Act1-1;ホテル王の夢、建設屋の野望
この映画が作られた1968年に辰樹は生まれた。
もともと辰樹は、映画好きという方ではない。『2001年宇宙の旅』も、高校生の時分に映画好きだった友人宅へ遊びに行ったとき、話の種にと見せられたものだった。
今となっては、ストーリーもぼんやりとしか覚えていない。
骨を振り上げた猿と、巨大な石盤の関係については、友人の説明を何度も聞いたが結局理解できなかった。
「墓石みたいだな」
……長々と説明を聞いたあとに、ため息混じりにもらした辰樹の言葉を聞いて以来、友人はその石盤の話をしようとはしなかった。
「お前、ホントに目に見えるものしか理解しようとしない奴だな」
呆れたように、友人が言ったのを覚えている。
だがそんな映画の中で辰樹はただひとつ、「ヒルトン」のサインボードに強く興味を引かれた。そんな風に何かに惹かれたのは初めての経験だった。
だがそれでも、もう一度その映画を見てみようとか、友人のSF論に耳を傾けようとかいう積極的な行動に辰樹を駆り立てはしなかった。ただビデオモニターに映し出されたヒルトンの文字が、辰樹の記憶に焼き付けられたように残っただけだ。
その後、ふとしたきっかけから1967年のバロン・ヒルトンの発表のことを知るまで、辰樹にとって『2001年宇宙の旅』は、退屈で難解な映画でしかなかった。
バロン・ヒルトンの発表が、「宇宙飛行士になりたい」とか「スペースシャトルのパイロットになりたい」とか、挙げ句には「宇宙海賊になりたい」とか言ったレベルの、幼稚園児並の発想であったなら、心惹かれることなどなかっただろう。当時の辰樹にとって、SFはジュブナイルとアニメに代表される子供だましの絵空事に過ぎなかった。
だが、バロン・ヒルトンはヒルトンホテルの宇宙進出を「商売」として成り立たせたいのだと語っている。その……きれいなだけの夢ではありえない打算的な部分が、奇妙なリアリティを感じさせたのだ。
人間を――しかも特別な訓練を受けたわけではない一般の「旅行者」を地球の外へ導き、滞在させる。しかも、地上のホテルと変わらぬ快適さを提供して、だ。
それには高度な技術が必要とされるだろう。そしてその技術は、莫大な投資なしに生み出されることはない。
無邪気な子供の夢の延長としてではなく、莫大な投資に見合った見返りを期待する対象としての「宇宙観光」。
それはそのまま、辰樹の夢に変わった。
いや「夢」という言葉は、辰樹にとって適当な表現ではありえなかった。辰樹の思い描く光景は決してロマンティックな幻想に押し流されるものではないからだ。ストレートに「目的」と言ってしまった方がしっくりと馴染むように思える。
だからと言って、辰樹がバロンにライバル意識を燃やし、ホテル王への道を目指したかと言うと、そうではない。
ホテル経営になど、はなから興味はなかった。
こぎれいな制服に身を包んで、わがままな金持ちや分不相応な田舎者相手に愛想笑いを浮かべるなど、考えただけで虫酸が走る。そんな寛大さを自分自身に期待できないことなど、とうの昔に悟っていた。
辰樹の目指す目的――それは「宇宙観光」を受け入れる器。つまりホテルというビルディングの建設にあった。
アーサー・C・クラークが描いた空想世界は、結局2001年には実現されることはなかった。よって、映画に描かれていた宇宙ヒルトンも、未だ実現してはいない。
それは辰樹にとっては幸運と言えることだった。
時代は、辰樹が一人前になり、父親から受け継いだちっぽけな下請け会社を「佐々木建設」という名の一流企業に育て上げるまで足踏みを続けてくれた。
そしてこの東京人工群島の一角・瑠璃島で、辰樹の夢はようやく最初の一歩を踏み出すに至った。
バイオスフィアJ−U。
その実験施設の建設である。
談合と賄賂。――お定まりの茶番の果てに掴んだものではあるが、形の残る実績となることは間違いない。
本格的な実験が開始されるのももうじきだ。
佐々木辰樹はその成果に満足していた。
宇宙へ向けての開発は、まだ試行錯誤の段階にある。宇宙ヒルトンの第一号オープンが本格的な準備段階に入るには、今しばらくの時間が必要だろう。その間に、佐々木建設はもっと多くの実績を手にすることができるはずだ。
「社長、ご気分でも……?」
リムジンの車窓を、篠つく雨が濡らしていた。
その向こうをぼんやりと見つめている辰樹に、同乗していた秘書が声をかけた。彼女はちょうど、車載ヴィジホンでの通話を終えたところだった。
「いや、考え事をしていただけだ」
辰樹の乗った車は、一年前、かねてからの念願であった群島区伊島への移転を果たした本社ビルの前に到着しようとしていた。
ここにたどり着くまでの道は、決して平坦なものではなかった。
どれほどの成果が期待できるか分からないバイオスフィア計画への参入には、多くの重役が渋い顔を見せた。実際、リスクの高い仕事だった。1990年代にアメリカで石油屋の馬鹿息子が無駄金を使ってくれたお陰で、三十年経った今でも計画は懐疑的な目で見つめられている。その上、もともと乱開発でのし上がった薄汚い企業として自然保護団体の標的で有り続けていた佐々木建設への攻撃は、バイオスフィア計画への参入でさらに強いものになっていた。
「息子に……義一に良く聞かせていた、私の目的のことをね」
珍しく穏やかな表情を浮かべる辰樹に、秘書は答える代わりに訓練の行き届いた微笑を返した。
「午後の会見が変更になりました。三時からのお約束だった植田様ですが……」
一拍置いてから、秘書は事務的に話題を反らした。
だがその時、なめらかに動く秘書の赤い唇が、言葉をとぎらせ、奇妙な形に歪んだ。
それがリムジンを襲った激しい衝撃のせいだとは、辰樹にも秘書にも分からなかった。
急ブレーキを踏んだ前方の配送トラックに、辰樹の乗るリムジンが止まりきれずに突っ込んだ瞬間、建設資材を満載した後続のトラックがフルスピードのまま激突したのだ。
ぐしゃり、と音を立てて視界が潰れた。
辰樹はその瞬間を、そんな風に感じていた。
長い一瞬だった。
永遠に続く……長い長い一瞬だった。
実際には、苦痛を感じる暇さえないほどの――短い出来事ではあったのだが……。
「奥様から喪服をお預かりしています。葬儀場に簡単な控え室が用意されてますので、そちらでお着替えください。それから……」
「――死体の損傷はひどかったのか?」
