ACT5-6;恋人に……なりたい
 洋上高校でラブシック中毒の女子生徒が教師を刺したのだと言う話は、ジーラを通じて箕守にも伝えられていた。

「……ついに警察が動き出すわけだ」

 警察が、どこまで事件の全容を掴んでいるのかは箕守には分かりようもない事だった。そして被害者を守るために、事件は密室で処理されて行くだろう。

「探偵が関われるのは……所詮ここまでってことかな……」

 そう考えると、未練もあった。
 ラブシックを追う探偵たちは……恐らく皆、その未練を感じているに違いない。
 ことのいきさつはどうあれ、事件に関わった群島の探偵たちの目指していたものは、事件を解決し、少女たちを救うという快挙−−格好のいい結末だったはずだ。
 日頃家出人を捜し、浮気を探り、落とし物や遺失物の調査、書類をめくって下らない人生相談まで持ち込まれる仕事をこなして、映画の中で活躍する探偵たちの華々しい姿を鼻で笑いながら……だが誰の心の中にもその結末が、まるで恋を夢見た少女たちのようにほのかに輝いていたはずだった。
 もちろん、その下心だけが彼らを動かした訳ではない。
 彼らには彼らなりの正義感があり、守りたいと感じるなにかがあった。
 箕守が「うぃんずている」を訪れる高校生の少女たちを守りたいと感じたように、誰もが何かのために……誰かのために立ち上がることを決意したのだ。
 だからこそ……未練を感じる。
 自分の無力さが、口惜しいと感じるのだ。

「きみは……どうして捜査を降りようと考えたんだい?」

 SNSのカウンターで注文したコーヒーを飲みながら、箕守は注文の品を作っている三日月にそう声をかけた。

「……どうしてって……どうしてなんでしょうね」

 三日月の表情は穏やかなものだった。
 その表情を見ただけでは、箕守の感じているような苛立ちを抱いているようには見えない。

「自分のやりたかったこと……ってより、やるべきことかな? こういうことじゃなかったはずだって、そう考えたんですよ。付属の三枝先生を刺した橋本陽子って女の子、恋で悩んでいるってぼくの所を訪ねてきたことがあるんです。占いで、どうすれば上手く行くのか知りたいって言ってね。そもそも、ぼくがラブシックのことを知ったのは、そのとき陽子さんがもらした言葉からだったんです。そのときにね、陽子さんに言ったんですよ−−占い師は未来を決めて上げることはできないって」

 赤ん坊を連れた客の為に煮沸消毒したほ乳瓶を用意し、ミルクを注いだ。すでに慣れを感じさせるその手付きを見つめて、箕守は小さくため息をついた。

「……それで、あきらめることにした、と?」
「警察に任せるのが一番いい方法だなんて……そんな大人ぶったことが言いたいわけじゃないんです。ぼくだって箕守さんと同じように、未練を感じてますよ」
「ひとりふたりを助けることはできるかもしれない。例えそれがラブシックの売人だったとしても……俺は助けてやりたいと思う。だがそうすることが、新しい被害者を生み出す結果につながるかも知れない……。頭では分かっているんだがね」

 箕守はコーヒーのカップを口へ運んだ。
 彼が守りたいと思ったのは少女たちだった。放課後、「うぃんずている」に立ち寄って噂話に花を咲かせるような−−平凡な女の子たちだった。
 おしゃべりで、規則を破る楽しみをちょっとだけ知っていて、恋に夢を抱く少女たち……。
 大人たちの作った枠の中に従順に群れてはいられないが、かといってあからさまに反旗を翻して突っ張ることもない。
 たぶん橋本陽子は、そして花村桜子はそんな少女だったのだろう。
 それがラブシックを探るうちに箕守が得た感触だった。
 陽子や桜子も……箕守が守りたいと感じた少女たちのひとりなのだ。
 例え彼女たちがラブシックに手を染め、自ら窓口となってその麻薬を広めたのであったとしても。
 しかし箕守のその愛情は−−ともすれば犯罪を黙認し、新たな被害者を生み出すこととなる。

