「手紙を預かるだけで、2DKの家賃5年分前払いねぇ……なんかヤバい品かなぁ」
ルフィーからの奇妙な依頼によって、依頼料と称する2DKの部屋を手にいれた富吉は、今もキツネにつままれたような表情のままだった。
貧乏探偵である富吉は、公営住宅・縁島団地でいちばん安いと言われる1階の三畳間に住んでいる。家賃もずいぶん安い。だが、その家賃さえ食費を削って捻出している富吉にとって、ルフィーの用意した2DKにタダで5年も住めるという依頼料はよだれの出るほどすばらしいものである。
ルフィー西石もまた探偵であり富吉の同業者である。だが、ひがな一日人妻の尾行に明け暮れている富吉と違い、気に入った仕事以外は引き受けず、それでも実家が金持ちだから食っていけるという道楽探偵の見本のような男である。
金遣いも荒く、ルフィーが金を使っているのは見たことがあっても、金を儲けている(仕事をしている)のは、富吉がルフィーと知り合ってからは一度も見たことがない。
ルフィーは、ときおり本当に依頼人がいるのかどうか怪しいわけのわからない仕事を、法外な依頼料を添えて富吉に振ってくる。その多くは、引き受けたものの何をすればいいのやらわからないような仕事であったり、ルフィー自身が依頼したことを忘れてしまったりと、いつのまにかうやむやになってしまうことが多い。
act.4-6;幸せであるように
探偵の本能か貧乏の悲しさか細かいことに妙にうるさい富吉としては、ひとつの仕事を白黒はっきりさせないうちに、別のことに手を広げてしまうルフィーのあきっぽさが大嫌いだった。金に明かして人にものを頼むという、貴族ったらしい姿勢も嫌いだ。何よりあの人使いの荒さと金使いの荒さは見ていて耐えられない。
だが金使いの荒さは気前の良さでもある。金払いはいい。多くの場合、ルフィーからの依頼を受けると(富吉にとって)途方もない金額が振り込まれる。きっとルフィーにとってはポケットマネーくらいの感覚しかないのだろうが、富吉にとっては「恵みの雨」というべきものだ。いや、ストレートに「金づる」と言ってしまっても過言ではないだろう。
これでルフィーが金持ちでなかったらただのいけすかない奴に過ぎず、こうまでしてへこへこと付き合う謂れなど富吉にはない。
「でも、あいつんち実家は相当な金持ちらしいしなぁ……」
金のないものは金のあるもののお情けで生きているにすぎない。日々、ルフィーの奢りルフィーへのたかりで食べている富吉に、ルフィーの依頼をすげなく断わることはできなかった。
ルフィーの実家が金持ちだ……ということは、ルフィーのあの放蕩ぶりを見ていれば、富吉にも想像は難くない。だが、ルフィー本人の口からルフィーの実家について具体的なことが語られたことはない。
体力と根気だけを頼りに仕事をしている富吉の乏しい想像力と推理力から得られた答えは「ルフィーは日本人のようだが鼻持ちならないイギリス野郎だ。そして金持ちのボンボンらしい。嫌な奴だが、自分におごってくれるからいい奴だ」といったものである。
貧乏人にとって金持ちは妬みの対象であると同時に、施しをくれる良い人でもあるのだった。
「ま……いっか。なんだか知らないがこれで三畳一間の貧乏暮らしから脱出できるわけだしぃ」
何でも疑うのが探偵の仕事……だとは言うものの、疑ってばかりでせっかく手にいれた幸福がどこかへ消えてしまうのも悔しいものである。
富吉は三畳一間の部屋の荷物をまとめて隣の2DKへ引っ越す仕度を始めようとした。もっとも荷物をまとめるのどうのと言ってみたところで、富吉の三畳一間には小汚い敷きっぱなしの煎餅布団と、米と釜くらいしかなかった。
改めて荷造りをするまでもないことに富吉が気付いたとき、玄関の外に複数の人間の気配がした。
「あー、そこ。ぶつけないように気をつけて! おい新人、そっち側を持て。もっとしっかり持たんか!」
ドアの隙間から廊下を見ると、どこぞの配達屋が荷物を運び込んでいる。
山のような荷物は、次から次へと富吉の部屋となるはずの隣の2DKへ運び込まれて行く。
