act.2-1;尾爪の獣


 空にはうっすらと靄がかかり、対岸の街明りをにじませている。青臭い木々の匂いを含んだ空気はしっとりと湿り、ひんやりとした夜露に変わっていく。
 遥か頭上から低い轟音がなびいている。そろそろ羽田空港からの国内線最終便が空に舞い上がる時間だ。都会のノイズを断たれた密林の中には、梢のきしむ音と虫の声、そして草を揺らしながらうごめくものの気配が聞こえている。

 根戸宏の耳には、木のドラムが刻む乾いたリズムだけが残っていた。
 ギンネムの葉を払い、闇の中に足を踏み入れる。時折、眠っていた「何か」が驚いて草むらの奥に駆け込んでいく。

「くそ……」

 右肩の鈍痛が激しくなってきた。薬草らしいもので手当されているとはいえ、鋭い爪でえぐられた傷跡は、決して浅いものではなかった。掠り傷かと思っていたが、よくよく浅い傷ではないらしい。また、急に動き回ったせいか、傷口が紅く染まり始めている。右肩はじんわりと熱を持ち、ものをつかむことさえできない。

「くそ……」

 そして暑い。昼間のむっとした暑さは、夜になっても変わらなかった。毛布と暖房がなければ決して過ごせないであろうはずの季節にも関わらず、この密林の中は熱帯夜とも呼べるほどの高温を保っていた。
 この暑さのおかげで根戸は凍え死なずに済んでいるのだが、同時に言われようのない気だるさを呼んでいた。朦朧とした意識の中、何度も草むらに倒れこんだ根戸の右肩は泥にまみれている。このまま凍え死ぬことがなかったとしても、傷口が化膿してしまいかねない。

「くそ……」

 根戸は、息を荒げながら振り絞るように吐き出せる短い言葉を、呪文のように繰り返し呟いた。最後に会話をかわしてから、もうどのくらいの時間が過ぎたのだろう。すでに複雑な言葉を並べて悪態をつくだけの気力も体力も失せていた。
 望んでこの島へ来たとはいえ、自分の身の上に降り掛かる出来事のあまりの妖しさに拮抗する力が、今の根戸にあるとは思えなかった。
 傷ついた根戸の足で昼なお暗い……そして夜ならばなおさら暗い密林を抜けることは、決してたやすいことではなかった。

 根戸はモクマオウの根元にもたれ、そのまましゃがみこんだ。

「この島がそんなに広大なはずはない……」

 根戸の遥か頭上の梢がざわざわと揺れた。かすかな月光を反射して輝く二つの光点がちらりと梢の中に見えた。

「くそ……また、あいつか……」

 根戸の脳裏に意識を失う前に見た獣の姿が蘇った。
 四肢は退化し、モグラのような顔の先端には決して太くはないが強靭な4つの突起がついていた。四肢の代わりの4つの突起を巧みに操って樹上からぶら下がり、長くしなやかな尾の先についた鋭い爪で得物を狙う獣。
 一瞬に垣間みた姿とともに、その獣にえぐられた根戸の右肩がますます疼きはじめる。
 為す術は何もなかった。
 熱い身体を引き起こしたとき、樹上からくだんの尾爪が振り下ろされてきた。

「くそぉぉぉぉ! 死んでたまるかぁぁ!!」

 尾爪はわずかに狙いをそれて、根戸のうずくまっていたモクマオウの幹に、ざっくりと傷跡をつけた。長い尾爪は樹上にいる獣の元へ、振子のように大きく揺れて戻っていった。
 見上げると獣のシルエットが月明りの中に揺れていた。その姿は逆さまに枝にしがみつくイソギンチャクのように見えた。ただし、その触手はたった一本しかない。だが、そのたった一本の触手……鋭い爪を持った尾が、獣の最強最悪の武器なのだ。
 獣は尾爪を揺すりながら、根戸への再攻撃のタイミングを図っているようだった。
 ぷらぷらと揺れるその尾が繰り出される瞬間を見切ることができるだろうか。

〈……いや、前はなぜ助かったんだ?〉

 さきほどとまったく同じ絶体絶命の危機にさらされた根戸が、失われていた記憶を必死に呼び覚まそうとしていたとき、その答えが目前で再演された。

「しゃあっ!」

 獣が威嚇音を発し、尾爪をしならせた、そのとき!

「ぢゃっ」

 獣の威嚇音が短い断末魔に変わった。4つの突起の根元にもうひとつ長くまっすぐな突起が伸びて、獣の身体を梢に縫いつけている。

「……槍?」

 獣は狂ったように尾爪を振り回して槍を引き抜こうとした。しかし、その抵抗を長く続けることはできなかった。
 やがて獣の身体がびくびくと痙攣し、自慢の尾爪がだらりと垂れ下がった。1mには満たないとはいえ、その細い槍一本で獣の身体を梢に縫いつけておくことはできなかったのか、梢にしがみついていた4つの突起から力が抜けると、ほどなく獣は地上に落ちてきた。

 根戸は数メートル離れた草むらに槍ごと落ちた獣の身体を検分しようと、ゆっくりと立ち上がった。恐る恐る歩みを進める。
 ぴくりともしない尾爪に手を延ばしかけた根戸を鋭い声が制した。

「さわるな!」

 そのとき、それまで地に張り付いていた尾爪が、大きくしなって虚空をかきむしった。尾爪はひとしきりばたばたとうごめいたあと、最後のあがきのように何度か地を叩いてそれっきり動かなくなった。
 もし、あのまま尾爪に触れようとしていたら、尾爪のあがきに巻き込まれていたかもしれない。これだけの近距離で10センチほどの長さを持つ二条の爪に襲われていたら、ただではすまされなかっただろう。
 根戸は息をつきながら声の主を探した。

 モクマオウの後ろから再び女の声がした。鷹の飾りはつけてはいないが、それは先ほどまで炎の回りで舞っていたあの女の声だった。

「……そいつは往生際が悪いのよ」

 根戸の前に現われた女の瞳は、梢の間からさしてきた月の光を映して輝いた。
 女は針やミシンを使って作られた近代的な服とは思えない、植物の繊維で織ったざっくりとした布で作られた着衣に、少し痩せ型だが、しかし均整のととのった身体を包んでいた。手足には、元は「衣服」だったことを示す微かなプリント模様の残るボロ布の端切れを巻きつけている。首元には何かの動物の骨で作られたらしい妖しい装飾の首輪が揺れている。
 女は根戸の存在を無視するように獣の傍らに歩み寄ると、尾爪の先を踏みつけて槍を引き抜き、尾の先端についた二条の爪を槍の先で切り落とした。爪を切り落とされた尾は、切り口から鮮血を迸らせながら、なおもびくびくとのたうっている。

「……まだ死なないのか、こいつは」

「死んでるわ。身体はね。でも、この尻尾はまだ生きているの。尾を切って逃げるトカゲの尻尾と同じ。ただ……こいつの尾は自分が死んだ後も近寄るものを傷つけるの。尻尾は最後に死ぬのよ」

 女は槍を得物の首に刺し、爪を失った長い尾を槍に巻き付けた。

「……僕を助けてくれたのか」

「別にあなたを助けようとしたわけじゃない。放っておいたら、きっとこいつは私の仲間を襲った」

「君はいったい……」

「悪いことは言わない。冷やかしで命を落とすのが嫌なら、早くここから出てお行き。この島は物見遊山にくるところじゃないわ」

 根戸がこの島に歓迎されていないことは、この獣の二度の襲撃で存分に承知している。そして、自分を救ってくれたこの女も、根戸の来訪を歓迎してはいないようだった。

 そこへ、女の仲間が現われた。
 松明を持つもの、弓を持つもの、女のそれと同じように輝く刃先をつけた槍を持つもの。手製の弓を持ったリーダーらしき細面の男が、女に松明をかざした。