「箕守さん−−、闇沢がね、言ってたんですよ。陽子さん、警察に保護されるとき、暴れたりはしなかったそうです。大人しく……自分から警官の方に歩み寄っていったって。……彼女自分でも、薬を止めたがってたんじゃないかなって、ぼくはそう思うんです。自分が犯してしまった罪に……心のどこかでおびえていたんじゃないかって……そう思うんです」

 あの人の恋人になりたい。
 その必勝法を求めて三日月のもとを訪れたときから−−陽子は薬を止めたがっていたのではないか……。
 三日月には、そんな風に思えた。
 だからこそ陽子は三日月の占いの答えにもっと確かな……もっと強い手ごたえを求めていたのだろう。

「箕守さんも、降りるんですか?」
「ああ−−彼女たちを追うのは警察だけで充分だろう」
「……どうするんです、これから?」

 カップを置いて立ち上がった箕守に、三日月は視線を投げかけた。

「どうもしないよ。……今までと同じ生活に、戻るだけさ。『うぇんずている』のマスターに戻って−−恋に憧れてる女の子たちのための新しいメニューでも考えるさ」

 警察は、容赦なく彼女たちを追い詰めるだろう。
 そして箕守や他の探偵たちの得たいと思い続けてきた真実を見つけだすだろう。
 しかしそれは……例え得る結果が同じものであったとしても、決して箕守の望むやり方ではない。
 彼女たちを追う者にはなりたくない。
 恋への憧れを抱く少女たちを、受け入れる側の人間でいたかった。
 「うぃんずている」を訪れる少女たちの、他愛ない会話の中に紛れ込んだ憧れや夢を、もっと穏やかな目で見つめていてやりたかった。

 

 


ACT5-7;恋の傷あと
 終業のチャイムが鳴って、仁科は黒板に文字を書いていた手を止めた。

「よし、今日はここまでにしよう。次の授業の時までに参考書の下読み位はしてこいよ。この辺は重要だからな」

 そう言って教科書を机に起き、要点をメモしている生徒たちを見渡した。
 その教室にぽつんぽつんとふたつの空席が見える。
 ひとつは橋本陽子の……もうひとつは九月から編入するはずだった森沢香南の席だった。
 そして本当ならもう一つ−−夏休みの間に退学してしまった花村桜子の席もあるはずだった。

(ラブシック……か)

 仁科もまた、その麻薬の名を耳にしていた。
 花村桜子の事件。そして橋本陽子が三枝を刺して警察に保護されたのは……幻覚剤の使用による禁断症状のせいなのだと、すでに警察も発表している。
 夏休みの補習授業から、ある日突然姿を消した森沢香南が長期欠席している理由は、学校側に貧血の検査の為の入院−−としか知らされてはいなかったが、その本当の原因がラブシックなのだろうということも、仁科は薄々感づいていた。
 香南は、桜子と仲が良かった。

「日下部、ちょっといいか?」

 仁科はそう言って、教室を出ようとしていた真奈美を呼び止めた。

「日下部じゃなくって、今はもう中川ですよ(^_^)。中川真奈美」
「……そうだったな(^^;)」

 高校在学中にぬけぬけと結婚してしまう真奈美も……まあある意味では問題児である(^^;)。

「お前は森沢とは親しいって言ってただろう?」
「香南とですかー? 仲良しですよ」
「入院してるって聞いたが、具合はどうなんだ? 見舞いに行ってるんだろう?」
「もうすぐ退院するって、マイヤーさん言ってましたよ。退院したら、学校にもくるハズです」

 真奈美は、ラブシックのことはあえて口にしなかった。そして仁科も、敢えてそれを問いつめるつもりはなかった。

「……そうか。森沢に伝えておいてくれ。退院したら、何もなかったように登校すればいい−−とな。補習とテストを受けて、今後しっかり登校れば留年せずに済むから。……そう、伝えておいてくれ」
「分かりました(^_^)」