……隣の2DKは自分のものとなるはずではなかったのか!? 富吉はあわてて廊下にとびだした。
「ちょ、ちょっと待て! 待ってくれ!」
「なんですか、あんた」
「そりゃ、こっちのセリフだ。その部屋は俺の部屋だぞ!」
「俺のって言われてもあんた。ウチは頼まれた品物を頼まれた場所に運んでるだけなんでね。文句があったら送り主に言ってくれよ」
「送り主? 誰なんだそいつは! いったい誰の荷物を運び込んでるんだ!?」
運送屋は胡散臭そうな目で富吉を見ると、配送伝票を見ながらいった。
「ええと、ルフィー西石って人から富吉さんあてに。あんた富吉さん?」
「ルフィーから?」
「問屋からの直送品だよ。衣装箱にタンスにクローク、ベッド、電化製品一式、調理器具諸々、日常生活送るのに必要な家財道具はまるまる揃ってる。あんた、この部屋で新婚生活でも始めるのかい?」
運送屋は、トラックから2DKの部屋に納まりきらないのではないかと思われるくらい大量の荷物を下ろし、茫然としている富吉を尻目に次々と運び込んでいった。
「班長、終わりましたぁ」
「おう。……じゃ、富吉さん。悪いけど伝票のココんところに受取の判子貰えない? なけりゃサインでもいいや」
「え? ああ」
「はい、どうも。ああ、それからこれルフィーさんって人から預かってたこの部屋の鍵ね。そいじゃ、お幸せに」
運送屋は富吉を新婚と決めつけて形ばかりの挨拶をすると、そそくさと帰っていった。富吉はなおも拍子抜けした表情のまま、運送屋を見送った。
「2DKの部屋に家財道具一式までつけてくれるとは……ルフィーって実は気のきくいい奴だったのかもしれないなぁ……」
路地の角から大通りに消える運送屋のトラックと入れ違いに、ブーンという可聴域ぎりぎりのモーター作動音を響かせながら、天井にちょうちんのようなデコレーションを乗せたタクシーが滑り込んできた。
タクシーは、富吉の住む縁島団地A棟の正面入口に止まった。スモークのかかった後部シートのドアが開き、黒いぴったりしたナイロンのタイツを履いたすらりとした足が現われる。タクシーから降り立った「女」は、膝上20センチほどの軟らかそうなミニ・スカートを揺らして、軽快そうなビンテージもののコンバースを大地につけた。
運送屋のトラックが消えた方向にタクシーが走り去り、穏やかな春の日溜りの中に立ち尽くす富吉と女が残された。
ショート・ボブに赤いペイズリー模様のバンダナを巻き、ジーンズ地のジャンバーを着た姿は、ここ最近流行のレトロなオールド・ファッションだ。小さな白い顔に黒いサングラスとパール・ピンクの薄いルージュが映える。イイ女だ!
女は富吉に向かってにっこり微笑んだ。
富吉は思わずあたりを見回す。だが、その極上品の女と向き合って立っているのは、富吉一人だった。
「富吉直行さん?」
「あ、はい。そうです。ボク、富吉です」
ボクだって。けらけら。
「私、ルフィー西石に紹介していただいたルフィーア・ウェストストーンというものです。突然ですが、私をかくまってもらえないでしょうか? できれば、あなたのお部屋においていただきたいんです」
「ぼっ、ボクの部屋? あんな小汚い三畳間に……あっ!」
富吉ははたと気付いた。ルフィーが富吉に5年間の期限付きで与えた依頼料の2DK。あれは富吉のための住まいではなかったのである。そう、このルフィーア・ウェストストーンを名乗る極上品の女のための住まいだったのだ。
あの依頼は、この女をかくまうというものだったに違いない。
「ああ、ルフィーアさんね。それはボクの部屋じゃなくて、ボクの隣の部屋のことでしょう。ルフィーが注文した荷物が届いてますよ」
ルフィーアは再び微笑んだ。サングラスのせいで目線が見えないが、きっとおそらく極上の微笑みを浮かべているのだろう、と富吉はどぎまぎしながら思った。
「いえ、その部屋はルフィーが依頼料としてあなたのために用意したお部屋だと伺ってます。ですから、そこにある荷物も総てあなたのものですわ。