車に乗り込みながら、義一は秘書課の青年を振り返った。
「は?」
一瞬、何を言われたのか分からないというような表情を、彼は見せた。
疲労のせいか不機嫌そうな義一の顔を見つめて、あわてて言葉を繋ぐ。
「……申し訳ありません。社長のご遺体は、警察での……かいぼ……いえ、その……検査を終えられて戻っているはずです。ご遺体の損傷の程度は自分では分かりかねますが、棺への献花も行うということなので、その……葬儀を執り行う業者の方で、ある程度の……治療と申しますか……」
当たり障りのない表現を選ぼうとする余り、青年の言葉ははた目に見て哀れなくらいしどろもどろになっていた。
突然の事故で父を失った息子から、感傷的な言葉のひとつもなしに、いきなり「死体の損傷は……」とやられたのでは面食らうのも無理はないだろうが、青年のおどおどした態度は義一には苛立ちを増す以外に何の役にも立たないものだった。
「分かった、もういい。死んだ秘書の葬儀に花輪と、香典を幾らか包んで……運転手の方の容態はどうなんだ?」
「重傷で、意識は回復しておりませんが……手術は成功していると言うことです」
「そっちには見舞いの品を届けろ。家族に手伝いが必要なようなら社の者を何人か回すよう手配しろ」
「分かりました」
青年がヴィジホンを操作し、たった今言われた仕事を片付け始めるのを見つめて、義一は長い息を吐いた。
疲れている。
そう、強く感じた。
ふと気を緩めると睡魔に引きずられそうになる。本社につくまでの間、睡眠をとったところで何の差し障りもないのだが、こんな下っ端秘書に寝顔を見られるのは気分のいいものではなかった。
(旅行者のいるところ……ヒルトンあり、か)
それが、義一の抱いた父への感傷だった。
確かに早すぎる死ではある。だが、だからと言って女子供のように他人に憔悴した姿を見せつけるなど真っ平だった。
ヒルトンの宇宙進出計画。
死の間際に、父も同じようにそのことを思っていたなどとは、義一はもちろん知らない。
それなのに父の死を思うときに何よりも先にその計画が浮かぶのは、父と義一を繋ぐ最も強い絆が、宇宙ホテル建設という同一の目的にあったからなのかもしれない。
父も――そして義一も、その目的のために生きてきた。
その目的のために、大きな犠牲を払いながら社を今日の規模にまで育て上げたのだ。
次期社長となるべき立場にいる義一が社の仕事から離れ、三年もの間日本を留守にしていたのは、バイオスフィア計画とそれに続く宇宙開発への進出の準備として、宇宙開発において先進国であるアメリカの企業から可能な限りのノウハウを吸収するためだった。
子供のころから、父は耳にタコができるほど高校生の時に観た映画の話を、バロン・ヒルトンの話を繰り返した。
そんな父の話を、鬱陶しいと感じながら……だが義一はかつての父がそうだったように月面ホテル建設に惹かれた。地球という巨大なゆりかごの外で人類を抱く器を、自分自身の手で――父をも出し抜いて――作りたいと願った。
それ以外の場所では、いつも父と義一は相反する存在だった。所詮、男にとって父親は越えねばならないハードルなのだ。
葬儀場に到着したとき、出迎えた重役たちの反応から、義一はすぐに彼らの間に流れる、不穏な空気を感じとった。
バイオスフィア計画への参入。
そしてそれに続く本社ビルの群島区への移転。
父・辰樹が社運を賭けた決定を独断で押し切ったことへの反感は、彼らの中に根深く蔓延しているのだ。
そして義一はその時ようやく……昨夜父の訃報を耳にして以来神経を逆撫でし続けてきた苛立ちが何であるのかを悟った。
(父は、本当に事故で死んだのか……?)
義一のために用意された控え室には妻のみづえと、六歳になる娘の若菜が待っていた。親戚や会社の者たちへの挨拶に立ち回るみづえに連れ回されて疲れたらしく、若菜はソファで猫の縫いぐるみを抱え込んだまま寝息をたてていた。
「お義父さまがこんなことになるなんて……私……」
入ってきた夫の顔を見るなり、みづえは泣きはらした目に大粒涙を浮かべた。絹の喪服と結い上げた黒い髪の間に見える白いうなじに手を回して、義一はみづえの身体を軽く抱擁した。
「お袋は?」
「……どうしても列席なさると仰っていたんですけれど、お医者さまが反対なさってお家で、浩二さんが付き添っていらっしゃいますわ。――お疲れでしょうけれど、急いで着替えてくださいね。高崎の伯父さまや、叔母さまたちもいらっしゃってるの。みなさん、あなたのお帰りをお待ちだったから……」
「ああ」
頷いて、義一はスーツバックにかけてあった喪服に手をやった。はらり、と白い封筒が落ちる。
「なんですの?」
そのみづえの言葉に、義一は答えなかった。床に落ちた封筒を拾い上げると、着替えを始める。
「叔母さんたちはもう会場の方に来てるんだろう? おまえは先に行って相手をしていてくれ。着替えを終えたら、私も若菜を連れて行くから……」
「分かりました。じゃあ、若菜をお願いしますわ」
そう言って、みづえは目の辺りにハンカチを当て、崩れた化粧を直すと控え室をあとにした。
その姿を見送ってから、義一はさっきの封筒を取り出した。
表書きは何もなかった。封も貼られていない。中にはありふれた事務用の便箋が一枚入っているきりだった。
そこに書かれていたのは……義一が封筒を拾い上げたときに感じた通りの内容のものだった。
『佐々木辰樹の死は、警告に過ぎない。バイオスフィア計画から速やかに手を引け。おまえは次期社長にふさわしくない。次期社長として適任なのは、おまえではなく、辰樹のバカげた夢の同胞でない浩二の方だ。重役の半数は――彼らが必ずしもおまえの味方でないにしても――おまえが辰樹のあとを継いで社長となることを望むだろう。だが、私と、残る半数の重役はそれに反対するということを忘れるな。おまえが社長の座につけば、本社ビルの前では再び無惨な交通事故が起きることになるだろう』
#####それなりに覚悟の必要な仕事##### |
派遣*企業(内)スパイ |
人材派遣・ゼロワンSTAFF TEL***-****** |
青春は一度しかない。だからこそ……。
募集要項■ |
「……いい企画だと思ったんだけどなぁ」
WAN・群島プロムナードの電子掲示板にアップロードした募集広告を見て、中川克巳は忌々しくため息をついた。
