Act2-1;チャイナドレスの女
そして、待ち望んでいた来客は、中川がマンションに帰ってすぐに『アブシンベル縁島』を訪れた。
「どちらさんで?」
「スパイ募集の広告を見てきました」
……と、若い女の声がインターホンから返ってくる。イントネーションが少し違う。日本人ではないようだった。
中川は、ドアののぞき窓から外の様子を伺った。
派手なチャイナドレスの裾と、エナメルのヒールを履いた形の良い足が見える。
いやな予感がした。
触ったらぬるりと指が滑りそうだったあの脂性の女の顔が、思い浮かべたくもないのに、これでもかとばかりに鮮明に蘇ってくる。
(違う。別人だ。大丈夫だ。あの女は……あんな細い足をしてはいなかった)
動悸を押さえて呼吸を整える。
「今、開けます」
その声は、心なしか震えていた。
だが、ドアの外に立っている女を見て、とりあえずほっと一息つく。そこに立っていたのは三十ちょっと前、女盛りの上玉だったからだ。
チャイナドレスの上になぜか白衣を羽織り、ポルシェフレームのサングラスを鼻へずらして上目遣いに中川を値踏みする。ちらりとのぞいた鋭い眼光は、彼女がただ者でないことを告げるには充分すぎるものだった。
「奥へどうぞ。床、座れます? 何だったら椅子出しますけど」
「お構いなく」
そう言って、チャイナドレスの女はずかずかと中川の前を横切って部屋に入った。狭い玄関口で身体が触れあいそうになったとき、彼女の白衣から立ち昇った血と硝煙の匂いが中川の鼻をくすぐった。
(な……なんてヤバそうな女なんだ)
日頃から、軍事学部の連中とだけはかかわり合いになるのを避けたいと切望している中川であった。
そんな中川の視線などまるっきり気に止めない様子で、女は置かれた薄汚い座布団を脇へ押しやって腰を降ろし、サングラスをはずした。
中川は出がらしのお茶っ葉の入った急須に、昨日の朝か一昨日かに沸かした(と記憶している)ポットの湯を注ぎ込んだ。汚れた湯呑みに構わず茶を入れると、さっき買ってきたバナナ大福をずでんと皿に乗せて女の前に差し出した。
「それで、今日はどういう御用け……ん」
「あたし、スパイの美学に憧れているんです」
中川に最後までは言わさず、女は身を乗り出した。ばりばりに化粧を施した顔が、ぶつかりそうなくらいまで近寄ってきたので、中川は、早くも逃げ腰となった。
女好きと言っても見境はある。デキる女、自分より悪知恵の働きそうな女は大の苦手なのである。
続いて女は、口元にせせら笑うような微笑を浮かべた。ことの展開から行くと「キャッ」と可愛い子ぶりっこする予定だったのだろうが、いかんせん、そうするにはすごみの有りすぎる女である。
「スパイをやるには、それなりの恵まれた容姿っていうか……あたしが言うと嫌みに聞こえるかも知れませんけどぉ、整った外見ってやつが必要だと思うんですよね」
そう言いながら、恥じらいを込めてちょっと顔を伏せ、フローリングの床に「の」の字を書いたりする。そんな仕草が、あまりにも白々しい。どっからどう見たって、世間知らずのスパイ志願なんて可愛いタマではないのだ。
「でぇぇぇぇぇぇぇい、やめろやめろぉい」
女を蹴り倒しそうな勢いで中川は立ち上がった。
「軍事学部に潜り込んで偽学生をやっている軍人マニアのうざったいくらい太った女がいて、良くこういうこと言ってるんだけど、まさかこんなにウケけるとは思わなかったわ」
「ウケてるんじゃない! 怒ってるんだっ!!」
そう言いながら何とか気を鎮め、腰を降ろす。
「ほんの冗談だったのに……。ええと、ご挨拶が遅れましたが、私はこういう者です」
そう言うと女は白衣のポケットからやおらSD聖くんの縫いぐるみを取り出し、中川に差し出した。
「まあ、これはうちの社で作っているものなので、挨拶代わりに持参しました」
そう続けて、今度は名刺を差し出した。
出す順番を間違えたのではない。単に中川をからかっているだけだ。
「もったいぶった真似をするから、味噌屋でもやってんのかと思ったが……そうかいそうかい、名刺屋かい」
忌々しそうに言って、縫いぐるみに一蹴り入れ、名刺を受け取る。いかに鈍い中川でもここまでやられて、からかわれていることに気づかない訳はない。
デア・グルッペ・シュペーア極東支部・秘書課 チャン・リン・シャンと記されている。
「どういう意味です、味噌屋って」
「日本の言葉は難しいでしょう」
「ええ、まあ……もうずいぶん馴れたつもりですけど」
「馴れても外国人にはわかりにくいこともある。つまりそういうことですよ。味噌屋についても」
要するに、性格の悪い奴だと言いたかったのだが、それがチャン・リン・シャンに理解できた訳はない。……訳はないし、分からせてやるつもりもない。
「話は手短に済ませます。わが社はついこの間、社屋を移転したんですが、それに伴って受付嬢を二、三名置こうと思いまして……。こちらでオフィスコンパニオンを紹介しているということを聞いて伺ったと言う次第です」
「オフィコンねえ。今ちょっと品不足なんですけど……そちらの条件は?」
