ACT3-1;恋の手がかり
「…………ダメだ。どこもシロ」 シータ・ナサティーンはモニターを睨んで長いため息をもらした。このところ睡眠時間も削ってラブシックの情報を集めまくっているというのに得られるものは何もない。ラブシックの「ラ」の字も出てこないという有り様なのだ。 (もっと情報を集める場所を変えてみたいとダメみたいだな……) 企業や研究所のデータベースに潜り込んでの情報収拾に、早くも限界を感じ始めている。ラブシックが“恋の夢を見せる麻薬”なのだという―― 一度は抱いた確信までがなんだかぼんやりと霞んでくるような気がするのだ。 「どうしたのよ、シータ」 デスクにつっぷしているシータに声をかけたのは、ナサティーン家の長女、ジーラだった。 「うん……実は……」 そう言って顔を上げ、シータはジーラを見つめた。 シータにとってこの姉は誰よりも信頼する人物だった。 この八方塞がりの状況を打開する新しい手がかりを与えてくれるのは、この姉・ジーラをおいて他にはないのだと……シータは確信していた。 そしてシータの信頼する通り、ジーラの行動は迅速なものだった。 その日のうちに彼女は妹たち−−シーラ、アルファ、スジャータ、ヤランに協力体勢をとらせ、さらに探偵の夜木にも協力を要請した。 シータにラブシックの話しを持ちかけた三日月も、もちろんジーラの協力者となり、さらに三日月に接触し、SNSに職を得た占い師の高校生・闇沢武志もラブシックの調査に加わる事となった。 ジーラの目的はふたつだった。 まず、恋の幻覚を見せる麻薬であると思われるラブシックを入手し、それが本当に麻薬であるのかどうかを確かめる事。そして麻薬だった場合−−その背後にある流通経路をたどり、誰がどういう目的を持ってその薬を高校生や中学生に売っているのかを確かめる事だった。 「ラブシック……?」 SNSのラウンジでその名前を聞いて、箕守は眉を寄せた。洋上高校の近所で喫茶店を経営し、女子高校生との接点も多い箕守はまた、かつて(誘拐専門ではあったが)探偵という職業を経験しているという経歴を持つ。 今回の“ラブシック”が本当に高校生や中学生の間で流行している麻薬なのだというのならシータや三日月の調査を進める上で、まさにうってつけの人材だった。 だが……その話しを持ってきたジーラを見つめる箕守の表情は、夜木や闇沢がふたつ返事で彼女の話しを受け入れたときのようなものではなかった。 「多分、麻薬の名前だと思うわ。……でもまだ、何も分からない。“ラブシック”っていう名前の他はね。だからそれを確かめたいの。あなたにも協力して欲しいのよ」 「探偵は……廃業したよ」 箕守はそう、ぽつりと言った。 だがそう言った彼の言葉が本心ではなく−−まだ癒えてはいない過去の傷の言わせた言葉なのだろうとジーラは直感的に悟っていた。 「ラブシックは……女子高校生を中心に流行しているらしい。しかも−−一見薬物になんかまるっきり縁のなさそうな娘たちを中心にね。それでも……なんとも思わないの……」 「何故なんだい? ジーラ」 ジーラの言葉を途中で遮って、箕守がそう口を挟んだ。 「何故って?」 「何故きみが……その麻薬だか恋のおまじないだかの薬に、そこまでご執心なのか、それを知りたいと思ってさ。麻薬っていう可能性がないとは思わないが……あの年頃の娘たちがそういう遊びに夢中になっているだけかも知れない。そうは思わないのかい?」 「だから私はそれが知りたいんだよ。本当にラブシックが恋のおまじないの薬とかで、危険のないものならそれでもいい。でも……そうでない可能性があるのなら、私は危険を見過ごす事はできない。自分の妹たちや、ここで知り合った女の子たちがそんな薬に手を出すのは見たくはないからね」 「きみは……妹思いなんだな」 そう呟くように言って、箕守は席を立った。 「返事は?」 「……俺だって、店に来る娘たちが危険な目に合うのなんか見たくはない。それじゃあ返事にならないか?」 箕守はゆっくりとした足どりで店の出口へ向かった。 「何か分かったら……電話する」 その言葉を残して、箕守は店を出た。 ラブシック……その言葉には彼も聞き覚えがあった。 『ラブシックが欲しいなら○○へ行けばいいのよ。○○ちゃんに聞けば、暗号を教えてくれるから』 喫茶店で話していた少女たちの会話を耳にしたのはいつだっただろう? そして……彼女たちは何と言っていたのか……。それがもし、ジーラの言う通りの麻薬なのだとすれば、あの会話の中で囁かれていたのはその取り引きの場所であり、ジーラの知りたがっている流通の要となっている人物の名前であるはずだ。 だが、いくら考えても答はでなかった。 人気の少なくなった道をぶらぶらと歩きながら……箕守はラブシックの調査をどう始めるかを考え始めていた。 だが……彼らの様にジーラの言葉に頷くものばかりではなかった。 学校内の様子を知りたい−−そう考えてジーラが協力を申し出たのは、同じ公営住宅に住む弥生家の居候のひとり、黒沢世莉だった。 ジーラは箕守に話したときと同じように世莉にこれまでのいきさつを説明し、協力をして欲しいと言った。ジーラも世莉がすでに高校を退学していた事は知っていたが、まだかつての級友や所属していた演劇部の仲間との交際は続いているらしい。一歩離れた場所から彼らと接触できる世莉なら、彼らの学校の外での行動を掴んでいると踏んだのだ。 しかし、ラブシックを入手したいから協力してくれというジーラの申し出に、世莉はたった一言、 「覚えてたらね……」 とそっけなく答えただけだった。 ラブシックという言葉にも、女子高校生の間で麻薬が流行しているかも知れないという話も、まるっきり興味はないのだという表情だった。 (ラブシック……か) ジーラが帰ってしまった後、自室に戻って世莉はそう小さく口の中で呟いた。 