群島中をパニックに陥れた捨て子騒動−−ベビークライシスがあっけなく片づいて以来、ここゼロワンSTAFFも元通りの静かな雰囲気が戻ってきていた。 静かな……と言いきってしまうのは(面子が面子だけに)多少戸惑いを感じないではなかったが、とりあえずオフィスに唯と中川とアインシュタインしかいない「今は」静かである。 平日の午前中−−ついこの間までベビーシッター兼電話番として常駐を余儀なくされていた羽山が、 「……このままじゃ単位が……」 という訴えを受理されて登校しているため、留守番はまたしても社長の仕事となった。まあ実際、留守番以上のナニをしているのか、と問われると本人も返答に窮する程度の「社長」だから、羽山のようなマメな社員にはつれなくされているくらいでちょうどいい。 「じゃあ契約は今日をもって終了ってことで……」 中川はそう言って、唯にサインしてもらわなければならない書類の用意をはじめた。 今日付けで、唯はまぐまぐバーガーのアルバイトも辞めている。ラブシック騒動で動員したスパイの撤退の手始めが唯だったのだ。 一番長くまぐまぐにいるし、何よりWWLからのレンタルをゼロワンSTAFFが「又貸し」している人員でもあった。引き留めればそれだけ多くWWLに賃貸料を払わねばならなくなる。 「今後銭が入ってこないと分かった以上、経費節減は必至」 その金に汚い本性をさらけ出して中川は唯をまぐまぐバーガーから引き上げたのだ。 そしてさらに、三日ほどの間をおいて広田を、さらに一週間おいて衿霞を、その翌日に巽を撤退させる予定が組んであった。 「ハンバーガー作るのもずいぶん上達したし、案外仕事面白いし……とりあえずしばらくはここでやってみます。でももし掛け持ちでやれるスパイの仕事があれば、それもお願いしたいですけど……」 そう言って現状維持を表明した忍武と、 「このままじゃ家計が崩壊するから、奈美はまぐまぐでアルバイトするにゃ」 という真奈美は今のところ保留にしてある。 「……私のお給料は……要りません」 サインをしてくれと差し出された書類を見つめて、そう唯は呟くように言った。 「要らない?」 「ーーええ。WWLのレンタル料だけ、約束通りお願いします。私、何もお役に立てなかった……いえ、かえって足を引っ張ってしまったし、それに、もともとここに来たのはスパイをするためじゃなかったんです」 唯は……いや、朝比奈うずめはそう言って、ぽつりぽつりと中川にアーマスの言葉を受けてゼロワンSTAFFのスパイとなったいきさつを話しはじめた。 ゴールインするのを見守っていたいと願っていたアーマスと諒のカップルの行き違いといさかいを目にしたときのこと。ふたりを決裂させているのがゼロワンSTAFFの仕事であると知ったこと。 そして、彼らの為に何かをしたいと思い、アーマスの申し出を受けたのだと言うこと。 だが結局、自分には何もできなかった。 自分がこうまで無力だと思い知ったことはなかった。人の心の奥底にある思いを結局読みとることはできなかったのだ。 それなのにどうして金だけを受け取れるだろうか? 実際自分は有能な……というよりは中川や稟の必要としているスパイでは有り得なかった。 今ここで金を受け取ってしまったら……一生負い目を背負って生きることになるのではないか。うずめにはそれが恐かった。 「お前も……正義の味方になりたかったのか……」 そう言って中川は机の上に置いてあったタバコの箱に手をのばした。一本取り出し、火はつけないまま唇に挟み込む。 「ただ働きをさせる訳には行かない。唯は……よくやったよ。まあ確かに、ヘマもあったけどな?」 「でも……」 まだ納得しきれない何かがあるのだと言うように、唯は言葉を濁した。 だが、唯は頑張ったのだ……と中川は思う。 きっかけは確かに、中川の思惑や、稟の願いとは別の場所にあった。だがそれでも唯はラブシックを追うスパイとして頑張っていた。 