ルフィーから、あなたなら絶対に私を助けて下さると聞いたものですから……不躾とは思ってます。ですが、他に頼る所もなくて……もう、あなただけが頼りなんですの」
富吉は先日の深夜にやっていた報道特番を思い浮かべた。近所に住んでいる白葉という科学者と、そこに転がり込んできた二十歳そこそこの意外にかわいいコの恋愛騒動だ。
自分も一枚かんではいたとはいえ、所詮は他人ごと、そうそう上手い話が転がっているはずはない……と思っていたが、なるほど上手い話はどこにでもあるものなのかもしれない。女に頼られるのも悪くないぜぇ。
富吉は自分を白葉の姿に重ね合わせ、期待に胸やそれ以外の場所を膨らませた。
「お願いします。私がどこにいるか、今は誰にも知られたくないんです。いずれ時がくるまで、ぜひ私をかくまって下さい」
「わかりました! ボクにおまかせください!」
「ありがとう!」
富吉は、飛び込んできたルフィーアの肩をそっと抱いた。女の子にしては少々背が高い気がしないでもない。だが、この細い肩はまぎれもなく女のものだ。ものに違いない。
なぜか疑惑がよぎったが、富吉はその疑いを軽く振り払った。
(西洋人は早熟だって言うからなぁ……)
そして、ルフィーアの胸の暖かい感触を楽しみながら、富吉は心の底から思った。
「ルフィー……誤解してたぜ。俺をそこまで信用して、彼女を託してくれるたぁ……いい奴じゃあねぇか……(・_・、)」
富吉はルフィーアの腰に手を回し、二人がこれから秘められた生活を送ることになる新居へ、彼女を導いた。
しばらく後、縁島団地A棟1階のご近所に「2DKに引っ越して羽振りの良くなった富吉が女を囲っている」という噂が流れたが、富吉は幸せそうな笑みを浮かべるばかりで事実を否定も肯定もしなかった。
第二キャンプの設営が終わったのは午後ももうだいぶ遅くなった頃だった。
「ふんふっふーん、ふんふんふーん☆ るーるるるっるるうううるるるぅぅぅぅ☆」
金井大鵬は、野太い呻きをあげながら草むらで巨躯を揺すっていた。
境伸也は拳法使いを自称する巨漢の背中を心配そうに見ていた。
「らんららーんらんらーん☆ ふっふふっふーん、はははーん☆ たらたらららら☆」
「どうしたんですか、大鵬さん。気分でも悪いんですか?」
「いや、鼻歌です」
大鵬はその見かけと重さからは信じられないほど軽やかに、湿地と森の合間を埋めている草むらで立ったりしゃがんだりを繰り返している。
やはり拳法使いともなると日々の鍛錬を怠らないのであろうか。境は、はぁはぁと息をあげながら巨体を揺り動かしている大鵬を少しだけ見直した。
「スクワットですか?」
「いや。つくしです」
「は? それはいったいどういう修業なんです?」
「いや、修業ではなく……ほら、これ。見たことありませんか?」
大鵬の左手には、まだ笠の開いていない軟らかそうなつくしがこぼれ落ちんばかりに握りしめられていた。
「ああ、つくしですか! それにしてもずいぶんたくさん……いや、こんな海沿いなのにつくしなんて」
「だが、これは紛れもなくつくしです。いやあ、ここは天国ですな。食える物が一杯生えとる。つくしだけでなく、ほら」
「あ、あけび? そんなものが、こんな所に……こんな季節に?」
「理由はともあれ、あけびです。ここで行方不明になっとるという方、これだけ食べ物が豊富であれば、必ず生き延びとるでしょう。さっき軽く近くを歩いてみたんですが、森の中が思ったよりずっと暖かい。いや、暑いんですな。これなら凍え死んでることもないかもしれませんなぁ。いや、よかったよかった」
大鵬は「ほっほっほっほ……」と笑うと、再びつくし採りに精を出しはじめた。
ぽっかりと真っ暗な口を開く森の中に、火渡貴子が棲み着いているのではないかという疑いは、境の中で確信に変わりつつあった。