数日前ルイスの部屋で見つけたあのピンク色の錠剤が−−あの義母の夢を世莉に見せた薬が“ラブシック”であるに違いない。 世莉はそう、ジーラの話を聞いて気付いていた。 ルイスが持っていた薬。そして広田もその薬の事を探っているようだった。さらにジーラは探偵や現役の高校生を使ってラブシックの事を調べているのだと言う。 (大事件だな、こりゃあ) 世莉が素直にジーラの申し出に従わなかったのは−−もちろん彼の多少天の邪鬼な性格のせい、と言う事もある。つまり、 (今更、私が協力しなくたって……) ってやつである。 ジーラの行動力もコネクションも世莉は知っている。群島広しと言えど、ラブシックという名前を聞いたその日のうちに行動を開始し、協力者をかき集める事のできる人間は多分ジーラを除いてはそうそういないだろう。 たとえ世莉が協力しなかったとしても、彼らはすぐに事件の確信を掴むだろう。 第一、ジーラがラブシックを探ろうとする意図が今ひとつ理解できなかった。 麻薬汚染は……この群島でも別に耳新しい話題ではない。 19号埋め立て地に行けば、それこそ高校生だろうが中学生だろうが手軽に麻薬を買えるのだという噂は、女子高校生が五、六人も集まればしょっちゅう話題に昇っている。 それを……ジーラだって知らないはずはない。 ラブシックが新手の麻薬でその効果が謎に包まれているからだとジーラが考えているのなら、なおさら協力は控えたかった。その薬を当の世莉が服用して、淡い恋心を抱いている義母の幻覚を見たなんて話を、ジーラ相手にする気になれるわけはない。 そんなのはあまりにも……気恥ずかしすぎる。 世莉はふと時計に目をやった。すでに深夜と言ってもいい時間だった。だが、まだルイスは帰宅していない。夜遊び好きの葉月が……というのなら話は別だが、あの出不精のルイスが連日家を開けているのは、恐らくジーラの言っていた薬の事を調べているからなのだろう。 (ルイスは……どこまで掴んでるんだろうな、薬の正体を) ジーラに対しては興味のない振りを装っていたが、世莉も好奇心がないわけではないのだ。 |
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アブシンベル縁島の朝は今日もドツキ漫才……いやもとい、夫婦の些細な口論から始まった。 「真奈美、いー加減機嫌直せよ」 登校しようとする真奈美をエレベーターまで追いかけてきている中川は、まだ髭も剃っておらず、しかもひよこの乱舞するパジャマ(もちろん買ってきたのは真奈美である(^^;))という格好だった。 「知らないもーん」 「をーい」 「じゃあ、約束できる? 『もう酔っぱらっても二度と衿霞ちゃんのお尻には触りません』って」 「するする(^^;)」 「……イマイチ信用できないなあ、素直な克ちゃんは……」 「どっかの味噌屋みたいなコト言うなよ」 五階に上がってきたエレベーターの扉が開き、むっつりと眉をしかめた初老の男(ジョギングパンツに白いTシャツ、首に「遠藤酒店」と書かれたタオルを下げげている。小脇に下げた茶色の紙袋がちょっと不似合いではあるが、その格好から推測するに朝のロードワーク中らしい)が降りてきたのはその時だった。 「ふんっ」 エレベーターホールでじゃれついている二人を見て、男はそう忌々しそうに鼻を鳴らした。じゃれついているのではなく、朝の夫婦喧嘩の光景なのだが、世間様はそう は見てくれない。どっからどう見たって手癖の悪い男に引っかかった女子高校生が朝帰りしようとしている図である(^^;)。 「朝っぱらから盛りおって、近ごろの若いもんは。シャッキリせんか、シャッキリ」 そう言って、中川の肩をばしんばしんと威勢良く叩くと、がっはっはと高笑いを残して歩き始めた。 朝っぱらから、ハイテンションな奴だ。これだから高血圧の老人はよ……という言葉を中川は何とか飲み込んで道を開ける。 「克ちゃんは、どっちかって言うと“ちょっと前の若いもん”だよね」 「……余計な事言ってねえで、ガッコ行け、お前は」 「引き留めたの、克ちゃんでしょお」 エレベーターを出てずんずんと廊下を歩いていく男を見送りながら、中川と真奈美 の夫婦漫才は……それでもまだ続いている。 「……どこまで行くのかにゃ?」 「さあ(^^;)?」 男は廊下を突き当たりまで進み、くるりと廻れ右をすると再びエレベーターホールに向かって歩き始める。 「…………」 「…………」 さすがに、見つめているふたりも言葉を失う。 「ゼロワンSTAFFという会社がこのマンションにあると聞いたんだが、このフロアじゃあないのかね」 呆然としているふたりに、その言葉が浴びせかけられた。 何となく、嫌な予感を……中川は感じていた。 だが真奈美はあまり感じなかったらしい。そして開口一番、 「克ちゃんが、ゼロワンSTAFFの中川社長なの。でねでね、真奈美は正義のスーパーヒロイン☆ ……で、おじ様は?」 「中川? ををっ、ゼロワンSTAFFの中川克巳殿か? これはご無礼つかまつった。実は私は巽進一朗という者でしてな。群島プロムナードの人材募集の広告を……」 「もしかして……爺さん……」 スパイ志願なのか? という言葉を、中川は何となく口にはできなかった。その言葉が、口にすると災いをもたらす呪文のようにさえ感じられた。 それでこのハイテンション爺ぃが「そうだ」と答えでもしたら、この場にへたり込んでコンクリートの地面に「の」の字を書いてしまいそうな気分である。 「奈美、今日ガッコ休もっか?」 その真奈美の言葉は……中川にとって天使の囁きだった(^^;)。 中川の「嫌な予感」は、日頃の当てずっぽうな勘の悪さなどモロともせずに的中した。 巽は入るなり吊る下げた紙袋を開いて、五平餅の包みを取りだしたのだ。 