて、彼のメカニッ
ク兼パートナーとなった。
聖の本業である「運び屋」というのは、小荷物の宅配便でも即配バイク便でもなけ
れば、三十分勝負のピザのケータリング・サービス(つまるところの宅配ピザ屋)で
もない。もちろん、トラック野郎一番星でもない。彼の仕事はVIPから貴重品まで、
相当にヤバい代物でもなんでも運ぶ「運び屋稼業」であった。
運び屋「ライディング・ナイト」と言えば、ちょっとは知られた名うての運び屋…
…であったのだが、新車GT40を手にいれて群島で運び屋稼業を再開してからとい
うもの、依頼らしい依頼がほとんどない。再開直後……ラムと知り合うか会わないか
くらいの頃に一度だけ、どこぞの社長令嬢を運ぶという仕事があったきり、聖と愛車
GT40が運び屋として狩り出されることはなかった。
もちろん、その一度きりの仕事でも法外な報酬を得ることはできた。とはいえ、G
T40を維持するのには、並々ならぬ労力と金がかかる。ただでさえ群島での走行が
都条例で禁止されているガソリン駆動の車両である上に、フォードである。GT40
は、ガソリンをがぶ飲みして走るアメ車なのである。心地よいエンジン音とは裏腹に、
燃費は空恐ろしくなるほど悪いのである。
「うるせえ。それに、オレのGT40を『トム』って呼ぶな! 何度言やぁわかる!」
ラムはレジャーランドSNSの雇われ店長を勤めながら、聖のためでなくラムの愛
するトムのために、せっせとSNSからの給料をつぎ込んできた。ちなみにトムとは
ラムがGT40に与えた愛称である。
「だってぇ……食いしんぼうで馬力があってアメリカーナって言ったら、 やっぱり
『トム』って名前がぴったりだと思うのよね」
トムという名前の由来は、どうやらF14トムキャット(戦闘機)にあるらしい。
「けっ」
聖は、ラムとコンビを組んで以来、何度となく繰り返された問答を放り出した。
追いすがるようにラムは冒頭の提案を繰り返した。
「だからぁ……武士ぃ、仕事探そうよ」
聖の収入がまったくない今、トム……GT40の維持だけでも金がかかる。それだ
けなら、まだ今までのラムの細々とした収入でやりくりしていくこともできた。
だが、つい先日手に入れた『ルナ』の存在が、ラムの台所事情を圧迫していた。
「月子から『ルナ』をもらったのはいいんだけど、あの子トム並みにお金がかかるの
よ。VWゴルフ・ベースの六輪車ってところはいいのよね。なんだか月面探検車みた
いで可愛いじゃない?
でも、廃車同然の車をつないだだけだから、このままじゃナンバー・プレートが取
れないのよ。登録するのにもお金かかるし、登録できたら自賠責にも入らなくちゃな
らないし、車検なんかどう見たって一年車検になってると思うしぃ……いくらタダで
貰った車とは言え、実際に路上で乗ろうと思ったら、けっこうお金がかかっちゃうの
よねぇ」
ルナは、三宅総研所属の改造魔の卵である雅命月子が、廃車同然のポンコツVWゴ
ルフを買い叩いてきて戯れに作った六輪車である。月子自身は、本来は月面探検車の
研究をしている「らしい」のだが事実関係は定かではない。いずれにせよ月子も、製
作過程を楽しんでしまうあまりに、作り上げた完成品にあまり興味を持たない三宅総
研(いや、技術屋の……というべきだろうか(^^;))の伝統通りの人間であることは
間違いなかった。
かくしてタダ同然で手にいれたルナではあるのだが、一人前の車としてお日様の下
にデビューさせるにも、ラムの好みにあうようにさらなる改造を加えるにも、いかん
せん資金が足りなすぎた。
「けっ。登録だの車検だの、そんな面倒臭ェもんやんなくてもいいじゃん」
「そりゃ、アンタはいいでしょうよ。でも、昼日中からナンバー・プレートもない車
で、その辺をうろうろ走るワケにはいかないでしょう?」
「オレのGT40なんか、ナンバー・プレートなくても平気だぜェ」
「なかったら群島の中を堂々と走れないでしょ! そもそも群島じゃガソリン車は違
法なんだから!! そりゃあたしだってトムやルナでその辺を走り回りたいわよ。S
NSにだってルナで通えたらいーなーって思ってるし。
でも、通報されて駐車場からレッカー移動されたりするのはヤなのよ。あんなデリ
カシーのカケラもないようなレッカー車に、あたしの可愛いルナのバンパーに傷を付
けられるなんて、耐えられない屈辱だわ!!」
ラムはSNSのティー・ラウンジのカウンターを、ばんっ! と叩き、三度繰り返
した。
「だから……ねぇ、武士。仕事しようよ。ゼロワンSTAFFの社長さんにも頼んで
あるんだしさ」
「してやってもいいぞ。気に入った仕事がきたらな」
「そう言って、より好みしてたらいつまでたっても仕事みつからないよ(;_;)」
「オレは正義の味方だからな。正義の味方らしい仕事以外は受けねーって決めてんの」
聖は、聞かされている方がとりとめもなく気恥ずかしくなるようなセリフを、悪び
れる風もなく吐いた。
再びため息をついたラムが聖に取り留めもない説教をたれようとしたところに、ヴ
ィジホンがかかってくる。
「そんな都合のいいコト言ってたら、トムとルナが路頭に迷……っと、電話電話」
モニタに、先日会ってきたばかりの人材派遣会社・ゼロワンSTAFFの社長が映