縄文時代は木ノ実を集めたり狩をしたりという採集狩猟によって、日々の糧を得ていた時代だと考えられている。後期縄文時代ともなれば、弥生時代に確定的に広まっていたであろう水耕農業も始まりだしていたかもしれない。が、温暖で年間を通じて食糧が手にはいる程に豊かであったと思われる縄文人の生活は、この21号でなら再現できそうだった。
縄文の技術だけを意図して真似るのではなく、縄文の暮らしを継続して続けていく。縄文を意識せずに採集狩猟民俗の暮らしをすることができれば、自然と縄文のそれと同じ意識が芽生えてくるかもしれない。
火渡貴子とその一派たちは、この最高のフィールドの中で縄文人そのものになりきる試みを続けているかもしれない。そして縄文人の心を汲み取ることに成功しているかもしれない。
境の止めどない妄想は、顔を泥だらけにした大鵬の一声でかき消された。手にはつくしの他、よもぎ、セリ、菜の花などが山と抱えられている。
「いやー、大漁大漁☆ わたしは大鵬っときたもんだ☆」
「春ですねぇ」
「大地の恵みってところですかな。やっぱり食べ物は自然のものがいちばん。わたしら人間は所詮地球に寄生して、地球を食べているちっぽけな存在ですからなぁ。やっぱりなんだかんだ言っても地球はおいしいですな。地球さん、おいしい食べ物ありがとう」
大鵬はぱんぱんと柏手を打ち、神妙な顔をして森に礼をした。
境は大鵬の漏らしたキーワードにぴくりと反応した。
「寄生……ですか。そう、そうかもしれませんね」
「そ。人間は地球を食い散らかして生きとる寄生虫ですな。だが、いかん。最近どうもいかんですよ。なんだかんだと開発をばやりすぎる。せっかくおいしい地球なのに、掘って汚して平気な顔をしておるのはどうもいかん。
わたしゃ香港で中国拳法を修得し、インドでヨガの修業を積んだのだが、インドは思いの他ひどかった」
開発と環境保護は表裏一体の関係にある。地球賢人会議と称する人々は北半球の先進国の開発を抑えていくことには成功したが、南半球の開発途上国に残された自然環境を開発させずに保護することには、あまり成功したとは言えなかった。
あの時代、北半球の一大勢力の一端であったCISと、超大国アメリカの工業生産力が減衰していた。工業力の減衰は景気の後退によるものだったが、それに伴って北半球の環境破壊に歯止めがかかった。しかし、先進国へ追いつこうと、開発途上国の多くは潤沢な自然環境をじわじわと破壊して開発に走ったため、地球環境の保護は遅々として進まず、地球規模で見たとき環境破壊は少なくなったとは言えなかった。
この事実は、環境保護を叫んだ先進国の人々にとっては皮肉なものだったかもしれない。
「インドは10億の貧しい国民を抱える国ですからな。国民の生活を全体に向上させようと思ったら、あの原野や砂漠を開発するより他にない。しかし、それをやれば、地球は荒れるんです。
我々はちっぽけな寄生虫です。宿主がいるから生きていけるし、宿主が死んだらそのときは心中より他にするこたぁない。そうでしょ? 境さん」
巨漢の男は重い話題をまくしたてた後、ニッと愛想よく笑ってみせた。
「ああ、腹減ったなぁ」
「えー、それでは21号潜入一日目の無事を祝って、そして根戸さんの無事を祈って乾杯!」
根戸宏救出及び21号解明(そして火渡貴子と接触)を目的とした探検隊では、そもそもの発起人である根戸宏の代理を務める飛鳥龍児が事実上の隊長として認められていた。
飛鳥龍児の冒険者募集作戦は、犬と雄鳥亭のネニエル・ルルットの予想通り効を奏さず、ファンタジー・おたくの冒険者は誰一人として集まらなかった。
そのため実質的に21号に乗り込んだのは、21号取材と根戸救出を目的とした飛鳥龍児、21号の科学的解明と火渡貴子との接触を目的とした境伸也、飛鳥と境に一宿一飯の恩義を感じて用心棒&荷物運び&調理人として参加している金井大鵬……そして「火渡貴子に会う」という目的のために、犬と雄鳥亭で探検隊を待ち受けていたESSEことエッセンショナル・コンディショナーの4名となった。
飛鳥はたった3名の隊員に向かって探検のスケジュールを発表した。