「笑顔が似合う二十代前半までの女性……ということにして置きましょう。受付嬢としての教育はわが社の方で担当しますから、特別の技能は必要ありません。……もちろん、わが社の顔として受付に座ってもらうわけですから、一定以上のレベルは満たしておいてもらわないと困りますね。さも三流の会社から派遣されてきましたと言う風情では、ちょっと……ね。派遣されてきたコンパニオンの程度が満足できない場合は即刻契約破棄、ギャラはいっさいお支払いしないと言うことで……」
(名刺屋だか縫いぐるみ屋だか知らねえが、ずいぶん高飛車な女をよこしたもんだぜ)
営業スマイルを崩してはいないが、すでに中川はぷっつん寸前である。こうやって相手のペースで話を進められて美味い汁を吸えたことなんか一度だってありゃしない。
「とりあえず、こちらの方で何人かピックアップしてみます。受付嬢という依頼は初めてなんで、できれば少々時間を頂きたいですね。契約はその時に……。そういうことでよろしいですか?」
「分かりました。では適任者が見つかり次第ご連絡を。あまり手間取るようなら他を当たります」
そう言って、チャン・リン・シャンは腰を上げた。
結局差し出されたバナナ大福には手を出していない。甘いものは好物だが、こんな不衛生きわまりない場所で出された食品に手を出すほど意地汚くはない。キッチンの奥から茶羽根のカサカサ言う音でも聞こえでもしたら、卒倒してしまいそうだ。
「じゃあ、来週までに連絡します」
そう言って、中川はチャンを玄関まで見送った。
「待たせたわね」
そう、誰かに声をかけるのが、閉まるドアの隙間から見えた。
ドアの外でチャン・リン・シャンを待っていたのは、アルバイトとしてDGSに勤める軍事学部の学生、オットー・シュトライヒだった。
彼は万一の際の護衛として同行し、一時間待っても出てこなかった場合は社に連絡を入れ、然るべき行動をせよとの命令を受けて待機していたのだ。
結局、彼が必要とされるような事態は起こずに済んだ。
だが、中川はチャン・リン・シャンの背後にあるDGSという組織に、何かキナ臭いものを嗅ぎとっていた。
だが、そのマイヤーの目に、自分以上にこの場に不似合いな少女の姿が飛び込んできた。オリーブグリーンのショートパンツに、ジャングル迷彩のタンクトップ。赤いサスペンダー。それにとどめが中国の人民帽という、およそこういう場所を訪問するにはふさわしくない服装の、十五かそこらの、まだ子供っぽい印象の方が強い少女だ。
小汚いスポーツバッグを大事そうに抱え、スーツの男たちの間を図々しくすり抜けていく。
(……なんだ、あのガキは)
その、マイヤーの視線に気づいたのか、少女はふとマイヤーの方へ目をやった。
惚けたような視線が、数秒の間マイヤーの姿を嘗めるようにとどまり、そしてエレベーターから出てきた数人の男たちにこづかれるようにして身を翻した。
その少女が、頬を赤らめていたようにも見える。
(……?)
しかしそれも、マイヤーには謎だった。
彼が今日ここに呼ばれたのは、海外赴任時におけるセルフ・ディフェンスについての、社員向けの講演を行うためだった。
日本人ビジネスマンの海外での活動には、今も三十年前と同じ危険がつきまとっている。それは佐々木建設にとっても頭の痛い問題だった。
富める日本。そのイメージは厳然と生き続けている。軍事学部助教授として……そして数々の戦場を生き抜いてきた元傭兵として、その知識と経験を語って欲しいというのが依頼の内容だった。
「マイヤー助教授ですね」
その声に、マイヤーは顔を上げた。彼の前に立っていたのは、さっきの受付嬢ではなく……まだ若いスーツ姿の青年だった。
「初めてお目にかかります……私、副社長の秘書を勤めております、高槻と申します」
青年はそう名乗り、印刷したばかりの名刺をマイヤーに渡した。
「副社長……秘書?」
「はい……次期社長、と言った方が正確かも知れませんが。少々お時間を頂けますか」
「さっき受付の女にここで待っていろと言われたんでね。三時から何とか会議室で講演をやることになっているんだ」
「お手間は取らせません。お願いします」
そう言った高槻の言葉には、有無を言わさぬ強引さがあった。
だが、マイヤーが大人しく彼に従い、ソファから身体を起こしたのはその強引さに屈したからではない。高槻と名乗ったこの男の背後に、何か謀略が存在しているのだと敏感に感じとったからだった。
(面白れえ。ちょうど退屈していたところだ……)
高槻に案内されてエレベーターホールに向かう時、そのマイヤーの姿を追うように動く視線があった。
『義一が、マイヤーを……』
エレベーターが閉じる瞬間、猿のような赤ら顔の老人が吐き捨てるように言う口の動きをマイヤーは読みとった。
「副社長の、佐々木義一です」
入ってきたマイヤーを見て義一は立ち上がり、握手を求めた。
マイヤーが通されたのは義一のオフィスではなく、中間管理職クラスの社員用の手狭な会議室だった。
「握手は遠慮させてもらう。……そういう習慣には馴れていないのでね」
