ガラパゴス・プロローグ
根戸宏は、群島区・伊島にある放送局、アーキペラゴ・ステーションのテラスの窓によりかかって、運河を往来するカモメを眺めていた。痩せ気味の身体に青々とした髭の剃り痕。唇の端に、煙草がぶら下がっている。ここ数年の間に、二十歳を過ぎてまだ煙草を吸う人間はすっかりいなくなってしまった。やたらな場所で煙草に火をつけるとガキ扱いまでされてしまう。
「ガキ……か」
彼が子供の頃、この当たりは海の上だった。晴れた日には、有明や若洲の突提から、千葉・木更津のコンビナートが見え、まだ東京湾横断道路はできていなかった。東京湾は、今よりずっと広かったという。
そういえば物心つくかつかないかの頃、両親に連れられて初めてこの島に来たことがあった。思えば、あれが東京フロンティア博だったのか。潮の匂いのする作りかけの街ばかりで、幼い根戸にとってはおもしろくもなんともなかった。おまけに両親とはぐれて迷子になってしまい、迷子センターで親がつくまで泣きわめいていた記憶もある。あの頃は、まだ妹は生まれていなかった。
子供の頃から目新しいことや、事件が好きだった。よく、古いニュースフィルムを見たものだ。初めてゴジラを見たとき、鉄塔から最後の放送を伝えるアナウンサーに感動して、ジャーナリストを目指そうと誓った。ずいぶん後になるまで、ずっとゴジラの襲来は現実の事件だと信じていた。もちろん、あの鉄塔のアナウンサーも実在のジャーナリストに違いないと信じていたのだが、あれは作りごとだと聞かされたとき、頑として聞き入れなかった。
従兄から聞かされたTV探検番組にも心動かされた。番組名は「水曜スペシャル」といったか。その番組は取材班を探検隊と呼んでいて、隊長を務めたリポーターが凄かった。ピラニアと闘い、人食い人種と格闘したこともあるとか、素手で牛を殺したとか、手錠をされ鎖に巻かれてダイナマイトを満載したジェットコースターから脱出したとか……最後はマッキンレーの山で消息を断ったとかいう、日本が誇る伝説の探検家で、肉弾リポーターの走りだったそうだ。
根戸は、企画書を抱え直すとすっかり短くなった煙草を運河に投げ捨てて、正面のドアを振り返った。
「今こそ俺も……ピュリッツア賞だ!」
編成局会議室のドアを開けた瞬間、メランコリックな感情は消え、絶大な自信に支えられた、押しの強いディレクターの表情に戻った。
室内の人々が立ち上がって、根戸の入室を待つ。
根戸は上座に座ると、一同に向かって言った。
「諸君。21号埋立地を取材するドキュメント番組を組むことにした。番組名はずばり『水曜スペシャル・根戸宏探検隊〜21号埋立地に謎の原住民を見た!』でいくぞ!」
根戸は人間的にはいいヤツとはいい難い男である。どちらかといえばイヤなヤツだ。
わがままで一度言い出したら人の言うことに耳など貸さず、平和な場所にでかけていって事件を起こし、不幸な人にとどめをさして報道し、無策無謀で他人に迷惑をかけたあげく、本人曰く「スクープを嗅ぎとる能力」で他人の手柄はオレのもの……。しかし、人間的嗜好とディレクターとしての能力は別個のものである。下世話かつ強大な好奇心と、それを暴こうとする本能のようなものが、ディレクター根戸の編成局での地位を揺るぎないものにしていた。
筆頭売れっ子ディレクターである根戸は会議室に居あわせた人間に有無を言わさず企画書を押しつけると、弾丸をばらまくように早口に指示した。
「いいか、本放送は12月だ。その前にロケハンにいくから、中継車を一台回せ。21号島の立ち入り許可を都庁に認めさせろ。それから取材班のメンバーを選べ。足りなかったら、他の学科に声をかけて人足を雇え。いいな、準備は今日中に済ませろ。用意が出来たら、僕を呼びにこい」
言葉の終わりは、ドアのしまる音と同時だった。嵐のようにまくしたて、去っていった根戸に対して、反論する暇は最初から用意されていなかったのだ。
人々は、渋々とそれぞれの仕度を始めた。