った。やたら気忙しくしているようにも見える。
「はぁい、レジャーランドSNSです。あら、社長さん。さっそく依頼?」
『あんたんところの社長に取り継いでくれ。大至急だ』
「運がいいわね。ここにいるわよ」
『よかった。すぐに出せ。それから、依頼内容を他の人間に聞かれたくない。モニタ
を切ってくれ』
ラムはヴィジホンのモニタをオフにすると、音声通話のみのハンディ・ホンの受話
器をカウンター越しに聖に手渡した。
「オレが聖だ。ケチな依頼は受けねェぜ」
ぞんざいに答えた聖の表情が、次第に真剣になっていった。少なくとも、ラムが聖
のパートナーになってから、彼のこんな表情は見たことがなかった。
受話器の向こうに応えるように呟いている。
「……真奈美が? ……わかった。すぐ行く!」
「どうしたの? 仕事?」
聖はハンディ・ホンをラムに投げ返し、上着をつかんでスツールから立ち上がった。
「ああ。行ってくらぁ!」
「ちょー、ちょっと! 武士! お勘定!!」
「ラム、お前のおごりにしておけ! じゃあなっ!!」
ラムはモニタのスイッチをいれ、ゼロワンSTAFFの社長に向かって応えた。
「なんだかよくわからないけど、ウチの社長は出てったわ……仕事料は前金でもらい
たかったトコだけど、今回は特別に後払いってことにしとくわ。じゃあね」
ラムはモニタにウィンクして、ヴィジホンのスイッチを切った。
SNSを駆け出していく聖とすれ違いに、広田秋野が現われる。
ラムは、相変わらずのため息で広田を迎え入れた。
「ああ……広田くん。いらっしゃい」
「聖のダンナは仕事?」
「うん、久々にね。トラブル起こさずにお勤め果して、ちゃんとお金貰って帰ってき
てくれればいいけど……あーあ。何かてっとり早くお金が儲る方法ってないかしらね」
広田はにんまりと笑って応えた。
「ありますよ。ラムさんのルナを改良しまくって、さらに賞金もがっぽり!」
広田のポケットに丸め込まれていた紙片には、以前、SNSに乗り込んで宴会をぶ
ちかました謎の水陸両用強襲露天風呂『どんぶらこ』の車体に描かれていたのと同じ、
一度見たら二度と忘れられない金釘流のなぐり書きで、こう書かれていた。
『EV対HVキャノンボール開催。学生のエントリー募集中。入賞車両の開発者には
支援予算と単位を与えるものとする。三宅準一郎』
act.1-2;ホワイトリーフ
低公害車・無公害車の発達は、公道上(オンロード)を走る自動車の排ガス規制に
励起されて促されたといっても過言ではない。
だが、一部のEV(電気自動車)は、公道以外(オフロード)で活用されることを
念頭において発達をとげてきたものもある。例えば、バッテリー・フォークリフトや
ゴルフ場・野球場のカートなどである。幹線道路を走って物を運ぶだけが自動車に求
められる機能ではなく、あらゆる条件下であらゆる機能が自動車に求められてきた。
その中にあって、農作業用トラクターもまたオンロード以外の場所であるオフロー
ド……それも農道・林道・畑や水田の中で、刻々と進化を遂げてきた。
農地は時を経るに連れて次第に街並みに代わってきた。農業の明日を担うべくわず
かに残された土の香りのする農地と、アスファルトの焦げる市街が近接している場所
も増え、兼業農家の増加も相まって、『都市型農業』という言葉がクローズアップさ
れるに至って、トラクターもまた変革と進化を求められることとなった。
かつて、強力なトルクを必要とするトラクターは、普通の自動車以上に強力なエン
ジンが求められ、その馬力を引き出すが故に、市街から離れた農地でなければ耐えら
れないほどの騒音をまき散らした。だが、農地と市街の近接を念頭に置く都市型農業
において、EVの静音性は高く評価された。内燃エンジンの律動に対し、モーターの
駆動音は極めて静かであり、これならば一般民家に隣接する農地での使用にも耐えう
るのではないかという期待が高まった。
『静かな農業』をキャッチフレーズに、ヤンマー、イセキなど国内の大手農業工作機
器メーカーは、流行のEVを導入したモーター駆動の『次期農業工作機械』の製作・
開発にいち早く着手した。
しかし、EV化した農業工作機械は、電気系に致命的な欠陥を抱えていた。
畑仕事に向くのかどうか心配されたEVのポテンシャルは、低速時にも何等問題な
いトルクを引き出し、いぶかしむ関係者を驚嘆させたが、弱点は意外な……むしろ予
想されるべくして予想されているべき点に発見された。
乾燥し、舗装されたアスファルトの上を走る都市型交通の要となるコミューターに
なら、EVはうってつけだったのかもしれない。だが、畑ではそうはいかなかった。
水田や畑など、大量の水分を含む農地で実際にEVトラクターを運用したところ、同
じ性能のEVトラクターの、舗装道路場での実験数値をはるかに上回る頻度で故障や
各種部品の摩耗が起こったのである。
つまるところ、自動車が「エンジンにタイヤがついたもの」であるように、EVは
「モーターにタイヤがついたもの」なのである。モーターの大敵は漏電を引き起こす
水分や泥であり、泥が乾燥した後の土埃はEV系トラクターの電装品をことごとくダ
メにした。
また、EV用電池の改良によって、都市型コミューターは驚くほどの一充電航続距