「21号の実質的な調査は明朝から行ないます。20号での一件もあるし、事の次第がわからないこの島で夜に行動するのは、俺にはあまり良策とは思えません。
それからESSEさん。貴方は第二キャンプでもしものときに備えてて貰えますか」
「もしものとき?」
「別におみそにしようってわけじゃありませんよ。
もしも根戸さんが見つかって、しかもすぐに入院が必要な怪我をしていたとき……もしも僕らのうちの誰かが命に関わる負傷を負ったとき……もしも根戸さんどころか、一刻も早くこの島から逃げ出さなければならないような事態が起こったとき……のために、第二キャンプと脱出用のホバー・トラックを見張っててほしいんですよ。ここを空っぽにしておいて、逃げ出すときにホバー・トラックがなくなってたら困るでしょ?」
「そりゃー困る。うむ」
自分で作った料理のほとんどを自分で片付けながら大鵬が飛鳥に同意した。
ESSEは一瞬の沈黙の後、快くそれを了解した。
「ものは言い様ね。OK、引き受けるわ」
湾岸に立ちこめるもやが月明りに照らされて空が明るい。
とはいえ、立ち寄る店があるわけでもなければ、犬と雄鳥亭のように酒場があるわけでもない。大鵬は当然ながら、連日の激務が響いているのか飛鳥も早々に寝息をたてていた。まだ夜の10時を回ったばかりで、普段の彼らにとってはまだまだ宵の口とも言える時間だ。
遠足前の小学生のような気分から寝つかれずにいた境は、夜の空気を肺に満たそうとテントの外に身を乗りだすと、頭上から聞き慣れたESSEの声がささやいた。
「……あら、まだ起きていたの?」
「あなたこそ」
境は、ホバー・トラックの運転台の上に座って月を眺めているESSEを見上げた。
「なぜ、わざわざ21号まできたんですか?」
「言わなかったかしら?」
「火渡君を一目見に……ですか? 本当にそれだけだとするなら、あなたはずいぶんと酔狂な人だな」
「あら、それなら貴方も同じではなくて?」
ESSEはくすりと笑った。それにつられて、境も苦笑した。
「明日は早いんでしょう。もうおやすみなさい」
「ええ、あなたも」
ESSEは再び月に目を戻し、自分の成すべきことを思い浮かべていた。
話は、ESSEがBAR白薔薇で境と別れた直後まで遡る。
火渡貴子がどういう人物なのか、境の話からつらつらと想像を巡らせて楽しんでいたESSEであったが、その楽しみはあまり長くは続かなかった。
白薔薇を出た直後から、黒いニッサン・プリンスH・リムジンに着けられていることに気付いた。スモーク・シールドを張った15年型のプリンスHは、深夜の歩道を歩くESSEの後をゆっくり走っている。
ESSEが立ち止まるとプリンスHは彼女の横にすっと着けて止まった。後部席の逆開きのドアが開きESSEを誘う。
「……」
ESSEはためらうことなく乗り込んだ。
運転手と後部席は完全に隔てられている。ESSEは先に乗り込んでいた人物と向かい合うように、シートに腰を降ろした。
車はいくつかの運河横断トンネルを越え、19号ネオタウンから炉島へ抜けた。そして人工群島の西の物流の生命線ともいえる、首都高速道路・群島西部環状線……通称・群西環状に入るまでの間、プリンスHの車内は沈黙が支配していた。
ESSEには、白薔薇でグラスを傾ける顔とは別にもうひとつの顔があった。この人物の用件は、白薔薇のESSEにではなく、もうひとつの顔をしたESSEにあることはすでに明白であった。
沈黙を破ったのは先に乗り込んでいた人物だった。初老とも壮年ともとれるあまり若くない声は、挨拶をするでもなくいきなり本題を切りだした。
「天皇政復古を目論む者がいる」
それがただの右翼主義者なら別段珍しくはない。いや、最近は強力な指導者がいないため右翼主義者の人数は減っており、叫び声と宣伝車による口汚いだけのただの右翼主義者なら、むしろ珍しいのかもしれない。
「その者は南廿壱の禁忌を破りて、その呪力をもって天皇政復古を成すつもりでいる。すでに何名かを差し向けたが南廿壱の禁忌の森の力は強く、目指すその者を仕留めるには至っていない」