 真奈美はそう言って笑顔を浮かべた。仁科の言いたいことは……その言葉だけで通じる。

「香南は、ゼッタイ学校に来ますよ。軍事学部に入るんだって、あんなに頑張ってたんだもの」


「みんな、ラブシックの噂で持ちきりね……」

 教室の片隅で、誰かが置き忘れていった「週刊オリエント」のページをぱらぱらとめくって詩織は隣の席に座っている修子に言った。

「こんな記事が出ちゃねえ」

 詩織の手から「週刊オリエント」を受け取って、修子はその記事に目を落とした。
 高校生の間で、密かに流行の兆しを見せる新種の麻薬−−ラブシック。そのセンセーショナルなタイトルは、陽子の三枝刺傷事件と時期を同じくしたこともあって、大きな反響を呼んでいた。

「なんか……コワイ気がするわ。麻薬だなんて……。陽子さん、あんなにいい人だったのに……」

 詩織はそう呟いた。
 転校してきたばかりで戸惑うことの多かった詩織に、陽子は教室の席が近かったこともあって親切にしてくれた。

『詩織さん、恋人いる?』
『いいなぁ……。わたしはね……まだきっと片思い』

 麻薬に逃れなければならないほど……陽子は思い詰めていたんだろうか。
 そしてそれを、陽子は誰にも言えなかったんだろうか。
 クラスの他の女の子の噂を小耳に挟むこともあって、詩織は陽子の「片思いの相手」が一年で中退してしまった黒沢という生徒なのだということを知っていた。
 陽子は「片思い」と言っていたその相手が、噂話では「陽子の彼氏」になっていることに、違和感を感じたこともあったが、それを詩織はずっと陽子の照れなのだと思っていた。
 詩織と話しているときの陽子は……素直に何でも言えていたのかも知れない。

『片思いってツライけど……でもホントは一番、その人のこと好きな瞬間なのかもしれないなって、ときどき思うことあるの』

(陽子さん……恋の麻薬で、どんな夢を見ていたんだろう……)

 詩織はぼんやりとそんなことを考えていた。
 麻薬なんていう言葉は、詩織にとってはテレビか映画の中でしか縁のない−−遠い存在である。
 だが、自分のすぐ間近にいた友人が……その麻薬にむしばまれていたのだ。

(どうして麻薬に頼らずに、素直になれなかったの……陽子さん)

 寂しいのだと、ひとこと片思いの相手に告げることができなかった陽子の気持ちが、詩織には辛かった。

(私に話したときみたいに……「黒沢くん」に言えば良かったのに……。寂しいの、一緒に居て、ってそう言えば良かったのに……)

 

 


ACT5-8;きみがいつまでも恋しい
 中川に与えられた有給休暇が終わっても、アーマスは出社しなかった。
 全部ケリをつけてこい−−中川はそんな風に言っていたが、言葉で言うほど簡単に踏ん切りをつけられるものではなかった。

(あきらめきれるものなら……最初っから恋をしたりなんかしやしない……)

 諒と暮らしたのは……ほんのわずかな時間だった。
 ちょっとしたきっかけ、わずかな、恋人として過ごした時間、そして別離……。
 振り返ってみればそれは当然と言える結果だったのかも知れない。その短い時間の中でアーマスは諒のことを理解しきれず、そして諒はアーマスのことを受け入れられなかった。

 ぷらりと家を出てみたものの、アーマスには行く当てがあるわけではなかった。

『会いたいのなら……来ればいいのに……』

 そう言っていたマイアの言葉が、ふっと耳の奥によみがえった。
 諒はマイアの経営する水天宮という会社の海洋研究所で働いているのだと言う。
 訪ねて行くのは、難しいことではない。
 そして誰もそれをとがめたりはしないだろう。
 だが、アーマスにはどうしてもそこへ行くことができなかった。
 諒と会って、話しをするだけの心の準備は、まだできていない。

(会えばまた……諒を傷つけるかも知れない)