以前、それと酷似した物体を口にして……百年後悔してもおっつかないような面倒を抱え込んだ様な記憶が、中川にはある。そしてふと見ればその茶色の紙包には見慣れた『こうじや』の文字。 その味噌の香ばしい匂いを嗅いだだけで、忌まわしい数々の面接に関する記憶が走馬燈のように総天然色で蘇ってくる。 しかも巽は座布団も茶も勧められないうちからどっかりとカーペットの上に腰を降ろし、五平餅の包みをさっさと開いた。 「ちっと前まで自衛隊におりましてな。今は引退して……まあ悠々自適ってな暮らしです。……が、そういう暮らしは退屈でな。そう−−心はいつも純な少年のように冒険を求めてやまない、とでも言えばお分かり頂けると思うが、群島プロムナードでこちらの人材募集の広告を見たときには、これだ! ワシの余生を賭ける仕事はこれをおいて他にはあるまい! とそう…………どうなさった、中川くん、どこか身体の具合でも悪いんじゃないのかね。ひ弱な事ではいかんぞ。日本男子たるもの頑強な身体を」 「…………あんた、まさかとは思うが味噌屋に友人がいたりしないだろうな」 カーペットの床に頭をこすりつけんばかりにへたり込んで、ようやく中川はそう言葉を発する事ができた。 「俊介は確か……味噌屋だったはずだな」 「……俊介……」 言葉にはならない絶望感がふと中川の脳裏をよぎった。 あの味噌屋が、こうして五平餅まで持たせて竹馬の友(と中川は勝手に決めた)をここに寄越したのは、新手の嫌がらせを思いついたからに違いない。あいつはそういう、汚えやり口の爺なんだ。俺は知ってる、あいつはいつだって俺をいぢめて楽しんでいやがるんだ。 そこまで心の葛藤と戦って、中川はふと顔を上げた。 「爺さん……まさか中国人の友達まではいないだろうな? じゃなきゃ、インド人とか……」 「中国人にインド人? 何かの暗号かね、中川くん」 暗号かね、と言ったときの巽の表情は真剣そのものだった。おちゃらけで返してくる心の余裕がない分、坂井よりもうひとつタチが悪い。 「いや……いいっす、何でもねえっす。−−アインシュタイン、お茶出してやって」 がっくりと肩を落として中川はテーブルの上の生け花を観賞していたアインシュタインに声をかけた。 「ウキキ(はい、しゃちょうさん)」 最近……ようやくアインシュタインの使い方が分かってきた中川ではある(^^;)。 が、しかし、旅行中にわさわさと増殖した新しいスパイたち−−オフィスと言わず 隣の自宅と言わず生け花を飾りまくっている「あれ」や、真奈美の宴会好きに拍車を かける「あれ」や、「あの」MILの学生だという「あれ」の扱いにはまだ慣れているとは言い難かった。 唯や沫のような応募者もいて良かったと、心底胸を撫でおろしている今日この頃なのだ。そこにまた、こんなハイパー爺を配備したところを想像するとちょっと涙がちょちょ切れそうになる。 (せめて……俺の旅行中に応募してくれりゃあ良かったのに……(T_T)) 面倒事は、できれば全部他人に押しつけたい。 それが中川のモットーだった。 こうやって押し掛けてくるのが、せめて名刺屋やインド人のような「美人のねーちゃん」ならからかわれ甲斐も虐められ甲斐もあろうというものだが、こんな昭和生まれの爺が相手では、そんな意欲もちっとも湧かない。 そして相変わらずがっくりと脱力している中川の横では……、 「坂井のおじ様のお友達なら……もしかして辰樹おとーさんのことも知ってる?」 「をを! 知っとるとも。高校時代は辰樹と俊介とわしの三人でぶいぶい言わしとったもんじゃったわい。がっはっは」 アインシュタインの点てた抹茶(もちろん忍武の直伝である(^^;))をぐいぐいと飲みながら巽が高笑いをもらしている。 「俊介の言ってた辰樹の娘ってのは、おまえさんのことだったのか。辰樹はそういえば昔から面食いの上に女癖が悪くて、やれ隣のクラスの美代ちゃんが可愛いだの、タバコ屋の後家さんの初美さんが色っぽいだの……」 真奈美といい巽といい……五分と掛からずすっかり馴染んでいるところが、中川にはちょっとコワかった(^^;)。 巽の口調はすでにざっくばらんになり、おむつをしていた頃から真奈美を知っているような口ぶりである。 (……母ちゃん、俺、やっぱダメな男かもしれない) もはや巽を採用せずに追い返す事は無理なのだろうと……また自白剤の入っているかもしれない五平餅をかじりながら中川は深いため息をもらした。 もう、半ば自棄である……。 |
「坂井のおじ様はいい人だったけど、巽のおじ様も面白い人だったにゃ。いい人が来て良かったね☆ 克ちゃん」 ダイニングキッチンから真奈美がそう声をかけた。アインシュタインと一緒に、昨日の宴会で出た食器を洗って片づけているところだった。 巽は朝一番にやってきてどこまでもマイペースに話を続け、辰樹の高校時代の話、坂井の話、辰樹の葬式には出られなくて申し訳なかった……などとでかい声でしゃべりまくり、アインシュタインの作った昼ご飯を食べて一息入れた後、自衛隊時代の話に花を咲かせてようやく腰を上げた。 余り昔の話をすることのない坂井からは聞く事の出来なかった辰樹の少年時代の話を聞かされて、真奈美はすっかり巽に懐いてしまった。 (所詮、おめーはファザコンなんだよ(T_T)) ……という、多少嫉妬の混じった思いを胸中に収めて、中川は痺れた足を堪えながら巽の話を聞いていたのだ。 「あーいうのを“いい人”って言ってるようじゃ、男に騙されるぞ、お前は……」 「大丈夫ですよー。奈美、もう人妻だもんっ」 「高校生の幼妻に忍び寄る危機……ありそうな話じゃないか」 「克ちゃんは、アダルトビデオの見・す・ぎ」 「……広田も加賀美もつき合い悪くてさ。ひとりくらいつき合ってくれる奴がいたっ て良さそうなもんじゃないか」 「衿霞ちゃん誘っちゃダメだよ」 すかさず、真奈美が釘を指した。 