南廿壱とは21号埋立地を指す宮内庁隠語である。
「その者も元は宮内庁の一職員に過ぎなかった。陰陽寮の課員として呪(しゅ)を行なう者ではあったが、おまえと同じように国家大乱を未然に納めるために、その力を尽くし続けるべきだったのだ」
ESSEは己の職分を思いだした。ここしばらくESSEの担当区域では彼女が出向かなければならないほど大きな事件は起きていない。そのため、その使命も技能も少々忘れ去られて錆び付いていたのかもしれない。
「警察でも、軍でも、臣民でもない。そして、決して背くことなく、死して屍を残さない。そういう者であることを、よもやおまえまで忘れてはいまいな」
エッセンショナル・コンディショナーは、人種的には日本人ではない。国籍もスウェーデンにある。そして、彼女は現在の日本には存在していないことになっている。入国の記録も出国の記録も、彼女が日本で生きている証明を行なう記録は実は何ひとつない。
国内におけるESSEのすべての権利がないように見えて、生活に必要な権利はすべて巧妙に手配されている。それらの手配はすべて宮内庁の内部からの指示によって行なわれているが、その記録や証拠のいっさいも残されていない。
それだけのことをしてもESSEの持つ能力は、宮内庁にとって貴重でありそして必要なものであった。
「……」
「玉体を鎮護する使命はあるが、玉体による勅撰政治を復活させる計画は宮内庁にはない。玉体は象徴として、また今も影ながらヒノモトの中心としてあらせられる。
今この時期に天皇政復古などという、玉体への不信を高める目論見が白日の元にさらされるようなことがあれば、玉体を鎮護していくことが難しくなり、玉体を擁してヒノモトを影から御する宮内庁の大任が損なわれる。
大東亜戦争の後も74年に渡って玉体を鎮護してきたのに、ここで天皇制そのものを揺らがせるような大事を成させるわけにはいかぬ」
日本には革命は似合わない。いや、南北朝時代の後、真の意味での革命など日本には起こらなかった。関白・摂政・将軍……と時の権力者たちは名を替え入れ替わり続けてきたが、それら権力者たちの上には常に「天皇」という絶対者がいた。絶対者を擁することで時の権力者たちは、自らの政治権力に「正当性」と「絶対力」を加味してきた。
それは大政奉還の名で権力が天皇に返還されたとする明治時代以降の近代においても変わらない。美濃部博士が訴えたように、権力が一人の人間の肩書にではなく、複数の政治家を名乗る人間たちの上に移っただけで、相変わらず天皇はそれらの上に君臨してきた。
人間宣言が行なわれようとも、天皇が税金を納めようとも、それは2019年に至っても何等変わってはいなかったのである。
「これまで通り今のままがいちばんいいのだ。玉体を白日の危機に晒してまで、無理に変えることはない。これが宮内庁の結論である。
よって、天皇政復古を挙行し国家大乱を招く恐れのある者を、何としても排除する必要がある」
ESSEは無言だった。
宮内庁の使者は、茶封筒からカラーのポートレートをつまみ出してESSEの前にかざした。
「今は天野いずみと名乗っている。事が成される前にその者を仕留めよ」
「21号……この小さな島に何があるのかしらね」
月は天中に上り詰め、後は下るばかりとなっていた。
おんごろの遥か高みを巡る月は、日々の祭を終え火照った身体を鎮めようと心鎮める火渡貴子を照らしていた。たちのぼる熱気は月光を浴びて、貴子を白い衣をまとう天女のように見せている。
森深く夜露に濡れる木々の中に立ち、貴子は夜の息吹と森の声に心傾けていた。大地は貴子の身体に、心の奥底に直接語りかける。あたかも貴子の内から沸き上がって来るかのように、だ。だが、それは明確な命令でもなければ、耳をくすぐる美麗な言葉によってでもない。確かな言葉によって強制されるのではなく、貴子の心を導く絹よりも細い糸であった。