 しかしそれが、自分自身をも偽る嘘なのだと……すでにアーマスは気づいていた。諒を傷つけることが怖いんじゃない。
 自分が傷つきたくないだけだ。
 諒をいつまでも忘れられずにいる自分を……認めたくないだけだ。
 自分との関係から逃れて、生き生きと仕事に精を出している諒を、見たくないだけだ。
 アーマスと暮らしていたときには見せることのなかった笑顔を、誰かほかの奴に向けている諒の姿を見たくはない。
 そんな風に自分の敗北を認めさせられるのは嫌だった。

(……未練がましいよな……我ながら……)


 アーマスは丹島の方へ足を進めていた。
 SNSでコーヒーでも飲もうかとも思ったのだが、そこでゼロワンSTAFFの連中と顔を会わせるのはなんだか気まずいように思えたのだ。
 丹島のかもめ商店街を訪れるのは、ずいぶん久しぶりのことのように思える。
 その一角にある、「こうじや」ののれんは、今日は下ろされている。留守にしていても「営業中」の看板を出していることの多い坂井が、何を思ったのか「休業」の札を出していた。
 ……多分、それは商店街に根を下ろしている住人たちにとっても、見慣れない光景であったに違いない。
 そしてその理由は……。

「ほええほええほええ」
「ちょっと待ちなさい、あなたはどうも泣き虫で困りますね。ああ、よしよし。さてと、今日は菅井くんから豆腐をもらったことだし、合わせ味噌で味噌汁でも作って、確かここに葱が……葱……葱……葱は赤ん坊に食べさせてもいいのか?」
「ほええほええほええへぐへぐ」
「ああ、よしよし、お腹がすいたんだな? とりあえずはこれを食べてなさい」

 そう言って、坂井はビスケットを赤ん坊の小さな手に握らせた。
 その顔は−−多分中川が見たら吹き出すんじゃないかと思えるほど緩んでいる。
 夜泣きをすれば一晩中だっこにおんぶ、欲しがるだけミルクをやって、いたずらのすべてを、

「もうそんなことができるようになったのか……偉いぞ、賢いぞ……」

 ……と誉めちぎる。
 その姿はまさに……初孫の誕生に有頂天になっているお祖父ちゃんそのものであった。

「坂井さん……」

 すでに座敷の障子を開けて立っているアーマスに、そんな坂井が気づくはずはない。
 声をかけなければ多分、夜まで待っても気づいてはもらえなかっただろう。所詮、坂井の辞書に「気配り」なんて言葉はないのだ。

「お味噌ですか?」

 ……そして、この台詞である(^^;)。

「いえ……そうじゃなくてですね……」
「分かってますよ。まあ、上がってください。煎餅でもどうです? 新潟のおいしい奴を通信販売で買いましてね。ちょうど静岡に嫁に行った姪っこが送ってきてくれたお茶もありますし……」

 四畳半の座敷には赤ん坊のおもちゃがいくつか転がっているだけで、相変わらずしみったれた貧乏所帯である。

「……なにか悩みでもあるんですか」

 熱いお茶をすすりながら、坂井は入ってきたきり黙り込んで煎餅をかじっているアーマスにそう言葉をかけた。

「ええ、ちょっと……」
「……いろいろ、ありますよ。まあ……人生には」

 突き放すように坂井は言った。
 ほ乳瓶をくわえたままうつらうつらしはじめた赤ん坊に毛布をかけてやる。

「……ここを離れようかと思って……」
「アメリカへ帰るんですか、会社を再建するために……?」

 坂井はそう言って茶碗を口へ運んだ。
 そう言えば、以前ここで中川たちと飲んだとき……アメリカにいたころに失った会社のことを話したことがあったように思う。
 そのとき坂井は、アーマスの夢に駆ける若さを羨ましいと言っていた。

「いえ……そうじゃないんです。アメリカへ帰るわけじゃなく……ただもうここにはいられないと……そう……」

 言葉はなかなか出てこなかった。
 坂井に相談したところで……何も解決することはないんだという思いが、言葉をさらに重くしていた。
 だがそれでも、誰かに言いたかった。
 それさえできない孤独な人間にはなりたくない。