「……今度、名刺屋でも誘ってみよう……」 「なんか言ったー?」 水道を使っているので、声が聞こえなかったようだった。 「いや……何にも……(^^;)」 そう弁解して仕事にかかる。 新婚旅行で中川が遊び呆けている間、社長代行をしていたアーマスの報告書の山の ようなプリントアウトに目を戻して、中川はこれから先のシフトをどう組もうか考え 始めた。 まぐまぐバーガーの店長にも、もう一度(今度は酒抜きで)会わなければならない だろう。 「恋の麻薬……か」 アーマスの撮ったらしい証拠品−−香南の持っていたサクマドロップスの缶とピン クの錠剤の写真を見つめて、中川は小さく呟いた。 玄関がだーんっと勢い良く開かれたのはその時だった。 (…………またか(^^;)) 入ってきたのが誰なのか、確認しなくても分かる。 他の事がどんなにズボラでも、施錠にだけは神経を使っているこのゼロワンSTA FFの玄関から、呼び鈴も鳴らさずに入ってくるのは−−中川と真奈美を除けば、た ったひとりしかいない。 そう……三宅教授である。 「鍵変えたんだねえ、中川くん。この間のタイプより5.8秒程時間がかかったよ」 中川が鍵を変えたのは、三宅の『自動解錠装置(自爆装置付き)』で鍵を壊された 為である、念のため。 「……なにしに来たんだ、このクソ爺ぃ」 三宅教授は−−先日その激務のために身体を壊して入院したと言う白葉教授と並ん で群島内で五指に入るほどの多忙人間だと、確か広田からは聞いた。聞いたはずなの である。 だがそれなのに……その「超」がつくほど多忙な筈のスケジュールの合間をどうか いくぐっているのか、三宅教授は三日と開けずにこのゼロワンSTAFFを訪れてい るのである。 三宅教授は実は宇宙人で、十五人のクローンがいる。 ……という、何が発端なんだか良く分からないその噂を、中川は何となく納得してしまいそうな気分だった。世の中、何が起こるか分からないのである。抹茶を点て、生け花を習う猿がいるくらいなのだ。今更宇宙人が教授をやっていたからと言って驚くほどの事ではないのかも知れない。 「真奈美くんもいるとは好都合。さすが、ワシの立てたスケジュールにはソツがない」 「……そーいうの、偶然ってんじゃねえの、おっさん」 「運命の女神もワシの味方っちゅうことぢゃよ、中川くん」 「……(^^;)ヘイヘイ」 そう言うと、三宅は持っていたスーパーの袋をダイニングテーブルに起き、その中身を並べ始めた。 縁島公営住宅の近くにある巨大スーパーは、この群島のちょっとケタ外れなお調子者たちを相手にするべく、豊富な品ぞろえをウリにしている。上は百グラム五千円以上(時価)の超高級牛肉から下は大根の切れっぱしまで、ありとあらゆる経済状況の来客に応える商品が陳列されているのである。 そして三宅が袋から出したのは……その「超」がつくほど高級品ばかりだった。 「真奈美くん、キミも学校と正義のスーパーヒロインと家庭の三足のワラジを履く多忙な身の上だろうが、新妻としての心得を忘れちゃあイカンよ。ワシと白葉くんからのプレゼントであるあの料理百科のメニューを第一頁目から順番に作って行くんぢゃ。 まあ、二、三年もすりゃあ、全部の最後の頁にたどり着くはずだから、その頃にはキミはどこに出しても恥ずかしくない立派な料理上手の奥さんになっているだろう。そして中川くん、これが今日の夕食の買い物の伝票ぢゃ。僭越ながらキミの口座から引き落とされるよう手配しておいた。いやいや、ワシの手間賃の心配などせんでええぞ」 そう言って、三宅はキッチンに入ってきた中川に巨大スーパー「マルヤス」の伝票を差し出した。¥59、239の文字が伝票には刻まれている。 「………………」 伝票を見つめて、一瞬世界が真っ白になった。 テーブルの上に並べられた商品を見つめて、今度は白かった世界が真っ暗になっていく。 (晩飯一回分に……六万円) 名目だけは社長でも、中川の懐具合は中小企業の部長クラスとそれほど変わりはしない。そして、平素から無謀を好む中川も……こういう無謀具合にはきっぱりと縁がなかった。 「エンゲル係数200%を目指すくらいでなきゃあ、立派な新妻とは言えんよ、真奈美くん。そういう妻を持ってこそ、中川くんも“俺がなんとかせにゃあなるまい、俺が稼ぐんだ”と仕事に熱意を持てるというもんだ」 「はいっ! 三宅のおじ様、奈美頑張りまーす」 このノリのいい性格をして、真奈美は中川の妻になったわけだが……三宅のこの無謀が真奈美に伝染したのではエンゲル係数200%くらいで収まるわけはない。 「そうだろうが、中川くん、ん? それでこそキミも男になれるってもんだよ」 「俺はもう充分男だ」 「うはははははははははははははははははははは、青い青い」 「証拠見せるぞ、畜生」 「見せて貰おうぢゃないかね」 「まあまあ、克ちゃん、勝てるわけないんだから……諦めたほーがいいってば。奈美が毎日美味しい晩ご飯作って上げるから、元気出して☆」 「……(T_T)」 (どこのどいつを脅して金を踏んだくってやろう……) 中川は床にへたり込んだまま、そんな画策を胸に抱いていた。 いわゆる……無差別ヤツアタリという奴である。 そして中川は恐らくは真奈美と衿霞によって繰り広げられるであろう宴会で、巽と三宅が鉢合わせをする恐怖を、ぼんやりと想像し、再びがっくりと肩を落とした。 |