その、ふてぶてしいともとれるマイヤーの態度を見て、義一は口元に浮かぶ笑みを堪えることは出来なかった。彼ならば、期待する以上の働きをしてくれるに違いない。
「いったい俺に何をさせようって言うんだ、未来の社長さんよ?」
そう言って、マイヤーはすごみのある表情を作った。
「高槻、ファイルを」
義一は扉のところで直立の姿勢を保ったまま表情を固くしている高槻にそう声を掛けた。アメリカから帰国したときに、空港まで出迎えに来た秘書……それが高槻だった。社内の情勢がどう変わっているのか分からない今、以前使っていた秘書を使うのには躊躇するものがあった。義一がアメリカに行っていた間、彼は他の重役たちの秘書として働いていたはずだからだ。
その点、高槻にはそういう心配は不要だった。
大学を出てまだ数年にしかならない青年で、秘書と言っても与えられる仕事はほとんど雑用ばかりという下っ端だったからだ。
高槻のような実績のない社員を「副社長秘書」に抜擢した義一のやり方を、好ましい目で見ていた重役はいなかった。
義一の第一秘書となる。
……それはつまり、ごく近い将来「社長秘書」という肩書きを与えられると言うことなのだ。しかも、これまでに例を見ないほどの若さでだ。
「……俺だってニュースくらい目を通しているよ」
マイヤーはそうぼやくように言った。高槻に差し出されたファイルは群島日報に流された佐々木辰樹死亡の記事をプリントアウトしたものから始まっていたのだ。
警察の資料からコピーされたらしい事故現場の写真が何枚か続き、最後に社葬の会場で義一がスーツバックの中から発見した脅迫状が挟み込まれていた。その文面を読むマイヤーの表情は少しずつ変化をはじめていた。
「暗殺されたと言うわけか」
「そう断定するつもりはない。父の死因は本当に交通事故で、脅迫者がそれに便乗したのだということも考えられる」
「それで……通りすがりの俺にこんなものを見せて、どうする積もりだ」
「この会社には、私も含めて副社長が三人いてね。父の死によってその三人のうちの誰かが、社長の椅子を手にすることになるわけだ。……最も、それは建て前で、すでに私の社長就任は決定しているようなものだが、それを快く思わない連中もいる。こういう手紙を送るやつらが、だ。そこで、私は身近に君のような男を置きたいと考えている」
「つまり俺に、ボディガードになれということか」
「飲み込みが早くて助かる。君の過去の華々しい戦歴は調べさせてもらった。私はその腕を買いたい。……君も、まだ引退するには早いだろう?」
義一の顔を見つめて、マイヤーは僅かに目を細めた。
表情を伺っているようでもある。
「この脅迫状を出したのは、社内の人間なのか?」
「それはまだ断定できない。だが仮に社内の人間なのだとすれば、副社長の一人、西崎昌明が容疑者として浮かぶ」
「……脅迫状に出ている、浩二ってのは誰なんだ」
「私の腹違いの弟で、三人目の副社長だ。だが、彼は容疑者からは外して考えていい」
「ほう、なぜだ?」
「この会社は……成り上がりでね。現在の重役はみな、策略に長けた一癖も双癖もある連中ばかりなんだ。ただひとり、浩二を除いて。だからこそ、やつが選ばれた。有能な人間を傀儡に使おうなどと考える奴はいまい?」
「なるほど……」
「社内の人間関係にそれほど興味を持っていただけたということは、依頼の承諾と受け取っていいのかな、助教授」
その義一の挑発的な言葉に、答える変わりにマイヤーは立ち上がり、テーブルの上に置かれていたメモ用紙に七桁の数字を書き込んだ。
「これが俺の要求する報酬だ。スイスにある口座に全額前金で振り込んでもらう」
「法外な値段だな。まあ、いいだろう。すぐに手配しよう」
「鼻持ちならん金持ちの坊ちゃんだな。金で買えないものはないと思っているのか」
「無駄金を使う気はない。支払った分だけの働きはしてもらうさ。報酬は君の腕の評価だ。……私は、自分の生命をこんなに安いものだとは考えていない」
そう言って義一はメモブロックからマイヤーが数字を書き込んだページを破りとり、握りつぶして屑篭に投げ込んだ。
義一とマイヤーの視線がぶつかりあった。
「マイヤー助教授、そろそろお時間です。講演会場の方へどうぞ」
凍り付いた沈黙を破ったのは高槻だった。
促されるままにマイヤーは部屋を出る。ドアの外にはさっきの……ロビーで姿を消した受付の女が立っていた。
マイヤーの出て行った部屋で、高槻は不安そうな表情を義一に向けた。彼の考えを読み切れずに苛立っている様子だった。
「高槻、間違えるな。私はまだ、副社長だ。そういうミスは……些細なことだが命取りになることもあるぞ」
「……申し訳ありません。副社長」
「おまえはどう思う。あの脅迫状を出したのは西崎だと思うのか?」
「……いえ、私にはその判断を下すだけの力量はありません。しかしあの日、私が奥様からスーツバッグをお預かりしたとき、同じ部屋に橋川専務がいらっしゃったのは事実です。橋川専務なら、バッグに脅迫状を入れることも……」
「橋川はそれほどうかつな男ではないよ。脅迫状を入れさせるのなら……おまえのような下っ端を……どこの派閥にも属しておらず、重役の誰とも接触を持つ機会のないような、そういう人物を捜してやらせるはずだ」
