ACT2-01;ブラウン管の向こう側では


平成31年10月12日 朝7:00

「ぐっもーにん! 東京人工群島の皆さん、おはようございます!」

 テーマ・ミュージックとともに、タイトルキャッチが流れた。

/ // //// /// ///// /// // // //// / //
// ///////////////////////////////////////////////
//////=======================================////
//==##########################################==//
##### アーキペラゴ・モーニング・ステーション #####
//==##########################################==/
/////========================================/////
/// //////////////////////////////////////////////
/ /// /// // / /// / // //// ///// // / /

 ちゃらっつらっ、ちゃっちゃか、ちゃかちゃか、ちゃらっつらっ、ちゃかちゃか。

「2019年平成31年10月12日月曜日。リスナーの皆さんをメガロポリス・東
京人工群島に導く、朝の情報番組『アーキペラゴ・モーニング・ステーション』の時
間です。寝ぼけ眼の皆さんのお相手は私、鵜飼クーミンでお送りしまーす」(^_^)

 アーキペラゴ・ステーションのセンター・ビルでは、今日もいつも通りの業務が始
まっていた。
 ただ……いつもと違うところといえば、育児疲れのため、目の下にクマを作ってい
るスタッフが多いことであろうか。そう、彼らも「ベビー・クライシス」の騒動に巻
きこまれていたのだ。
 スタジオに、赤ん坊の姿はほとんどない。だが、いなくなった訳ではない。別室で
アシスタント・ディレクターが、みんなの赤ん坊を一手に引き受けて世話をしている
のだ。いつの時代も、放送局の中で貧乏くじを引くのはADであると、相場が決まっ
ているのだ(^^;)。


               【CMタイム】


(レポーター風の女性が、マイク片手にカメラの前に立っている。その横には、恐ら
く商品名か何かを隠したラベル付きの哺乳びんが2本置かれているテーブルと、赤ん
坊を抱いた女子高生が)

「まず、このかわいらしい赤ちゃんに、2種類のミルクを試飲してもらいましょう」

(女子高生が哺乳びんを赤ん坊に持たせてやる。ある程度赤ん坊がミルクを飲んだら、
もう片方の哺乳びんと取り換え、再び飲ませる)

「……さあ、どっちがおいちかったでちゅかぁ?」

(レポーター、マイクを赤ん坊に向ける)

「だぁ!」

(後半に飲んだほうの哺乳びんを指す赤ん坊。それを受けて、レポーターは哺乳びん
に張ってあったラベルをはがす。ラベルの下からは『DGSベビー・ミルク』のロゴ
が)

「ご覧の通り、この赤ちゃんはDGSベビー・ミルクの方がおいしいと答えました。
このように、街頭アンケートの結果、群島の赤ちゃんの7割が、このDGSベビー・
ミルクを支持しました。DGSベビー・ミルクは、テイストが違います(^_^)」

(商品が大映しになる。その後、DGSのロゴのCGが画面に映しだされる)

「DGSは、子供にも優しい総合企業です」


                   ☆


 CMが終わると、いきなり赤ん坊のどアップが画面に映しだされた。その後ろから、
鵜飼クーミンの弾んだ声が聞こえてくる。

「いきなりですが、私の拾った赤ちゃんの名前がやっと決まりました☆ 健太郎って
いうんですよ。いい名前でしょ(^_^)」

 ……このシーンに脱力した群島民は、数知れない(^^;)。




ACT2-02;朝のMILの一風景


「め、めげるからテレビ消そう……(^^;)」

 広田秋野は、うんざりした顔で「モーニング・ステーション」を映っていたテレビ
の電源を落とした。
 三宅総研(MIL)の朝は、今日も早い。広田のいる工作室には、彼の同僚である
新素材研究班の面々が次々にやって来ていた。もちろん、赤ん坊を連れてである。

「やあ、みんなこんな朝早くから悪いなー」
「いいってことよ。どっちみちこのままじゃあ、作業が手につかないからな」

 申し訳なさそうな広田に、学生の一人は苦笑しながら言った。


 ……新素材研究班及び、群島キャノンボールに向けて結成された「チーム・ルナ」
には、現在「非常事態宣言」が敷かれていた。
 理由は一つ。この2団体の構成員全てが抱えこんでしまった赤ん坊である。今のま
まオロオロしていたのでは、研究開発と子育ての両方とも破綻してしまう。というこ
とで、まずは子育ての方に全力を注ぎ、研究などはひとまず凍結するという方針を、
先日全員一致で決めたのだ。

「えーと、とりあえず頭数はそろったな……じゃあ、1・3・5班は東京・千葉・神
奈川までおむつやミルク、子供服の買い出し、2・4・6班は哺乳瓶や乳母車の製作
をすることにしよう。みんな、各班長の指示に従って動いてくれ! それから、買い
出してくる品物の内容と数だけど……」

 さすがは新素材研の責任者、広田はそつなく行動内容を決めてゆく。学生達は彼の
指示に沿って、早速準備に取りかかろうとした。
 その時、学生の一人がボソリと言った。

「……なぁ、赤ん坊対策の作業をするのに、何も赤ん坊背負いながらやることはない
んじゃないか?」
「そーいや……そーだな(^^;)」
「なら、誰か赤ん坊の世話専門の奴を置いたほうがいいな」

 別の学生が発言した後、皆の視線が一点に集中する。

「…………俺!?(・_・;)」

 視線を向けられた広田は、明らかにたじろいだ。

「だって、仕事がまだわりふられていないの、広田だけだべ?」
「それにほら、広田さんって世話好きじゃないスか! 僕らの中では、赤ちゃんの面
倒みるの、きっと一番うまいッスよ!」