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中学生、高校生の麻薬汚染について広川がまとめた記事は、「週刊オリエント・ジャパン」の麻薬追放キャンペーンの第一段として署名入りで巻頭を飾った。 第一回目の内容は過去の補導記録をもとに、ヘロインやマリファナなどの麻薬と青少年の接点に重点をしぼったものでラブシックについてはまったく触れられていない。 広川は回数を重ねながら次第に新種の麻薬であり……恐らくは今後、麻薬の中では安価で手軽なものとして主流となって行くだろうラブシックに迫って行こうと考えていた。 「週刊オリエント」のキャンペーンはその足がかりだった。 ラブシックについて広川の得た情報はまだ少ないものだったが、雑多な情報からは次第にいくつかの事実が浮かび上がってこようとしていた。 その顧客は百パーセントと言っていいほど女生徒であり、しかも他の麻薬とはまったく接点のなさそうな大人しい生徒の間で広まっているらしいということ。 薬の効果には個人差がきわめて大きいこと。 そしてラブシックというその新手の麻薬が……洋上大学附属高校を中心に出回っているということだった。恐らく、校内に供給源があるのだろう。 SNSを訪れた少女のもらした「ラブシック」という言葉から調査を始めたジーラたちの動きは広川も三日月を通して聞いていた。 ラブシックはサクマドロップスの缶に入れられて売買されているらしいという闇沢の情報も、彼らから入手している。 しかし広川はジーラと手を組んでラブシックの調査をするのではなく、情報交換程度の接点を保つつもりでいた。 「俺は今までそうして来たのだし、これからだってそうして行くだろう。大勢で動くことには欠点もある。一歩離れた場所から状況を見つめる者も必要なはずだ」 それが、ジーラからの申し出を半ば拒絶したとも言える−−広川の言い分だった。 正体不明の麻薬を探りたいというジーラの思いは広川にも分かる。広川がキャンペーンの企画を「週刊オリエント」に持ち込んだのは、ジーラと同じように麻薬による青少年の汚染を危惧する正義感からだった。 だが、ジーラの正義感と広川の正義感には微妙な違いがある。 広川はジャーナリストであり、その報道によって金を得るプロである。見つけだした真実を報道する事が広川の仕事なのだ。事件の当事者の思惑や干渉を切り捨てなければならない場面に直面する事だってある。より大きな罪をペンによって告発するとき、その影には常に小さな犠牲がつきまとうものだ。 だが、安っぽいヒューマニズムに心を揺り動かされているようでは真実を伝える事はできない。 誰に対しても善人でいたいなどと言う甘い考えではプロとは言えないのだ。 広川はそのプロとしての意志をジーラに押しつける積もりはなかった。彼女には彼女の正義があり、目指すべきものがある。だからそれを押し通せばいいだけだ。 そして自分は自分なりの行動をすればいい。 ジーラの行動に干渉しない代わりに−−彼女の正義感に自分のプロとしての行動を阻まれたくはなかった。 「じゃあ、そういう麻薬を知っているのね?」 縁島公営住宅の一角、ナサティーン家にアルファのその声が響いた。 彼女は朝からヴィジホンの前に張り付いて、麻薬汚染という点では「先進国」であるアメリカの友人たちから事情を聞いていたのだ。 その大半は国際電話の高い料金を使っての世間話に終わってしまったのだが、十二件目でようやくその片鱗を掴む事ができた。 『知ってるっていうか……噂で聞いたっていう程度なの』 ハニーブロンドの髪をまとめながら、ヴィジホンのモニターの向こうでアルファの友人が呟いた。 『……あなたの役に立つかどうかは分からないわ。でも、ちらっとそんな話を聞いた事があるの。シアトルだかどこだかのストリートキッズの間で……そう、デートで稼いでいるような女の子たちが、そういう薬を客に使ってたんだっていう……ラブシックっていう名前じゃなかったわ。私が聞いたのはね、「カウント」っていう名前で呼ばれていたはずよ』 「どんな効果の麻薬なの?」 『麻薬っていうか、媚薬に近いものだと思うわ。ストリートキッズが売春の顧客を集めるために使ったっていう話だったもの』 「カウント……? 初めて聞く名前だわ」 『そう、そこら辺がちょっと眉唾なのよね。この噂、お客さんの二、三人から切れ切れに聞いた話だから私もはっきりとは分からないんだけど、とにかくそういう薬があって、五年くらい前に……それもほんの一時期だけ出回ったらしいの。十年前だって言ってた人もいたから、時期は当てにはできないわね。その話を聞かせてくれたお客さんも実際に使ったわけじゃないから、効果の方はよく分からないけどかなり過激な媚薬だったらしいわ。で……肉体的にも精神的にも強い依存性があって、しかも常用してればほとんどが死ぬか廃人になるかだったって言うの』 「そんな強い媚薬が……噂にとどまってるってどういう事かしら」 アルファは眉を寄せた。 そうした薬物についての知識はある程度持っている。だが、カウントという名前はまったく耳にした事がなかった。 『一時期しか出回ってなかったって言ったでしょ? それが理由みたい。深刻な被害が出始めて警察が捜査に乗り出す頃にはすっかり姿を消して……廃人になった中毒患者だけが残ったって……。流通ルートもつかめてないし、正体も謎に包まれたまま迷宮入りになった事件らしいわ』 「でもそれじゃあ、売人はたいして儲からなかったはずだわ」 通話を終えて暗くなったモニターを見つめたまま、アルファはそうひとりごちた。 それがどんな種類の薬品であれ……新薬の開発には莫大な資金と施設が必要となる。被害が出始めて警察が捜査に乗り出すまでのその時間が−−一年あったとしても、そこから得られた利益はその開発資金から比べればごくわずかなものだったはずだ。 (人体実験……) ふと、そんな考えが意識をかすめた。 カウントという名前で呼ばれていた麻薬(あるいは媚薬)がまだ研究段階の薬物で、その効果を試すために一時的に市場に流されたのだとしたら……。 (ラブシックは……カウントの改良された形なんじゃないかしら) 誰が……どんな目的を持ってその薬をばらまいているのかは分からない。 