やっぱり、『それなりに覚悟のいる仕事』っていう見出しがいけなかったのだろうか。群島に住んでいる好奇心旺盛な新しいもの好きの連中の関心を引きつけるために、三日もかかって考えたキャッチではあるが、やはり生命の危険を感じさせてしまう辺りの胡散臭さが、
「あー、変な広告が載ってる――。でもこんなのにのこのこ出かけてく馬鹿なんていやしないわよね――」
……と軽く受け流されてしまう原因なのだろうか。
いや、応募者がまったくいなかったという訳ではない。
募集広告をアップしてからの四日間、広告を見たという来客は三名ほどあった。来客が……とわざわざ訳注をつけるのは、その三名のうちの二人が、どう考えても茶菓子を食べに来ただけだったからだ。
しかも帰りぎわ、
「……しかしまた、ずいぶん安い菓子でもてなすんですね」
と、捨て台詞を吐いていくことも忘れなかった。
どうせ、スーパーで買た1パック8個入り380円也の賞味期限ぎりぎりの草餅なのだが、ずうずうしくお代わりまでしておいてその言いぐさはねえだろう、という怒号を、中川はなけなしの理性で抑え込まなければならなかった。
かくして、残った12個の草餅は、昨日から今日にかけてすべて中川の胃袋に収まることとなった。もっと応募してくる物好きがいるだろうと、草餅のパックをふたつも買った自分の愚かな行動をいくら悔いたところで、むかむかと突き上げてくる胸やけを消すことはできない。今朝から口をついて出てくる独り言は、
「キャベジンが欲しい」
の一語に尽きる。
もともと、甘いものはそれほど好きではないのだ。
「それでも……捨てちまうのは悔しいんだっっ!!」
最後の草餅を頬張ったとき、玄関で呼び鈴が鳴った。
「金ならねえぞ」
三回くらい咀嚼した草餅をごくんと飲み込んで立ち上がり、インタホンに言い放った。
『……借金取りじゃありませんよ』
返ってきたのはある程度歳のいった男の、低い落ちついた声だった。
「自然保護団体の署名活動もまっぴらだし、布団の買い替えの予定もない。消防法は良く知ってるから消火器買わせようったって無駄だし、健康乳飲料も不思議な踊りも間に合ってる」
『なんですか、その“不思議な踊り”って』
「この界わいに出没する謎の珍味売りだ。年の頃は十五、六。年代もののマジンガンを買う資金繰りにと、神奈川出身のクセに北海の珍味を売っている。玄関前に食品サンプルを広げて居座り、不思議な踊りを踊り始めたりする。本当は幸せの踊りだって説もあるが、そんなことはどっちでも同じだ。どのみちそれが不思議な踊りであることに変わりはないんだからな。直視すると神経衰弱を起こすとか、マジックポイントを吸い取られるとか言うが、その辺は眉唾だな」
『ああ、その娘さんなら、私の家にも良く来ます。貝紐なんか結構イケますよ』
「……」
『……』
「――あんた、誰」
『坂井と申します。プロムナードの募集広告を見て来たんです』
(金づるだ)
と、中川は思った。この仕事を続ける中で培われてきた、直感というやつだ。
そういう直感はありがたい。
まともな応募者はもっとありがたい。
何しろたった一人やってきた「応募者であるらしい」女と言うのが、安物の派手なチャイナドレスに、なんとかお茶の間ショッピングかなんかで買ったらしい偽物の毛皮のストールをぶら下げた、チビで小太り、脂性という途方もないブスだったからだ。
しかものっけから、
「あたし、スパイの美学に憧れてるんですー。キャッ。スパイをやるには、それなりの恵まれた容姿っていうか……あたしが言うと嫌みに聞こえるかも知れませんけどぉ、整った外見ってやつが必要だと思うんですよね」
と宣った。
中川は「犯して殺すぞ、このアマぁ」という言葉をとりあえずは飲み込んだ。こんな馬鹿を相手に喧嘩を始めたくはない。どうせ理屈の通じる相手ではないのだ。それからパックの中の固い草餅をひとつ、むんずと掴み、女の口にねじ込んで、部屋の外へ引きずり出した。
だが、とりあえず今度のは、インタホン越しの声を聞く限り……まともと言えそうな類の男だ。
中川はインタホンを置いて立ち上がり、玄関のドアを開けた。
茶色の紙袋を下げた冴えない風体の初老の男が一人、所在なげに立ち尽くしていた。
坂井を部屋へ通しながら、中川は頭をかいた。
「人材派遣……とありましたが、お仕事はこちらで?」
部屋を一瞥して、坂井が言葉を発した。散らかり放題の1LDK+ロフトという間取りは、住居と仕事場の兼用に当てているにしてはずいぶんと狭い。人材のデータはすべてコンピュータに治められているらしく、室内には仕事関係の資料の束らしいものは見あたらなかった。
「まあ、仕事場ったって、登録した社員はみんな派遣先へ行きますからね。ここは俺一人がいられりゃいいだけの場所なんスよ。入って適当に座ってください……あ、汚いけど座布団使います?」
フローリングの床にそのまま座り込んで、中川はさっきまで自分が使っていた、一枚しかない座布団を坂井に勧めた。近所をうろついている野良猫が、入り込むたびにねぐら代わりに使うので、謙遜ではなく、本気で汚い。
だが勧められた坂井の方は、あまり気にする様子もなく腰を降ろした。だらしなくあぐらをかいている中川の前で、きちんと膝を揃えている。
「ご丁寧に……どうも」
「茶菓子をちょっと切らしてるんですよ。もし何だったら、今から買ってきますけど」
「いえ、構わんでください。甘いものはどうも……。あ、これ少しですが、どうぞ。ちょっと作ってみたもんで、若い人のお口に合うか分かりませんが、ご挨拶代わりにでもと思って……五平餅と松風焼きなんです」
言いながら、坂井は吊り下げていた紙袋からタッパーウェアを取り出して蓋を開けた。焼けた味噌の匂いが鼻先をくすぐる。
「実は私……丹島で小さな味噌屋をやってるんですよ。あそこの……『味の屋』ってご存知ですか。きれいな女将さんがやってる……。その隣なんですがね。まあ余り流行ってるとも言えない店なんで、ご存じないかも知れませんが……。あと……こっちは、味噌の原料は大学の農学部から安く分けていただいてましてね、そこの教授の白葉さんと仰る教授が、家に遊びにいらしたときに持ってきてくださった『夜明け前』という吟醸酒で、なかなかいい味なもので、中川さんにもおひとつと思いましてね。面接におしかけて来ていきなり酒を勧めると言うのもなんですが……ま、ちょっと味見して下さいよ」