アーマスと諒の仲がもやは修復不能なまでに壊れてしまっても……ゼロワンSTAFFが決して「正義のための正義の味方」ではないのだと悟っても、唯は途中で仕事を投げ出しはしなかった。 有給休暇が終わっても戻ってこなかったアーマスを責めたいのではない。 自分の思いを曲げることができずゼロワンSTAFFを去った沫を責めたいのでもなかった。 ただ唯の努力を、正当に評価しなければならないのだと感じただけだ。 ヘマはやった。 だが……その自分の作った穴を埋め戻すための努力を、唯はしたのだ。 アーマスと諒の為に心を痛めたこと。 ラブシック中毒の陽子を探すために息つく間もなく走り回ったこと。 それを……褒めてはやらない。 中川がするのはただ、スパイとして唯の過ごした時間に見合うだけの金を払ってやることだけだ。 「俺は慈善事業をやってる積もりはないし、俺が俺の会社の社員だと認めた以上−−それがレンタルしてきた社員だろうが、仮契約の社員だろうが、無償奉仕をさせる積もりもない」 中川はそれしか言わなかった。 だがそれだけで……唯には分かったようだった。 アーマスと諒がその短い恋を失ったことで負った心の傷。そしてその別れが唯の心にも同じように傷を刻んだ。 その傷を……忘れることはできない。 だが同時に、それは中川に押しつけることはできないものなのだ。中川には、中川の守りたいものがある。 (使わずにいよう……) 唯は差し出された書類にサインをした。 (私が……この傷の痛みを思い出だと言えるようになるまで……使わずにいよう) そして唯は立ち上がった。 コートに袖を通し、別れを告げてゆっくりと出口に向かう。 「仕事の打ち上げの宴会があると思うから、そん時は顔を出せよ」 中川が唯に声をかけた。 振り返って唯は微笑みを返す。 だが、たぶんもうここへ来ることはないだろう。 |
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中川の様子が最近おかしい……と最初に口にしたのは確かユッコだったと思う。 確かにそうかもしれない、と綾子も思う。 (最近ってより……以前からちょっと変わった人だったけど……) ……なんていうことを多少感じたりもしたのだが、それはどうでもいいことだった。変人だろうが変態だろうが、とりあえず楽な仕事(注/綾子が楽をしているだけだと言う噂も一部にはある)の割に金払いはいいし、今のところ綾子には深刻な害は及んでいない。 一緒にタバコを吸いに行ったことがいつの間にか、 「社長と綾子さんが昼っぱらからホテルにシケ込んだ」 という噂に変わっていることは害と言えば害なのだが、ある強力な筋からの助言によりその噂も 頭を悩ませる事態ではなくなった。 助言とは、 「それなら後でそれをネタにちょいと克己ちゃんを脅してウサを晴らせばいいのよ」 そして助言者はいわずもがなのチャン・リン・シャンである。 何にせよ綾子にとっては、 「どうせだからこのまま禁煙にしましょうよ」 ……というわんたん小僧(注/羽山のことである。中川による命名)の提案が却下されたことの方が重大で、かつありがたい事態だった。 狭いオフィスに充満した煙に眉を潜める羽山の顔など目に入ってはいない。 「タバコの煙ってコンタクトレンズに染みるんですよね」 羽山が充血した目に涙をいっぱい溜ながらそう訴えたときも、綾子はタバコをふかしながらちらりと彼の方を振り返っただけだった。 「コンタクトってマメに洗浄して使用時間を守らないと網膜がはがれるって聞いたけど、あれってホントなのかなあ……」 羽山に返された言葉は、その残酷とも言える悪意のない質問だけだった。 わんたん小僧の言葉の裏には、 『こんなにお願いしてるんだから、せめてタバコの本数を半分に減らすとか、暖房の効きが悪くなるなんてことを言わずに威勢よく換気してくれるとか……それくらいのことはしてくれますよね? もう二度と禁煙しましょうなんて言わないから……』 なんていう、極めて低姿勢な懇願が含まれていたのだが、そんな意図はまるっきり綾子には伝わっていなかった。 