離を記録するようになったが、そのデータも畑を走るトラクターに活かすことはでき
なかった。
農業工学科にテスト用に持ち込まれたEV系トラクターは、重い車体を長時間に渡
って動かし続けることが、EVにとってはまだまだ困難であることを露呈することと
なった。低速時に大きな負荷がかかっている状態で、より大きな出力を出そうと思え
ば、当然大量の電力が消費される。そして、超長時間に渡って大出力が要求される畑
仕事においては、改良された電池をもってしても、相次ぐ電池のブローを食い止める
ことはできなかったのである。
畑に身を投じたEV系トラクターは次々と水田や畑で脱出不能に陥り、バッテリー
切れで畑の中に取り残された。それを牽引しようとした別のEV系トラクターが、ミ
イラとりはミイラとばかりに二重遭難に陥る。EV系トラクター開発は、まさに泥沼
の様相を呈していった。
こうして農業工作機械はEV化への道を閉ざされ、HV(水素自動車)化の道を選
ばざるをえなくなった。
無公害車としての将来性は、いかなるジャンルの自動車に対しても『EVよりもH
Vの方がはるかに高い』と言われ続けてきた。実際、長い目で見ればすべての内燃機
関自動車がHVになっていくのかもしれないが、今はまだ幕開けを待って楽屋裏に控
えているHV黄金時代のほんの入口にすぎなかった。未だ多くの自動車・エンジンの
メーカーが、HVの基礎研究に挑戦し、いつ果てるともしれない苦難と闘っているの
である。
そんな中にあって、農業工作機械に最初に水素エンジンを搭載したのは、ランボル
ギーニ・ジャパン社である。
ベース・ボディには同社の売れ筋商品である『カウンタック・トラクターLP40
0』を使い、自社開発の水素エンジンを搭載した試作一号機を完成させた。
そのフォルムは実に洗練されたものだったが、自社開発という水素エンジンは他の
メーカー同様の問題を解決しきれてはいなかった。問題の試作一号機は、舗装路上で
のテストをクリアして、実際に畑の中での農作業テストを行なっている最中に爆発炎
上し、畑を一アールに渡って焼き畑に変えてしまったのである。
こうして、ランボルギーニ社の水素エンジンは大きな壁にぶちあたったまま、遅々
として改良は進まなかった。
だが、事態を解決に導く大排気量の大型水素エンジンは、思わぬところで開発が進
められていた。
…………クルーザー用の大排気量エンジン。
強力なトルクが必要であることは、トラクターも船舶も同様である。ランボルギー
ニ・ジャパンの開発スタッフの一人がそれに気付いたが、自分のアイディアのあまり
の突飛さを恥じるあまり、言い出すことができないでいた。
だが、彼は偉大な人物によって与えられた助言に基づいて、新たなるトラクターの
可能性を形として実現させる決心を固めた。
偉大なる人物は、ランボルギーニのほれぼれするような剛健なフレームと、ヤマハ
発動機がクルーザー用に開発した、ゾクゾクするほど巨大な鋼鉄の心臓……水素エン
ジンを見上げて、こう言い放った。
「えーとね……悩んでいてもはじまらん。とりあえず積んでから考えてみたらどーか
ね?」
ランボルギーニのフレームと、ヤマハのクルーザー・エンジン。
かくして、ランボルギーニ社は永年に渡ってランボルギーニの冠であった『カウン
タック』という名を、車体の開発コードから外すことになった。
そして、新車体には、果敢にも無理矢理エンジンを載せることを提唱した偉大なる
人物……白葉透教授の名をとって、こう命名された。
『ホワイトリーフ』……と。
act.1-3;グリーン・アスパラガス
農業工学科の多忙でエネルギッシュな夜は、味の屋での宴席で終わりを告げる。
その日、農業工学科の誇る秘書課の面々は、重大な決定を下しつつある白葉教授の
決意を、なんとか鈍らせようと懸命の努力を続けていた。
「教授、なんとか考え直してはいただけませんか?」
「いや、もう決めたことだから。ホワイトリーフの性能をテストし、その実用性、高
機能、将来性を広くデモンストレーションする機会を、三宅さんが作ってくれたんだ。
これを活かさない手はないでしょう」
「確かにホワイトリーフもHVの一種と言えないことはありません。それは了解して
います。ホワイトリーフを擁して、ヤマハ、ランボルギーニ、そして我が農業工学科
の合同ワークスが、三宅教授のおっしゃる『レース』に出走することは、トラクター
の明日を考える上で実に有益なことであると……秘書課一同もそう理解しています」
「それならば、何の問題もないのではないかね?」
「大ありです! 新型車両のテストには危険がつきまとうことは、教授も重々ご承知
のはず。なのに……なのに何故、白葉教授御自らドライバーを買って出なければなら
ないのですか!? 」
都立東京洋上大学が至上の命題として研究開発を進めているバイオスフィアJ−U
計画の主幹の一人である白葉教授は、群島でも五指に入る超多忙人間であり、その超
々過密スケジュールは、すでに白葉教授自身だけでは把握しきれない。そのため、主
に白葉教授のスケジュールのすべてを把握管理し、白葉教授の行動・研究を広範に渡
ってサポートするために、農業工学科秘書課が組織されたのである。彼ら秘書課の人