貴子の心を導く絹糸のような声は、このおんごろの森にきてからそれまで以上に太くよりあわされていくように思えた。糸は何者かの意志のように貴子の手足に行き渡り、その糸を通じて暖かい想いと強い力がみなぎっていく。
だが、決して貴子自身が強い力を持っているわけではない。糸を通じて貴子の身体に入ってきた想いは、貴子の身体を通じてどこかへ流れていく。貴子はその想いの流れの中にその身を浸し、想いの断片を感じとって日々を過ごしてきた。
これまで貴子の行動は、すべて彼女の内から沸き上がってきた衝動とも言うべき、ごく自然な想いに支配されてきた。いや、支配されたというのはあまり正しくはない。沸き上がる想いに身も心もまかせてきたというべきだろうか。それは河の流れに身を任せ、時に速くそして緩く、せせらぎから大河へ注ぎ込む流れのように自然なものだった。
その想いに導かれ身を任せて過ごすことが、貴子にとって最良のことであった。縄文的生活もまたしかり。彼女にとってもっとも自然な方策を、彼女の深層が求めるがままに行動した結果、今ここにこうしているのだ。
だが、見えない不安はあった。
「声が……聞こえない」
その日、内から沸き上がる声は聞こえなかった。
「暇だ……」
根戸は、戸口から夜空を見上げた。雨は上がっているが、あたりはまだどんよりと曇りガスが立ちこめている。星は見えず、遠くの運河を照らしているライトが雲に映っている。
手足を縛られているわけではないし、建物に鍵がかかっているわけでもない。逃げようとして逃げられないことはないのだが、根戸はそれをしなかった。
いや、一度は試みたのだが、この島を夜うろつくことが危険であることは、すでに身をもって実感している。
「暇だ……にしても、だ。あれから会ってないな。あの鷹面の女……貴子って言ったか。小汚い原住民のかっこしてるし、気も相当強そうだけど……少しきれいにすればいい女のような気がするんだけどな。錦色とはかなりタイプが違うけど……」
根戸はふと昔失った恋人を思いだした。
「錦色かぁ……初めて会ったときと同じくらいの年頃だったなぁ。そういや、一色は元気にしてるだろうか」
ひとりでいると、過去ばかり思いだしてしまうものだ。そして、つい私事を考えてしまう。目の前に広がる他人事に首を突っ込むことで日々を過ごしてきた根戸にとって、自分の過去を振り返るのは、実に久しぶりだった。
人間、忙しいときほど何も考えられなくなるもので、意図して自分を忙しくしている根戸にとってもそれは同じことだった。いや、自分のことを考えたくないから、過去を思いだしたくないからこそ、あえて忙しく振舞い、自分のことは何も考えずに他人の詮索だけして過ごしてきたのに……。原住民を装う見も知らぬ者たちに監禁されて初めて、自分を振り返る時間が生まれたとは何とも皮肉なことだ。
根戸は珍しく感傷的になっている自分に気づいた。
「弱気になったかな、僕も。まさか自分が一人ではいられない人間だとは思いもしなかった」
目をつぶると、忘れていた過去が映った。錦色と一色。そして、錦色はすでに取り戻せない所にいることも思いだした。
目頭が熱くなり、旧い恋人の姿が歪む。彼を知る者には信じられないような、脆い根戸の姿がそこにあった。
そのとき、風の匂いが変わった。密林暮らしが長引いているせいか、住み慣れた世界への郷愁が高まっているせいか、人の気配を察知する力だけは砥ぎ澄まされていた。
「誰だ!」
闇の中から気配が近づいてきた。
「しっ! 声を出すな!」
戸口の隙間からささやく声に聞き覚えがあった。
「お前……あの女だな? 鷹面の舞の……」
「火渡貴子よ。あんたをそこから逃がしてあげる」
「なぜ?」
「あんた、おんごろに……21号なんかに来るべきじゃなかったのよ」
貴子は戸口から家の中に身体を滑り込ませた。あたりに光はなく、貴子の姿をはっきりと見て取ることは、夜目に慣れた根戸にもできなかった。
家の闇の中に微かな息づかいと、貴子の体温が感じられる。
「教えてくれ。ここはいったい……君らは何者なんだ」