しかしラブシックとカウントには何らかの関係があるのだろうとアルファは感じた。 「確かに共通点は多いけど……まだ確定するには時期尚早って感じだな」 シアトルで流行したのだという麻薬・カウントの話を聞いてジーラはそう小さくため息をついた。 「でも……ジーラ姐」 「分かるよ、これは貴重な情報だ。でも、焦ったってしかたないだろう? 噂だけでカウント=ラブシックって結論を出す訳には行かない。もう少し探って……」 サクマドロップス、という言葉が耳に入ってきたので、ジーラは言葉をとぎらせた。つけっぱなしになっていたテレビが午後のニュースを流している。 『…………の発表により、現在店頭に並んでいるものを含めすべてのサクマドロップスが回収される運びとなりました。発売元からの発表によれば、異物が混入されている疑いが持たれるため、すべての商品が安全と確認されるまで一時的に発売を取りやめる方針−−とのことです』 混入された異物が……ラブシックのことなのだとジーラはすぐに気付いた。 誰か他にもラブシックの事を知っている者がいる。ラブシックがサクマドロップスの缶に入れられて出回っていることを、他にも知っている人間がいるのだ。 ニュースはまだ続いていた。 『混入された異物についての発表は次の通りです。“異物は明らかに商品のドロップスとは別の形状をしておりますので、購入済みの商品をご確認のうえ、万が一ドロップス以外のものが混入されていた場合は幼児などの手の届かない場所に保管した上で特設回線へご連絡をください”特設回線の番号は現在テロップで流されているものです。……混入された疑いの持たれる異物が具体的にどんなものであるかは、まだ発表されておりません』 白葉は、その同じニュースを農業工学科の教授室で見ていた。 「これで一安心だな」 そう小さく言って、秘書の天城梨沙の入れたコーヒーに手を伸ばす。サクマドロップスの全面回収を申し出たのは白葉だった。新手の麻薬の売買にドロップスの缶が使 われているという話を聞かせてくれたのは、白葉が世話になっている群島中央病院の医師、津久井である。 商品として流通しているドロップスに薬物が混入されている可能性は低い……と津久井は言っていたが、群島の食品流通責任者として白葉はその事態を見過ごしてはいられなかった。 『例えそれが万分の一、いや、億にひとつの可能性であったとしても危険がある以上野放しにはできない』 その白葉の言葉が、サクマドロップスの回収を決定したのだ。 「……回収になる前にとりあえずスーパーで買っておきました」 梨沙は仕事中には滅多に見せないいたずらっぽい笑顔を浮かべて白葉のデスクにサクマドロップスの缶を乗せた。 「ふむ……」 手元にあった成分表をめくって、白葉はドロップスの成分を調べた。 「砂糖の塊みたいなものだな。腹の足しにはなりそうにないね……」 小さく呟いて缶を開け、白葉はてのひらに転がり出たドロップスを口に放り込んだ。 「懐かしい味だ。子供の頃にはよく食べたものだよ」 笑みを浮かべた表情で、白葉は梨沙にもドロップスを勧めた。 勿論、梨沙がスーパーで買ってきたサクマドロップスには、回収された商品と同じようにラブシックは混入されていなかった。 |
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サクマドロップスが回収されることとなった。 −−そのニュースを、中川はゼロワンSTAFFのオフィスで見ていた。 そしてニュースを見てもらしたのは、 「おっさんも……熱血するなあ」 という一言に尽きた。 マイヤーの依頼で香南の治療を行っている津久井が、白葉にサクマドロップスの缶に入れられた麻薬の話をしたところ、 『幼児の安全の確保のためにも、私が動く!』 と、白葉が拳を降り上げたのだとは聞いていた。 ……が、それがつい昨日のことなのである。 昨日の今日で販売元を説得し、回収作業を完了する。実際それは白葉の発言力と行動力なしには実現しなかっただろうことなのだ。 改めて、中川は白葉の実力を思い知った。 (さすがあの料理百科の著者なだけはある……) 「早く解決するといいですねえ」 その中川の横で、抹茶の茶碗を口へ運びながら忍武がため息混じりにそうもらす。 「解決すんのがおめーの仕事だろう(^^;)。他人ごとみたいに言うなよ」 その忍武を横目に、中川は脱力気味だった。 SNSを訪れた少女の口にした「ラブシック」というたった一言の言葉から、すでにゼロワンSTAFFを凌ぐ情報を得ているジーラたちの活躍ぶりなど、中川はまだ知らない。 知っていれば……ここで負け惜しみのひとつも出てきたはずだった。 何しろ、WWLからレンタルしてきた賃貸スパイの唯を筆頭に、広田、忍武、衿霞、真奈美がアルバイトとして、さらに新規参入してきた巽が清掃員としてまぐまぐバー ガーに潜り込んで、24時間体制のスパイ活動を行っていると言うのに……新しく得られた情報は、唯一店の外で行動していた沫の「桜ちゃん」くらいなものなのだ。 「あの……人数はもう十分だと思うんですが……」 という、稟の戸惑いがちの言葉に、中川も愛想笑いを浮かべる以外になかった。 おちゃらけるのは、俺だけでじゅーぶんだ。おめーらの分まで、俺が存分におちゃらけてやるから、おめーらはシリアスになってくれよ。そうでなきゃあ……そうでなきゃあ……俺がマジになるじゃないか(^^;)。 目下のところ、それが中川の苦悩の種だった。 いや……ゼロワンSTAFFにはもう一人……どんよりと落ち込んでいる男がいた。 アーマス・グレブリーである。 ゼロワンSTAFFのスパイ要員のほとんどがまぐまぐバーガーに駆り出されている中で、アーマスだけが、いまだに山田製薬の不倫調査に差し向けられているのだ。 