間は、何事につけ好奇心旺盛すぎ行動的すぎる白葉教授を、少しでも休ませることを
念頭において活動している。教授が手を煩わせずに済むことは、有能な彼らの手配に
よって極力処理されていくことになっているのである。
だが、少しでも空き時間を得てしまうと何かしたくなってしまうのが人間の性分と
いうものであり、空き時間がなくても無理矢理こじ開けて何かをしたくなってしまう
のが白葉教授の性分である。
次世代新型トラクター『ホワイトリーフ』は、トラクターのテストドライバーをも
務めていた若き日の白葉教授の熱い思いを蘇らせるのには充分すぎたのである。
「ホワイトリーフは、次代のトラクターの星となるかもしれないのだ。年寄りのわが
ままと言われてもいい。ぜひ、この私の手でホワイトリーフを走らせ、トラクター新
時代の幕をこの手で開きたい。
……この理由では納得して貰えないかね?」
そも、白葉教授の決意を覆すことそのものが至難の技に相違なかったが、教授の身
を案じ少しでも教授を休ませることを旨としている秘書課は、たとえ形だけと言われ
ようともたとえ教授が最初から意志を覆すつもりがなかったとしても、教授の決意を
崩そうとする試みをやめるわけにはいかなかった。
白葉教授の決意が、すでに不動のものであることを認めた秘書課がついに折れた。
「……了解しました。教授がそれほどまでにおっしゃるのでしたら、秘書課一同、白
葉教授の崇高なる目的を成就せんがため、微力を尽くさせていただきます。我々は半
端な仕事は致しません。教授……教授の目指すところの目的を果たすため、心おきな
くご活躍ください!!」
「うむ。ありがとう(^^) では合同ワークス『グリーン・アスパラガス』の正式発足、
ホワイトリーフのデモンストレーションの成功を祈って、乾杯しようではないか」
すかさず農業工学科謹製の吟醸酒「夜明け前」が取り出され、各人の茶碗になみな
みと注がれた。
店の奥で白葉教授と秘書課のやりとりを黙ってみつめていた中嶋千尋が、白葉教授
の茶碗に夜明け前を注ぎながら言った。
「透さん……本気なんですね」
「ああ、本気だとも」
この短いやりとりによって、千尋は白葉教授の中の『本気』を痛いほどに感じるこ
とができた。この人はいつも……いかなるときも本気であることを思い出し、自分の
問いが無粋な質問であったかのようにも思えた。
「透さん……あたしをおいていっちゃわないでくださいね」
「ん? どこにも行きはしないが?」
テーブルに肴を並べていたシーラ・ナサティーンが呆れたように言った。
「噂に違わぬ鈍感男なんですねぇ……。白葉教授、千尋を未亡人にだけはしないでく
ださいね。千尋一人をこの世においてけぼりにして、自分だけ遠いあの世にいっちゃ
うのはナシですよ」
以前の千尋だったなら、きっと両目に涙を溜めて、すがるような目で白葉の心配を
していたに違いない。愛する人が死んでしまうかもしれないと、心配で心配でいられ
ない不安気な表情に支配されていただろう。
しかし、今の千尋は違う。どこまでも羽ばたいていく白葉教授を信じ、それを応援
するだけの勇気を兼ね備えている。近ごろは、教授を信じることと応援することが自
分にできるすべてであり、白葉教授が頑張ろうとしているときに、自分の応援をいち
ばん必要としてくれていると、疑わずに信じることことができるようになってきた。
千尋が言葉少なに心の中で小さく呟く「ふぁいと!」のかけ声が、歳の離れた恋人
への、何よりの応援であることがわかるのは、千尋と白葉教授の二人だけだった。
「千尋くん。私を応援してくれるかね?」
「もちろん応援しますとも!(^^)」
にっこり微笑む千尋の笑顔に見とれていた秘書課の三年生が、ふと思いだしたよう
に言った。
「……となると、やはりレース・クイーンが必要ですね、教授」
「うむ。レースには華がなければならないですなぁ。そうだ。紀美枝さんにお願いし
てみてはどうかね?」
食器洗いをシーラに任せて、エプロンの裾で濡れた手を拭きながら味の屋の女将・
榊原紀美枝がテーブルに顔を出して話に加わった。
「その……れーす・くいーんって、千尋さんにはお願いしなくてもいいんですか?」
「千尋くんでは、レース・プリンセスという感じですし……やはり、クイーンという
からには紀美枝さんくらいの風格がないといけません」
「まぁ、教授ったらお上手(^^) ところで、れーす・くいーん……って何をすればい
いのかしら?」
「うむ。よい質問です。レース・クイーンというのはですな、ま、よーするにレース
をするチームの応援をしていただく応援団の応援団長といったようなものですな」
「まぁ。それなら私にもできそうね」
「うむうむ。難しいことは何もありません。紀美枝さんの声援があれば、チーム一同
張合いも出ようというモノです。報酬は……そうですなぁ、味の屋で使う野菜一年分
ということでいかがですかな?」
「まぁ、助かるわぁ(^^) それじゃ、お弁当をいっぱい作っていかなくちゃいけない
わね。千尋ちゃん、シーラちゃん。みんなで頑張ってたくさんお弁当を作りましょう
ね(^^)」
「いやぁ、教授! いやがおうにも盛り上がってきましたねっ! レース・クイーン
の件は我々にお任せいただいて、教授ホワイトリーフに賭けてください!! なぁに、