「『味の屋』なら何度か行ったことがありますけどねえ、あの隣に味噌屋なんてあったかなあ。……で? どういった職種での登録をご希望で?」
「え? スパイ以外にも募集していたんですか」
「……ええ、まあ。ウチは一応まっとうな人材派遣屋ですからね」
五平餅をかじりながら『夜明け前』を開け、床に転がっていた茶碗をふたつ拾って注ぐ。その作業を続けながら、だが坂井の一言で中川克巳はちょっと不機嫌そうな表情になっていた。
縁島の公営住宅に近い安マンションの1LDK+ロフトで手狭にやっている人材派遣会社「ゼロワンSTAFF」だが、業界ではそれなりに名を知られた存在だった。
もちろんそれは規模や年商からくる評価ではない。
大手の人材派遣会社とは、目指す方向性は全く逆の方向に向いているからだ。
中川克巳は、学生時代に出入りしていた求人情報誌の編集部で様々な求人票を見ているうちにこの商売に足を踏み入れ、さっさと中退して金儲けを始めた。最初の一年ほどは、型どおりの人材派遣屋をやっていたのだが、信頼と品ぞろえがものをいう商売だけに、なかなかうまく行かなかった。そこで、手っとり早くゲリラ戦法で名を上げようと「お茶汲み」と「コピー取り」に目をつけたのだ。
OLならば誰もが一度は経験し、
「あたし、こんなことするために入社したんじゃないわ」
とぼやいている、アレである。
街でナンパした女に「お茶汲みとコピー取りのエキスパート」という値札をつけて企業に売り飛ばしたのが最初だった。
中川にしてみれば背水の陣もいいところ、半ば自棄と言えないこともない出たとこ勝負の大博打だったのだが……これが以外にも当たってしまった。
そうなのである。
OLがみんな優秀とは限らない。
中にはパソコンのキーボードからAのキーを捜し当てるだけで9TO5の勤務時間の大半を空費してしまうスカポンだっている。有給休暇をとりまくり、ひとたび出社してもデスクにつく時間より、湯沸かし室で上司の禿について論じ合う時間の方が長い女、得意先からの電話の取り次ぎさえまともにできない癖に、隣の課の不倫相手の上司との密会の約束の時だけは立派に正しい敬語が使えたりする、どぉぉしようもねぇ女だっている。
そういう奴に限って、「あたし、お茶汲みするためにぃ……」という前出の台詞をしゃらっと言ってのけたりする。
ゼロワンSTAFFの送り出した新型兵器「茶運び派遣娘」は、まず、そういう女たちを味方につけた。
つまり、
「お茶汲みなんか、派遣の仕事よ」
……と彼女たちに言わせることで、オフィスに茶運び娘を装備させる下地を築くことができたのだ。
そして、茶運び娘たちの活躍が頭角を現すと、今度は雇用主の側が味方となった。お茶汲みさえまともにできず固定給をむさぼりながら、優秀なOLたちの間に潜伏していた無能な女たちを職場から追放し、安く使え、文句を言わず、不必要になったときにも面倒な保証問題のない茶運び派遣娘を歓迎するようになったのだ。
残されたOLたちにとっても、自分たちの職場に茶運び娘がいることは一種のステータスだった。自分たちが「お茶汲みという雑用を切り捨てた形で」必要とされる存在なのだと言う優越感に浸るには最適な存在だったからだ。
そして、とうの茶運び娘たちも、そんな環境での仕事に(中川が考えていたほど)卑屈にはなっていなかった。
「えー、だってぇ、どうせ大企業に入るなんて、あたしの学歴じゃ無理だしぃ。でもやっぱ、結婚するならいいトコに勤めてる人がいいなぁって思うじゃない。同じ職場にいればぁ、何かとチャンスだって増えるしぃ。それにー、フリーターとかって今更流行んないじゃん。親だっていろいろうるさいし、ハンバーガー屋でバイトするより、お茶汲みでもぉ、偉い会社にいた方がなんとなくハクもつくしぃ」
したたかなのは中川だけではないのだ。
そんなこんなでゼロワンSTAFFの経営が軌道にのって、はや五年。相変わらず茶運び娘の需要も供給も絶えることはない。だが、中川は物足りなかった。女を右から左へ動かす毎日が続くと、なんだか自分が女衒にでもなったような気がしてくる。
安定は、中川にとって退屈だった。
彼はもっと刺激的な……大勝負を望んでいるのだ。
スパイ募集の広告を出したのも、そのためだった。もちろん、ただ当てずっぽうにその職種を選んだ訳でもなければ、あのチャイナドレスの女のように「スパイの美学に憧れたから」でもない。
古今東西、湯沸かし室は情報の集積ポイントなのだ。
派遣先の社内で噂される情報を、派遣社員たちからある時は茶飲み話に、またある時は寝物語に聞いたのがそのきっかけだった。
その気になればいくつかの企業を脅せるだけのネタも手に入ってはいたが、中川の求める「大勝負」とはそういうことではない。裏街道をひた走るのは、仕事に失敗して食い詰め、金融業と看板を出したスジ者の兄さんたちに囲まれてからでも十分間に合う。
人の口を媒体に広まっていく情報という奴は、えてして本当に知りたがっている奴のところへは行かないものだ。
だからこそ、買ってくれる奴がいる。中川が売るのは情報ではない。情報を探り出すスパイを、派遣という名目で売り飛ばすのだ。
などという話を中川がし終わった頃、すでに『夜明け前』は残り一升瓶の4分の1程度となり、面接は酒盛りにと変わっていた。
「分かります。分かりますよ、中川さん。あたしもね、二十年前脱サラして以来、趣味の味噌屋をやって幸せに暮らしてきたんです。幸せでしたよ。いぃ――や、今だって幸せだ。でも、でもね……心はいつだって純な少年のように冒険を求めてやまないんです。日常では決して味わうことのできないスリルとサスペンス。この老人が、ほんの少しだけ……アルバイトでもいいからスパイの気分を味わいたい。映画で観たジェームズ・ボンドやダーティ・ハリーのように……」
「あー、もしもし、味噌屋さん? ダーティ・ハリーはスパイじゃなくてね……」
「いいや、いいんです! どっちだって。すいません、いい気分なんだから水ささないでくださいよ。ともかくそんな……かっこいい生き方がしてみたいんですよ。実はね、あたしもう52なんです。でもね、体力は若い連中には負けませんよ。年齢は相談に乗るって広告には書いてあったでしょう? あたし、どうでしょうねえ……使ってもらえないですかねえ」
と、味噌屋……もとい坂井が酔った目をらんらんと輝かせてまくしたてていたまでは、かろうじて中川にも記憶があった。
だが、それになんと答えただろう?