「貴子、無事か?」

「あれは仕留めたわ」

「昼間の奴か」

「ええ」

 細面の男は、つり上がり気味の目を細め根戸の方をうかがって言った。

「で、マレビトは無事か?」

 貴子と呼ばれた女は、その場に立ち尽くしている根戸を顎でさした。

「客人よ。この島の夜は危ない」

「ちょ……ちょっと待ってくれ。君らはいったい何なんだ。その……原始人みたいなかっこは何だ。ここで何をしている。そしてさっきのアレは……この島はいったい……」

 尾爪の獣の驚異が去ったことで張りつめていた緊張が解けたのか、この奇妙な原住民たちとの間に言葉が通じることに安堵したのか、根戸は細面の男と貴子に矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。
 が、細面の男は根戸に応じることなく、貴子に言った。

「彼をマレビトとして僕らのムラに招く」

 命令……ではないようだったが、誰の抵抗も許さない断固とした宣言のようにとれた。無言の意志伝達が行なわれ、細面の男が連れてきた二人の男が根戸の身体を支えた。
 貴子は、その鷹のような鋭い視線を細面の男に突き刺したが、男はそれを意に介していないようだった。彼女は微かな敵意を含んだ視線を根戸に向け、言い放った。

「でもこれだけは覚えておいて」

 月がかげり松明の明りが揺らめく。貴子の姿が密林の闇にするすると融け込むように消えていく。
 闇の中に松明の灯火を映す二つの光点が消え、その気配さえも融けていく。
 貴子の気配が消える寸前、その凛とした声だけが森の中に響きわたった。

「わたしの邪魔をするものは許さない」  

 

 


act.2-2;機材
 その日、飛鳥龍児は早朝からASに出向いていた。予算は切られたものの、根戸救出とそれを巡る取材行の黙認は取り付けている。今日はスタッフと機材を駆り出すためにASを訪れたのだが、局の同僚たちの反応は冷たかった。

「悪いな、飛鳥。こっちもいろいろ忙しくてさぁ」

「あのさ、航空研署の取材とか、いかなきゃならないところがいっぱいあって、そっちを手伝う暇がないんだよ。わかってくれないかなぁ」

 無理もない。たとえそれを対外的に報道できなかったとしても、彼らもジャーナリストのはしくれである。局内で起きた騒動のひとつやふたつは耳にして当然なのだ。根戸が行方不明になったことも、飛鳥が根戸の企画を引き継いだことも、すでに局中に知れ渡っているようだった。

「……ちっ」

 ただ忙しいというだけではあるまい。根戸失踪の知らせと飛鳥のニュースが潰されたことから、『根戸が何かヤバいネタに引っかかった』という噂は局内の常識となっている。すべてのジャーナリストが向こう見ずな勇気を持ち合わせているはずはなく、彼らが後込みするのも当然と言えば当然のことであった。

「あんたらには頼まない。機材だけ借りてくからな」

 席を蹴って廊下に飛び出した飛鳥は階下の機材庫に赴いたが、そこでの対応も冷たいものだった。職場に復帰したばかりの新田アインワース雅文は、すまなそうに言った。

「……飛鳥はん……堪忍しとくなはれ。機材はお貸しでけへんのですわ」

「なんで!? 編成の方の黙認は取り付けてあんだぞ! 俺がどこで何を撮って持ち込もうが、関知しないっつう……」

「それが……どこからのお達しか知らんけど」

 新田は語尾を濁した。

「飛鳥はん。今のASは、あんさんに協力なんぞしてくれまへんで。せいぜいが、あんさんのすること黙って見てるくらいしかでけまへんのや。今朝、うちにも訓令がおまして『局関係者以外に機材を無断貸し出しすな』ちゅう言われてまんねん。飛鳥はん、元は江戸川大学から研究生できてはる方ですやろ? これ……暗に飛鳥はんに協力すなちうお触れみたいなもんですがな」

「なるほど……それでどいつもこいつも……」

「すんまへん、飛鳥はん。力んなれなくて……わし、わし……」

「いや、いいんだ。なんとかするさ。キャメラも照明も中継機材も、ASにしかないってわけじゃあるまい」

「でも、中継キャメラ撮った映像は、そのままASに流れますねんで。なんかヤバいもんでも撮ってたらそのままデリート(削除)喰らってまいますがな。あんさん、いっぺんやられてはるんでっしゃろ?」

 ASの撮影取材は、キャメラで撮影された音声と映像、それに取材者がつけたデータ原稿で構成されている。広く報道する段階でWAN・群島プロムナードのシステムの一部を共用するASの報道体制では、取材した映像・音声・データ原稿をWANを経由して、直接ASの構内LAN「アスラン」に記録するシステムをとっている。
 キャメラのメモリはあくまでも暫時的なもので、大量の映像・音声データを蓄積しておくことは難しい。そのためキャメラをAS局と直結させ、それぞれの取材者が手元に大量のデータ・メモリを持ち歩かない取材体制が確立されている。
 ただし、このシステムでは取材者と記録者である局の完全な信頼がなければならない。これまで「報道者」として堅い信頼で結ばれていたはずだが、今回は事情が異なる。もし万一、飛鳥の送るニュース・データを局が受け取らなかったら。また受け取っても何者かが作為的にニュース・データをデリートしてしまう可能性も高い。
 そうなれば、決死の取材行はどこにも流されることなく隠ぺいされてしまう。

「そうか、それでか」

 ASに圧力がかけられ続ける限り、飛鳥の孤軍奮闘の取材成果が握りつぶされる可能性は濃厚だった。機材貸し出しの拒否は、同時にニュース・データ受け入れの拒否をも示していた。

「飛鳥はん……ASが取材データを直接握ってはる今の体制が変わることはおまへん。この事実が変わらん限り、根戸はん絡みの取材なんて……不可能ちゃいますか?」

 新田の言うことは事実だった。飛鳥は立ちはだかる第一の難問を前に考え込んだ。
 考えろ、考えろ飛鳥。

「いや、まだ何か方法があるはずだ。こんなことぐらいで報道の権利を放棄したとあっちゃ、偉大な先輩ジャーナリストに笑われ……そうだ!」

「な、なんですねん?」

「そうだそうだそうだ。僕らは便利なASの体制に慣れすぎていただけなんだ。今でこそメモリも持たずに単独キャメラだけで取材ができてるけど、昔はそうじゃなかったはずだ」

「はぁ、一世代以上前やったら、みんながさばる四分三のテープやデッキを担いで取材してはりましたけど……あんさん、まさか」

「そう。どんな方法で撮影しようが、ニュースはニュースだ」

「でも、機械の規格があいまへんで。それに」

「だからさ。一世代以上古い撮影機材だったら、ASにどんなに圧力をかけようとも、ニュースを消しちまうことはできないだろ? ニュース・データは取材をしてる俺たちが持ち歩いてるわけだからな。もっとも、データを持ち帰らない限りニュースとしては流せない。少々、速報性にはかけるが……それでもこれ以上の情報介入は防げるはずだ」

「飛鳥はん……本気でっか?」

 飛鳥は本気だった。

「8ミリ・ハンディカムならいけそうだろ? あの頃の8ミリ・ビデオ・カセットなら、そんなに荷物にはならないだろうし……」

「でも、そんな古い機材、ASにはありまへんで。30年も前の機材が動くかどうか……そもそもそんな骨董品みたいな機材がどこにありますねん」

「あるよ」

 飛鳥は辺りを見回し、声を落として不敵に笑った。

「俺がどこの大学からきた研究生だと思ってる? 江戸川大学RT放送部は、旧型機材の博物館だぜ」

 江戸川大学のRT放送部に無理を言って借り受けた1992年型のハンディカムは、27年も前の機材にも関わらず立派に動いた。放送部の備品庫からは他にもいろいろな「歴史的遺物」が掘り出され、8ミリ・ハンディカムだけでなく、ネジ巻き式8ミリ・フィルム・キャメラなども見つかった。
 機材とともに保管されていた十数巻のビデオ・テープは、外装フィルムも剥していない新古品だった。4半世紀以上前のものということで磁気テープの劣化が激しかったが、いくつかの処理を施しただけで磁気テープの性能は蘇り、十分実用に耐える代物となった。 さすが、日本製品である。