我々農業工学科秘書課は半端な仕事はしません。紀美枝おかーさんをパドックに咲く
華にしてみせましょう!!!!」
「あら、頼もしいわぁ(^^)」
こうして、農業工学科を中心に発足したワークス「グリーン・アスパラガス」の面
々は、誓いも新たに、『レース』に向けて精力的な活動を開始した。
ちょっと気になるのは、果してレース・クイーンの何たるかを、この人達がちゃん
と理解しているかどうかである(^^;)
act.1-4;W12
人工群島で暮らしていながら三宅準一郎教授を知らない者がいたなら、それは間違
いなくもぐりである。洋上大学の存在意義とさえ言われるバイオスフィアJ−U計画
の中心人物の一人であり、名物教授番付第一位の筋金入りマッド・サイエンティスト
でもある。バイオスフィアJ−U計画を手がける僚友である白葉教授によれば『少な
くとも人工群島でいちばん偉い人』なのである(ちなみに「二番目は金居さん、三番
目がこの私ですなぁ」というのが、白葉教授の弁である(^^;))。
三宅総合研究所は、その三宅教授の紙一重的天才頭脳から捻りだされる数々の理論
やアイディア・思い付きなどを、具体的な形に昇華させる機能を持っている。独立採
算で学部を運営する学部企業のうちでも、白葉教授の農業工学科と並んで五本の指に
並ぶ大手が、この基礎工学部・三宅総研である。
三宅総研では、研究・開発・改造……そして製品化が、学位・単位の取得に代えら
れていた。オリジナリティのある研究・開発もさることながら、誰かの考えだしたオ
リジナルのアイディアをさらに改造・改良し、よりよいものに代えていくことも評価
の対象になる。学位取得のための大学の研究などでよく言われるところの「斬新なオ
リジナリティ」ばかりが要求されることもない。大事なのは、どう応用させて機能す
る製品に変えるか、なのである。
三宅教授によれば「ひらめき」「思い付き」とそれを実際に実行する「実働」が工
学にとっては大事なのだそうで、ひらたく言えば『思いついたらまず作ってみる。う
まく動いたらたくさん作って売る。なぜそうなるか? という理屈は後でいい』とい
うことになる。
この理念に基づいた結果、三宅教授と三宅総研は、なんだかワケのわからない技術
と思い付きの理論に基づいた怪しい産物を実際に作りだしてしまう、実践型マッド・
サイエンティストの巣窟と化してしまった。
もっとも、技術屋というものは、多かれ少なかれ三宅教授のそれと同じマッド・サ
イエンティスト性とでもいうべき因子を持っているものである。その因子が特に突出
した上に優秀な頭脳と実績とを併せ持ってしまったのが、三宅教授であると言えない
こともない。
そういった人物である三宅教授の影響によってリミッターを外され、のびのびと研
究・開発・改造に勤しむマッドな技術屋の卵たち……それが、三宅総研の学生たちで
ある。
☆
三宅教授肝入りのEV対HVキャノンボール開催の噂は、瞬く間に三宅総研を駆け
抜けた。もちろん三宅教授自身もそのキャノンボールに出走させるためにHVを作っ
ていることは間違いない。あの騒ぎ好き派手好きの教授が手をこまねいて、学生たち
に花を持たせてくれるとは思えないからである。
だが、自分への挑戦者を阻んで勝利を手にするような真似は三宅教授の好みとする
ところではない。誰がどんな技術で挑んでこようとも、自らの信じる技術の正当性を
証明してより優秀な技術の選別を行なうのが、三宅教授のやり方である。
かくして、三宅教授のHVに挑戦する機会を得た学生たちは、自らの専門分野の知
識を結集して三宅教授のHVに挑むことを決めた。知識魔人・着想の魔王である三宅
教授に一対一ではかなわなくとも、人数が集まればなんとか拮抗できるくらいのとこ
ろまではいけるのではないだろうか。
『HVだとかEVだとか……キャノンボールに勝つことが目的じゃないんです。
一度でいい。一度でいいから教授の度肝を抜く代物をとことん作ってみたい……!
ラムさん、僕らと一緒にチームを組みませんか!?』
レジャーランド・SNSのティー・ラウンジで、熱っぽく聞かされた三宅総研・新
素材研究班の広田秋野の胸の内を思い返しながら、シータ・ラムは久々に身体の芯が
熱く火照っていくのを感じていた。
改造資金は、必要なだけ三宅総研から調達される。そして何より、危ういほど有能
な三宅総研の学生たちが一堂に会するのだ。この絶好の機会によって、ゴルフを六輪
に改造しただけのルナのポテンシャルが限界まで引き上げられることは間違いない。
思えば、エンジンの鼓動を聞くために、はるばるイギリスからこの群島へやってき
たのである。ここしばらく、すでに手の入れようがないほど極められ尽くされている
聖のGT40の維持と、レジャーランドSNSの雇われ店長という立場に甘んじてき
た。
だが、一日たりともあの感動を忘れたことはない。自ら真新しいエンジンを組みあ
げ、その産声に酔いしれる母親のような感動……。
まだ聞こえないその産声が、ラムの身体に快感の予感をたぎらせる。
ラムはヴィジホンのコンソールに、広田が居残っているはずの新素材研究班の番号
を打ち込んだ。
「広田くん。SNSが引けたら総研の……私のガレージまできてもらえるかしら。話