そしてそれから……いったい何を話したのだろう。
翌朝目覚めたとき、部屋には坂井の持ってきた『夜明け前』の他に、買い置きの酒瓶が2本、見覚えのないのが1本転がっていたところをみると、ずいぶん長い間飲んでいたようだが……その間の記憶はまったくない。
そして、坂井の姿もなかった。
部屋が荒らされた気配はない。盗まれたと思われるようなものもなかった。もとより盗んで楽しいものなど中川の溜込んでいるがらくたの中にはないだろうが……、なけなしの万札がねじ込まれた狸の貯金箱が無事だったところを見ると、あの男は強盗の類ではなさそうだ。
「俺……あの味噌屋に何言ったっけ……?」
姿のないところを見ると、不採用だ、とでも言ったのだろうか。それさえも覚えていない。いや、それどころか……何だかとんでもないことをしゃべってしまったような気がする。
「口が軽くて調子に乗りやすいのがおまえの欠点だって……そういやお袋がよく言ってたっけ……」
そんな自戒もすべてあとの祭りである。
今はただ二日酔いの頭痛が憎かった………………。
佐々木建設警備部には、創設以来、常に辰樹の息のかかった隠密社員が複数名送り込まれていた。辰樹の宇宙への見果てぬ野望を懸念する声は、その当時から重役たちの間にあったのだ。
もし社が分裂し、目的を阻もうとする者が現れた時にはそうした隠密社員たちを使い、ことを有利に押し進めようという心積もりだった。
彼らの活躍が表舞台に現れることは決してなかったが、成果の方は辰樹を満足させるに充分なものだった。
二十年前、この群島区の開発に着手した佐々木建設は、バイオスフィア計画が囁かれはじめた中で、かつてない決断を迫られていた。
すでにその当時から辰樹は今日を見越していたのだとさえ思える。
辰樹は猜疑心の強い男だった。
彼の関心がバイオスフィア計画へ傾いて行くのを不安気に見つめる重役たちを真の意味での同胞とは考えていなかったのである。やがて彼らは、宇宙に馳せる辰樹の思いを押しとどめようとするだろう。
辰樹はそれをなによりも恐れていた。
そして隠密社員と自分との距離に、次第に不安を抱き始めていたのだ。だが、だからと言ってわざとらしく直属の隠密社員を(もちろんもっと別の、当たり障りのない名称でよばれるだろうが)身近に置くのも利口なやり方ではなかった。そんなことをすれば重役たちの反感を買うだけだ。
そこで、隠密社員の中でも特に信頼の置ける者を、脱サラという形で社外へ出すことを考えついたのだ。
社外に出してしまえば、辰樹のやり方に反対する連中が、隠密たちの正体を嗅ぎつけ、逆に利用するという可能性も極めて低くなる。
そう考えたのだ。
警備部の警備員三名が相次いで退社したこと自体は社内での噂にも昇らなかった。
退社した三名はいずれも中年に差し掛かっており、なおかつヒラの警備員でいる……うだつの上がらない連中ばかりだったからだ。
そしてその三名の中に……坂井俊一の名前があった。
もう、二十年も前の話だ。
二十年という時間は長い。
当時開発の始まったばかりの群島区に、その地価の安さに引かれてやってきた連中に混じってもぐり込み、道楽半分でやっているとしか思えない小規模な店を出してからの坂井の生活は、ともすればその使命を忘れるほどに穏やかなものだった。
だが、佐々木辰樹死すというニュースを見たとき……坂井は二十年間眠り続けてきた己の本性が揺り起こされるのを感じた。
「辰樹社長は……暗殺されたんだ」
それは直感だった。
そしてその坂井の直感を裏付ける訪問者が、その日の深夜に……前触れもなく訪れた。
佐々木義一。
辰樹の長男である。
すでに閉店している『味の屋』の前に止まったタクシーから、義一は降り立った。喪服姿ではなく、紺のスラックスにポロシャツという目立たない服装だった。
タクシーの運転手に、最初は、
「丹島の『こうじや』へ行ってくれ」
と頼んだのだが、そんな店は知らないと言われてしまった。
『味の屋』という定食屋の隣にあるらしいのだが、とつけ加えると、運転手はようやく頷いて車を出した。
「『味の屋』の隣って、空き家かと思ってましたよ」
タクシーの運転手はそう言って笑っていた。
ひょっとすると、坂井はもう丹島には住んでいないのかも知れない……という不安が一瞬義一の意識に浮かんだが、タクシーを降り立ったとき、その不安も消えた。
自家製味噌の店『こうじや』は、確かにまだそこにあったのだ。
表には看板は出ておらず、狭いガラス格子の扉越しに、『こうじや』と染め抜いた紺の暖簾が取り込んであるのが見えた。
営業中はその紺の暖簾だけが目印となるのである。定食屋に二、三度昼飯を食いに来たことがあるだけの連中なら、空き家と思うのも無理はなかった。
「……義一さん」
勝手口から入ってきた義一を見つめて、坂井は一瞬、驚いたように目を見開き……だが次の瞬間にはその表情は、彼の訪問を予期していたのだと告げていた。
「ニュースで社長の事故を知って……。でもまさか、こんなに早く……それも義一さんが直接私のところへいらっしゃるなどとは思いも寄りませんで……」
店と奥の工場とを繋ぐ四畳半に義一が上がりこむと、坂井は、卓袱台の辺りに置いてあった古い座布団を慌てて片づけ、真新しい座布団を出して義一に勧めた。部屋には卓袱台の他は小さな茶箪笥がひとつあるきりだった。一人住まいの坂井の生活の侘びしさが染み着いたような、殺風景な部屋だ。
隣の食堂の娘にもらった小さなマスコット人形が部屋の真ん中に吊るされたペンダントライトの紐にくくりつけてあるのが、唯一の装飾だった。だがそれも、生活の貧しさを強調しているだけだ。こんな部屋に義一を迎えるのが、坂井には辛かった。