 新素材研の連中は……というよりMILの人間は、ほぼ例外なく研究開発が得意で
ある。また、そうでなければMILではやっていけないであろう。
 だが、その中で育児経験のあるものはごくわずかである。特にここ、新素材研には
皆無である。
 そんな彼らにとって、赤ん坊を一人育てるのは、三人分の開発プログラムを一人で
こなすよりずっと大変なのである。だから「赤ん坊の面倒を見てもらえる」と言うの
なら、例え北海道まで買い出しに行ってくれと頼まれても、喜んで引き受けるであろ
う。……要するに、彼らはできることなら、広田に赤ん坊を押しつけたいのである。

「ま、待て! いくらなんでも、この数の赤ん坊を俺一人では……」
「じゃあ、千葉まで行ってくるわ!」
「広田さん、後はよろしく!(^^;)」
「哺乳瓶の金型、準備してくるね」

 狼狽の声を上げる広田を置いて、新素材研の学生達は蜘蛛の子を散らすようにして
その場を去ってしまった。赤ん坊だけはキッチリと残してある。広田は自分の赤ん坊
「妙」を背負ったまま、茫然と呟いた。

「……ベビーシッターの事をすっかり失念してたぁぁ(T_T)」




ACT2-03;占いで子供は救えるか?


「お待たせしました、三日月さん」
「おー、いいタイミングで来たねぇ」

 闇沢武志がSNSの占いコーナーにやって来たのは、三日月迅が稜(りょう……三
日月の赤ん坊)にミルクを飲ませている時であった。丁度、占いの客も途切れている。
 三日月はミルクを飲みほした稜を再びおんぶひもで背負うと、闇沢にイスを勧めた。

「時間もないことだし、手早く要件を済ませよう」
「そうですね」

 三日月の言葉にうなずきながら、闇沢はタロットカードを取りだす。易を専門とす
る三日月と違い、彼はタロット占いができたのだ。

「とにかく、『ベビー・クライシス』事件の真相をはっきりさせないと、群島のパニッ
ク状態は収まりませんからね」
「赤ん坊の親御さん達も心配してるだろうし……僕達にできることと言ったら、占い
で傾向と対策を探るぐらいだからね」

 三日月は八卦の描かれたカードを用意する。彼は筮竹ではなく、カードを使って易
占いをするのだ。

「じゃあ、闇沢くんからやってみてくれ」
「はい。では、こんなに赤ん坊がやって来た原因から……」

 うながされるままに、闇沢は22枚のタロットカードをシャッフルし、再びまとめ
た中から1枚を取りだす。
 出てきたカードは、「太陽」のカードの正位置。意味は……妊娠・出産である。

「…………うーむ(^^;)」

 闇沢は頭を抱えた。「生まれたからやって来た」……まあ確かに、生まれてこなかっ
たら、これらの赤ん坊はここにいるはずがない(^^;)。

「当り前の事を、タロットに改めて言われてもなぁ(^^;)」
「しかたがない。じゃあ次は僕がいこう」

 三日月は、「これからどうなるのか」を占うため、八卦のカードの中から2枚を抜
き出し、テーブルの上に並べた。
 下卦は「震」、上卦は「乾」。出てきた卦は…………「予期せぬ事態」。

「……予期しようとしてるのに、『予期できない』はないよなぁ(・_・;)」

 またしても出た意味のない結果に、三日月も首をひねった。
 ……だが、占いの意味はすぐに判った。

「だぁー」

 三日月に背負われていた稜が、さっき飲んだばかりのミルクを、テーブルの上に吐
いてしまったのである。

「ぎゃあああああっ! テーブルが、カードがぁぁぁ!(。。 )( ゚゚;」

 本当に予期せぬ事態に、三日月は思わず叫んでしまう。
 すると、その声に驚いた店内中の赤ん坊が、一斉に泣きだした。

「あ、あーあーあー(・_・;)」

 一瞬の間に起こったこれらの出来事に対応できず、闇沢は茫然と辺りを見回す。

「三日月さぁーん、勘弁してくださいよぉ。せっかく赤ちゃんが寝入ってくれたのにぃ
(;_;)」

 ウェイトレスの麻生真由子が、泣きそうな顔をして抗議する。彼女もよっぽど育児
に疲れているのだろう。

「ご、ごめん(^^;)。……とりあえずミルクの始末をしなきゃ!」

 大慌てで三日月は、おしぼりを求めて厨房に走るのであった。




ACT2-04;仕事する人しない人(1)


 三日月&闇沢の占い師コンビとは別に、この大量の捨て子に関する調査をしようと
する者達がいた。広川庵人、ミハイル・ケッセルのコンビである。
 彼らの行動は、正義感に支えられているワケではない。あるとすれば、ジャーナリ
ストとしての職業意識であろう。そんな彼らにとって、群島を席巻する「ベビー・ク
ライシス」事件は、またとない「おいしい」取材対象であった。
 群島の外からの取材は、未だまばらである。あまりにも非常識な事件なので、新聞
社や出版社はこれをマユツバものと判断して、記者を派遣しようとしていないのだ。

「俺達以外に、この群島の非常事態を世界中に報道できるジャーナリストはいない」

 という広川の言葉により、二人は取材・調査を開始した。
 ところが……。


                    ☆


「結局空振りか……」

 橋を渡って19号埋め立て地を出ながら、広川はため息をついた。
 彼は今回の事件の裏に、人身売買マフィアの暗躍があるのではないかと推測してい
た。そして、そのようなマフィアが群島に乗りこんでいるとしたら、19号に根を下
ろしている可能性は高いだろうと判断した。
 そこで彼は、19号を3日間かけて調査したのだが……結果は彼の呟いた通り「空
振り」であった。赤ん坊の「流通経路」が、どうしてもはっきりしないのだ。