「……ASに帰らなくていいのかい? そろそろ昼のアーキペラゴ・ニュースの時間だろう」

 飛鳥は江戸川大学でレストアした機材を車の後部座席に積み込みながら、手持ち無沙汰といった風にたたずんでいる新田に訊ねた。

「帰るも何も、飛鳥はん車の免許持ってへんやおまへんか」

「気にするな」

「んなこと言うたかて気にしまんがな。あんさんだけ残して帰るわけにもいかんし。それに……」

 新田は口ごもった。

「それに、なんだよ」

「最近、フリーから正規になった新人の女ディレクターがおましてなぁ。仕事はできるらしいんですわ。取材から何から一人で全部しよるわ、なまじなキャメラよか技術はありよるわ、歳はあんさんと大して違わんように思うけど妙にやり手っぽい女ですねん。今は昼のアーキペラゴ・ニュースを一人で仕切ってはりますねんけど……『女根戸』とか言われてはって、なんや気にいらんヤツやねん」

「……だから、局に帰りたくないと」

「いや、そうはいわんけど」

「そいじゃ、もうしばらく俺に付き合ってもらおう。局には後で適当にごまかしとけばいい」

 飛鳥は機材を積み終わると、ナビ・シートに潜り込んだ。

「飛鳥はん、この後どこへいきはりますか?」

「群島中央病院へ頼む」

「病院?」

 あまりにも予想外な行き先に新田は戸惑いを隠せなかったが、飛鳥はそれを気にもとめなかった。

「ちょっと、ね」  

 

 


act.2-3;実験考古学
 原始技術研究所・通称「磐田研」は、東京人工群島の東……縫島の北東の果てにある。が、ここには研究所めいた学問の香りがするような建物は見あたらない。開発の進む群島のあちこちから拾い集めた板切れで作られた磐田研の施設は、自主更正小屋と呼ぶのがふさわしい。
 小屋の中には弓、鏃、磨製石器、土器、ハンマーで叩き割った石、麻のような繊維を結いあわせた紐、何かの骨で作られた飾り、カラスの風切り羽根など、資料や資料とは思えないものなどが、所狭しと詰め込まれていた。部屋にはありとあらゆるものがあるように見えたが、多くの研究所で当然のように使われて然るべき機材の類は見あたらなかった。
 群島プロムナードというWANに、それぞれの研究所が構内LANを接続し情報交換をするというシステムが一般化して久しいが、これにはいくらかのリスクがある。昨今ではいくつかの研究所が情報犯罪者によってハッキングされるという被害をこうむってきたが、そもLANどころか電算機さえ持たない貧乏研究室である磐田研にとって、そういった被害を受けることは夢のまた夢であった。

 実験考古学の草分けであり、磐田研の本来の責任者である磐田教授の姿はここにはない。

『実験考古学は古代人の文化・文明が存在したことを実践の中で理論を検証する学問である。書斎での資料をこねくりまわすだけでは事実を知ることはできない!』

 そう言い放った磐田教授自ら、実践的フィールド・ワークに出かけている。その消息は途絶えて久しいが、時折ハンマーで片っ端から叩き割った様々な種別の石を詰めた箱が航空便で送りつけられてくる所を見ると、きっと今日も何処かで元気にフィールド・ワークを続けているのだろうと思われる。

 もっとも、いるのかいないのかわからないような磐田教授の存在は、磐田研ゼミ員たちの日常にはなんら関係のないものだった。
 磐田研ゼミ員たちの日常は、縫島周辺でのフィールド・ワークと農業工学科への身売り……否、献身的アルバイトによって消化されていた。磐田研に技術供与・一部の共同研究とともに磐田研の学生をアルバイトとして雇うことまで申し出ている酔狂な農工学科の担当教授は、あの白葉透教授である。
 洋上大学には三宅教授などを始めとする何人もの「名物教授」がいるが、白葉教授もそうした名物教授の一人で、いくつもの利権を持つ金持ち学科である農工研から、赤貧の磐田研ゼミ員たちの活動資金の相当な部分を提供してくれる大事なスポンサーでもある。

 白葉教授から新しい稼ぎ口を持ちかけられた出居直子はホクホク顔だった。

「戻りましたー」

「はい、お勤めご苦労さまー」

 その日は、最近では珍しく境伸也がいた。
 昨年秋から火渡貴子のことにかかりきりで磐田研を留守にしがちだった境は、ふだんは誰も立ち入らない教授の研究室兼書庫の奥から、藁半紙に書き付けた名簿のようなものを引っ張り出してめくり返していたのである。

「境さん、ちょっと質問が……なんですか、それ?」

 自分の用事より好奇心の勝る直子は、薄茶けた汚い紙切れに興味を抱いた。

「ああ、これね。火渡くんと一緒にウチから出てった連中の名簿。ちょっと気になったことがあってね……」

 今時、人事管理にコンピュータを使わない研究所といえば、やはり磐田研くらいのものだろうか。誤解のないように記しておくなら、コンピュータを使わないのは主義などではない。単にそれを購入整備するだけの財力が磐田研にない、というだけの話だ。
 貧乏の自覚の悲しさか、直子たち磐田研のゼミ員たちの多くは、文明の利器溢れる人工群島にあって、これだけアナクロな日常生活を強いられる身の上に一抹の寂しさを感じながら、それでも不便とは感じていなかった。

「そっか……貴ちゃん、まだ見つからないんでしたね。やっぱり心配なんでしょ?」

「……うん。あ、いや別に火渡くんだけが特別心配というわけじゃないからね。他にもいなくなった学生のことも心配はしてる」

「何を赤くなってるんですか」

「いやいやいや……そんなことは問題じゃないわけで……」

 直子は最近切ったばかりの短い前髪をぞんざいにかきあげながら、境の前に散らばる藁半紙の名簿をのぞき込んだ。
 ところどころに赤で丸がつけてある。

「境さん、この赤い丸、なんですか?」

「ああ、それ。今、消息不明になってるゼミ員のうち、火渡くんと行動をともにしている可能性がある連中……の予想なんだけど」

「縄文人の武器の復元なんかをやってた連中が貴ちゃんについていったのは、なんだかよく解る気がしたんですよねぇ」

「武器を持てば狩りをしたくなる。人間の狩猟本能は決してなくなってはいないんだろうか」

 実践に重きをおく磐田研では、雑木林での木ノ実の採集をはじめ、縄文人たちがその時代に行なっていたと思われる技術や生活のための道具などを復元することに日々を費やしている。
 狩猟採集民族であったと思われる縄文人の技術や道具の中には、土器の他に当然ながら石器、弓などといった「狩」のための道具……武器も含まれていたことは疑うべくもない。実際、磐田研内部でも、この「狩」を復元するために数々の武器を作ることを旨とする研究班の活動がもっとも盛んだった。そして、その盛んだった狩の研究班のかなりの人間が、火渡貴子に賛同して磐田研を去った。

「それにしても……僕にとっては天野が火渡くんと一緒にいなくなったことの方が、ずっと謎なんだよ」

「天野さんって……えーと」

「まぁ、磐田研は全ゼミ員が一同に介するなんて滅多にないから知らないのも無理はないか」

「すいません。あたし、月例の飲み会にきてる人の顔しか覚えていないもんで……」

 実際にフィールドで行動することを旨としている磐田研の実験考古学の中にあって、火渡貴子の選択は多少過激ではあるけれども磐田研のモットーに準じた、「らしい行動」であった。そして、思い立ったが吉日的な直情型である火渡の今回の行動は、彼女の性向になんら矛盾するものではなかった。
 しかし、天野いずみはそういうタイプの人間ではなかった。
 天野は境の同期である。磐田研に在籍していたにも関わらず理論偏重のきらいがあり、磐田教授のノウハウを学び「物を再現、体得する」という磐田実験考古学の担い手であった境とは、しばしば意見対立があった。縄文時代の「モノ」を相手にする境と、縄文時代の「精神」を扱おうとしている天野の根本的な意見の相違はしかたないとして、天野はことあるごとに境をライバル視していたようだ。