「もっと早い時間に来る積もりだったんだが、葬式ってのはいろいろ面倒が多くてな」
そう言った義一の息は多少酒臭かったが、酔っているという印象は微塵も感じとることはできなかった。
「……この度は……ほんとに……」
改まって坂井はそう言い、座布団に腰を降ろした義一の前にすでに用意してあった香典袋を差し出した。
「義一さんに渡すんなら、社長も許してくださると思うんです。こんなことしかできませんが、生前にはいろいろお世話になりましたんで……」
「……すまないな、葬式にも呼べなくて」
「いえ、いいんです。こういう仕事を選んだんですから、そんな覚悟はとうにできています」
坂井の言葉を聞きながら、義一はちらりと腕時計に目をやった。
「時間はあまり取れないから、単刀直入に言う。……こんな脅迫状が届いた。俺に親父のあとは継ぐな、と要求している」
義一は葬儀場で見つけた例の封筒を坂井の前に出した。
坂井はワープロの倍角文字で打たれた文面ををゆっくりと読み、再び顔を上げて義一の表情を伺った。
「私はこの三年、アメリカに渡っていたので、社内の状況がどう変わったのか良く掴めてはいない。この脅迫者がよりによって浩二を傀儡になどと言い出したきっかけも、私には見当がつかない。重役連中の思惑も、三年前とは変わっているだろうしな。社内の隠密を使うんでは、リスクが大きい」
「浩二さんが……社長の座に欲を出したと言うことは考えられませんか? いえ……疑っているわけではないのですが、可能性としては有り得ないことではないでしょう。次期社長に一番近い位置にいる義一さんの留守を狙って辰樹社長を亡き者にし、重役を抱き込んで……」
「世間の相場から言えば良くある構図だな……」
義一はそう言って、苦い笑いを浮かべた。
佐々木辰樹の次男である浩二は、義一とは腹違いの弟にあたる。辰樹のかつての愛人の産んだ息子だ。
愛人は浩二が五歳の時に病死し、以来浩二は辰樹の正妻――つまり義一の母の手で育てられた。……と、ここまで言えば憶測はいろいろ沸き上がってくるだろうが、正妻の子と妾の子が対立を引き起こすような過去は……義一と浩二の間にはまったくなかった。
それというのも義一の母親がおっとりとした深窓の令嬢で、男と女の間のことには鈍なくらい疎い上に無類の子ども好きだったからだ。生さぬ仲の浩二を、まるで猫のように可愛がって育てた。
浩二より五歳年長だった義一にとっては、いつまでも子離れできない母親が鬱陶しかった時期でもあるし、遊び好きの若い実母に放任され、愛情に飢えていた浩二は養母に良く懐いていた。
いや、それでも時として野心は人を変えるものだろうが、そう言う点では、浩二は信頼の置ける人間だった。
(あいつが社長なんて言う……面倒くさい真似をしたがるものか……)
というのが、義一の抱く浩二への印象だったし、何より浩二の本質だった。
「分かりました。では、脅迫者は浩二さんではないとして……。社長の事故ですが、事故ではなくこの脅迫状にあるような……暗殺である可能性はあるんでしょうか?」
「警察は事故と断定してかかっている。その方が、私としても都合がいい。バイオスフィア計画がようやく本格始動しようとしているこの時期に、スキャンダルは避けたいからな。……疑うとすれば、急ブレーキをかけた方のトラックの運転手だろうが、金回りがよくなったという話もないし、中央分離帯から女が飛び出そうとしていたって証言を否定するだけの目撃証言は集まらなかったしな。その辺のことも含めて調べてもらいたいんだが……何分人手が足りない。おまえ一人ではどうにもならないだろうからな。そこで、なんだが。プロムナードの電子掲示板に出ていたスパイ募集の求人広告を見たか?」
「見ました。見ましたが……まさか、そんなところで人材を募る積もりじゃ……」
「そのまさかだ。ことは急を要する」
義一の顔を見つめて……坂井には返す言葉が見つからなかった。
「どの三人だ?」
まくしたてる坂井の言葉を遮って、義一は不機嫌そうに言い放った。
「どのって……決まってるじゃないですか。私と一緒に二十年前、退社した……」
「そのひとりは末期ガンでホスピスに入院中。……もうひとりは退社した直後に行方を絶ってそれっきりだ」
「……そ、そんな」
力なく言って、坂井はその場にへたり込んでしまった。
この時のために辰樹の選んだ仲間……彼らはこうして坂井が義一を迎えたように、辰樹の死に疑惑を抱き、自らの使命の為に立ち上がろうとしているのだと、何の疑いもなく信じていたというのに。
二十年という時間の長さを、坂井は改めて痛感した。
「ゼロワンSTAFFは、お茶汲み派遣で名を馳せたベンチャー屋です。そんな胡散臭いところに話を持っていくなんて……騒動の種を増やすようなものじゃないですか」
「お茶汲み屋の胡散臭さは私も充分に分かっている。その上で言っているんだ。胡散臭いものは胡散臭いところへ持って行くのが一番なんだよ。何より対処に熟練しているからな」
「……分かりました」
「五人も揃えれば、当座の用は足りるだろう。人選とその後の指揮はおまえに任せる。連絡はまたこちらからする。私がこうして直接来ては何かと目につくだろう、信頼のおける連絡係を用意しておく」
それを捨てぜりふとばかりに義一は腰を上げた。
「いらっしゃい、坂井さん。……あら、なんだかお顔の色が悪いみたい。どうかなさったの?」
開店以来の馴染み客である坂井に、女将の紀美枝が水を差し出した。開店したばかりの店内に、それでも開いている席の方が少ないほどの客の入りだった。