の続きはそこでね」
☆
シータ・ラムは三宅教授の許しを受けて、三宅総研の一角にある工作室をガレージ
として使っている。ガレージと言っても、ただ車を置いているだけではない。整備、
改良・改造、マニュアル・カタログにはない新部品の追加……そういった三宅総研で
は極日常的な風景は、ここでも見ることができた。
例えばトム=GT40など、聖の隠れ家では手に余る箇所に及ぶ整備は、聖の目を
盗んでこっそりこのガレージに運び込まれ、聖が目覚める前に元の隠れ家に戻してお
く……といった、ラムの腐心が伺える。
断わっておくが、ラムは別に聖のためにそれをしているわけではない。トムのため
にだけ、寸暇を惜しんでやっているのである。
今日のガレージはオイルの臭いではなく、くつくつと煮込まれたカレーの匂いで満
たされていた。
「いらっしゃぁ〜〜い☆」
ガレージにやってきた広田秋野たちを待ちかまえていたのは、エプロン姿のラムで
あった。
「わー、いい匂いがする」
「カレーの匂い……かな?」
「協力してもらうお礼代りに、ほうれん草のカレーをみんなに食べてもらおうと思っ
て☆ ナンにつけて食べてね☆」
いつの世も、学生と言うのは飢えているモノと相場が決まっている。日頃、研究・
開発・改造に身をやつしており、女の子の手料理などに縁のない奴ばかりである三宅
総研の連中とくればなおのこと。
広田たちは、カレーを満たしたズンドウ鍋とこんがり焼き上げたナンに殺到した。
……鍋の底が見えはじめた頃、ラムはビデオ・プロジェクターのスイッチを入れ、
壁面を締めている大きなモニタにワイヤー・フレームの3D図を映し出した。
「広田くんから大体の事情は聞いたわ。とびきりの車を作って、三宅教授に一泡吹か
せたいんだってね。そこでお願いがあるんだけどなー」
「なんです、これ? V8エンジン……かな?」
「エンジンを作るだけなら……ラムさんにもできると思うけど??」
ラムは学生たちの間を抜けて、スクリーンの横に立った。そして、映し出されてい
るワイヤー・フレームの3D図面をさしてにんまりと笑った。
学生の一人が「それ」に気付く。
V8エンジンのバンクの中央に、見慣れないものがついている。
「なんだあれ。もしかして……吸気管か?」
「ひぃ、ふぅ、みぃ……四本!? み、見たこともないぞ、こんなエンジン!」
「そうでもないわよ。概念としては三十年以上も前のものなんだけど……そうね、W
12エンジンとでも呼べばいいのかしら」
V12型エンジンの吸気管が六つずつ二列に並べられているのに対し、ラムの提示
したW12型エンジンのそれは、四つずつ三列に並んでいる。
一九八〇年代後半、ライフというF1チームによって、このエンジンの原型が造ら
れた。V8エンジン並のサイズで、V12エンジンのパワーを実現しようという設計
思想を実現させることが、このエンジンの狙いであり、従来の概念を覆す特異な機構
は求められたパワーを充分に発揮することが可能であった。
だが、長所とは同時に短所でもある。
コンパクトであるがゆえに、W12エンジンは非常に冷却が困難なものとなった。
エンジンのレイアウトの難しい。エンジンの飛躍的な性能を引き出すために、車全体
のデザインやレイアウトを見直していくうちに、ライフはもっとも困難な壁にぶちあ
たった。
資金難である。
こうして、W12エンジンの製作は一年で中止された。
「決め手は資金難と……エンジンの素材にあったと思うのよ。もし、このエンジンを
考えた人達が、もっと資金に恵まれていたら……より素晴らしい素材を手に入れられ
ていたら、当時のF1界に、もの凄いセンセーションを巻き起こしていたかもしれな
い」
……そして、W12の与えたであろうショックは、ターボが使用禁止にされたとき
のようにF1の公式レギュレーションを変えてしまったに違いない。
「W12エンジンは幻で終わってしまった。
でもね、みんなの開発してる新素材や、広田くんが考えてるエンジン冷却システム
を使えば作れるかもしれない」
いつしか、ラムの言葉はほだされたように熱っぽくなっていく。
説明するラムの顔が、それに聞き入る広田たちの顔が、興奮のため次第に紅潮して
いく。
「広田……これだけエンジンをコンパクトにできるってことは、お前が言ってたプラ
ズマ点火式……充分いけるんじゃないか?」
「いける。いけるぞぉぉ!!」
学生たちは、すでに各々の専門分野を活かして如何なる部品を作り出すかという命
題に心奪われていた。
ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、一人また一人と席を立ち、取り付かれたよう
にガレージを出ていく。
そしてガランとした部屋に、広田とラムだけが残された。
「ねぇ、広田くん。
ライフのクルーが作れなかったW12エンジン……私達が実現させたら、彼らはな
んて言うかしらね。Shit? or Fight?」
「技術屋が物を作るのは、自分がそれを見てみたいからです。僕らは、彼らが作ろう
として作れなかったものを出現させようとしているんですから、彼らの答えは決まっ
てます」
広田は自信に満ちた笑みを浮かべてこう言った。
「がんばれ! やってみろ!! でしょ?