「ここは東京都群島区南第21号埋立地……あんたたちがそう呼んでいる場所よ。そしてわたしたちは『おんごろ』って呼んでる。わたしたちはここで縄文人の暮らしと文化と精神について研究している」
言いながら貴子は自分の言葉に偽りを感じていた。
研究のためにここにいるなんて、きっと嘘だ。ここに居続けるための言い訳にすぎない。研究しているのでなければ、ここにはいられない。そんな気がしているから、そして自分はあの声を聞くために、森に入るために、ここに居続けたいと思っている。
「あんたこそ何者だ。おんごろに何しにきたのよ」
今度は根戸が答えた。貴子と初めて出会ってからもうずいぶんとたっているように思えたが、こうして名乗りあうのはこれが初めてあるように思った。
「俺は根戸、根戸宏。ここには……取材にきた。ここにある何かを見るために、知るために、だ。もちろん、あんたらのような連中がこんな研究をやってるなんて知りもしなかったがね」
「何を知りにきた?」
「ジャングルの中の原住民に話して通じるかどうかわからないがね。僕は、謀略と事件の匂いに惹かれてやってきたのさ。本当ならキャメラを担いだ取材班を連れて来る予定だっただが、ここにそんなものがあるようには思えないし、僕の見当違いだったのかもしれないとも思ってる。それならば、さっさとこんな所とおさらばして、文明の中に戻りたいね」
里心がついたなどとは言えなかった。根戸は里心を毒舌で覆い隠した。
「なら、なぜ逃げない」
「逃げたよ。ここにきた最初の晩に。あの変な獣から助けてもらったのはありがたいがね、あんたらにここに連れ戻されて、客だなんだと抜かして監禁されて現在に至ってる。それに……見張りまでたててるだろう?
あんたたら、僕を客としてもてなすとか言いながら、まるで僕に知られたくないことがあるみたいに見えるよ。いや、僕を返そうとしないのは僕に何か用事があるからなのかな?」
「ない! そんなもの! 確かに撮影隊なんかに今の暮らしを邪魔されたくはないけど、知られて困ることなどない。それに、用事なんて……」
貴子の脳裏に天野の言葉がリフレインした。
(この男を食う……)
あの晩、火渡には天野の言葉の真意が理解できなかった。これまで、天野は貴子が自然にしてきた行動や行為にそれらしい意味をつけてきた。そして、それはおそらく正しかったのだろう。貴子の行動や判断は、このおんごろで暮らす火渡派を自称する者たちの規範となり、天野は貴子について正しく意味付けをすることができる唯一の人間であった。
そのことは、貴子も天野自身も火渡派の人間も承知の上のことであり、その上で天野が貴子について間違った意味付けをすることも、貴子に命令を下すこともこれまでありえなかった。
ましてや、人間を食べる? 縄文の暮らしの中で、そんな説は聞いたことがない。
いや、諸説や記録に頼らなかったとしても、だ。貴子の内から湧いてくる声は、根戸を食べるということを否定こそしていないが、肯定する方へ貴子を導くこともなかった。
頼るべき感覚に自信が持てないこと……それが、貴子を鈍らせた。
「用事なんてない。とにかく、一人で帰れないのなら森を抜けたところまで送ってやる」
「こんな夜中に運河沿いに放り出されても困るね。春の終わりの東京は雪が降るくらい寒いんだよ。どういう理屈だか知らんが、シーズン通して暑苦しいのはこの森の中だけらしい」
「……贅沢言うな! それなら、明日。みんなが狩に出ている間にあんたを島の西にある運河沿いの沼まで送ってあげる」
貴子はそれだけ言うと、根戸をそこに残して建物の外に姿を消した。その気配は現われた時と同じように闇の中に溶けるように消えていった。
「なぜ急に? 僕を逃がす? 逃がすだと?」
自分が捕らわれていた自覚はあったが、なぜ急に逃がさなければならなくなったのか?
ここ数日、ムラの住人たちの様子が慌ただしいのにも気付いていた。だが、なぜ?
不安が根戸をとりまいていた。
そして満月の夜は近づく。
祭の晩は、明日の晩。