いつも閑散としている『こうじや』の店内とは較べものにもならなかった。
「……ちょっと、胃がね。あ、水、ありがとう」
「ひどく痛むのかしら。……どうしましょう。あ、確か胃薬があったと思うわ」
「いや、大丈夫、大丈夫。紀美枝ちゃんの納豆定食で元気出すから」
「おじょうずなんだから。はい、納豆定食ですね」
そう言って、紀美枝は再び注文を裁きはじめた。
「あ、そうそう、坂井さん。お味噌がね、そろそろ切れてしまいそうなの。今日伺おうかと思って……」
「あー、今日は午前中だけ店を開けて……お得意さんでね、ひとりやっぱりいらっしゃる人があるものだから。午後は出かけようと思ってるんだよ。……そうだね、じゃあ出かける前に届けるよ。いつものでいいんでしょう?」
「すいません、お願いできるかしら。――珍しいですね、お出かけなんて」
「ええ。甥っこが田舎から出てきてるもんで……ちょっと」
そう口から出任せを言って会話を濁した。にこやかな表情を絶やす事なく仕事を続ける紀美枝をじっと見つめる。
これが坂井の……退屈な日常の数少ない楽しみなのだ。実に年甲斐もない、助平な趣味である。
「紀美枝ちゃん、いつも楽しそうに仕事してるねぇ」
「……やだわ。何ですか? 改まって」
「仕事が好きなんだね。それをとても感じるよ……。いい事だ。それだけで人生は豊かになり、生活に張りが出る」
「坂井さんだって、お味噌屋さん、お好きでしょ?」
「あんなもん、ただの道楽だよ。客だって全然来ないし……大勢来られても売る味噌がないし……」
そんな、珍しく愚痴っぽい坂井の表情から……何かあったのだろうと紀美枝は察したらしい。手を止めて、坂井の顔を見つめた。
「うちの店に来るお客さんね、ここの味噌汁は美味しいって良く言ってくださるの。わたし、それが嬉しくて。……でも手柄の半分くらいはきっと坂井さんのものよね」
紀美枝は、坂井が味噌作りのことで何か悩んででもいるのだろうか、と思ったらしい。それとも、彼を元気づけるにはその話題が一番と思ったのだろうか。
いずれにしても、落ち込んだ気分が紀美枝のおかげでずいぶん楽になった事は間違いない。
普段より少し遅れて店を開けた坂井は、昼までの時間を、店先に座り込んで考え込む事で費やしていた。いつも通り客のない、静かな店内は考え事をするにはいい環境だ。
胡散臭いことは胡散臭いところへ持って行くのが……と、義一はもっともらしく言ったが、それを鵜呑みにして正面からゼロワンSTAFFに乗り込んで行くほど、坂井は度胸いい男ではない。
会社内部のいざこざは、外部からの攻撃の標的にされやすい。ゼロワンSTAFFの社長である中川克巳の事は昨夜のうちに調べ上げてあったが、その結果を見る限り、信用できるとは口が裂けても言えない……いや、言いたくなかった。中川の無鉄砲ぶりはその経歴を一目見ればよく分かる。いやと言うほど。前科のないのが不思議なくらいの無法者なのだ。
そんなやつを、どう頑張ったところで信用できるはずがない。
臆病と言ってもいいだろう用心深さが、隠密としての坂井の最大の武器だった。
義一を脅している人物を探し出すためには、辰樹のこれまでの過去をも探って行かなければならない。そこには様々な……表沙汰にできない事柄が隠されている。そんな仕事に中川のようなタイプの男を関わらせるのは、坂井の好むやり方ではなかった。
真面目にスパイをやるより、脅迫者に荷担する方がずっと楽だし、金になる。
だから坂井は中川と組む前に、まず中川の側の弱みをひとつふたつは握っておきたかった。互いに脅し合う立場に立つことで、有り得ない信頼を無理矢理に作り出そうと言う訳だ。
そんな企みを胸に坂井が手土産代わりの松風焼きを作っている頃、中川のマンションを例のチャイナドレスの女が訪れていた。
中川は決して酒に強い方ではない。
だが、ある意味では底無しに強いとも言える。
ビール一杯で上機嫌になり、そのあとにとっくりの2、3も開ければすでに正体もないほどの泥酔ぶりなのである。
そこまでは、まあいい。
そこまでなら、金のかからない奴だと笑って済ませてやることもできる。
問題は、そのあとの中川の強さの方にある。
吐くまで飲む。
吐いてもまだ飲む。
その上、クダを巻く。
非常にうるさい。
とりあえず中川は、一緒に飲んだあと、それでも友達でいてくれた奴を余り知らない。そういう自分の性質を7カ月しかなかった大学時代に知ったから、人前で飲む事はほとんどなかった。
ことに女の前では、絶対に飲まない。飲んでしまっては、その後の行動に支障をきたす。
が……しょせん生来の酒好きなのである。
吐こうが倒れようが何も心配する事のない自宅で勧められた酒を断れるほどに、強い精神力を持ち合わせてはいなかった。
「あー、畜生っ!」
飲んでしまったあとはいつだってこうやって後悔ばかりが虚しく残る。
とりあえずは忌々しい酒瓶を片づけてアスピリンを飲んだ。
身体の作りが大雑
把なせいか、酒に弱いやつには薬も効くのか……単に薬の効果にさえ、乗せられやすいからなのかは分からないが、大抵の身体の不調は、1錠飲めばなんとかなる。
昨日の坂井という男が……単なるスパイ志願の阿呆だとは、中川には思えなかった。
何かもっと別の目的を持って訪問してきたように思えてならない。
だとすれば、相手の動きを待つのは中川のポリシーに反する。先手必勝。これが身上なのである。
彼と交わした言葉を、ひとつずつ思い返してみる。