いや……綾子だけではない。 ゼロワンSTAFFに、用がなくても入り浸っているユッコを初めとするオフィコンの『お姉さま』たちも煙たい上に匂いの強いメントールタバコをふかすときに、勤務時間のほとんどすべてを(スーパー丸安に買い物に行かされるとき位しか羽山には外出の機会はない)このオフィスで過ごし、半ば薫製になりかかっている羽山のことを振り返ろうとはしなかった。 (……あの禁煙以来、絶対にこのオフィスでタバコを吸う人の数は増えている……) 羽山のその勘は、たぶん間違いなく当たっている。 そして今の羽山にとってたった一つの希望は、すでに禁煙ではなかった。減煙でさえない。 『しゃちょうさん、ぼくをすぱいにしてください』 いつの間にかゼロワンSTAFFのマスコットとなってしまったアインシュタインが、たぶん今でも抱き続けている思い。……それが羽山にとっても中川に期待するたったひとつの言葉だった。 だが、当の中川はこのところ、オフィスに顔を出すことさえ希だった。 「綾子さんとの浮気が奥さんにバレて、禁固令を食らってるんじゃないですか」 ……というのが、抹茶を点てながら忍武の漏らした言葉である。 その一方で、 「社長はんのことやから、他の恋人はんとの逢い引きが忙しくって仕事してる暇ないんと違いますやろか?」 ……という衿霞の言葉も、確かになかなか的を得ているような気がする。 「浮気なんて冗談じゃないわよ。タバコ吸ってただけだって何度言ったら分かってくれるのーーーー!」 ……という綾子の言葉に取り合ってくれるのは、もはやゼロワンSTAFFでは広田くらいなものである。 中川は……別に浮気をしていた訳ではない。 綾子との浮気騒動で真奈美に禁固令を食らっていた訳でもなかった。噂がスパイやオフィコンたちの間で(例えて言えば某助教授の噂のように)しつこくささやき続けられているど真ん中で、当の真奈美はそんな噂のことなどすっかり忘れ去っている。 「うーむ……これはイマイチだなあ……」 ゼロワンSTAFFのオフィスに隣接した504号室で、中川はルイ・ヴィトンのバッグを前に、丸文字にハートや星の乱舞する真奈美の作戦企画を読み耽っていたのである。 レポート用紙三枚に及ぶ作戦企画書には、ちまちまとしたピンクの文字で、 『ラブシックの重要な手がかりを警察にタレ込むための、あくまでもスパイらしい凝った手口』 が64パターンほど書き連ねられていた。 最初の勢いでは、 「奈美が百個アイデアを考えるから、克っちゃん決めてね」 だったのだが、66個目で息切れしたのだ。さらに14個目と28個目、32個目と49個目は手順が多少違うもののほぼ同じ手口だったため削除された。 そして残った64パターンのうち、中川は比較的使えそうで、比較的安上がりに済み、さらにしくじった場合も比較的言い逃れの簡単そうなネタを四つほど絞り込んでいた。 真奈美が放課後のまぐまぐバーガーでのアルバイトを終えて帰宅したとき、その四つのアイデアはさらにふたつにまで絞り込まれていた。 「決まった……?」 レポート用紙に顔をくっつけるようにして考え込んでいる中川の顔をのぞき込み、真奈美はそう声をかけた。 「とりあえず、14個目と61番目で攻めよう」 「にゃ? どーしてふたつなの?」 「警察だけじゃなく、マスコミにもネタを渡すんだよ。その方が確実だし、経過を探るのも楽だろ?」 「どっちを警察屋さんに使うの?」 「警察が14、マスコミが61だな」 得意そうに笑う中川に、真奈美はちょっと眉を寄せた。 「でも……警察屋さんって、ちょっと頭堅いんじゃないかにゃ? 笑って14番許してくれると思う?」 「思わねえなあ……」 中川はまた、嬉しそうに笑いをこぼした。 