「天野とは、あまり意見が合わなかったような気もする……」

 境自身は天野をライバル視した記憶は一度もなかった。それは別に天野など眼中になかったというわけではない。
 確かに天野はねちっこい性格だったが、それは考古学を志すもの全般に言える性質であって(あきっぽい人間は遺跡掘りや地道なフィールドワークには耐えられないのである)、彼だけが特別ねちっこく他人をライバル視するような性格だったわけではない。
 同じ学問を極めようとしているからこその、境への嫉妬もあっただろう。しかし、自分を相手にしようともしない境に対して、天野が「境に無視されている」と考えていたとしたら、それは境を買いかぶりすぎだった故の誤解だったとしか言い様がない。
 境のその「他人と競争・競合することなくマイペースで我が道をいく」という性格は、彼に「相手の意見を正すというだけの理由で人と競い合う」というような物騒な考えを起こさせてはくれなかったというだけの話なのだ。

 天野のことをとめどなく思いだしていた境の思考をさえぎるように、直子は不意に自分の質問を思いだした。

「あ、そうだ。ねぇ、境さん。質問があるんですけど、実験考古学って、鏃つくったり石器作ったりシイの実をつぶしてパン作ったりすることですよね?」

 境は直子の根元的な質問に、苦笑して答えた。

「うん。それが出来るかどうか本当にやってみて技術を復元したり、石器・土器時代の採集狩猟民の生活について考察するところまでやって『学問』と言えるような形になるのかもしれないけど……磐田教授の言葉に従うのなら『まずやってみること』が、第一歩だということになるね」

「そうなんですよね。あたし、前から思ってたことがあるんですけど……」

 直子は、額の髪の生え際にある小さな傷をこりこりとかきながら先を続けた。

「鏃作ったり、石器作ったり、繊維を編んで布を織ったり、モミギリで火を起こしたり……そういう、原始人の『技術』っていったらいいのかな?……これって、何か参考にするものが残ってたから復元できたわけですよね。縄文土器の縄目模様とか、打製石器の石選びとか、布を織るための『さん』のようなものとか」

「そう……そうだね。博物館や資料館に大事にしまってあったものと同じ物を実際に作ってみようっていうことで、これまでいろいろやってきたわけだし」

「石器や鏃みたいな武器とか、布とか、装飾とか、土器とか……そういうのって確かに再現しやすいと思うんです。壊れていたりはしても、現物が出土したりしてきたわけですから。でも、そういう現物のあるものだけが文明・文化じゃないですよね?」

「つまり?」

「つまりねぇ、ほら無形文化財とか人間国宝とかあるじゃないですか。あれみたいに、形の残らない文化っていうのもあったんだろうかと思って。形の残らない文化といったら、音楽とか。あ、でも楽器が残るわね。でも歌やメロディは残らないわね。他にも舞・踊りとか、宗教観とか、思想とか……。ああいう、コンピュータで言えばソフトウェアみたいなものというか……そういうものって、やっぱり昔もあったんですよね」

「それはあっただろうね」

「それを知る方法ってないんでしょうか」

 それは考古学の求める答えのひとつなのだ。ただ古代の人々の真似ごとをするだけが目的なのではない。大人を夢みるこども達がままごとなど大人の真似ごとをしながらだんだんと大人の世界を知っていくように、古代人の行為を実際に真似ることからはじめ、そこから古代の人々の精神文化を汲み取ろうとする……。
 それが可能となったとき、考古学はただ過去にしがみつくだけの学問ではなく、過去と現在を比較し、現在の構造を過去からの経緯に基づいて説明することのできる学問に昇華するはずだと境は信じてきた。
 境の前で短すぎる前髪をいじる女子大生らしからぬ粗雑な直子が、その疑問に自力でたどり着いたことを、境は少し嬉しく思った。

「あるよ。今、我々がしているフィールド・ワークを、現代人の目ではなく古代人の目で見て古代人の心を夢想することができるようになれば、古代人の気分や精神についても知り得ることができるようになると思う。果たして縄文時代にきっちりした宗教があったのかどうかは僕にもわからないけど、何かへの信仰はあっただろう。それを今残っているアイヌや沖縄の資料をかき回すだけでなく、自然と信仰を持つような状況に自分の身を置けば……」

 天野は理論の裏付けを持たなかったために、磐田教授の賛同を得られなかったとはいうものの、縄文人の精神……特に、大陸から弥生文化が流入し、飛鳥時代へ続いていく時代よりもずっと以前から日本に根付いていたはずの原始宗教……が専攻であった。
 そういえば、天野いずみが……あの書斎派が、なんだって急に火渡貴子の急進的なフィールド・ワークに参加したのか。
 境の心に一抹の不安がよぎる。

「……天野」

 境は藁半紙にかかれた「天野いずみ」という名前を凝視したまま、じっと黙り込んだ。  

 

 


act.2-4;見舞い
 都立群島中央病院は炉島の南端にあった。
 10棟の建物に合計1500床の患者を収容できるというこの巨大な総合病院は、ここ数カ月の間に起きた様々な事故事件の犠牲となった患者たちを収容している。先の群島東署事件で命を長らえた重軽傷者の多くがこの病院に運び込まれ治療を施されたが、未だ意識を回復していない者も少なくなかった。

 飛鳥龍児は、新田アインワース雅文を連れて病院の廊下を歩いていた。
 リノリウム張りの冷たい廊下はどこまでも長く続いているかのようだ。外来診療棟から少し離れた運河沿いにあるこの棟には、見舞いに訪れる人の姿もなければ、医師・看護婦の姿さえもあまり見かけないように思われた。

「飛鳥はん、いったいこないな所で何しはりますのや」

「見舞いだよ。根戸さんの代理」

 飛鳥は廊下の突き当りにある個室のドアをノックした。プレートには『丘一色(おか・いしき)』とある。

「……どうぞ」

 中から、新田にも聞き覚えのある声が答えた。
 白いドアの向こうにある白いベッドの上には、部屋を囲む白い壁の中にとけ込んでしまうのではないかと思われるくらい白い肌をした少女がいた。歳の頃は14、5歳といったところか。

「あら、新田くんに飛鳥くん。お揃いでどうしたの?」

 少女の傍らに座っていたのは鵜飼クーミンだ。
 飛鳥はクーミンを一瞥すると、詮索を受け流すように言った。

「見舞いですよ、見舞い」

 ベッドの上の少女は少しだけがっかりした口調でいった。

「なぁんだ……宏さんじゃないんだ……」

「ごめんねー。根戸さん、ちょっと忙しくなっちゃって。しばらく来られないんだって。で、この飛鳥さんが根戸さんの代わりに遊びにきてあげたんだな。どう? これを機会に根戸さんから僕に乗り換えてみない?」

「ダメよねー。一色ちゃんを満足させられるのは根戸さんだけなんだから」

「飛鳥さんだって、根戸さんに負けないくらいイイ男なんだけどな。ヒゲこくないし」

 新田は自分一人だけ事情がわからないでいるのをもどかしく思った。目の前の少女は何者なのか。なぜクーミンがいるのか。そして根戸と飛鳥はロリロリの人だったのか!?
 一人沈黙を守ったまま眉間に皺をよせて悩んでいる新田に気づいて、クーミンが立ち上がった。

「一色ちゃん、おねーちゃんちょっと花瓶の水代えてくるね」

 窓際の一輪差しを手にして立ち上がったクーミンは、新田に目配せして廊下に引きだした。

「なーなー、あの娘、何者やねん。根戸はんや飛鳥はんの知合いなんか? なんでクーミンがここにおんねん」

「新田くん、知らないでついてきたの?」

 クーミンは、軽くため息を漏らすと一輪挿しを蛇口の前においた。

「下手なこと言い出す前に外に連れだして正解だったわね」

「クーミンと根戸はんの隠し子とかやないやろな!?」

 クーミンはにっこりと微笑みを浮かべて新田の鳩尾に肘を決めた。
 新田の額に脂汗が伝う。

「違うわよ! あの子は根戸さんのファンなのよ」

 情報詐欺師・根戸宏の熱烈なファンだという少女は、根戸の同期の……ありていに言えば、根戸の洋上大学入学当時に付き合っていた恋人の錦色(にしき)の妹にあたる。最初の出会いは今からもう9年も前のことで、根戸が18歳、一色はまだ5歳だった。
 一色はその頃すでに病院暮らしをしていた。