だが、記憶にある部分は中川が愚にもつかないおちゃらけを言っていただけで、坂井の方は大した事はしゃべっていない。二十年前に脱サラした事、現在は味噌屋である事、『味の屋』の隣に店を構えているのだという事。思い出せる坂井の言葉の中で比較的真実味のありそうなのはその三つだけだった。
「ごめんよ」
『こうじや』の暖簾を分けて、中川は薄暗い店内に入った。
味噌の匂いの立ちこめた一坪ほどの土間に、味噌の樽が5つ、申し訳程度に並んでいる。桧らしいカウンターが置かれ、場にそぐわないPOSの端末がその上を占領していた。カウンターの側面にはフックがつけられ、昨日、坂井が吊り下げていた茶色の紙袋が数枚掛けられている。
確かに『営業中』の札は出ていたが……これが本当に営業中なのかと、目を疑うような光景である。
「……はいはい、お待たせしました」
店の奥は狭いながらも一応座敷になっているらしい。
主人が、暖簾と同じ『こうじや』の文字を染め抜いた印半纏に腕を通しながら出てきて、店の明かりをつけた。
「客がこないからって、電気ぐらいつけといたらどうだよ」
「初めてのお客さんですね。味噌はどういった種類がお好みで……?」
暖簾の下にふてくされて立っている中川を相手に、坂井は白々しく味噌屋面を見せた。赤味噌の樽に突き立てて合った杓子を取って、プラスチックのパックに馴れた手つきで盛り始めるのを、中川は腹立たしげに見守っていた。
パックも杓子も取り上げて、樽に詰め込まれた味噌の中に坂井のゴマシオ頭を突っ込んでやりたくなる。
「本当に味噌屋だったんだな。こんな景気の悪い店だとは、さすがに思わなかったけどな」
「趣味が高じたってやつですよ。……道楽です」
「高じた趣味が発酵して麹になったか? つまらねえシャレだ。ろくでもない店名つけやがって……無関係でも腹が立ってくる」
「ものが味噌だけに、麹がミソだったって訳ですよ。手前味噌な話で恐縮ですが」
「……おい」
「豆腐の味噌汁に合いますよ。この赤味噌」
「……おい、って言ってんのが分からないのかよ、この爺。俺は怒ってんだよ。もんのすごく。麹も味噌もどうだっていいんだ。昨日みたいにおちゃらけでごまかせると思うなよ。酒さえ入らなけりゃあなぁ、俺だってそれなりに切れる男なんだ」
「酒が入ったって、なかなかのキレ者じゃないですか。第一、おちゃらけって言いますけどね、昨日は一方的にあなたがおちゃらけていただけで……」
「………………。ぶち殺すぞ」
「まあまあ、落ちついてくださいよ、中川さん。奥に上がって味噌田楽でもどうです。実は下仁田のこんにゃくを通信販売で買いましてね。これが、結構いいんですよ。ぷりっとした歯ごたえ、ほのかに口に残る後味も……うちの田楽味噌にも良くあって。ちょうど、酒も買い置きがありますし」
「この上、まだ俺に飲ませたいのか」
「冗談ですよ、冗談。まあ、ともかく上がってください。あなたなら来るだろうって思ってたんです。大事な話があるんですよ。それも……金の儲かる……」
金儲けというのが、いきり立った中川に平常心を取り戻させるの為の決め台詞だった。それを、昨夜の悪夢の様な酒盛りで、坂井は学習している。
「……つまり、あんたは俺の企画を買って、企業(内)スパイの派遣を俺に要請したい。そういうことなんだな?」
ほうじ茶で田楽を摘みながら、中川は最後までおとなしく坂井の話を聞き……そう切り替えした。
坂井が打ち明けたのは、死んだ辰樹の事、辰樹の死に疑惑を投げかける脅迫状のことなど、細部に渡った。聞いている中川の方が、
(そんなことまでバラしていいのかよ、おいおい)
と心配してしまうような事まで、とにかく洗いざらいしゃべりまくったのだ。ちなみにまだ、中川の方は仕事を受けるとは言っていない。
「そういうことです。とりあえず、五人くらい」
「じゃあ、なんであんなまどろっこしい真似をしなけりゃならなかったんだ。最初っから素直に……」
「素直にやばい話を持ちかけるには、あなたの性格が邪魔だった。あなたは好奇心の固まりで、道徳心に薄い。一匹狼で仕事をしてきたせいで仁義という奴を通す事にも馴れていない。だから……私としてもあなたの事を知っておきたかった。こちらがこうして社の内情をばらす以上、あなたがその筋に情報をたれこむことができないようにしておきたかったんです。幸い、表沙汰になっては困る過去がいくつか有るようですし……」
その、もったいぶった坂井の言葉に、ぴんっとひらめくものがあった。
「昨日の酒に……いや、松風焼きか五平餅かもしれないが……何を入れた?」
「自白剤ですよ。ごく弱い奴を、ほんの少し。最も、そんな必要はまるで有りませんでしたがね。あなたは酔うと饒舌になるたちのようだ。ずいぶんえげつない話まで聞かせてもらって、久しぶりにいい社会勉強になりましたよ」
「この、外道……!」
「お互い様でしょう」
「俺は……俺はいったい何をしゃべったんだ」
「それは秘密です」
「……」
「中川さん、誤解してもらっちゃこまりますよ。これは脅しじゃない。表向きの正式な依頼です。お互い都合の悪い事は棚上げして置きましょう。ご馳走を目の前にしっぽをかじり合うなんてさもしい真似はせずに。熱い料理は冷めないうちに食べるのが一番だ。そうでしょう? これはあなたにだって美味しい仕事のはずだ」
「話は分かった。だが、この場で返事はできないな」
「それでは困ります」
「……返事をしようにも、まだ応募者はないんだ。空約束では、あんたも佐々木の旦那も納得すまい?」
「まだ時間に余裕はありますよ。二、三日応募者を待ってみて、それでもダメなら社長自ら派遣してくれれば済むことです」
坂井の浮かべた穏やかな微笑が、中川には悪魔のそれに見えていた。