「早く山田製薬での仕事にケリをつけて、俺もラブシックの調査をするよ」 お釣りを60円間違えただの、ハンバーガーの焼き方が上達しただのという、ろくでもない業務報告を睨んでガックリと肩を落とす中川に、アーマスがそう声をかけた。 「お前……少し休んだ方がいいんじゃないか?」 忍武にお茶を入れてくれと声をかけると、中川は帰ってきたばかりのアーマスに目をやった。 そのやつれ具合は……ただ事ではない。 アーマスが酒臭い息をして会社に現れたと山田製薬から苦情の電話がかかってきたのは今日の昼過ぎのことだった。このところ、毎晩深酒をしているらしい。 彼が荒れている原因は、明白だった。 大西諒である。 『……もう、たくさん応募者もあったんだし、私がいなくたって大丈夫でしょ?』 諒はそう言って、まぐまぐバーガーでのアルバイトから手を引いてしまった。 そして途切れがちだったふたりの会話は、さらに少なくなっていったのだ。帰宅して顔を会わせることもまれだった。諒はふさぎ込んで部屋に篭もることが増え、アーマスがそのことを指摘すると今度は口論になる。そんな繰り返しが何日か続き、ついに諒は家を出て行ってしまったのだ。 「大西……連絡してこないのか?」 忍武が目の前に置いた抹茶の器をずいっと横に押しやって、中川はテーブルをはさんで向かいに座ったアーマスに声を掛けた。 「仕事には関係ないだろう」 そのアーマスの答えには明かな苛立ちが込められていた。 抹茶の器を持ってきた忍武にちょっと作り笑顔を向けて中川と同じように横に押しやる。 勧められた茶を断るわけには行くまいと、一口飲んでみたときのあの激しい後悔は、たぶん一生忘れはしないだろう。 「一週間休みをやるから、その間に女とのカタをつけろよ。寄りを戻すにしろ、別れるにしろ、きれいなやり方ってのがあるだろ」 「そんな暇、ある訳ないだろう。山田製薬の仕事をやれるのは……」 「仕事の事は俺が考える。有給休暇一週間だ。その間はとりあえず仕事の事は忘れろ。山田製薬の不倫女のことも、サクマドロップスのこともだ。よく覚えておけよ。俺はいままで……例え幸子に対してだって有給休暇なんてもんをくれてやったことはないんだ。一週間経って出てきたときに、まだ女のことで泣きを入れてるようならただじゃおかねえからな」 それを捨てぜりふとばかりに中川は立ち上がった。 照れを隠すようにパソコンに向かってしまう。 「……とりあえず、感謝するよ、社長」 そう言って、アーマスも立ち上がった。 ソファの横に置いてあったヘルメットを持って、オフィスを出ていく。 アーマスが出て行くのを見送って、忍武はテーブルに残された茶器を取り、その一方を中川のパソコンデスクの上に乗せた。 「飲んでくださいよぉ」 「………………たまに渋く決めたときくらい、余韻を味わったっていいだろう(^^;)」 「たまに渋く決めたときくらい、飲んでくれたっていいじゃないですか」 「畳み掛けるように言うなよ。俺は抹茶は苦手なんだっ」 まあ、所詮……中川の渋さなんてのはこの程度のものである(^^;)。 「加賀美、お前アーマスの代わりに明日っから山田製薬に行ってこいや」 「明日はまぐまぐバーガーのアルバイトが入ってますけど……」 「六時からだろ? だいじょーぶ、山田製薬は五時半で営業終了するから」 「アーマスさんの代わりにって……プログラマーじゃないんですか? 広田さんの方がまだなんとかなりそうな気がするんですけど……」 「広田は明日は三時からまぐまぐバーガーだ」 「…………なんか、結構いい加減に決めてません?」 「プログラマーができないなら、抹茶を点てるか、生け花を生けるかしてるんだな。どうせ倒産しかかった会社だ。仕事なんてあるわけないさ」 「はあ(^^;)」 それって過剰労働って言いませんか? ……という疑問を、中川に投げかける事は忍武にはできなかった。投げかけてみたところで、茶化されて混ぜっかえされてケムに巻かれる事は目に見えているのだ。下 手につついて暴発されたのではたまらない。 だが忍武はまだ、 『加賀美はまあ、当面好きなように使えるな……』 という中川の目論見には気づいていなかった。 |
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「広田さーん、今日の業務メモ出して下さーい」 ゼロワンSTAFFのオフィスに、一日の仕事を終えて唯と広田、それに佐々木建設のお茶汲みに復帰したユッコが戻っていた。 中川が外出しているため、妻(^^;)の真奈美が代理の「級長さん」である。 「業務メモたって……今日も手がかりないぞ」 「とりあえず何か書いて出さないとお給料もらえないよ」 このところ業務メモを集めるのは、夕飯の支度をしながらの真奈美の仕事となっていた。中川曰くの「たわけた報告」が多いのは、そのせいだとも言える。 「……別に金のためにやってるわけじゃないけど……」 そう言いながらも広田はサインペンを出し、業務メモの用紙に、 『アルバイトの一人が店長の膝で盗んだハンバーガーを食べているのを撃退。店内に設置した単語識別装置にはまだ手がかりはナシ』 ……と書き込んだ。 これを見て、中川が脱力するのは目に見えている。だが、ここで「無償で使える正義の味方」が定着すればどうなるかは、中川の性格を考えれば容易に推測ができる。 一生食い物にされるのは、いくら広田が世話好きのお人好しだったとしても……やはり遠慮したい事態である。 「単語識別装置……あれ、役に立つんですか?」 唯がそうため息混じりに呟いた。 まぐまぐバーガー店内に設置された単語識別装置は、広田の案で導入された最新兵器である。「恋をするには絶好の日和ですね」「サクマドロップス」「ラブシック」 の単語に反応して店内の各所に設置した隠しカメラを作動させ、その単語を口にした人物を映す、というものだ。