「どーするにゃ?」 「お巡りがおちゃらけにノッてくれねえなら、ノッてくれる奴のところへ話しを持ってくまでさ」 「……?」 真奈美はまだよく話が分からないというように小首を傾げた。 「何か、悪巧み考えてるんじゃない? 克っちゃん」 「人生楽しまな、損やろ」 すっかり気に入った衿霞の口真似を中川はした。 ヴィジホンの内線コールが鳴ったのはその時だった。 『あのー、沫さんが来てるんですけど……』 留守番をしていた羽山の声がモニター横のスピーカーから流れ出した。その背後に、所在なげに立っている沫の姿も見える。 「色男は登場の仕方を心得てやがるぜ」 中川は苦笑した。 そして作戦は実行へと移され始めていた。 |
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ラブシック事件に警察が本格的に介入する−−。 その噂は、ラブシックの噂が群島を駆け巡ったときと同じように、信じられないほどのスピードで広まって行った。 恋する少女のように事件解決の夢を見ていた探偵たちは、その噂で目が醒めたように事件の捜査から手を引き始めていた。そして、彼らのもとには高校生の少女たちからの、 「私の好きな彼が、私のことをどう思っているのか、調べて欲しいんだけど……」 という新手の依頼が舞い込んでくるようになった。 彼女たちからの依頼電話は、まず…… 「恋をするには絶好の日和ですね」 ……の合い言葉から始まり、 「だってラブシックより、探偵さんの方が頼りになるって聞いたから……」 と、探偵たちを煽てるような言葉で締めくくられた。 新しい−−そして今度は罪のない−−遊びが流行り始めたらしい。探偵たちはそう苦笑し、そしてほとんどの者が少女たちの恋の悩みに……そう、以前なら耳を傾ける事のなかった彼女たちの真剣な気持ちに耳を傾けるようになっていた。 だが、手を引いた者ばかりではない。 むしろ警察介入の噂を聞いてこの時を待っていましたとばかりに快哉を叫んだ者もいた。 そのひとり、雅命星子は可愛がっていた赤ん坊たちに先立たれて(注/本人たちの表現を引用)沈み込んでいる整備員に一喝を飛ばした。 「今こそあたしたちが立ち上がる時よ!」 ……だが、反応はなかった。 返ってくるのは夕べの飲み残しのコーラか、湯をさしたのをすっかり忘れて一時間ほども経過してしまったカップうどんの成れの果てのような……気の抜けまくったため息だけだった。 整備員たちはがっくりと肩を落とし、星子を見つめた。 「探偵たちはみんな手を引いたのよ。今あたしたちがやらなかったら、群島中に暗殺の麻薬(……と、星子はまだ誤解している)が広まる事になるのよ!」 気落ちしている整備員たちを何とか励まそうと、星子は声を張り上げた。 だが、その彼女の声にも、 「はあ」 とか、 「そうですね」 とか言う気のない返事がいくつか返ってきただけだった。 航空警邏隊本部直通のヴィジホンが、けたたましいコール音を発したのは、警備員たちが、それでものろのろと腰を上げた時だった。 通話は、音声のみのものだった。 ハンドセットに布を巻き付け、さらにボイスチェンジャーを使っているらしく、その声は聞き取りにくく、奇妙なまでに甲高いものだった。 『お前たちはラブシックを探っているんだろう? 重要な手がかりをやる。この手がかりがあれば、………………字が汚くて読めませんよ?(どかっ、と明らかに通話者を蹴り飛ばす音が入る。さらに48秒ほどの沈黙)あ、すみません。続けます。この手がかりがあれば警察はラブシックの謎を解くことができるはずだ。今日の三時に、炉島の………………これなんて読むんですか?(再び、どかっという音。さらに26秒の沈黙)あ、たびたびすみません。続けます。炉島の『晶』って店に来い。絶世の美女が手がかりを持って待っている。合い言葉は、『恋をするには絶好の日和ですね』だ。もう一度言う。炉島の『晶』に三時。