その義一の言葉に、分かったような、分からないような曖昧な表情を向けて、高槻は小型のスケジューラーを取り出した。
「マイヤーの講演にいらっしゃいますか? 雑誌の取材までに、多少時間がありますが」
「いや、目を通して置きたい書類があるからな。部屋に戻る。雑誌の取材ってのは?」
「えーと、三時十五分からで、雑誌はジャパン・タイムです。今日取材に来るのはフリーの記者で広川庵人。カメラマンが同行、となっています。辰樹社長の死亡事故と、今後の社の方針について……主にバイオスフィア計画のことですが、副社長のコメントを聞きたい、という内容になっています」
「分かった。……時間になったら部屋に通せ。それから高槻、私は長い時間を待つつもりはないし、手取り足取りおまえを育ててやる積もりもない。社長秘書になりたいか、と聞いたときにおまえは『なりたい』と答えたはずだな?」
「……はい」
「今も気持ちは変わっていないか?」
「変わっていません」
「だったら仕事の能率を上げろ。教科書通りのいい子ちゃんの秘書ではなく、私の必要としている有能な存在になれ」
義一は歯がゆく思っていた。
高槻は確かに、彼と同じ年齢、経験の連中から比べればはるかに有能な人材だ。人の考えを深く読み、行動に先回りして準備を整える能力に恵まれた……秘書として誰からも求められる存在だった。
だが、経験の浅さはそうした能力だけではカバーできない。
策略を練るだけの悪知恵も持ち合わせてはいなかった。何をするにせよ、素直すぎる。それはある意味では美徳なのだろうが、今の義一には邪魔なだけだった。
他人を陥れ、蹴落としていくたびに罪悪感に苛まれているようでは話にならない。謀略が大好きで目的のために悪事を思う存分楽しみ、そのくせ他人には「あの人はいい人で」と言われたがっているような(例えば坂井俊介のような)八方美人でセコイ男の方が、こういう時には役に立つのだ。
「申し訳ありません。心がけます」
(絶対タダ者じゃない)
マイヤーはスラックスにTシャツ、薄手のコートという服装だったのだが、香南は一目見ただけで彼が軍事学部の関係者だということを見抜いた。
(カッコいいぜ、畜生)
思わず握りしめた拳をふるふると震わせる。
人目がなければタックルをかまして大理石の床に押し倒し(香南のタックル程度であの巨体が押し倒れるかはさて置いて……)、あの角刈りを逆撫でしていたところだ。
それで相手がどんな反応を返すかは想像もつかないのだが(少なくともマイヤーはそこで平静を保っていられるタイプではあるまい)、それが香南の精いっぱいの感情表現だった。
嬉し恥ずかし一目惚れってやつなのだ。
……過激である。
いわゆる、プッツン一歩手前の危ないやつ。
それが森沢香南(16)だった。
「何だ、今の小学生は」
動き出したエレベーターの中で、義一はたった今自分の目で垣間見た光景が信じられずに呆然としていた。あんなものを社内で見かけるなんて思いつくわけはない。
「あ……あの、ですね。北海の珍……いえ、食料品を扱っている業者の者で……。あれでも中学は卒業しているという話です。社内での販売をしているのですが、私も詳しいことは余り……」
彼女には、高槻も一度引っかかったことがある。
まだ彼が秘書課のオフィスで郵便物の分類かなんかをやっていた頃、さんざんゴネられ、踊りまくられた挙げ句に帆立て貝柱1キログラム入りのパックを押しつけられたのである。
しかしまさかそんな話を、義一相手にする訳には行かない。
「社内に食料品の行商人が入っているとは知らなかった」
義一は苦笑した。
「神出鬼没と言いますか……この辺りの企業という企業、家庭という家庭に出没しては商品を売りつけるという、かなりきわどい商売です。何度も警備員がつまみ出しているんですが、ちょっと油断すると潜り込んでいるようで……」
「神出鬼没……か」
何かを思いついたような、そんな表情を義一は浮かべた。
広川庵人はそう言って、同行しているミハイル・ケッセルを振り返った。いや、正確には同行しているはずの……だが。
振り返った広川の視界に、ミハイルの姿はなかった。
当の昔に通り過ぎたはずの受付カウンターに引っかかっている安い背広の背中が遥か遠くに見える。
(……気配がないと思ったらすぐこれだ……)
肩を竦めて立ち止まる。
ミハイルの小柄な身体はほとんどカウンターに寝そべるように乗り出している。ああなってしまっては首根っこ掴んで引きずっていく以外にあの場から引き離す手段はない。
「彼女、いくつ? 恋人いる? 日本の女の子ってやっぱりキレイだねぇ。俺、嫁さんもらうなら日本人って決めてたりするんだよね。ウシシ。その服、良く似合う、最高! イカしてる」
口説き文句は田舎の高校生レベルである。
「お誉め頂いて光栄です。わが社の受付係の制服は花枝森子デザインのオーダーメイドでございます」