「しかたない。明日からやり直しだな」

 気を取り直すように呟くと、広川は家路を急ぐのであった。



 情報は翌日、突然飛びこんできた。数日前、東京洋上大学航空工学研の航空警邏隊
敷地から、赤ん坊用のバスケットをいっぱい積んだトラックが出ていったという噂を
つかんだのだ。これが本当なら、航空研の人間が赤ん坊を「空輸」し、群島中にばら
まいているという仮説も立てられる。

「ガセネタかも知れんが、行ってみる価値はあるな」

 昨日までの遅れを取り戻さんと、広川は早速航空警邏隊に乗りこんだ。
 ……警邏隊はその時、子煩悩の親たちの巣窟になっていた。

「ほぉーら、高い高ーい☆」
「ほら、ミルクだ。たっぷり飲めよ(^_^)」
「おい、離乳食作ってみたんだけど、お前の赤ん坊にもどうだ?」
「あ、すみません、いただきます(^_^)」
「誰か、紙おむつ余ってないか!?」
「うちの子のヤツならあるぞ」

 万事、この調子。
 航空警邏隊の整備員達は、すっかり「ただの親バカ」と化している。
 航空研潜入に成功した広川だったが、彼らの様子を見て拍子抜けしてしまった。整
備員達のその姿は、どうひいき目に見ても良き保護者以外の何者でもなく、彼らが人
身売買に手を染めているとは考えられないのだ。
 結局、またしても「空振り」に終わりそうではあったが、一つ疑問が解決されてい
ない。

(なら、バスケットをいっぱい積んだトラックというのは、どういうことだ?)


                    ☆


「おーい、赤ん坊の入ってたバスケット、みんな業者に売り払ったか?」
「はい。あんなかさばるもの、ここに置いてあっても邪魔なだけですからね」

 赤ん坊が床に吐いてしまったミルクを拭き取りながら、整備員達は広川の聞いた情
報の真相について話していた。

「まったく……迷惑な話ですね、赤ん坊の世話まで群島東署の代わりをしろだなんて」

 下級生の整備員は、不満を口にしながら赤ん坊のおむつを取り換えた。
 ……航空警邏隊の整備員達が抱えている赤ん坊は、群島東部に点在する派出所や駐
在所に届けられた捨て子である。彼らは本来なら、各派出所・駐在所から群島東署に
送られるはずであった。
 しかし、今年初めに壊滅して以来、東署は未だ再建が果たされていない。
 このままでは、赤ん坊は路頭に迷ってしまう。
 そこで、整備員は「上司」に、こう言い渡された。

『群島東署に代わり、捨て子の世話をしてもらいたい』

 翌日警邏隊には、バスケットに入った赤ん坊が、大量に送りつけられた。広川の聞
いた「バスケット」は、要するにその時の物だったのである。
 陰に隠れてこの会話を聞いている広川は、さぞ苦々しげな表情を浮かべているであ
ろう。だが整備員達は、彼の存在に気付いていない。赤ん坊の世話で、他を気にする
余裕がないのである。
 それでも、整備員達の顔は生き生きとしていた。それほど、子育てにやりがいを感
じているのだろうか。
 少し気の弱そうな整備員が、他に尋ねる。

「あ、あのー……先輩、仕事はしなくてもいいんでしょうか?」
「なんだ? 子育ては仕事じゃないのか?」

 尋ねられた方は、ワザと曲解して答えているようだ。

「いえ、そういう意味じゃなくて……」
「お前の言いたいことは判るさ。だけど、俺達にこれ以上、何ができるよ?」

「先輩」は、自分達に課せられた仕事を列挙した。整備員の仕事、航空警邏隊とし
ての「警察代行」、最近の騒ぎの中での「ラブシック」捜索……そして、赤ん坊。

「俺達はスーパーマンじゃないんだ! 少なくとも今は、赤ん坊の世話が手一杯で、
他の任務なんてこなせないよ! ……誰かに問い詰められたら、そう答えとけ。見ろ、
この赤ん坊。可愛いじゃねえか。世話すれば、ちゃーんと笑顔で応えてくれるもんな。
『やって当り前』なんてこと、一言も言わねえじゃねえか。散々ここでこき使われて
きた俺達にとっちゃ、この赤ん坊達はオアシスみたいなもんだ(^_^)」

 うっぷんをはらすかのようにまくしたてると、先輩は自分の赤ん坊を背負って、ヘ
リポートの方へ去っていった。

 ……こんな様子で、航空工学研・航空警邏隊の活動は、実質的に停止したのだった。




ACT2-05;仕事する人しない人(2)


 さて、取材中二人の赤ん坊を託されたミハイル・ケッセルはというと……。


                    ☆


『えー、ご町内の皆様、大変お騒がせしております。こちらは、『ベビー・クライシ
ス』事件について調査している者でございます。当方では、皆様のお子様の身元の調
査のために、髪の毛2、3本と顔写真を集めております。協力してくださるという方
がいらっしゃいましたら、お気軽にお申し出ください。秘密は厳守いたします。何卒、
ご理解とご協力をお願いいたします』

 彼はレンタカーにラウドスピーカーと二人の赤ん坊を乗せて、群島の住宅地を、上
の文句を並べながら回っていた。ノリはほとんどチリ紙交換車である(^^;)。

「……はぁ、やっぱり集まんないなー。解るもんなぁ、みんながこの車を避けて通っ
てるの」

 ミハイルは縁島公営住宅の前でため息をついた。
 作業はなかなかはかどらない。理由の一つは協力者がなかなか現れてくれないこと。
もう一つは……赤ん坊がよくグズグズと泣きだすのである。