「あの子のお姉さんが、根戸さんの同期の人でね。新田くんがASにきたときにはもういなかったから、知らないかも知れないけれど……」

 一色は生まれついて病弱な子どもだった。医師には、10歳まで生きるのは難しいだろうと告知されており、一色の姉・錦色は何度も危篤状態になる妹が気がかりで、夜も眠れない日々を重ねていた。ちょうどそんな頃に、根戸と知り合ったのだという。

「今も大して変わらないけど、根戸さんってその頃から大言壮語・流言飛語・噂話にホラ話と……そういう人だったらしいの。嘘つきなんだけど妙に憎めなくて、話を聞いてるとその場しのぎかもしれなくても、なんとなく勇気がわいてくる。まぁ、一色ちゃんにとっては話上手なお兄さんと言ったところかな」

 錦色にとっても、根戸の存在は大きな励ましになった。あるときは愚痴の聞き役であり、あるときは進むべき道を示す道標であった。根戸とともに妹・一色を見舞うと、一色は大層喜んで根戸の大言壮語に聞き入った。嘘と真実が絶妙に入り交じる根戸の話は、一色にとって夢と浪漫を夢想させてくれるファンタジーであったのかもしれない。

「あの……その一色はんの姉さん、根戸はんのかつての恋人っちう錦色はんはどないしはったんですか」

 新田はクーミンの話の中に出て来る一色の姉が、過去形で話されていることに気づいた。その恋はもう終わってしまったのか。根戸は姉を捨て、病弱な妹に乗り換えたのか。

「錦色さんね、今からもう3年も前かなぁ。亡くなったのよ。ぽっくりと」

 丘錦色の死は、それはまた突然だった。事件に巻き込まれたのでもなければ、事故にあったのでもない。症状の始まりは軽いめまいと吐き気だったが、一色が患っているのと良く似た症状に移っていった。

「当時はまだ根戸さんも錦色さんも研究生あがりのかけだしで……そう、ちょうど今の飛鳥くんみたいなものかしら。なんとか手柄を挙げて、ディレクターとしての株を上げようって必死だった時期で。それに、錦色さんは一色ちゃんの闘病生活を見てきてるから、通院や……それどころか入院ということにでもなれば、周りに迷惑をかけるってことを痛いほど知ってたのよ。精密検査を受けろって言われてはいたらしいんだけど、それを先のばしにしてて。で、さすがに心配した根戸さんに勧められて、検査を受けることになったんだけど……」

 精密検査のための入院の日、根戸が錦色を迎えに彼女のアパートに立ち寄ると、すでに錦色は冷たくなっていた。苦しんだ気配もなく、ただそれはもう眠るように死んだ。
 事故や事件なら恨む相手もある。しかし、眠るように苦しむことなく息を引き取ってしまった錦色の死は、根戸の心に大きな穴を開けた。

「しばらくして根戸さんの最初の特番が当たって……覚えてる? 『群島のダークサイドを暴く』ってシリーズの走りね。錦色さんがいなくなった穴を埋めるみたいに仕事して……思えばその頃からかな。もともと言うことが大きくなりがちな……それでも問答無用の夢を見せてくれるタイプの人だったんだけど、ニヒル……というか、ペシミスティックになったわね。あれから」

 窓の外が少し暗くなった。2月だと言うのに、空には黒雲が立ちこめ一雨きそうな気配がしている。

「一色ちゃんの前では微塵も見せないけどね。そういうペシミスティックな所は。その分、あの不敵な根戸さんの良心は全部一色ちゃんが独占してるって感じかな」

 錦色を失った後も、根戸は一色の元へ度々見舞いに訪れていた。錦色亡き後、錦色の代わりに一色を見舞うという義務を背負っていたのかもしれないし、錦色を忘れないために彼女との思い出を共有している一色から離れられなかったのかもしれない。また、一色の中に、錦色の面影を見ているのかもしれない。

「根戸さんが、数週間おきに一色ちゃんのお見舞いを続けてるってあたしが知ったのは、つい最近なのよ。去年の暮れくらいかなぁ。あの根戸さんの新特番宣言があったでしょ? 東京ガラパゴスって……今回の失踪の原因の。あの頃」

 飛鳥が一色のことを知ったのも、ちょうどその頃だった。研究生として、取材のやり方や人工群島に関する考察、推論などを伝授されていた昨年末から今年にかけて、根戸に密着した日々を過ごしていたときに、何度か一色の病室に足を運ぶ根戸に付き添った。
 冗談めかして話すとき以外滅多に私事を口にしない根戸が、唯一気にかけていたのが一色のことだった。
 根戸失踪のことを告げるわけにはいかない。いや、根戸はそれを許さないだろう。しかし、いつまでも根戸も誰も現われないままでは、きっと一色が不安がる。根戸ならそう思うに違いないと飛鳥は考えていた。根戸が錦色の代わりを演じきれないように、飛鳥に根戸の代わりが演じきれるわけではないが、そうせずにはいられなかった。

「錦色さん亡き今、あの子にとって根戸さんは生き続ける希望みたいなものなのよ。しばらくの間ならあたしや飛鳥くんが根戸さんの代わりになれるかもしれないけれど、長くは無理でしょうね。闘病生活は、気力勝負ってところがあって……。根戸さんが行方不明になってるのを気取られるわけにはいかないし、それに一日も早く根戸さんを見つけださないと、ね」

 根戸という男は、嫌われているのか好かれているのか、蔑まれているのか必要とされているのか、さっぱりわからない男だった。
 ただ、人間にはいろいろな面があるということ、そして多くの過去によってその人が作られているのだということが、新田にもわかった。

 クーミンが一輪差しを手に一色の病室に戻ると、ちょうど飛鳥が椅子から立ち上がったところだった。

「おっ。丁度よかった。そいじゃ俺は今日はこれで失礼しますんで、お後よろしく。明日から俺も21号へ行きますんで、もしかしたら当分これないかもしれないけど……」

 飛鳥は上着に袖を通しながら、一色に声をかけた。

「一色ちゃん、次来るときは俺が責任もって根戸さん引っ張って来るから、楽しみにしててよ」

 一色は飛鳥にむかって微笑みを浮かべた。

「飛鳥さん、今度は宏さんと一緒にきてね!」

 飛鳥はそれに手を振って答え、病室を後にした。

「飛鳥はん……」

 廊下を歩く飛鳥の目から笑みは消えていた。

「悪いけど、もう少し頼まれてくれないか。ASに戻る前に、ちょっと高度情報処理研によって欲しいんだ」

「高情研……花形はんでっか?」

「ああ。ここ数カ月の間にWAN及び群島中のLANで、情報介入されたものがないかどうかについて知りたいんだ。それから最近続いている大手企業の要人襲撃・狙撃事件についても」

 しかし、高度情報処理研を訪ねるまでもなかった。
 群島中央病院の感染症患者隔離治療室の前にたたずむ憔悴しきった男……それは高度情報処理研所長・花形俊一だったのである。  

 

 


act.2-5;炭疸病
 高度情報処理研所長の花形俊一が、フィアンセであるエミリア・H・ハートと再び巡り会ったとき、恋人達の間は透明な防菌ガラスに遮られていた。

「エミリア……おい、エミー……答えてくれ、エミー!」

 ガラスの向こうに横たわるエミリアには、花形の声は聞こえていないらしく、じっと目を閉じたままぴくりとも動かない。
 弱冠23歳で研究所所長と呼ばれる地位に上り詰めた彼が、とびきり優秀な頭脳を持つ人材であることはもはや疑う余地もないが、その精神がいかなるときも平静を保ち続ける事が出来るという保証は、誰にもできなかった。
 父親の迎えの車に乗せられたエミリアがハート財団配下のハート建設に連れられていったとき、花形はこんな形で再会することになろうとは思いもよらなかったのである。  半ば錯乱状態にあった花形が落ちつくのを待って、担当医師は悲観的な感想を交えてエミリアの症状を告げた。

「花形さん、炭疸病をご存じですか。潜伏期間がおよそ一週間ほど、狂犬病同様、発病したらまず助かる見込みはありません。手足は炭のように黒く変色し、体組織が壊死していき、やがて死に至ります。
 炭疸病は我国で指定されている法定伝染病11種及び隔離指定伝染病ではありませんが、接触感染する恐れがあるため、ハートさんには完全隔離病室に入っていただきました」