合い言葉は『恋をするには絶好の日和ですね』だ。念のために言っておくが、手がかりを持っている「美女」は事件とは無関係だ。拘留しても何の証言も得られない。手がかりの中にはSD三宅教授のぬいぐるみが入っている。もしその女に指一本でも触れたら、MILの他爆装置で手がかりもろとも吹き飛ばすからよく覚えておけ。以上だ。……これで切っていいですか?(三度目の蹴り。そして12秒の沈黙の通話は途切れた)』 「………………………………………………………………………………………………」 スピーカーからその通話を聞いていた整備員一同も……沈黙した。 さっきまで風邪引きの身体に無理を強いて整備員たちを励ましていた星子もまた、沈黙した。 整備員のひとりが爆発物に近寄るようにおそるおそるヴィジホンに歩み寄る。 繰り返し聞く必要のある重要な通話を録音するため、ここのヴィジホンは常に「会話録音」モードに設定されていた。 メモリーに記録された最新通話を再生する。 再び、本部にはボイスチェンジャーを使った甲高い声が響き渡った。 「これは……」 「ひょっとして……」 「……タレ込みってやつか?」 三度目の再生を聞き終わったとき、そう呟く声が整備員たちの間で起こった。 「もーーーーーーーーーーーーーっ! 何考えてんの、あんたたちっっっ。そんなの一度聞けば分かるはずでしょっっっっっっっ!!!」 育児疲れの余韻と、その赤ん坊たちを失った整備員たちの失意が、これほど仕事に悪影響を及ぼしていたとは、さすがの星子も気づかなかった。 「知ってたんなら、教えてくれればいいのに……」 そうぼやきながら整備員たちは四度目の再生を始め、無言のまま互いの顔を見つめあった。 『誰が行く?』 その無言の視線は、口に出すより如実にそう語っており、そしてその言外に、 『俺はパスな(^^;)』 ……という思いがたっぷりと含まれていた。 そして互いに滅多にない見せ場……数少ない快挙につながるその任務を譲り合っていた視線をゆっくりと、できるだけさりげなさを装いながら星子に向けた。 そこには、事件解決の糸口を見つけ、鼻炎と頭痛と発熱に悩まされ続けたその不調さえ忘れ去ったかのように見える星子の意気揚々たる表情があった。 (今のタレ込み電話を……) (聞かなかった事には……) (……できるわきゃないな) そして整備員たちの目は……知らず知らずのうちに部屋の隅にいる、ある三人組へと注がれていた。 |
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午後二時五十五分。炉島・『晶』。 おにゅうのワンピースに身を包んだ真奈美は、おまじないグッズやアンティークの品が並ぶ店内に『こうじや』の茶色い紙袋を下げて三十分以上立ち尽くしていた。 「やっぱり張り切りすぎたにゃ(^^;)」 腕時計に目をやる。新婚旅行でイタリアに行ったとき免税店で買ったメイドインジャパンのディズニーウォッチ(五分ほど針が進めてある)はようやく三時を指したところだった。 その真奈美から離れた店の隅には、調達してきた他爆装置のスイッチを握りしめている広田と、ようやく巡ってきた(スパイとしての)任務に、額の痣と後頭部のふたつの瘤のうずきを抑えて臨むわんたん羽山がスタンバイしていた。 ふたりは真奈美に率いられてやはり三十分も早く到着したため、文聖女子の生徒がたむろする女くさい店内に異色の存在として目立ちまくっていた。 当初の予定では、広田と一緒にここへ来るのは羽山ではなく、中川のはずだった。 中川だって羽山に負けず劣らず旺盛な野次馬根性…………もとい、仕事への熱意を抱いているのだ。 だが、その中川の野次……仕事への熱意も、 「他爆装置使ったら、社長の指輪も危ないんじゃないかな」 ぽそりと漏らした広田のその一言で電光石火のごとく消え去った。そして偶然その場に居合わせた羽山の初任務と相成った訳である。 