レースの衿をあしらったえんじ色のスーツを、女は見事に着こなしていた。その女の浮かべた婉然たる笑みには、ミハイルの軽口になどほいほいと裁いてみせるという余裕と自信が満ち溢れている。
「諦めろ、マイケル。おまえより三枚くらい上手だ」
そう言って、広川はミハイルの肩を叩く。
「オー・マイ・ゴッド」
「……おまえはドイツ人だろうっ! ミハイル・ケッセル!!」
大仰に手を広げてみせるミハイルにそう怒号を浴びせかけ、さっさと歩き始めた。
「それでは、質問をいくつかさせて頂きたいと思います」
佐々木義一と広川の間で型どおりの挨拶が行われている間に、ミハイルはカメラのセットを完了していた。
「一匹狼気取りの礼儀知らずという訳か……。フリーライターなんていう人種にろくな奴はいないと聞いていたが、その通りだな。……広川くん、サングラスを外し給え」
話を始めようとした広川に、そう義一の鋭い声がとんだ。
「……こりゃ失礼」
悪びれずにそう言って、広川はサングラスを外した。
義一が声を荒げたときに、扉の前に立っている若い秘書がびくりと身体を硬直させたのを、広川は視界の端でしっかりと捕らえていた。社長就任が約束されたも同然の男の秘書としては、いかにも役不足と言った印象の若造だった。
「単刀直入に言わせてもらいますよ、佐々木さん。前社長の佐々木辰樹氏の死亡事故ですがね。あれは……本当にただの交通事故だったんですか?」
「どういう意味です?」
義一の表情はぴくりとも揺るがなかった。
ほんの一瞬だが、背後の秘書が狼狽したようにも見える。
「いろいろ、疑惑があるんじゃないんですか、本当のところは……」
「取材ではなく、恐喝が目的かね」
「辰樹氏のワンマン経営に不満を持っていた重役は多いはずだ。……そして彼は競合する会社にも敵が多い。佐々木建設が辰樹氏一代でのし上がってくるには、きれいごとだけでは済まされないさまざまなことがあったはずです。買収、ダンピング、手抜き工事。……彼の死が暗殺だと仮定して……一体動機のある人間はどれくらいいると思います? 佐々木さん、あなたの社長就任はすでに半ば決定しているようなものかも知れないが、それを阻止しようとしている人間も多いんじゃないんですか」
「あまりうかつな発言はしないことだ、広川くん」
義一の顔が不機嫌そうに歪められた。
その表情を、ミハイルのカメラが追う。
「俺は別に、あなたを脅すために来たわけじゃありませんよ。ただ辰樹氏の死因が事故ではなく他殺ならば……それを明らかにしたいだけです。あなたは不本意ではないんですか、万が一社内の不穏分子によって暗殺されたと言うのなら、それは会社のマイナスイメージにつながるかも知れない……それでも、あなたは辰樹氏の実の息子だ。父親が誰かに殺されたのだとしても、スキャンダルを恐れて泣き寝入りを……」
「父の死因については、警察から充分な説明があった。その上で……不幸な事故だったと受けとめている。君は何か、勘違いをしているんじゃないのか」
「辰樹氏を失って、佐々木建設がバイオスフィア計画から撤退すると言うようなこともあるんじゃないんですか?」
広川は、恐らく辰樹の生前から佐々木建設の内部に興味を抱いていたのだろう。
彼が佐々木建設に……いや、辰樹や義一に対してあからさまな敵意を持っているわけではなさそうだった。
だがそれでも、義一はこれ以上広川と顔を突き合わせている積もりはなかった。
早々にインタビューを切り上げて、この男を部屋から追い出したかった。
広川は喋りすぎる。
このオフィスにも盗聴機が仕掛けられている可能性は大きい。そんな場所でこれ以上、この男にあることないこと喋らせるわけにはいかなかった。
「……失礼ですが、お時間ですので」
その義一の思いを見透かしたように高槻が口を挟んだ。
「絡め手で攻めるというやり方を……君は覚えた方がいい。これまでどんな風に仕事をしてきたか知らないが、下司なのら犬根性で人の懐を探り回るような真似はやめることだ。高槻、広川くんをお送りしてくれ」
「今日は失礼するが、佐々木さん。これで俺が諦めるとは思わないでもらいたいですね。必ず……辰樹氏の死に関する疑惑を俺の手で暴いてみせますよ」
それを捨て台詞とばかりに広川は腰を上げた。
カメラをバッグにしまうのももどかしくミハイルが後を追う。
「ああ、広川くん。……最後にひとつだけ、君の質問の答えを教えよう」
高槻の開いたドアから出ようとするふたりに、義一はそう言葉をかけた。
「佐々木建設がバイオスフィア計画から撤退することは絶対に有り得ない。絶対に、だ。父の遺志はこの私が受け継ぐ。佐々木建設はバイオスフィア計画を成功させ、必ず宇宙への進出を果たす」
必ず……と言った義一の言葉には、強い力が込められていた。
「佐々木……浩二、か」
麗子は無意識のうちに指を口元に運んでいた。嘗めた指先がゆっくりと彼女の唇をなぞる。再び彼女の指がキーを叩き、表示を顔写真に戻した。
ほっそりとした輪郭、全体的に柔和な印象を与える目鼻立ち。取り立てて美男というわけではないが、それなりに整った優男っぽい佐々木浩二の顔を麗子は長い時間ぼんやりとながめていた。