「ふぎゃあ、ふぎゃあ……」
「ほぎゃあ、ほぎゃあ……」

 そして、片方が泣きだすと、もう一人も必ずつられて泣きだすのである。

「おーよしよし(^^;) 泣きやんでおくれよー(^^;)」

 当然の事ながら、その度に車を止め、上のように赤ん坊をなだめなくてはならない。
これでは、髪の毛と写真の収拾作業のはかどる訳がない。
 とにかく、ミハイルは今度は、自分の子と広川の子を5分で泣きやませた。

「……ひょっとしたら、俺って赤ん坊をあやすのがうまくなってるかもしれない(^^;)」

 気を取り直した彼は、再び車を走らせようとした。

『えー、ご町内の皆様、大変お騒がせしております。こちらは……』
「……やかましいっ!!」

 突然、住宅の一室の窓からトイレットペーパーが飛んできた。トイレットペーパー
は、開け放していたレンタカーの窓をくぐり抜けてミハイルの横っ面に命中(^^;)。

『ぶおっ!?』

 ラウドスピーカーが異音を辺りに響かせたきり、ミハイルの乗ったレンタカーはし
ばらくその場に止まったまま動かなかったという。


                    ☆


「まったく近所迷惑な! うちの直美が泣きだしたら、どーするんだ!」

 トイレットペーパーを外に投げつけた後、富吉直行はブツブツ文句を言いながら窓
を閉めた。そして再び、寝返りをうつ「俺とルフィーアの娘(本人談)」、直美の前
に座りこんだ。

「……もううるさくないからな、直美(^_^)」

 そう話しかける富吉の顔は、かなり頬が痩せこけていた。あまり栄養を取っていな
い者の顔だ。対照的に極めて健康そうな直美の顔と、周りに積み上げられたベビー用
品の山を見れば、全てのお金を直美のために使っていることが判る。
 しかも、このような昼間から自宅にいる。……探偵の仕事をしていないようだ。ま
さに、赤ん坊につきっきりだったのだろう。

「随分首が座ってきたな。この様子だと、もうおんぶして仕事に出ても大丈夫かな?」

 直美をあやしながら呟く富吉。さすがに何週間も働かないと、財布の中が相当寒く
なっていることに気付かざるを得ないようだ。

「……よし! お父さんは明日から仕事を再開するぞ!(^_^)」

 彼は直美を「高い高い」しながら宣言した。キャッキャッと喜ぶ娘を見て、満足の
笑みを浮かべる。
 ……だが、そのやつれた顔で、栄養失調寸前の身体で、果たして探偵の激務が勤ま
るのであろうか?(^^;)




ACT2-06;宝飾屋さんと狼さん


「うははははははははは! 約束の品を持ってきたぞ!」

 ……そう言ってMILの三宅準一郎教授がやって来たのは3日前。
 それ以来、WWL(ワールド・ワイド・リース)の前には、長い行列ができていた。
三宅教授が店長ラバ・リブンセの注文を受けて納入した、MIL特製カプセル型自動
保育器第2弾『ゆりかごくん・はいぱーX』の注文が、ここWWLに殺到したのだ。
何しろ、1/fゆらぎの理論を駆使した設計で赤ん坊を速やかに寝かしつけてくれる
し、ミルクも飲ませてくれればおしめも取り換えてくれる、おまけに世界各国の駄洒
落まで教えてくれる優れもの(?)である。しかも、ベビー用品であるということで、
赤くて丸くてデッカイ自爆装置起動ボタンの横に『お子様にも使いやすいように、火
薬の量は減らしてあります』と明記されている「安心設計」なのだ(^^;)。

「はいはい、押さないでよ。押したって『ゆりかごくん』が早めに手に入るワケじゃ
ないんだからね」

 ラバは手際よく客を捌きながらレンタル業務をこなしていたが、事務室の方でユー
レカ(ラバの赤ん坊)の泣き声がする度に、「はい、ちょっとごめんよ(^_^)」と言い
ながら自分の持ち場を離れ、事務室でユーレカをあやすのだった。なかなかの親バカ
と言えよう(^^;)。


                    ☆


「なんか、この店も大変なことになってるな(^^;)」

 宝飾デザイナーの沫 雷は、そんな店内の様子を見て苦笑した。彼は、『ゆりかご
くん』を求める客達の列には並んでいなかった。別に、公衆道徳を無視している訳で
はない。WWLに用事があるわけでもなく、近くに寄ったから顔を覗かせただけだっ
たのだ。
 しかるに、これほど混雑している時に、無理に店内に入ることもない。沫は軽く肩
をすくめると、大きな手提げかごを肩にかけ直してWWLを去り、近辺に風呂敷を広
げられるだけのスペースを探し始めた。

「……あそこなんか、いいかもしれんな」

 彼が適当な場所を見つけたのとほぼ同時に、手提げかごの中から赤ん坊の泣き声が
聞こえてきた。
 慌てる様子もなく、沫は手提げかごを静かに地面に下ろすと、中から凪(沫の赤ん
坊)を取りだした。彼はいつも、このかごの中に赤ん坊を入れて活動していたのだ。

「どうした? 腹が減ったか? おもらししたか? ん?」

 慣れた手つきで紙おむつを取り換える沫。彼が故郷にいた頃は、実家が大家族で、
散々兄弟のお守りをさせられていたから、こういう作業はお手のものである。
 赤ん坊が落ち着くのを待って、沫は風呂敷とアクセサリー類を用意し、露天を開い
た。赤ん坊を抱いて露天商をやっているその光景は、とても微笑ましいものがあった。
 寝入った凪の顔を見つめながら、沫は微笑混じりに呟く。