中川も、まだ生命は惜しいらしい。 そのとき『晶』の入り口の前に立ち、緊張した面もちで時計を睨んでいるふたりの男がいることには、店内の真奈美たちはまったく気づいていなかった。 ふたりの男とは航空警邏隊に今年度から配属されたばかりの三人組のふたり、市村と仁藤だった。 一緒に来るはずだったもう一人、参田は、プレッシャーによる胃痛から本部を出たところでリタイアした。 そして彼らが睨んでいたのは、ここへくるまでの間に、公衆ヴィジホンの時刻案内で三度ほど時間合わせをして一秒の狂いもないはずの市村の時計である。 「あと五分……あと五分だ…………」 その仁藤の声は、ちょっと震えている。 「大丈夫だ。大丈夫……絶世の美女を見つけて……手がかりを受け取るだけだ」 「中に爆弾が入っていても……美女に手を出さなければ爆発はしない。しない……しない…………しないよな?」 「ああ。大丈夫。大丈夫だ。よく考えて見ろ。先輩たちが『勉強と思って行ってこい』って言ったのはなぜだと思う? そうだ。簡単な仕事だからだ。そうでなければぺーぺーの俺たちに仕事が回ってくるわけないよ。ははははは……」 「そうだ。どうだよな。俺たちにできるくらいの簡単な仕事だって先輩たちが判断したからだよな。は……はは……はははは」 五分ほどの間に市村と仁藤はそう互いを励ましあった。……というよりは、励ましあっているつもりになっていた。 だが実際にはその乾いた笑いで……互いに抱く不安を増したばかりだった。 (先輩たちが俺たちに仕事を振ったのは、ひょっとして自分たちがやりたくなかったせいなんじゃないか……?) その疑問をどちらも抱いていたが、口にする勇気はないままだった。 市村も仁藤も相手がそれを完全には否定しきれないだろうと薄々感づいていた。 そして、あっけなく五分が経過した。 市村と仁藤は、今や「航空警邏隊のユニフォーム」とも呼ばれている航空研の整備員スタイルではなく、私服姿だった。取り立てて目立つ容貌の持ち主とも思えぬ頼りないふたり連れを見て、それが航空警邏隊の隊員だと即座に判断したのは広田だけだった。 真奈美はまだ、腕時計の文字番のミッキーマウスを見つめていたし、羽山はカムフラージュの為に顔の前に広げた週刊誌の、 『コンタクトレンズをお使いの方に朗報! 目が乾いたときに一滴、それだけで視界良好、疲れた目に潤いを与えます』 ……という新種の目薬の広告に目を奪われていた。 そして市村と仁藤も、店内を見渡して凍り付いたように立ちすくんでいた。 ちょうど文聖女子の下校時間も重なって、店内には少女たちが溢れ返っていたのである。 「…………ど、どの娘が絶世の美女だろう(^^;)」 「さ、さあ……」 「聞いてみるか?」 「……やめろ、違ってたらカドが立つぞ」 「だ、だがこのままじゃ、手がかりは受け取れないぞ」 「“絶世の美女”なんて曖昧な表現じゃなく、なんかもっと具体的な目印を教えてくれりゃあいいのに……」 そう呟いたとき、ふと仁藤の目に店主の水姫沙羅の姿が飛び込んできた。 エキゾチックな衣装に身を包み、神秘的な微笑をたたえた彼女を見た瞬間に、ふたりの意見は一致した。 (あの女性以外には考えられない) そして市村と仁藤は占い用のテーブルについている沙羅の方へ、ゆっくりと歩み寄って行った。 「こ、こ、こ、こ、こ、ここここここここここここここここここここここここここ」 市村は緊張している。 「こ、こ、こ、こ、こ、ここここここここここここここここここここここここここ」 仁藤も、緊張してる。 そのふたりを見つめて、沙羅は、 「……?」 ……と首を傾げた。美人は、首を傾げる姿も悩ましいものだ。 「どうなさいました? 占いをご希望かしら?」 沙羅は微笑を浮かべて静かにそう声をかけた。初めて占いを体験する客の中には彼らのように緊張でこちこちになっている者も少なくはない。