佐々木辰樹のやり手らしい脂ぎった印象や、長男の義一の刺すような鋭い印象は、同じ血を受けながら浩二には感じとることはできないものだった。
御しやすそうな腑抜けだ。
麗子が浩二に対して抱いた印象はその一言に尽きる。
やがて視界を案内係のえんじ色の服がかすめたので、麗子は顔を上げた。
「たいへんお待たせいたしました。副社長がお会いになるそうです」
その声に、小さく頷く。
ノートパソコンを手早くたたんでキャリングケースにしまうと、細いヒールをかつんと鳴らして立ち上がった。
アポイントも取っていない突然の訪問に、副社長という役職にある者が応えてくれるとは期待していなかった。二、三度は無駄足を踏んで当然と覚悟をしていたのだ。
(まさか、こんなにあっさり事が運ぶとは思わなかったわ)
アポイントのない客とは会うな。
それは周囲の人間に口うるさく言われていた事なのだが、
「せっかく来て下さったんだし……」
と言って時間をやりくりし、たとえわずか数分でも会わずにはいられない。佐々木浩二はそういう男だった。
他人の都合でずるずると行動を左右される浩二が、自分から話をてきぱきと済ませて客を帰すなどという芸当ができるわけはない。他の重役なら五分で終わる取引先との商談が、浩二に任せると一時間話し込んでもまだ書類に判子ひとつ押していないというようなていたらくも、すでに日常茶飯事といえる部類の事だった。
天気の話題、ゴルフのスコアから家庭不和の相談まで……訪れてきた客の方だって、よそでは絶対に口にしないような話題を、浩二の顔を見るとついついこぼしてしまうのだ。
「根はいい人なんだが……いかんせん優柔不断で……」
……というのが、社内での佐々木浩二の一致した見解である。
妾の子とは言え、幼い頃から手元に引き取って育ててきた浩二を、辰樹は辰樹なりに可愛がり、期待をかけていた。兄であり、歴とした嫡子である義一とも分け隔てなくチャンスを与えて……。
『おまえの様な立場に生まれた者がそんなお人好しでどうする。もっとしっかりせんか。……誰もが私のあと、社を継ぐのは義一だろうと考えているが、私はまだそんなことを決めてはおらん。妾の子だろうが赤の他人だろうが、それにいちばん相応の人間を選ぶつもりだ。兄を出し抜くくらいの気概を見せろ、浩二』
子どもの頃から、父は浩二にそう言い続けてきた。
だがそういう辰樹の期待に、浩二が応えられた事など一度もなかった。
兄の背中を常に見つめて育ち、
「兄さんってカッコいいなあ……」
なんてことを……嫉妬や羨望なしに素直に言えてしまう。そんな奴に、兄を出し抜いて業績を上げ、人望を集めて社長の座をモノにするために地場固めをする……といったような芸当ができるわけもない。
もはや国内では業界のトップの位置にのし上がった佐々木建設の社長という肩書きは、浩二には重すぎるものなのだ。義一のように父の思いを継ぐという確固たる目的があるわけでもなければ、地位や名誉に対する野心があるわけでもない。ひたすら穏やかな生活を望んでいるだけなのだ。
「どうぞ、お待たせしてしまって本当に申し訳ありません」
オフィスに入ってきた麗子を、立ち上がって迎え、浩二は人当たりのいい笑顔を浮かべた。
「初めまして。……本来なら然るべき人物のご紹介を受けてご挨拶するのが筋なのですが、なにぶん、急ぐ用件でしたもので、突然お邪魔して申し訳ございません。ディア・グルッペ・シュペーア極東支部総務本部長を勤めております、神野と申します」
「DGSさんのお噂はよく耳にします。極東支部は優秀でおきれいなマネージャーの……椎摩さんでしたね? 彼女が動かしていらっしゃるとか。社屋を移転なさったという旨の通知をこの間頂きました。……あ、どうぞお掛けになって下さい」
名刺を受け取りながら、浩二は麗子を部屋の一角を占める応接セットへと案内した。勧められたソファに腰を降ろすと、壁一面を覆い尽くす特注の巨大な水槽が麗子の視界に飛び込んでくる。
分厚いアクリルの向こうに、すでに1メートルを越す体長に成長したホワイトスタージョン……シロチョウザメの姿があった。北米のチョウザメの中では最大の種で、自然界では6メートル以上にも成長する。七千万年前の地層から現生種に似た化石が発見されたことから、生きた化石とも呼ばれる硬骨魚類の一員。
どう考えても趣味のアクアリウムというには度を越した代物である。
ホワイトスタージョンを見つめる麗子の驚愕の視線を、浩二は嬉しそうに見守っていた。
「今度あっちの壁にも水槽を設けて、そこにはアマゾンのピラルクーを入れてやろうと思っているんです。大型魚が好きでね」
そう言って、浩二が指した壁には今は書類棚があった。その棚の中にも60センチ程度の水槽がはめ込まれていて、アハイア・グランディ……パラグアイ産の淡水エイが笑った顔のように見える白い腹をこちらに向けて踊るように身体を揺らしている。水槽の中のものはまだ20センチに満たない幼魚だが、アハイア・グランディも成長すれば1メートルを越す大型魚である。
「このチョウザメがグレゴリオ、あっちのエイはマキューシオって名前なんです」