 医師は花形を刺激しないよう、できるだけ事務的にエミリアの病状をのべた。
 花形は医師の冷静な態度から激情に駆られかけたが、それを抑えて訊ねた。

「治療方法はないんですか。このまま死を待つしかないんですか!」

「治療法はあります。ハートさんは炭疸病に感染したもののまだ発病していません。発病する前にワクチンを投与すれば助かります」

 医師のそっけなくも重大な回答が、花形に希望を与えた。
 しかしそれも一瞬だった。

「しかし、炭疸病は実に珍しい病気です。群島中央病院といえど、この病気のためのワクチンはもっていません。もちろんこれを作るための方法はわかっていますが……ワクチンの精製には時間かかります。今からワクチンを作ったのでは、発病前に投与することはできないでしょう」

「こんなこと言いたくないが、エミーはハート財団の令嬢だ。金で解決できることなら彼女の父親の手配でどうにでもできるでしょう。ワクチンの在処がわからないなら、我が高度情報処理研の全システムを動員し、地球上のすべてのデータ・システムに介入してでも在処を突き止めましょう」

 形振りに構っている余裕は今の花形にはなかった。たとえ、高情研のスーパーコンピュータ群を私事に使用したと批判されてもいい。人命が、それも最愛のフィアンセの命がかかっているのだ。金であろうと能力であろうとつぎ込めるすべてをつぎ込む覚悟だった。

「ワクチン製造の方法なら、高情研の力を動員するまでもなく当病院でもわかります。しかし、どんなに金をかけてもワクチン精製の時間を短縮することはできません。ワクチンは、鶏卵の中に抗体を作らせるという方法をとります。鶏卵にいくら金を払っても、早く抗体を作ってはくれません。すでに作られているワクチンを今すぐにとりよせて投与するより手はありませんが……ハートさんが感染された炭疸病菌は、これまでに確認された症例のものと微妙に異なる部分が見受けられます。
 もし、これが人為的手段による変種だとすれば……ハートさんから菌をとって培養し、新たにワクチンを作るしかありませんが、それでは発病前には絶対に間に合いません。となれば……この変種を作った者によって作られたワクチンを入手できない限り、ハートさんは発病後、相当に高いパーセンテージで死亡する可能性があります」

 彼が医師の立場を守って知らせることのできる情報の総てが花形に流し込まれたが、その情報は決して花形を安堵させるものではなかった。
 花形は、携帯ヴィジホンでいくつかの心当たりに連絡をとってみたが、医師から得た答え以上の情報を得ることはできなかった。

「人為的変種……誰が、なぜエミーをこんなめにあわせた!」

「それについて何か心当たりはありますか?」

「……誰だ君は」

 花形は不意に現われた男の問いに、身を堅くした。警察のようでもないし、探偵のようでもない。強いて言えば、ハイエナのように事件を嗅ぎまわるマスコミの人間のように思えたが、エミリアに関する事件はまだ報道されていないはずだ。

「失礼。俺は洋上大マスコミ学科研究生でASの飛鳥といいます。今日は俺も見舞いの用事があってここへきていましてね。実は別件でいくつかご協力をお願いしたいことがあって高情研に伺おうつもりだったんですが……エミリアさん、でしたか……お気の毒です」

「僕に用とは?」

 花形は警戒を解かずに聞いた。

「ふたつあります。ひとつは、最近WAN及びLANに、情報介入または外部からデータが強制無断削除をされるといった事件がなかったかということ。そしてもうひとつは、あなたにも関係があるかもしれないが……最近続いている大手企業の要人襲撃・狙撃などの事件について」

 花形は即答した。

「まずひとつめの質問だが、WANに強制介入することができるのは、WAN構築委員会か管理機構(情報警察)か、それなみのIDを持っている情報海賊か、だ。
 しかし、構築委員会も管理機構も、そして情報海賊も、マスクのかけられた情報を強制公開こそすれ、痕跡も残さず削除することは有り得ない。それが、個人の記憶領域にあるパーソナルな情報なら消すことは可能だが、それをする意味がない。
 もし君が言っている削除・情報介入が、ASのアスランに対して行なわれたものだとするならば、それは構築委員会より上位からの圧力がかけられたとしか考えられないが……構築委員会はWANに関しては一歩も譲らない連中ばかりだ。おまけに委員の身元も極めて明らかだ。それを丸め込むか言い含めるかが出来ない限り、削除・情報介入は不可能だろう」

 飛鳥は無言のまま花形の回答に自分の推論を追加した。

(つまり……構築委員会に無理強いができるほど強力かつ重要な権力は確かに存在しているという事実が判明したわけだな)

 花形は、一呼吸おいて第二の質問に答えた。

「大手企業の要人が襲撃・狙撃されている事件は僕も知っている。だが、それはエミリアと関係あるだろうか。エミリアは直接銃撃されたわけじゃない」

「何か見落としていることはありませんか。誰かに脅迫されていたとか、または、足りない事実は……」

「エミーはこの10日間ずっと僕と一緒にいたんだ。その間、脅迫された記憶はないし、エミーが脅迫を受けていたという話も僕は聞いていない!」

「しかし、エミリアさんが直接脅迫されていたとは限りません。誰かが別の誰かを脅迫するために、エミリアさんが犠牲にされている可能性もある」

 根戸が直接狙われていたのではなく、誰かが利権のために根戸を排除しようとしていた可能性もある。ふと、そんな考えが飛鳥の脳裏をよぎった。
 飛鳥の言葉を反芻していた花形は目を閉じ深く深呼吸をすると、静かに言葉を返した。

「……あなたの意見にも一理ある。取り乱した姿をお見せして申し訳なかった。エミリアの父親はあのハート財団の総帥だ。その系列のトラブルに巻き込まれた可能性もある。ハート氏に心当たりがありそうだな……問い合わせてみることにしよう」

 花形は多少の冷静さを取り戻したようだった。

「もし、何かわかったら、俺にも知らせてもらえますか」

「約束しよう」

 飛鳥よりひとつ年下のはずの花形が毅然とした態度を取り戻したとき、周囲が騒がしくなりはじめた。看護婦や医師の動きが何か異変が起こりつつあることを示している。

「……エミー」

 この後、花形がどれだけ毅然とした態度を保ち続けることができたかをここでは記さないが、エミリア・H・ハートの病状は依然として好転はしていない。  

 

 


act.2-6;狂乱宴会
 先刻からの予想通り、その日の晩の天気は崩れた。
 機材を担いだ飛鳥龍児と新田アインワース雅文が縁島の公営住宅地にある白葉透教授の部屋を訪れたとき、すでに宴は始められていた。
 白葉教授の主催でとり行われているこの宴の本来の目的は、21号へ根戸探索に向かう飛鳥や境たちを激励するというものだったが、遅れてきた飛鳥が見たのは、部屋のすみで何事が考え込んでいる境伸也の姿と、宵の内からすでに出来上がりつつある宴会人たちの姿であった。
 住宅地の多い縁島の随所から、集まってきた白葉教授の宴会仲間たちは、まだ今日の宴の開催理由を聞かされてはいないようだ。

「あー、皆さん静粛に。せーしゅくに願います。やっと主賓の片割れが到着しましたので、本日の宴会の主目的についてご説明致します」

 白葉教授は、堀炬燵の周囲に乱立する吟醸酒『夜明け前』の林の中に立ちはだかり、飛鳥と境を立たせて宴会客たちに紹介した。

「えーとね、ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、こちらASの飛鳥龍児くん、そしてこちらは磐田研の境伸也くんです。まだ一般には知らされてないそーですが、飛鳥くんの先輩に当たり我が白葉邸の隣人でもある根戸宏くんが、あの21号埋立地で失踪をとげてしまわれたそうなんですな」

「そうなんですか」

「遭難ですかぁ?」

 合いの手にダジャレが混じりはじめていた。
 ちなみに今のダジャレは縁島で探偵事務所を営む明智麗夢奈のもの。

「そーなんです。あー、ジーラくん麗夢奈くんの座布団とりなさい。そう、それで、かの飛鳥くん及び密林の王者……いや密林の専門家として境伸也くんの二人を筆頭に『根戸宏捜索及び21号解明のための特別チーム』がここに結成され、東京人工群島最後の秘境・21号埋立地に挑むこととなったわけですな。
 そこで、今日は彼ら勇敢なるチャレンジャーたちのために、ささやかではありますが激励と壮行の宴を催したいということで、満場の皆様にご足労いただいたわけです。
 えーとね、そういうわけで今日は飛鳥くんと境くんの成功と、根戸くんの無事を祈って飲み明かそうではありませんか、というわけなんですな」