……やってやろうじゃないですか。W12エンジンが健在だってことを僕らの手で
証明しましょう!!」
act.1-5;うぃんず ている
かきいれどきのランチタイムはとうに過ぎ、洋上大学付属高校の生徒達がやってく
る放課後にはまだ早い。どちらつかずの早い午後、飛鳥龍児は喫茶『うぃんずている』
の奥まったボックス席で紫沢俊の到着を待っていた。
店内には飛鳥の他はマスターの箕守礼一を除いて一人の客もない。箕守は、飛鳥と
すれ違いに店を出ていった客が平らげていったドリアの皿を片付けながら、有線のス
イッチを入れる。イギリス王朝風のシックな内装を施された店内に、はげ山の一夜の
クライマックスが響きわたった。
腕時計の針が俊との約束の時間をさす。
「紫沢俊……か。この情報は天使のものか魔王のものか……はてさて、どちらかな」
一人ごちて顔を上げた飛鳥の視界に、ちょうど俊が現われた。
俊は、奥のシートに座る長髪の飛鳥と視線を交わし、歩み寄りながらぺこりと頭を
下げた。
「すみません、お待たせして……」
「いや。今がちょうど約束の時間だ。……まぁ座りたまえ」
俊は、水を運んできた箕守にマフィン・セットとバナナ・スカッシュをオーダーし、
いきなり本題に入った。
「飛鳥さん。DGSでバイトしてたら、『都バスの機種選定について有利な情報を提
供する』っていう電話がかかってきたんです。僕、どうしたらいいんでしょう」
都バスは、無公害車以外の乗入れを禁止している人工群島の中で、唯一の例外とし
て残されているメタノール=電気のハイブリッド自動車である。
これまで、東京都の方針に基づいて、都庁や関連公共機関の自動車が次々に無公害
車に転換されてきた。しかし都バスは、群島内だけでなく都内各所を巡る様々なコー
スで多くの車両が運行されてきているため、全面的な機種転換を行なうのはなかなか
難しい。
そして、機種転換は都知事の私的諮問委員会である東京環境委員会が行なう『都バ
ス機種選定会議』の答申に基づいて行なわれる。群島の環境問題をより具体的先進的
に捉える実績をたたきだしているこの委員会の結論は、関連産業に大きな影響を及ぼ
すとまで言われているのである。
デァ・グルッペ・シュペーア(DGS)電工をはじめとするいくつかのEVメーカ
ーの作っているEVが、既存の自動車メーカーが誇ってきた従来のシェアに揺さぶり
をかけてきつつあるという事実が、自動車大手に不安を与え、対抗車としてのHVの
開発にはずみをつけさせたと言えないこともない。
だが、『HVはもう市販の直前まできている』と豪語しながら、リーズナブルな価
格のHVが発表されてきていない事実が、消費者の多くに『このまま次代の自動車は
EVとなり、HVが一般に普及するのにはまだまだ長い年月がかかるのではないか?』
という漠然とした不安を与えているということもまた事実である。
もちろん既存の自動車メーカーも細々とEVの開発は行なってきている。しかし、
ここにきて俄然、力を伸ばして、これまで育ててきた既存メーカーのシェアを飲み込
もうとする新進EVメーカーは、長く自動車を作ってきた大手既存メーカーにとって、
脅威以外の何者でもなかった。そしてEVメーカー各社は、大手既存メーカーがその
躍進ぶりを『脅威』と感じるほどに、実際に力をつけてきているのである。
その筆頭のひとつが、外資系総合商社DGSの擁するDGS電工であることは、市
場を席巻するEVの販売台数を見るに明らかだった。既存の自動車メーカーにとって、
DGS電工は目の上の瘤であり、いずれ……いや、すでに脅威となりつつある憂慮す
べき存在であった。
「飛鳥さん、都バスの機種選定に関して、DGSに有利になる情報……ってなんでし
ょう?」
「DGSといえばDGS電工。DGS電工って言ったら外資のEVメーカーの筆頭だ
からな。DGS電工が作っているEVが有利になる情報と言ったら、やはりHVを作
っている連中にとって不利になる話ってことだろう。
連絡してきた男は、HVを作ってる企業か研究所に詳しい奴だろうな。たぶん。自
分の研究を漏らす、もしくは手にいれた機密情報をDGS電工に売りつけて、EVが
有利に事を運べる手伝いをしようっていう申し出なわけだ。
今、国内大手はメタノール車に続く次世代車にHVを据えようって必死だから……
そいつがHV関係者なら、業界の裏切り者……ってところかな。
そいつは誰を指定してた?」
「……ええと、企画調整局の局長もしくはDGS電工の担当者って言ってました。名
前は特に……」
「うーん。相手の名前を出さなかったところを見ると、この産業スパイはアマチュア
か駆け出しのどちらかかもしれない。元からDGSに付き合いのある産業スパイなら、
間にはさまる無関係な人間に情報を漏らすはずないし……」
「先輩、ぼ……僕はどうしたらいいんでしょう?」
「そーだな。DGSのバイトとして、会社の尽くすならそのまま伝えるべきだろう。
マスコミ学科の学生としてジャーナリストの端くれを自覚してるなら、スクープをつ
かむために俺に協力してくれ。
どちらを選ぶも君の自由だが……どうする?」
act.1-6;社会のお約束
紫沢俊は、別れ際に聞いた飛鳥龍児の言葉を頭の中で反芻しながらDGS極東支部
へ戻ってきた。
『産業スパイはもう一度かけなおしてくるはずだ。そうだな……今度その電話がかか
ってきたら、そのまま俺のハンディ・ホンに転送してくれ。直接、そいつの売り込み
たい情報って奴を聞いてみよう。で、用件を聞き出したら今度は俺がDGSにかける
から、そうしたら企画調整局でもDGS電工の担当者でもどっちでもいいからつない
でくれ。俺が産業スパイを装って聞き出しておいた情報をそっちに伝える。いいな?
しくじるなよ』
俊はちょっとわくわくしていた。
なんというか、自分がスパイ映画の登場人物にでもなったような気分というのは、
こういう気持ちのことを言うのだろうか。誰にも知られちゃいけない秘密を知ってい
る産業スパイを手玉に取る。そして、その秘密をかすめ取っていることがDGSの誰
かに知られてもいけないのである。
産業スパイから電話がくることを知っているのは、現在までのところ自分と飛鳥の
二人だけである。そしてDGSが「有利になれる情報」を買うかどうかはまだわから
ない。いや、もしDGSが本当に世間で噂されているようなダーティな会社で、HV
を押し退けEVのシェアを不動の物にするために手段を選ばないやり方を厭わないの
なら、きっとその情報を買うだろう。そして、HVの不利につけ込むに違いない。
だが、DGSって本当にそんな悪い人たちばかりの会社なんだろうか?