巧みな話術で彼らから何を占いたいのか的確に聞き出すのもまた、占い師としての力量を問われる場面である。 「……こ、恋」 「恋占いですね? どうぞそちらにお掛けになって下さい」 「い、いえ……違うんですっっっっ!!!」 「……は?」 「恋をするにはいい日和ですね!!!!」 耳まで真っ赤になりながら、市村は店中に響きわたるような大声でようやくその言葉を言い放った。 「ええ。そうですね」 沙羅は市村と仁藤の緊張をときほぐそうとそう相づちを打った。今日は、朝から寒々しい天気だった。鈍色の空から、今にもぽつぽつと雨の降り出しそうな気配を感じる。 (辛い恋をしているのね……) 沙羅は……そう彼らの心の中を推し量った。 そしてゆっくりと占いの準備を始める。 「(お、おい……。なんか様子が違わないか?)」 「(あ……ああ。これじゃあ、恋占いの結果を聞く羽目になりかねないぞ)」 ふたりがそうささやきあっているのも、占いのために精神統一を始めた沙羅の耳には届いていないようだった。 「す、すみませんっっっっっっっ。人違いです!!!!」 市村は再び、店の外にまで聞こえそうな大声を上げた。 驚いたようにふたりを見上げて、水姫沙羅は発する言葉を失っていた。 「…………ひ、ひどいにゃ(T_T)」 市村の怒号とも聞こえかねない声にふと占い用のブースをのぞき込んだ真奈美は、思わずそう口に出して言ってしまった。 真奈美は入り口から一番目立つところに立っていた。それなのに、ふたりはその前を素通りして「別の美女」のところへ足を向けたのだ。 つくづく……失礼な話もあったものだが、市村や仁藤の頭の中にはかつて見た映画に出ていた「まるでモデルのようなエージェントの女」が思い描かれていたのだからしかたなかった。 「恋をするには絶好の日和ですね。振り返らないで下さいにゃ。奈……私がラブシックの手がかりを持ってきた『絶世の美女』ですよっ☆」 占いブースから出た市村と仁藤の背後から、そう声がかかった。 真奈美の接触したふたりの男の出方を見守って、広田は他爆装置のスイッチを握りしめる。掌に、うっすらと汗が滲んでいた。 もし真奈美に万一のことがあれば、中川の代わりに俺が身体を張ってでも助けなければならない。 広田も……ちょっと緊張していたのかも知れない。 そして羽山は週刊誌の影からその光景を見つめ、やはり多少の緊張は感じながらも、 (ああ、スパイになったんだなーーーって実感しちゃうよ。うんうん) などと感動にうち震えていた。 「手がかりの入った紙袋はおにーさんたちの足元に置きますにゃ。百数えるまでは振りかえっちゃダメだよ」 真奈美はそう言って仁藤の足元に『こうじや』の紙袋を置いた。 その中にはコインロッカーから見つけたルイ・ヴィトンのバッグ。ビニール袋に入っていた方のラブシック約200錠、バッグと一緒に発見された笹倉加世子の名刺、そして築地が面接の際に持ってきたSD三宅教授のぬいぐるみが入れられている。 「わ、分かりました」 そう市村が震える声で答えたときには、彼らの背後にはもう真奈美の姿はなくなっていた。 そしてその日、『晶』に近い喫茶店『プリマドール』での、文聖女子の生徒たちの噂話は、店の真ん中に棒立ちになって数を数えていたふたり連れの男の謎で持ちきりとなっていた。 |
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整備員たちがあのタレ込み電話に従って手に入れたのだと言う恋の麻薬−−ラブシックを一錠、掌に転がして星子はぼんやりと物思いに耽っていた。 見たところ、何の変哲もない丸薬である。 ピンク色の糖衣が、確かに顧客としての少女たちを意識しているように感じとられはするが、取り立てて危険な薬と意識させるようなものは何もなかった。 (これが、ドロップスの缶に入れられて、売られていたのかぁ) その……危険のなさが、この薬を少女たちに受け入れさせる絶好の武器となったのだろう。 