喜々として話す浩二の表情を横目に、麗子はため息をもらしそうになっていた。
浩二の秘書が二人の座るテーブルにミントンのティーカップを置き、一礼して部屋を出る。広々としたオフィスは、浩二と麗子だけしかいない密室となった。
「……結構な趣味ですわね。で――用件に移らせて頂きたいと思いますが」
「つい魚のこととなると、夢中になってしまって。……どういうご用件でしょう? 確かDGSさんはうちの社とはおつき合いがないと思いますが……」
話を切り出した麗子に浩二がそう応えたとき……それまで低姿勢だった神野麗子は、巨大な資産を誇るDGSのエージェントとしての威圧的な態度に変わっていた。いや、少なくとも表面上は、何も変わってはいない。ただ彼女の形の良い唇が、僅かにその端を持ち上げて微笑を作っただけの事だった。
「私がここに来た目的は非常に単純よ。お父様の――佐々木辰樹氏の訃報はニュースで拝見したわ。そこで……あなたに佐々木建設の次期社長になって頂きたいの。そしてバイオスフィア計画から直ちに全面撤退しなさい」
「な……」
浩二は目を丸くして、麗子の顔を見つめた。
すでに麗子はあらわな命令口調を押し隠そうともしなかった。例えば義一がそうであるように……麗子も生まれながらにして命令を下す側の人間なのだ。
DGSの野心は、世界経済のイニシアチブを奪取することに向けられていた。すでにDGSは世界各国でその経済を裏から掌握し、コントロールしている。麗子自身も中東地域で……ユダヤマネーを押さえて経済界のリーダーシップを発揮するべく活動し、そして成功していた。
そしてDGSの目は、この日本にも向けられているのだ。
極東におけるDGSの経済支配。
バイオスフィア計画はそのモニュメントとしてふさわしい大事業だった。この計画をDGS建設セクションが手にする事で、日本経済界制圧の記念すべき第一歩を踏み出そうとしているのだ。
だが、日本の政界と建設屋との親密な関係の中に、DGSがすんなりと割り込んでいくことはできなかった。その結果としてバイオスフィア計画は佐々木辰樹の掌中に収まったのである。
どうやって辰樹の手からバイオスフィア計画を奪うか……。
そう思案している矢先に、辰樹は死んだ。
佐々木建設の社内には以前から辰樹のワンマン経営を批判する声が上がっていた。バイオスフィア計画からの撤退を望みながら、辰樹に押し切られた重役たちのフラストレーションを刺激する事で、内部から佐々木建設を切り崩していくことはたやすいだろう。
だが、単に佐々木建設を崩壊させることがDGSの……そして麗子の目的ではなかった。薄汚いやり口でのし上がってきた佐々木建設だが、今日までに築き上げてきた技術や人脈、確保したシェアは大きい。無意味に潰してしまうには惜しい存在だった。
攻撃より、吸収……それが麗子の出した答だった。
DGSの極東における手駒のひとつとして、佐々木建設を自らの懐に収めてしまうのだ。
その為には義一は社長として適任とは言えなかった。
もっと俗な人物を傀儡として社長の座に据え、意のままに操ることが必要なのだ。
そして、佐々木辰樹には傀儡にふさわしいもう一人の息子がいたのだ。
佐々木浩二。
今、麗子の目の前におびえているようにさえ見える驚愕の表情を晒している男だった。
「もちろん、ただで、とは言わないわ。我々DGSは見返りとしてあなたの会社の全面的なバックアップにまわるわ。辰樹の手腕だけで現在の地位をぎりぎり保ってこれた佐々木建設が、安定した地位を確保し、我々の莫大な資金を手にすることができるのよ」
すでに浩二は完全に麗子のペースにのまれていた。
麗子の高慢そうな微笑を前に、何一つ言葉を返すことができない。
「ロスチャイルド、ロックフェラー……世界各地に根をおろし、巨大なシンジケートを作り上げた華僑でさえ、我々の力を脅威と感じ、傘下に下ろうとしている。その我々がこうして出向き、あなたの会社を高く買おうと言っているのよ。……あなたという社長をその座に据えたままで。いい話ではなくて?」
「待って下さい、神野さん。そんなことができるわけがないでしょう」
「おやおや、ずいぶんと贅沢だこと。この条件ではご不満なの? それとも社長になって業務をこなすのが煩わしいのかしら? だとしたら何の心配もいらないわ。現在の佐々木建設の重役と、DGSのスタッフですべての仕事をこなすよう手はずを整えましょう。あなたはただ社長の座に座ってくれればいいの。辰樹の息子として、彼の正当な後継者としてね。それだけで金も女も思いのままの生活を手にすることができるわ」
だが、それでも浩二の表情は固いままだった。
「それともあなたは……地位が欲しいのかしら? お父様やお兄様が渇望しても手に入れる事のできない、一介の建設屋の社長なんかではない地位が。我々にはそれを与える事だってできるわ。いますぐにでもあなたを我がDGSアメリカのマネージャーとして推挙して……」
「あなたは兄を知らなさ過ぎる」
ようやく……浩二はその言葉を口にして麗子の話を中断させることができた。