「案外……このまま子連れ狼を気取るのも、いいかもな……」

 ……その時、彼の目の前に狼が現れた。

「な、なに!?(・_・;)」

 あまりのタイミングのよさに、目を丸くする沫。実際には、彼の前を通りすぎたの
は、狼のぬいぐるみのようなそろいの服を着た、紫沢俊と拓哉の兄弟&赤ん坊の京子
であった。

「俊兄ぃ! たっくんカッコいい!?(^_^)」
「おう、カッコいーぞ(^_^)」
「ばぶぅ」
「しかし、よくこんなおそろいの服があったよなー」

 去ってゆく紫沢兄弟の後ろ姿を見ながら、沫はあっけにとられるばかりであった。

「…………あれ、既製服なのか?(・_・;)」




ACT2-07;真夜中の屋上で


 縁島公営住宅A棟の屋上で、玉乃宙実は……へたり込んでいた。

「あー疲れたぁ〜〜(__;)」

 宙実が音を上げるのも、無理はない。
 彼女が共同生活を営んでいる「弥生家」では最近、屋上に(無許可で)建てたプラ
ネタリウムを使って保育園を始めた。この保育園が曲者なのだ。
 とにかく、ロクに眠れない。世話するべき赤ん坊が弥生家の子供達だけだった時は
まだよかったが、保育園を始めてからは交代で「夜勤」をしなければならなくなった。
 夜勤の時眠れないのはしかたがない。問題は、赤ん坊のために徹夜するようになっ
て以来、それ以外の夜も赤ん坊の泣き声に敏感に反応するようになってしまったこと
である。
 開園前は育児に関して最もずぶとかったはずの宙実も、夜勤担当のこの日は、既に
グロッキー寸前であった。

「もーいいよー、育児はもーやだよぉ(__;)」

 泣き言にも力が入らない。
 すると、宙実の抱いていた赤ん坊の首が、彼女の腕からこぼれ落ち、いきなりガク
ンと90度に折れ曲った。

「うわっ!?」

 宙実が仰天するのと同時に、赤ん坊は首を折り曲げたまま泣きだした。

「どうしました?」

 泣き声を聞きつけて、プラネタリウムから人が出てきた。宙実と共に今日の夜勤を
担当している、闇沢武志である。

「……何やってるんです!? 早く赤ちゃんの首を支えてあげて!」

 そう言いながらも闇沢は、戸惑う宙実から赤ん坊をひったくる。首を持ち上げてや
ると、赤ん坊はピタリと泣きやんだ。

「……あの、赤ん坊だいじょーぶなの?」

 おずおずと尋ねる宙実に、闇沢は苦笑しながら答えた。

「育児書で読んだんですけどね、首が座る前の赤ん坊は、骨が折れたような首の曲り
方するらしいんですよ。2回や3回首が折れ曲っても、全然平気だとか」
「へぇー……(・_・;)」
「……宙実さんって、あまり育児を楽しんでないでしょ?」

 出し抜けに尋ねる闇沢に、宙実は「へっ?」としか言えなかった。闇沢は、それに
かまわず言葉を続ける。

「どうも宙実さんの赤ん坊の扱い方って、義務感が先に立っちゃってるように見える
んですよね。だから、そんなにバテちゃうんですよ。もっと、子育てを楽しいものと
して考えてみたらどうでしょ? そうすれば、もっと楽になると思うんだけどなぁ」
「……うん」

 赤ん坊をあやして寝かしつけようとしている闇沢を、宙実は感心しながら見上げた。
普段の闇沢は、もっと覚めたものの見方をしていて、口調も突き放したものになりが
ちなはずなのだが……。

(結構闇沢くんって、こういう時は優しいんだ……)

 しかし闇沢は、せっかく宙実に与えた好印象をぶち壊すような台詞を口にするので
あった。

「やっと眠ったか。やっぱり赤ん坊も、安心できる人とできない人が識別できるんで
すかね?」
「……どーしてアンタってば一言多いのっ!?(ー_ーメ)」




ACT2-08;新たなる噂


「貴様達、催涙弾の実験台になりたいか?」

 ニコリともせずに問う軍事学部助教授ハインリヒ・フォン・マイヤーを前にして、
篠田清志、巽 守、築地綾子の「あの3人」(またの名を、「軍事学部のずっこけ三
人組」)は、地蔵のように固まってしまった。マイヤーが言外に「実験台になれ」と
言っているのは、あまりにも明らかだったのだ。

(きょんくぅん、やっぱりこの間の、きょんくんとチャン講師と流した噂を根に持た
れてるんだよぉ)
(きょん! キミが余計なことするから、私までにらまれちゃうでしょっ!)