「おおーっ、それはたいしたもんだ。若いのに偉い、偉いぞ!」

 どこまで話の内容が理解できているのか少々怪しい。とりあえず、ヤンヤの喝采を入れてみなければ気が済まないのは、基礎工学部顧問であり三宅総研を預かる三宅準一郎教授。
 飛鳥と境の手には、夜明け前をなみなみと注がれたビールの大ジョッキが手渡された。白葉教授のにこやかな圧迫と三宅教授の有無を言わさない圧迫によって、乾杯の音頭をとることを強要された飛鳥は、内心(今日の記憶が最後まで残りますように……)というはかない希望を胸に大ジョッキを高々と差し上げ、教授の激励への返礼をかねて言った。

「えーと、皆さんの激励、ありがたく拝命いたします。21号解明と根戸宏の無事を祈りまして、乾杯させていただきます。かんぱーい!」

( ^_^)/□☆□\(^_^ )カンパ-イ!

 境が大ジョッキからすぐ口を離すと、早速、三宅教授からチェックが入った。

「待て、待て待て待て! 乾杯といってジョッキに口をつけたからには、最初の一杯は一息に飲むのがエチケットというものだろうが」

「そう、そのとーり。三宅教授の意見は正しいっ! 境さん、ぐっといきましょう、ぐっと! そーれ、いっき、いっき、いっき、いっき、いっき、いっき、いっき」

 そういえば数十年前の大学生は、こうやって囃しながら酒を飲んでいたという。急性アルコール中毒で倒れる者をものともせずに数々の宴で続けられたという、その飲酒の儀式は、数十年前、大学生だった三宅教授や白葉教授の時代から、脈々と受け継がれていた。
 境はいっき、いっきのかけ声とともに、飲んでいる端からジョッキに一升瓶の中身を注ぎ込むジーラ・ナサティーンの所行に閉口していた。が、口を閉めていると酒がこぼれてしまうため、実際には閉口している暇などはないのだった。
 ジーラは飲ませて続けても何ら堪えない境に飽きたのか、未開封の夜明け前を何本かかかえて、自分の雇主である麗夢奈の元へごろごろと転がっていった。

「麗夢奈ぁ、飲んでるぅ?」

 今更、だからどうというわけではないが明智麗夢奈は18歳(注;未成年)である。

 すでに宴は本来の激励の意味も薄れ、いつもの狂乱宴会に移行しつつあった。
『あらゆる宴会は酒の力を借りつつ狂い乱れ、ケの日常空間を脱してハレの祝祭空間を楽しむことが許されるもの』ともっともらしく自己定義している白葉教授にとって、宴の日々こそが日常と言えないこともない。白葉教授は、まさにハレ(祝祭空間)の住人なのであった。
 まぁ、それはそれとして、すでに出発前夜の緊迫感などどこかに吹き飛んでしまっていた。飛鳥の記憶は早くも判然としなくなりつつあり、境は(こんなに酒が出るんなら、ゼミ員も呼べばよかったなぁ)などと貧乏臭い考えを巡らせていた。

「そういえば西石くんの姿が見えないが、どうしたのかね? 彼にも声をかけたのだが」

「あー、ルフィーですか。あいつなら今、事務所で泣いてます」

 白葉教授に答えたのは、ルフィーの知己の貧乏探偵・富吉直行であった。そういえば、そもそもはルフィーが根戸に近づかせるために雇った、下請け(^_^;)探偵であったはずなのだが、この宴に参加している多くの人々同様、すでにその本来の目的はどこかへ飛んでいってしまっている。
 ジーラが麗夢奈の口に一升瓶を押し込みながら聞いた。

「えー? なんで泣いてるのー?」

「いやー、先先週だったか、あいつんとこの端末が壊れたんだって。何やったんだか知らないけど……で、ほら。あれですよ。あいつあれで結構おぼっちゃんでしょ。端末が壊れとるとなんもできんとかで、また無駄金つぎ込んで新しい機械を入れたりなんかして」

「ほーう。前の端末がなぜ壊れたのか知らんが、そりゃ気の毒だな」

 三宅教授にしては珍しく、本気で気の毒そうに言った。
 しかし、壊れる原因のデータを流したのは三宅総研のネットワーク研である。

「なんだったら古い端末をワシにくれ」

「そりゃ、ルフィーに言ってください」

「でもさぁ、新しい機械が入ったんなら泣くことなんかないじゃない。ねー、麗夢奈ぁ」

 ジーラは麗夢奈の腕をぶんぶんと振った。が、すでにぐでんぐでんの麗夢奈は、一升瓶を抱えたまま、くーくーと平和な寝息をたてている。

「あーっ! まだ寝ちゃダメなんだから!」

 ジーラは麗夢奈の頬をぺしぺしと張って、彼女を眠りの縁から無理矢理引き起こした。

「で、今日はルフィーん所で、新しい機械の設定とかを手伝ってきたんだよね。でも、あんなでかいミニコンの設定なんか、俺にはよくわからんから、ルフィーの言うとおりてきとーに手伝ってたんだわ。で、ふぉーまっとがどうこうとか言われたんで、とりあえずふぉーまっとできそうなもんを一通りふぉーまっとして、まぁ帰ってきたんだけど」

 富吉は、かなり言葉が怪しくなってきた。

「で、部屋に帰ったらルフィーから泣き声で『今日いけない』って電話があったわけ」

「なんだか、さっぱりわかりませんなぁ。三宅さん、見当つきますか?」

「ふーむ。おい探偵屋の富吉! もしかして、おまい何種類か違うタイプのモンをフォーマットしたりしなかったか?」

 富吉は一升瓶の中身をぐいと煽って、頭をかいた。

「そうかもしれないけど覚えてない」

「がっはっは。そりゃ、おまい、アレだな。メモリ領域もRAMもAIも全部フォーマットしたんじゃねーか? バカだなー、その新品の機械、学習機能部分が全部ふっとんでるぞ」

「はー、もうなんだかわかんねぇや」

「いーよ、ワシのぢゃないしな。うははははははははは」

 どうやら、ルフィーの新品のコンピュータのメモリ関係を、富吉が結果的にぶちこわしてしまったらしい。酔っぱらいの会話から判断するにそういうことらしい。

「おめーよ、貧乏で機械なんかさわったことのない富吉になんかに設定を手伝わせたルフィーの人選ミスだろーがよ。がっはっは」

「いや、まったくですな。わはははははははは」

 酔っぱらいの描写をシラフでするのは寂しい。STとしてはここらでいっぱい引っかけて、自分も宴会の仲間入りを果たしたいところだが、そうも行かないのが悔しいところである。

 さて、この狂乱の渦の中にあって、比較的理性を保ったままの人間がいた。誰あらぬ今日の宴会の主催者・白葉透教授その人である。
 教授は愛猫・茄子の姿が見えないことに気づいた。

「茄子がおらん。うーむ、せっかく茄子が手を出さないように吊っておいたのに、誰かが茄子にタコでも食わせたのだろうか。茄子、茄子やー。なすー!」

 白葉教授はフラットブラックの黒い仔猫、茄子の姿を探したが、堀炬燵の間には見あたらない。

「うーむ、これは困った。外に出てしまったか」

 白葉教授は猫を抱いて眠る。茄子が来る前は、抱きしめて眠るのは枕だったのだが、茄子がきてからは、もっぱらそのふさふさの毛並を布団の中で抱きしめて眠りにつくのが習慣となっていた。
 だから、眠る前に茄子の姿が見えないと、なんとはなしに心落ちつかないのである。

「なすー、なすー」

 背後の堀炬燵の上では、三宅教授に羽交い締めにされた富吉が、ジーラによって正拳突きを入れられていた。
 白葉教授は堀炬燵の間を後にすると、愛猫の名前を呼びながらふらふらと部屋の外に出ていった。