「こらこら、バイトの紫沢くん! 休み時間がちょっと長すぎるわよぉ☆」
伊島のDGS極東支部ビル内の企画調整局に戻った俊を迎えたのは、企画調整局局
長の諏訪操だった。
「すー、すいません(^^;) ちょっと大学の先輩に会ってたもんですから……」
「DGSはちゃんとした会社なんだから、決められている規則はちゃんと守らなけれ
ばいけないのよ。大人数を擁する大きな会社組織がちゃんと機能するためには、守る
べき規則が遵守されなければならない。これは社会の基本なんだから」
操の言い分は至極もっともな話であった。
マスコミ学科の学生だからなのか、学生全般に言えることなのかはわからないが、
やはり社会で働いた経験がまだまだ浅い俊には、社会人になりきれていない甘さがあ
ることは否めない。DGSでのアルバイトを決意したのも、ASの仕事が暇になるか
らというばかりではなく、元はと言えば社会の荒波を体験しておこうという向学心も
……まったくないわけではなかった。
DGSは就業時間などの些細な取り決めが厳しく、それらはすべてアルバイトにも
適用される。仕事中は親族の忌事でもない限り、面会も取り付いでもらえない。そし
て規則を破れば、例外なくペナルティーが課せられるのである。それらのペナルティ
ーは、社員ならボーナスの査定に、アルバイトならバイト料に如実に反映される。
確かに世間ではDGSの強引にも見えるやり方は、あまりよくは言われていない。
だが、DGSの人たちだからと言って、その言い分が総て謀略の為の嘘であるわけで
はない。
俊はスーツに身を固めた操の言葉を噛みしめるように受け止めている。操は、しょ
んぼりとうつむく俊をなだめるように付け加えた。
「でも学業も大事にしなくちゃね。大学生は勉強が本業だもの(^^)。洋上大学は実践
が多いんでしょう? 大学の先輩から色々教わるのも大切よね。だから……初めての
ことだし、今回だけは大目に見てあげる。次からは気をつけるのよ☆」
そう言って操はにっこりと微笑んだ。
DGSの女達と言えば、椎摩渚といい神野麗子といいチャン・リン・シャンといい
……コケティッシュな要素を多分に強く持つものが多い。コケティッシュだからとい
って、そのすべてが罪悪であるわけでもない。
操の笑顔が俊を惑わせた。
「どうしたの、紫沢くん?」
「あっ。いえ、何でもないんです。ど、どうもすみませんでした。これからはちゃん
と仕事します」
「その意気☆ あ、そうそう。チャンからあなたに伝言があるわ。今度、都バス機種
選定の予備戦を兼ねたEVとHVの競技会があるらしいのだけど……その競技会の会
場でSD聖くんを売りたいから手伝うようにって」
SD聖くんとは、DGSが売りだしている氷室武士(芸名)というロック・アイド
ルのキャラクター・マスコット人形で、最近ゲームセンターのUFOキャッチャーな
どで見かける売れ線人気商品である。
なんでも群島中の女子高生に大人気とかで、企画販売担当のチャン・リン・シャン
は『群島中をSD聖くん人形で埋め尽くす』 ことを目指しているらしい。 一部では
『キャラクター・グッズを装って若年層を洗脳し、人形市場を占有することから群島
占領の足がけにしようとしている』といううがった意見もあるようだが、そこまで雄
大な計画があるようには、どう見ても考えられない(^^;)。
俊は、何気ない操の言葉の中に、ここ数時間の間に耳慣れた言葉を見つけた。
「都バス機種選定の……予備戦ですか?」
「ええ。さっき三宅総研からFAXが入ったのよ。EVとHVの性能を比較し、広く
アピールするためのイベント的な場を設けるので、EVメーカーの中核をなすDGS
電工にぜひ参加してほしい……ってね」
あの産業スパイは、この事に関連して何かを知らせようとしていたのだろうか。
「へぇ……競技会って……レースみたいなものなんでしょうか」
「さぁ。あまり詳しい話は聞いていないのだけど、EVの優秀さを一般に広く認めさ
せたいんですって。競技会の内容は車両のエントリー後に発表されるそうよ」
「DGS電工は……参加するんですよね?」
「もちろん。EVはDGS電工の主力製品だもの。チャンあたりはHVの方が好みで
しょうけどね。それにハイ・パワー、ハイ・クオリティ……のHVは、EVを越える
ポテンシャルを発揮して、いずれは自動車業界を支える新たな商品となるかもしれな
い。トヨタもニッサンもホンダも……大手は軒並HV開発に入れこんでるしね」
操は落着き払って市場解析をしてみせ、DGS電工の主力製品であるEVをいずれ
凌駕するであろうHVを評価した。
俊は操の落着き払った態度が不思議に思えた。
「……それじゃ、なぜDGSはEVを作ってるんです。DGSはEVから撤退して他
のメーカーみたいにHVを作らないんですか?」
俊の興味は何気ない疑問から、DGS電工の経営戦略をも問うインタビューに変わ
りつつあった。もっとも俊自身は自分の聞こうとしている質問の重要性には、まった
く気付いていない。
「あら、きわどい質問ね」
「知りたいんです! あ……すいません。つい、夢中になって立ち入ったことを……」
「それは紫沢俊の純粋な興味からの質問? それともマスコミ学科AS局の意向を汲
んだインタビューの一環と釈っていいのかしら?」
「いや、その……一応僕もジャーナリストの端くれですから……。DGSの噂とか色
々ありますけど、やっぱり公平な視点というかDGSだから云々という十把一絡げ的
な見方はいけないんじゃないかなーと……それで、インタビューと言うか何と言うか
……その……」
我にかえってしどろもどろに釈明する俊を前に、操はくすりと笑みを浮かべて俊の
勇気を導き出すかのように言った。
「やっぱり、紫沢君もマスコミ学科の人間なのねぇ。
聞きたいこと、知りたいことがあったら、思った通り質問なさい。それが答えられ
る類の質問であれば、DGSは隠さず答えます。企業として答えられないものであれ
ば、そのようにはっきり返事もします」
深呼吸をひとつ。俊は覚悟を決めた。