子供の頃、ラムネの粒を薬に見立てて遊んだ記憶が星子にもあった。 多分中毒になった女の子たちは、この麻薬をその遊びの延長線上に見ていたのではないか。 そんな風に思えてくる。 巷では、二十数年ぶりの健康食品ブームを背景に、ビタミン剤やカルシウム剤などが雑誌の広告を賑わせている。薬を飲む−−その行為に、少女たちは何の不安も疑問も抱いてはいないのだ。 『恋のおまじないの薬だって……』 『あー、あたしも聞いたわ。でもあれって、ホントはただの栄養剤だって言うハナシだよ』 『そうだよねー。そんな薬、あるわけないよね』 『でもー、効くっていう噂じゃない』 『効くわけないわよ』 『そういうのって気持ちの持ちようだよねぇ』 『でも、ちょっと興味あるよね』 学校帰りの少女たちの交わすクスクス笑いの混じった会話。それが、ふと星子の耳のすぐ横でささやかれているように沸き上がってきた。 『ちょっとだけ、試してみたいなあ』 荒川運河を見おろす土手の上で、冷たい風に髪をなびかせながら星子はじっとそのピンク色の錠剤を見つめていた。 熱で火照った頬に、その風は心地良くもあった。 (どんな夢が、見られるんだろう) その思いを……今も捨てきってはいない。 だが、星子は大きく振りかぶって運河の水面に錠剤を投げた。海へ続く流れに飲み込まれ、小さな波紋さえ星子には見つけることができなかった。 (恋って……ツライばかりじゃないものね) ゆっくりと歩き出す。 今日はもう帰って、しょうが湯でも飲んで寝よう。 風邪が治ればきっと不安な気持ちからも解放される。そう信じたい。 帰り仕度をしようと星子が航空警邏隊本部に入った瞬間、その場にいた整備員たちの視線が一斉に集まった。 その視線は、彼女の様子を窺っているようでもあり、また彼女の反応に対して身構えているようでもあった。 (みんな、私があの薬を飲んだと思っているわけか) 彼らの視線からそう感じとって、星子はにこっと微笑を向けた。 飲んだ振りをしてみるのもいいかもしれない。 ……ちょっとした、イタズラ心だった。 「なんだかとってもハッピーな気分よ。警察への連絡の方は任せたわね。私、今日は早退させてもらうわ(^^)」 星子のその言葉に、おずおずとうなずく整備員たち。 そのどの顔も、困ったような笑いを愛想笑いを浮かべている。 そして星子が部屋を出て行き。彼女の足音が完全に聞こえなくなったとき、室内にはこれまで重圧感に耐えてきた整備員たちの深いため息がどっともらされた。 「き……気づかなかったのかな?」 「……あれって、一錠で効くもんなのか?」 「星子さん、ひょっとすると便秘だったのかも……」 「いや……そもそもラブシックってのが麻薬と言って取り引きされているだけで実は便秘薬だったなんてコトは……」 「……んなもんで中毒になる奴がいるか!」 「いや……でも自分は経験ないから分からないですけど、便秘って、ツライらしいですよ」 「女の子には多いって言うしなあ……」 「それに便秘薬ってクセになって、薬飲まないと便秘になるような場合もあるって聞いたことが……」 「便秘は苦しいって言うし……」 「その苦しさに耐えかねて、事件を起こす女の子が……」 ひとりがぽそりともらしたその一言に、一同はどっと沸いた。 「や、やめろーーー」 「腹が痛ぇ」 「涙が出てくるっっ」 ひとしきり爆笑がやんだ後、 「とにかくこの手がかりは警察に届けよう。山田製薬って会社に捜査の手が回れば、きっと事件は解決するだろうからな」 ……と、まじめな意見を述べたのが誰だったのかは、五分後には忘れ去られていた。 ただ顔を見合わせた一同の表情が、 (星子さんに渡した錠剤が便秘薬だったなんてバラした奴は、村八分の極刑だ) と、互いに確認しあうように語っていた。 |
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