 守と綾子に両方からささやかれるが、きょんとしても返答のしようがなかった。二
人の言っていることは、恐らくまったくの事実なのだが、かといって打開策があるわ
けでもない。
 気まずい沈黙がしばらく続いた後、マイヤーはおもむろに赤ん坊を差しだした。

「さて、ここに赤ん坊がいる」
「カナンですね」
「……カリナだ(ー_ーメ)」

 マイヤーが差しだした赤ん坊の名前はカリナ。巷では「捨て子ではなく、実子であ
るらしい」とも噂されている子である(もっとも、噂の出所はきょんとチャン・リン・
シャンであったワケだが(^^;))。しかし、マイヤー自身のいないところでは、この
赤ん坊は「カナン」と呼ばれている。もちろん、マイヤーにとっては不愉快な話であ
るから誰も彼の前ではそう呼ばないのだが……そこまで気が回らないのが、きょんの
きょんたる所以である(^^;)。

「それでだ。本来なら俺が面倒を見なければならないカリナだが、あいにく俺はいろ
いろと忙しい。そこで、学校にいる間、貴様達にカリナの面倒を見てもらいたい。場
合によっては、カリナの世話を授業の一環として認めてやらないでもない」

 たたみかけるマイヤー。彼の言いたいことは一つである。即ち……「ベビーシッター
になるか、それとも実験台になるか」である。
 無論三人組は、前者を選ぶしかなかった(^^;)。


                    ☆


「ほぎゃあ、ほぎゃあ……」
「おー、よしよし。今マンマをあげるからねー」

 カリナに泣かれた綾子は、買ってきた離乳食を少し自分の口で噛むと、口移しでカ
リナに食べさせた。その後、「いーなあ、カナン……」などと馬鹿なことを言ったきょ
んを張り倒す。

「だめだよきょんくん、そんなこと口に出して言っちゃあ(^^;)」

 守の言葉も、どこか的をはずしている(^^;)。
 そんなこんなで自分達の赤ん坊も含めて4人の面倒を見ているうちに、突然きょん
が言いだした。

「まぐまぐバーガーに行こうぜ(^_^)」
「……いきなりどうしたんだい?(^^;)」

 面食らう守に、きょんはまじめくさった顔で言った。

「決まってるだろ? ウルトラビッグワンX(註:きょんの赤ん坊の名前である(^^;))
達にミルクを買ってあげるんだよ! ……ついでに、マイヤー助教授の彼女の様子も
見てこようぜ」
「……どーせ、そっちが目的なんでしょ(^^;)」

 きょんの思考パターンなど、綾子にはお見通しであった。ちなみに「マイヤー助教
授の彼女」とは、まぐまぐバーガー縁島洋上高校前店の店長、高梨稟である。無論こ
れも、きょんとチャンによるでっち上げだ(^^;)。


                    ☆


 ……まぐまぐバーガーに、「彼女」の姿はなかった。あったのは、赤ん坊と真剣に
ミルクの取り合いを演じている小泉六甲の姿と、自作と思われるおむつを厨房内で堂
々と取り換えている出居直子の姿と、赤ん坊を背負いながらもはつらつと客の応対を
している天本真弓の姿と……3人にとっては見慣れた「講師」の姿であった。

「ん? きょんの字じゃない(^_^)」
「チャン教官! どうしてここに?」
「ここの店長が倒れたって噂を聞いたもんで、ちょっと確認にね」

 ……実際は、育児疲れでグロッキー気味の稟を、真弓と直子が「少しSNSで休憩
を取ってきたらどうです?」と言って、半ば無理矢理店から追いだしたのだ。そして、
説明を求めたチャンに、真弓は正確に答えた。しかし、チャンの解釈は、少し事実と
違うようだ(というより、ワザと曲解したと言ったほうが正しいだろう(^^;))。

「なぁーんだぁ」

 思わず呟く綾子。彼もきょんに少しずつ染まってきたようだ(^^;)。
 そんな彼女の腕の中で眠っているカリナを、チャンは目ざとく発見した。

「あっ、カナン!」
「ええ。マイヤー助教授に面倒を見ろと言われまして……」

 綾子の説明など、もう聞いてはいない。チャンはその明晰な頭脳をフル回転させる
と、彼女の言うところの「かわいいいたずら」を考案した。

「築地一等兵はカナンを私に預けてもらおう。きょん二等兵と巽二等兵は、速やかに
軍事学部大校舎へ帰投し、『まぐまぐバーガー店長、心労で倒れる!』と、学部中に
報告せよ!」
「……今度は何をやるんですか?」

 きょんは身を乗りだして質問する。これに対しチャンは、「まあ見てなさい(^_^)」
と微笑むだけだった。


                    ☆


 チャンがマイヤーの前に現れたのは、きょんと守の噂があちこちに広まり始めた頃
だった。

「チャン教官、何の用だ?」

 相変わらず不愛想なマイヤーに、チャンはカリナをスッと差しだすと、大きくはな
いが辺りによく通る声で、言った。

「あなたの子供よ。まぐまぐバーガーで女性から渡されたの」

 混じりっけなしの事実である。だが、絶対に誤解を受けるような言い回しである。
 罠にはめられたとマイヤーが気付いた頃には既にチャンの姿はなく、腕の中にはカ
リナがいた。

「…………やられた(__;)」

 マイヤーは、低く唸るのみであった。
 軍事学部に「マイヤー助教授の妾の子を見せられた稟が、ショックで入院した」、
「助教授と稟の間に子供が生まれたが、帝王切開だったために稟は入院を余儀なくさ
れた」というものを始めとする様々な噂が流れる、30分前の話である(^^;)。




ACT2-09;育児教室


 天本真弓の説明は正しかった。確かに、高梨稟はレジャーランドSNSにいた。
 しかし、その頬は明らかに痩せこけていた。かなり疲労の蓄積している顔である。
 そして、彼女の座っているテーブルの上には育児書が、腕の中には……彼女の拾っ
た赤ん坊が。

「えーと、『離乳食の準備として、果汁や野菜スープなどを飲ませましょう』か……
すみません、オレンジジュースください。……あ、ありがとうございます。それから、
『初めはスプーン1さじが目安です』……スプーンで飲ませるのね」

 稟はスプーンを赤ん坊に近づけたが、赤ん坊はいやがって泣きだした。

「ああっ、どうしよう!? ……ええっと、『果汁やスープは、おっぱいやミルク以
外の味を体験させるためのもので、栄養補給の目的で与えるのではないのですから、
嫌がったら無理強いする必要はありません』……じゃあ、無理に飲ませなくてもいい
のね?」