「ぼくの望みはね、あなたや兄のようなタイプの人間の思いつく場所にはないんだ。いいですか、神野さん。こうして乗り込んでくるからには、ぼくの事は何でも調べ上げているんでしょう? 良く分かっているはずじゃないですか。あなたの考えている通りの、何の取り柄もない凡庸な人間です。でもね、ぼくにだって夢がある。狡猾なやり口に乗せられて、傀儡になるよりもっともっと美しい夢があるんです」
そうして声を荒げてみせても、浩二の身体は気弱に震えていた。
だが麗子はその浩二の言葉を……誤解していた。もっと別に欲しいものがあるんだという要求だと誤解したのだ。
「失礼しましたわ。では、その美しい夢というのを聞かせていただけないかしら。無理なお願いをしているんですもの、こちらとしてもあなたの出す条件をできる限り受け入れる準備があるわ」
「ぼくの夢はね、この群島の……どっか隅っこの方でいい。ささやかな水族館を作ってそこの館長さんになる事です。遊びに来た子供たちに魚の話を聞かせて上げることなんです」
「水……族館?」
麗子は拍子抜けしたように言って浩二の顔を見つめた。
からかっているのだろうか、とも考えたが、浩二の表情は真剣そのものだった。
「そうです。でもそう聞けば、あなたはそんな事はたやすいと笑うかもしれませんね。DGSさんの資本を持ってすれば、水族館のひとつやふたつ、何でもないはずだ。でも、それがぼくの到達したい場所だなんて思わないで下さい。ぼくは自分の家族が大切なんです。家族っていうのは、亡くなった父であり、生さぬ仲のぼくを引き取って育ててくれた養母であり、妾の子を本当の意味で弟として扱ってくれた兄のことです。その家族が、ぼくを父の後継者候補のひとりとして望んだ。だからぼくはこうしてここにいるんです。後継者争いにぼくは敗れる。兄こそが父のあとを継ぐにふさわしい存在だから。そうして兄が社長になってくれればぼくは満足なんです。それを見届ければ、会社を辞めて水族館を作るための準備を始めることができる。騒動なんか起こしたくはないんですよ」
浩二は目を潤ませて一気に喋った。
これまでため込んでいたものをすべて吐き出しているようだった。
社内の動きに、浩二とてまるで無関心でいたわけではない。辰樹の死後、バイオスフィア計画をめぐって重役たちは浮き足立っている。義一を社長に立ててこのまま宇宙への進出を目指していくのか、あるいは浩二を傀儡に、副社長の西崎が社を動かしてバイオスフィア計画をはじめとする宇宙開発の分野から撤退するのか。
西崎はバイオスフィア計画につぎ込んできた金を別の場所に動かし、事業を拡大して総合企業への道を歩みたがっている。そうすることで環境破壊の先兵である開発屋として固定してしまった佐々木建設のイメージを一新させようと考えているのだ。
その西崎の提案に賛同する重役は少なくない。
だがこれまで、浩二はそうした西崎たちの動きに、見て見ぬ振りを続けてきた。
彼らの覇権争いに巻き込まれないようにすること……浩二にできるのはそれだけだった。
「分かりましたわ」
一言、そう言って麗子は立ち上がった。
「でも覚えておいてね。私は執念深いのよ。絶対に諦めないわ」
「……二度とお会いするつもりはありませんよ。さあ、早くお帰りになって下さい」
「顔色が悪いわよ。こんな策略には馴れていないのね? でも、腹を決める事ね。水族館の館長だなんてことを言っている場合ではないはずだわ。あなたに目をつけているのは私だけではないはずだもの」
社内の事情を何でも知っているんだというような、そんな含みを感じさせる言葉だった。麗子の冷たい視線に捕らえられて、浩二は強く唇を咬んだ。
(脆いこと……。もう二、三度もつつけば必ず落ちるわ)
「ね、浩二さん。あなたお父様が本当に事故でお亡くなりになったと思っているの?」
「……な、んですって?」
「義一さんがアメリカから帰ってからの行動を、少しもおかしいと思わなかったの? どこの馬の骨とも知れない若造を秘書にしてみたり、警察に事故の詳細を確認したり。事故を起こした相手方の運転手の身元調査までしているようじゃないの。脅迫でもされているんじゃないのかしら?」
「……脅迫?」
「まさか全然気がつかなかったとはね。大した洞察力をお持ちだわ」
「警察に……」
「愚かな真似を。頭を冷やしなさい。犯人が社内の人間かも知れないとは考えつかないの? DGSが佐々木建設を吸収すると決めた以上、スキャンダルに巻き込まれるのは困るのよ。あなたには今までと同じように……何もしないでいてもらわないとね。じゃ、これで失礼するけど……これっきりだなんて思わないでね。何度でもお邪魔するわ」
「まさか……DGSが……?」
出て行こうとする麗子の背中に、浩二の震える声が届いた。
「どうかしらね。でも、そうするだけの力は我々にもあるわ」
それだけを言い残し、麗子は部屋を出て行ってしまった。
その場に立ち尽くしたまま、浩二はどうすれば良いのか分からず途方に暮れていた。
水槽の中でホワイトスタージョンのグレゴリオが、ばしゃっと水を散らして身体を旋回させた。