「……そうですか」

 アーマスの話しを聞きながら、坂井はただ黙ってうなずいていただけだった。
 そして、これでもう全部話したのだろうと判断して、そう言葉をもらしたのだ。

「それなら別に出ていくことなんかないでしょう。……新しいことを始めればいいじゃないですか」
「でも……俺がここにいたって、諒を傷つけるだけですよ」
「どこにいたって傷つけることに代わりはありませんよ。男と女が別れるってのは、そういうもんですよ」
「…………」

 坂井の口から、そんな言葉が出るとはアーマスは思ってはいなかった。

「無理することないじゃないですか。彼女は彼女で好きなことをやっている。あなたも同じように自分のやりたいこと……やるべきことをやればいいんですよ。ゼロワンSTAFFに居辛いなら辞めればいい。−−会社を再建するための金を稼ぐだけなら、ほかに仕事の口はいくらだってあるでしょう」
「……ずいぶん無責任なこと勧めるんですね……」
「中川さんには、あなたは必要な社員かも知れない。なんと言っても便利ですからね。しかしあなたにとっては……中川さんは必要な人じゃあないでしょう」
「今まで通りここに住んで、それで新しいことを始めろっていうんですか、今までのこと全部を忘れて?」
「そんなことは言ってませんよ」

 坂井はそう言って、息をつくように煎餅に手を出した。

「−−あなたの好きにすればいいんですよ。何も別れた女に気を使ってどうこうと自分の人生を決めることはないでしょう。ここを出て他へ行くなら、自分の行きたいところへ行くべきだ」

 煎餅をかじりながら、坂井は立ち上がった。
 障子を開けて土間へ降りる。暗い店舗の電気をつけて煎餅をカウンターの上に置くと味噌のパックを取り出して、合わせ味噌を盛り始めた。

「………………(^^;)」

 イキナリ何を始めたんだ、この人は……。
 そう怪訝そうな表情で見つめるアーマスに、坂井はほとんど押しつけるように味噌のパックを差し出した。

「とりあえず出て行くにしても行かないにしても、もうちょっと気楽にやることですよ。Take it eagy……そのコトバを私たち日本人に教えてくれたのはあなたたちアメリカ人でしょう。これで味噌汁でも作って、元気を出してください」
「……坂井さん……」

 思わず……目頭が熱くなる思いだった。
 落ち込んでいるときにこそ、他人の親切は身にしみるものだ。
 しかしそのアーマスの感動は、すっと差し出された坂井の手を見たときに、急速に冷めていった。

「980円になります」
「……坂井さん、それじゃあ押し売りですよ……(^^;)」

 たまにいい事を言ってみても……所詮坂井はどこまでも坂井である。

 

 


ACT5-9;恋の日和作戦の終結
 稟がSNSに入ってきたとき、中川はカウンターの席についてウーロン茶を飲んでいた。
 その顔は……この上もなく不機嫌そうである。

(怒っているわ……。そうよね、当然だわ。私が身勝手に行動してしまったんだもの。スパイとして働いてくれたみんなにも……中川さんにも一言も相談せずに、本社に連絡をとって……。警察沙汰なんて事態になれば、ゼロワンSTAFFを巻き込むことにもなりかねないっていうのに……)

 相変わらず……稟はびくびくと自分の世界に浸り込んでいる。
 確かに、中川は心中穏やかならざれるものがあった。しかしとりあえず、怒っている……というよりは、苛立っている……という状況である。
 稟からせしめた前金を巻き上げられないための口実を、苛々と貧乏ゆすりをしながら考えていたのである。

(エンゲル計数がすでに300%に達しようって時に……頼みの綱の金を巻き上げらたら……俺は破産だ。破滅だ。裏街道をまっしぐらだ……)

 中川は中川で……やはり自分の世界に没入している(^^;)。
 稟には金を巻き上げるつもりなんてこれっぽっちもない。いや、例え「つもり」があったところで、そんな話を切り出す度胸があるわけはないのである。
 だが勿論、そんなことに中川が気づいているわけはない。