 育児書に話しかける稟。かなりの重傷である(^^;)。

「店長さん、本当に休憩しに来たんですか? それとも神経擦り減らしに来たんです
か?(^^;)」

 SNSの雇われ店長シータ・ラムが声をかける。SNSとまぐまぐバーガーはかな
り近くにあるので、稟とラムは休憩時にはお互いの店を利用することがある関係で、
まんざら知らない仲でもないのだ。

「ああ、ごめんなさい……。私、うるさくしちゃったかしら?」

 弱々しい笑顔を向ける稟を見て、ラムはため息を禁じ得なかった。育児疲れの「に
わか親」達の避難所と化したSNSを世話するため、ラムは最近家に帰っていない。
それとは別に自分の赤ん坊もいるしワケだし、疲労の度合もそれほど軽くはないはず
だ。そんなラムから見て気の毒に思えるほどの、稟のやつれぶりであった。

「いえ、そんなことはないけど……あんまり神経質すぎるんじゃない? このままだ
と、店長さんつぶれちゃいますよ(^^;)」
「だけどほら、育児書ってこんなに厚いのよ。この通りにやろうとしたら、休む暇が
なくて……」

 彼女の台詞から、稟が四六時中育児書と首っぴきになっていることが判る。

(……こういう人、多いんだろうなあきっと)

 しみじみと思ったラムは、凛に声を掛けた。

「店長さん、明日時間を空けてもらえないかしら?」
「あした……?」
「うん。……経験者の言葉を聞いたほうが、育児書よりもずっと役に立つでしょ?」


                    ☆


 翌日の夕方、「味の屋」の女将・榊原紀美枝が、美由紀(紀美枝の赤ん坊)を抱い
て、『SNS緊急育児教室 本日19時より』という立て看板の出ているSNSを訪
れた。「味の屋」を早々に閉じての訪問である。

「すみません、ご無理言っちゃって(^^;)」
「あら、いいのよ。赤ちゃんのためですもの。急にこんな事を決めて準備したラムちゃ
んも、大変だったでしょう?(^_^)」

 二人の会話の間にも、店内には老若男女問わず、赤ん坊を抱いたり背負ったりした
人達が入ってくる。皆一様に、疲れ果てた表情を浮かべている。

「あんなになってる人達を、少しでも救ってあげてほしいんです」
「あらあらあら、そんな大層な事ができるかしら?(^^;)」
「……こういうことだったんだぁ」

 仕事を終えて稟がやって来た。ラムは笑いながら稟を招き入れた。

「まあ、お入りになって。これで少しは、育児も楽になると思うよ」
「そうだといいんだけど……」

 不安げにうなずく稟。根っからの心配症である。

                    ☆


 ビアホールにギッシリ詰まった「公聴生」の前で、美由紀を抱きながらの紀美枝の
「子育て講義」が始まる。

「まず皆さんに解っていただきたいのは、育児書というのはあくまで『参考書』であっ
て、『教科書』ではないということです」

 イスに座り、独特の柔らかい口調で、紀美枝は自分の子育ての経験を交えながら講
義をする。
 さすがは母親と言うべきか、彼女の話す経験は、公聴生達が実際に困ったことのあ
ることばかりであった。メモを取る筆記用具の音が、ビアホールの中に響く。
 突然、店内にくしゃみの音が響いた。

「あら? 風邪を引いてるお子様がいらっしゃるのかしら?」

 立ち上がって辺りを見渡す紀美枝。すると、鼻をグズグズいわせている稟の赤ん坊
が彼女の目に止まった。稟はといえば、近くに置いてあったナプキンで、鼻水を取ろ
うと躍起になっていた。
 紀美枝は稟のそばに行き、赤ん坊を貸すように促す。

「そういうやりかたではなかなか鼻水は取れないわよ。こういう時はね……」

 そう言いながら紀美枝は何をしたか?
 ……赤ん坊の鼻に口をつけると、なんと、赤ん坊の鼻水をすすりだしたのである。
 ビアホールの中にどよめきが起こる。よほど度肝を抜かれたのであろう。確かに、
かなり壮絶な光景ではある。
 鼻水を全て吸い取ったら、紀美枝はナプキンで口を拭い、公聴生達に笑いかけた。

「すすっても別に、身体に害はないんですよ。それよりも、赤ちゃんの健康を考えて
あげないと、ね(^_^)」

(……凄い! さすが母親だわ!(^_^))
(……そんな無茶はできない!(__;))

 さて、果たして公聴生の中には、どちらの意見が多かったであろうか?(^^;)




ACT2-10;二本の足で


「う〜ん……子育てってやっぱり大変なことには変わりないのね(^^;)」

 帰宅の途中、自分の赤ん坊・優を抱きながら、中嶋千尋は首をひねった。SNSで
見た紀美枝のシーンが、頭から離れないのだ。
 公営住宅のあちこちで赤ん坊の泣き声が聞こえる中、千尋は白葉宅の呼び鈴を鳴ら
した。
 ドアが開く。中から現れたのは……白葉透教授の秘書、天城梨沙であった。

「あ、奥様お帰りなさいませ(^_^)」

意表を突かれて、軽く身体をのけぞらせる千尋。

「あ、ああ、いらっしゃい(^^;)」

 挨拶を交わしながら千尋が部屋に入ると、室内は既に、白葉教授の執務室と化して
いた。捨て子騒動のおかげで執務が滞ってしまったため、自宅にまで仕事を持ちこむ
羽目になってしまったのである。だが、農工科で残業をしないあたり、育児に忙殺さ
れている千尋に気を遣っているのかもしれない。