「なすー、なすー」  

 

 


act.2-7;拾われた仔猫
 雨を好きだという人は、そりゃ世の中には少しはいるかも知れないが、2月の寒い晩に雨に濡れるのが好きだという人はあまりいないと思う。
 しとしとと降り注ぐ雨の中、中嶋千尋は行くあてを失って茫然としていた。

 南海の離島にある巨大な高校を5年かかって卒業した後、人工群島で仕事をしているはずの叔父を頼ってやってきた千尋の前に、現実はあまりにも冷たかった。
 頼りの叔父に放浪癖があることは、最前から知ってはいた。しかし、つい最近放浪の旅から帰ってきたばかりのはずで、もうしばらくは……少なくとも千尋が叔父の家に到着するまでくらいの間はじっとしていてくれると信じてきたのだが、叔父はまたしても姿をくらましていたのであった。
 あまつさえ姿をくらますだけでなく、今回は部屋を引き払って放浪だか冒険だかの旅に出てしまったようで、くしゃくしゃのメモを頼りにたどり着いた敷地には、「売り!」の一事を殴り書いた看板一本しか立っていなかったのである。
 力抜けてへたりこんだところへ、今度はこの雨である。すでに怒る気力もなかった。もっとも怒る気力があったとしたら、それをぶつける相手がおらず、ただモンモンとするばかりで、ストレスは余計にたまっていたかもしれない。

(そう考えれば……)

 だが、そう考えてみても事態は一向に好転などしないのだった。
 とりあえず、雨のしのげる場所を探さなければならない。このままでは凍えて死んでしまう。
 おそらくは公営の住宅街の中に、一際賑やかに盛り上がっている部屋が見えた。カーテンが引いてあって部屋の中の様子まではわからないが、そのあたたかな光、そして賑やかな人の笑い声は、彼らが少なくとも今は幸せであることを知らせていた。

「はー……なんだか、マッチ売りの少女みたいな気分になってきたわ」

 と、悲劇のヒロインのようなことを考えていると、どこからともなく仔猫の鳴き声が聞こえてきた。

「……にーにーにー」

 千尋は猫の鳴く方へ引かれていった。公営住宅の軒下へ駆け込み、ずぶ濡れの上着を絞る。決してファッションなのではないくたびれたジージャンは、それでもなお申し訳程度に青い染料を含んだ雨水を吐き出した。

「あたし、このまま死んじゃうのかなぁ……」

 さすがに心細くなった千尋の耳に、再び仔猫の声。

「……にーにーにー」

 階段の影に、ふたつの瞳が見えた。闇の中に融けるようなフラットブラックの身体は、雨に濡れてとても寒そうに見える。
 千尋は仔猫に微笑みかけ、ちっちっちっと声をかけた。

「おいで」

 黒い仔猫は一度目を細めると、躊躇せずに千尋の元へやってきた。しゃがみこんだ千尋は仔猫を抱きかかえ、その場に座り込んで仔猫に語りかけた。

「おまえ、うちはどこ? 首輪とかないねぇ……野良猫にしては……くんくん……酒臭いし」

「にー」

「もしかして迷子なの? でも帰る家があるのならいいわよね。あたしなんか家がないんだもんね」

 仔猫は千尋の腕の中から抜け出すと、数歩進んで鳴いた。

「にー」

「何? お前のうちはそっちなの?」

 千尋が荷物を片手に仔猫についていくと、仔猫はときおり立ち止まって千尋を振り向きながら通路を進んだ。
 やがて仔猫は一際広そうな、そして先ほど楽しそうな笑い声が外まで漏れていたあの部屋の入口までやってきた。立ち止まった千尋の腕の中に飛び込んでごろごろと喉を鳴らした仔猫は、もう一声鳴いた。

「みー☆」

「む。茄子の声がする」

 白葉教授は茄子の鳴き声を聞きつけて、玄関の扉をあけた。
 そこには、びしょ濡れの茄子と、茄子を抱いたびしょ濡れの少女が立っていたのである。

「む。これは……びしょ濡れじゃないか。キミも、そしてキミも。とにかく、入ってそこを閉めなさい」

 白葉教授は茄子と茄子を抱いた少女を囲炉裏のある部屋に通し、大きなふかふかのバスタオルをもって戻ってきた。

「まず、拭きなさい」

 そして、囲炉裏に炭を放り込んで暖を作ると、再び部屋の奥へ入っていった。
 少女は言われるがままにバスタオルを手にとると、自分の頭を拭いた。そして、傍らの茄子という黒い仔猫を抱き上げて拭いてやった。
 白葉教授は、中華鍋とミルクの入ったパックと一升瓶をもって戻って来ると、中華鍋にまずミルクを、そして一升瓶の中の酒をどぽどぽと注いだ。もちろん、夜明け前である。

「あんな雨の中にいたら、身体も芯まで冷えきっているだろう。まず、飲みなさい。酒は身体を暖める」

 白葉教授の勧めに従って茄子は、中華鍋に注がれた夜明け前のミルク割に口をつけた。
 ごっごっごっというにわかには信じ難いペースで中華鍋を空けた茄子は、喉をならしさらにおかわりを要求しているようだった。

「よーし、茄子。いい飲みっぷりだ。もういっぱいやろうな」

 白葉教授は喜々として中華鍋にミルクと夜明け前を注いだ。猫に日本酒を飲ませる……この神をも恐れない行為に出る白葉教授を前に、少女は声もない様子だった。
 白葉教授はそのとき不意に気づいたように少女に言った。

「キミ、どうしたんだ。酒は嫌いか? 冷えた身体を暖めるにはこれがいちばんなんだが……」

 そういって中華鍋をさした白葉教授は、小さく「あっ」と呟いて三度部屋の奥へ消え、今度は並の大きさのぐい呑みをもって現われた。

「いや、すまんすまん。つい、なんとなく、うちの茄子と同じような錯覚が……」

 どうやら教授は少女を仔猫と同一視していたらしい。頭をかきながら、ぐい呑みに夜明け前を注ぎ、少女に勧めた。

「まぁ、飲みたまえ。私はさっきの猫……茄子の飼い主の白葉透だ」

「中嶋千尋といいます。今宵は行くあてもなく、難儀しておりましたところを助けていただき、ありがとうございます」

 中嶋千尋はぴと、と三つ指をついて礼をした。
 ゆったりしたトレーナーはびしょ濡れのまま。肩まであるぼさぼさの烏の濡れ羽色をした髪は、湿って幾筋かの流れとなってうなじに張り付いている。やや白い肌は、囲炉裏の火と口にしたばかりの夜明け前のために、うっすらと桃色に変わっていく。
 最近の流行ではないセルフレームの眼鏡を外した千尋は、しっとりと濡れた瞳で白葉教授を見つめた。
 もう、ここで押し倒さなかったら男ではないような状況である。

 いつの間にやら、白葉教授の不在に気づいたジーラと麗夢奈が、囲炉裏の間の戸口から、ジェスチャーで応援をしていた。

(そこだーっ! 押し倒すのよっ、教授っ!!)

(いっちゃえ、いっちゃえー!)

 千尋は一夜の恋に溺れるタイプでもなければ、自分を安売りするタイプでもなかった。白葉教授にとって、今の自分は茄子と同じ……雨の中で拾われた仔猫に過ぎないのだ。
 行き場のない仔猫である千尋にとって、白葉教授は自分を拾ってくれる優しい飼い主であり、今、唯一の頼ることのできる人だった。

「お願いします。あたしをここにおいてください」

「……そ、それはどういう」

 白葉教授の頭から、篭で小豆をゆするざーっという音がして、一気に酔いが覚めた。

「あたしを、あなたの妻にしてください☆」

「な、なにーっっっっっっ!!!!????」

 その晩、白葉は黒い猫と白い猫を追いかける夢を見たという。その夢が何を示唆しているのかは誰も知らない。

 ちなみに飛鳥龍児は予想通り乾杯直後からの記憶がすっぽり抜け落ち、夢も見ない深い眠りの後、痛む頭をかかえながら21号埋立地に旅立っていった。


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(c)1992楠原笑美.