(注/もちろん中川が泣いて喜ぶMIL特製である) アイデアは確かに良かった。 ……が、結果はイマイチである。 初日には、上記の三つの単語のほかに、サクマドロップスが缶の中でカラカラ動く音……設定されていた。ハンバーガーの調理によって発せられる音声に装置が反応しまくり、カメラが回りっぱなしとなったのは、おそらくそれが原因であると思われる。 『もともと、人間の声に反応するように作られているから、やっぱりちょっと無理があったのかもしれない』 広田はそう言って、設定からサクマドロップスの缶の音を外した。 これで装置が作動するのは上記の単語を誰かが口にしたときだけ……となるはずである。いや、実際なったのである。MILの看板には偽りはない。その信頼性はきわ めて高いものなのだ。−−例えそれが、どんなに「役に立たないような気がする」製品であったとしても、例えすべての製品に自爆装置がついているという危険があった としても……性能は確かなものなのだ。 問題は、いつだってそれを使う人間の方にある。 広田と唯が確認した映像はおよそ二時間分ほどあったのだが、そのすべてが店長である高梨稟と、ゼロワンSTAFFの面々のオンパレードだったのだ。 「このままじゃ、店長のプロモーションビデオができちゃうよ」 ポケットタイプのビデオデッキのカラー液晶画面を見つめて、唯が呟く。 メモリーカードに収められた映像を秒数で分類してみると、その第一位は高梨稟の独り言だった。ついで、僅差で稟と衿霞の会話、稟と真奈美の会話……と続く。 「店長らしいと言うか、なんと言うか」 さすがの広田も、作戦の失敗を感じずにはいられなかった。 玄関の呼び鈴が鳴ったのはその時だった。 「沫さんかな? おねーさん、ちょっと出て下さいー」 オーブンに入れた料理の様子を見ながら、真奈美がユッコにそう声をかけた。 ……が、おとなしく真奈美の指示に従うユッコではない。 「ごめんねー、私ちょっと手が離せないのぉ」 返ってくるのはその返事である。 アインシュタインとあやとりの真っ最中だから、“手が離せない”というのもあながち嘘ではないのだが……(^^;)。 「あ、俺が出るよ」 見かねて広田が立ち上がった。 「ども(^_^)」 インターホンなど使わず、玄関を開けた広田の前に立っていたのは、膝に穴の開いたジーンズにTシャツ、頭にはアメリカ軍のヘルメットをちょっとずらしてかぶった 十八歳くらいの少年だった。 軍事学部の生徒です、と名札を張って歩いているようなタイプだった。 「企業内スパイの応募者?」 「…………姉を迎えに来たんですけど……」 広田の問いかけに、ややつり上がり気味の目を細めてにぱっと笑い、少年は答えた。 「もしかして、ユッコさんの弟?」 その狐目と、にぱっと笑った表情は……わざわざ紹介されるまでもなくそっくりである。 「よく分かりますね−−。さすがスパイは違うなあ」 そう言って、ユッコの弟は「どうぞ」とも言われないうちにずかずかと室内に上がった。 「きょんってば、遅いじゃないの」 入ってきた弟を見つめて、ユッコがふてくされたように言葉を発した。 「こんなコト、彼氏の誰かに頼めばいいだろー、病み上がりの弟をこき使うなよ」 「いいじゃないの。きょんが運転免許取るとき、お金貸して上げたの忘れた?」 「人前できょんなんて呼ぶなよ、はずかしーだろ」 「きょんって本名じゃないんですかー」 ユッコときょんが話している間に、ボールの中のマッシュポテトをかき回していた真奈美が口を挟んだ。 「………………」 言葉を失って、きょんが真奈美を振り返る。 「あのなー、そんな名前のヤツ、いるか?」 「可愛い名前だと思うけど……」 「まあまあ、真奈美ちゃん(^^;)、お鍋がふいてるよ」 見ていたビデオから顔を上げて、唯が真奈美をキッチンの方へ押しやった。 「あれ……助教授の彼女だ」 唯の手元のビデオをのぞき込んで、きょんがそう声を上げた。 モニターには稟が映し出されている。 「知ってるの?」 唯がそう言ってきょんの顔を見上げた。 「軍事学部に訪ねてきてさ。女嫌いで通ってる助教授が自分の部屋に通して深刻そうに話してたんだ。助教授はいいよなー、俺も女に不自由のない身分になりてえや」 きょんの話しているのがマイヤーの事なのだと気づいて、広田は含み笑いをもらした。 「女運がないの?」 唯はビデオを操作しながら話し半分にきょんの言葉を聞いていた。 「うん、断言してもいいよ。せっかく上手く行きかかっても、冷凍マグロでぶん殴られた挙げ句にサクマドロップスの下敷きになって……殴られた傷は禿に……」 「え?」 「今なんて言った?」 「にゃ?」 「ウキキッ?(サクマドロップスだって?)」 その場にいた(ユッコをのぞく)全員がきょんの言葉に一斉に声を上げた。ちなみに上から広田、唯、真奈美、アインシュタインである。わざわざ注釈をつけなくても分かるとは思うが……。 「え……?」 その反応に、きょんは多少たじろいだ。 「今、なんて言った?」 再び−−今度はきょんの方に身を乗り出して広田が言った。 「…………禿」 「いや(^^;)、その前」 「殴られた傷……?」 「惜しい、も一個前だ」 「…………サクマドロップス」 「きょんって言ったっけ?」 「だからきょんってのは本名じゃなくて……」 「じゃあ、本名は?」 「篠田清志……」 「清志、その話し、詳しく聞かせてくれ」 こういう会話に慣れてきたのは……たぶん毎日稟の相手をしているせいなのだ……と、広田は感じていた。 そしてゼロワンSTAFFはようやく、事件の核心へと遅い第一歩を踏みだしたのだ。 |
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