「おお千尋くん、帰ってきたかね」
「マンマ、マンマ(^_^)」

 教授と共に、教授の赤ん坊・菜桜子がはいはいをしながら千尋を出迎えた。まだ首
の座りきっていない優に比べて、菜桜子はかなり大きい。既に、壁を伝ってなら歩け
るのだ。
 もっともそれだけに、別の苦労も生じる。あちこち這いずり回って、いろいろない
たずらをするのだ。それも、紙を破る、タンスの中の服をぶちまけるといったものな
らまだいいが、小物を飲みこもうとする、お湯の入ったやかんに触ろうとするなどと
なると、もう大変である。ここ数日千尋がどれほど苦労したかは、想像するに難くな
い。今日は育児教室を出席するため、白葉教授に農工科へ連れていってもらったが、
今度は秘書課の人間がてんてこまいになった。だから梨沙などは、秘書としての激務
を棚に上げて「奥様も、大変ですねぇ(^^;)」と、千尋にお茶を入れながら話しかける
のだ。

「育児教室はどうだったかね?」
「はい、とってもためになりました」
「それはよかった」

 白葉教授は書類の処理。千尋はミルクの準備。お互いに顔は見えない。そんな中で
の何気ない会話。しかし、激務の続く白葉教授と、まだ深夜でもないこの時間にこの
ような会話を交わす機会は、赤ん坊を二人が拾うまではそれほど多くなかった。そう
いう意味では、赤ん坊の存在は千尋にとってはうれしかった。ただ、赤ん坊騒ぎが起
こってからはいつも誰か秘書がいるので、二人きりになる機会は逆に減ってしまった
が。

「はーい、ミルクができたよー(^_^)」

 2本の哺乳瓶を持って、千尋は梨沙にあやしてもらっている優と菜桜子に向き直っ
た。
 驚くべきことが起こったのは、その時だった。

「マンマ!」

 菜桜子は梨沙の肩につかまって立ち上がると、両手をぱっと放した。何の支えもな
しに立ったのである。

「あっ…………!(・_・;)」

 不意の出来事に思わず絶句する千尋と梨沙。「どうしたのかね?」と、その様子を
覗いた白葉教授も、立っている菜桜子を見て目を丸くした。
 菜桜子が白葉邸にやって来てから、初の快挙であった。
 しかも彼女は、哺乳瓶に向かって歩こうとした。

「あ、あるきますよ!」

 梨沙の言葉が、室内の緊張を一層高めた。
 菜桜子と千尋の間の距離は、1メートルあるかないか。菜桜子の足で、4〜5歩と
いったところか。はいはいなら、すぐに移動できる距離である。しかし彼女は、あえ
て歩いて哺乳瓶に近寄ろうというのか。
 不意に、右脚を前に出そうとした菜桜子が、バランスを崩して前へつんのめった。
小さく息を飲む千尋だったが、すぐに気を取り直すと、菜桜子に激を飛ばした。

「がんばって! 菜桜子、頑張ってタッチするのよっ!」

 彼女の言葉が理解できたのか、菜桜子は今度は最初から支えなしで立ち上がった。

「そうよ、いい子ね。……さあ、マンマはこっちよぉ」

 千尋はしゃがみこみ、哺乳瓶を床に置いて手を叩き始める。白葉教授も完全に仕事
の手を休め、菜桜子の様子を見守っている。
 菜桜子は両手でバランスを取ると、ソロソロと右脚を前に出し、そして今度はちゃ
んと床を捕らえた。生まれて初めての一歩である。
「パン、パン、パン……」と、千尋はリズミカルに手拍子を打って菜桜子を誘う。菜
桜子はそれに応えるように、もう一歩脚を前に進めた。

「もう少しよ、菜桜子!」

 もう、千尋は必死である。あと一歩、もう一歩……願いを込めて、手を叩く。
 音源に向かって、菜桜子はもう一歩脚を進めようとして……再びバランスを崩した。

「あっ!」

 千尋は思わず悲鳴を上げた。しかし菜桜子は、前方にバランスを崩したようだ。
「とっとっとっとっ」とよろめきながら前進すると、千尋の腕の中に倒れこんだ。形
はどうあれ、菜桜子はちゃんと1メートル歩いたのだ。

「マンマー(^_^)」
「……菜桜子、エライッ!」

 笑いかける菜桜子を、千尋はヒシと抱きしめた。我知らず、目から涙があふれた。

「そうか、歩いたかね!」

 白葉教授は晴れやかに笑うと、目をキラキラさせて千尋と菜桜子を見ている梨沙に
耳打ちした。

「子育てしながらも余裕のある学生を呼びたまえ。これから祝宴を開くぞ!」
「……はい!(^_^)」

 梨沙はもどかしそうにハイヒールをはくと、白葉邸を勢いよく駆けだしていった。



「マンマ、マンマ!」
「……あ、ごめんなさい(^^;)」

 すっかり忘れてしまっていたが、ようやく我にかえった千尋は、菜桜子に哺乳瓶を
持たせた。「大仕事」を済ませた菜桜子は、おいしそうにミルクを飲み始めた。断乳
の時期も、もうそろそろであろう。

「ね、透さん……」

 優にもミルクを飲ませ始めながら、千尋は白葉教授に尋ねる。

「なんだね?」
「どうしてかしら、自然に涙が出ちゃった」
「……私にも断言はできないが、たった今千尋くんが、菜桜子の『母親』になったか
ら、じゃないかね?」

 教授は菜桜子の頭を撫でながら、柔和に笑った。

 

                           ・・Act.3に続く