「あの、中川さん……申し訳ありません、お待たせしちゃって……」

 稟は深呼吸を一回してカウンターに歩み寄り、中川にそう声をかけた。

「ああ、どうも」
「あの……広田さんから話は……」
「聞いてます。本社の方からの指示と言うのを、もう少し詳しく聞きたいんだが……」

 中川には珍しく、低姿勢だった。
 やはり金が絡むと人は素直になるものだ……(^^;)。

「本社には……その、そちらに調査を依頼したことは伏せてあるんです。そちらからはアルバイトの斡旋をお願いしたと言うだけになっていて……。ちょうど、あの時期はいつもアルバイトが不足しますから、そのことは疑われては居ないはずです。ラブシックのことは小耳に挟んだと言うことにして、天井裏に隠してあったサクマドロップスの缶詰が−−ニュースで流した通りの「異物の混入されたサクマドロップス」が清掃中に見つかったとだけ報告したんです」

 稟は、震えそうになる声を必死に抑えてそう……できるだけ事務的に話した。

(私がびくびくしたって、見苦しいだけだわ。気弱な女の振りをして、同情を引こうとしてるって思われるのが関の山よ。……しっかりしなくちゃ……。しっかりしなくちゃ……いい笑いものだわ)

「それで、本社は?」
「本社の中にも、ラブシックに興味を持っていろいろ調べまわった人がいるらしいんです」

 稟は言った。
 現在、ラブシックに関係してにわか探偵になった者は決して珍しい存在ではない。
 まさかまぐまぐバーガー本社にまで、そんな物好きがいるとは稟も思わなかったのだが、そのおかげで話しがスムーズに進んだことは間違いない。
 私もラブシック騒動には興味を持っていろいろ調べてみたんです−−という稟の言葉は、あの騒動のおかげでかなり説得力のあるものになっただろう。
 その稟の言葉を聞いて……、

「……彼女にそんなことをする度胸と行動力があるとは思わなかった……」

 と、本社の部長が目を丸くしたことは言うまでもない。勿論そんな部長の思いに気づく稟ではないのだが……。

「陽子ちゃんが起こした事件のことも併せて報告したんです。たぶん、ラブシック中毒による事件だろうと……。それで本社はサクマドロップスの缶のことを警察へ報告するようにと指示してきたんです。陽子ちゃんの口からラブシックのことが漏れれば、他のアルバイトたちにも疑惑の目が向けられるだろうからって……」
「なるほどな……」

 中川はうなずいて、ウーロン茶のグラスを口へ運んだ。
 稟のことは、すでに広田から聞いている。彼女の一向に要領を得ない会話についても、耳にしていたが、とりあえず話しが問題なく終わってほっと安堵していた。
 この場で泣きわめかれたり、貧血を起こしたりされたら−−平静を保っていられる自信は万に一つもない。
 マイヤーは自制心が強いが元来手が早い……と言ったのは広田だった。しかし中川は「自制心などかけらもない上に、気が短く、手も早い」のである。

「それで……俺たちの依頼は、なかったことにして欲しい……と?」
「そうですね。これ以上の調査をお願いして、そちらに御迷惑がかかっても……。警察が動き出せば、多分いろいろと詮索されることになるでしょうし。本当に申し訳ないんですけど、折りを見て少しずつ、アルバイトを辞めた、という形でスパイのみなさんを引き上げていただければ……。仕事が終わったのにいつまでも引き留めていたのではそちらのお仕事の妨げにもなるでしょう?」
「そうだな……。一気に引き上げるのは危険だろう。……で、金の話しなんだが……」
「お金……ですか?」

 きょとん、とした顔で稟は中川を見上げた。

「お支払いした分だけでは不足でしょうか? ……あ、そうですよね、あんなにたくさんのスパイを派遣していただいたんですものね。あの……お幾らくらいかしら、私、定期預金も解約してしまったんですけど、まだ少しなら用立てられると思いますから不足があればおっしゃってください」
「……」

 中川は……絶句した。
 まさかこれ以上の金を払うなんて言い出すとは、思いもしなかった。

(広田の言った通り……「超」がつくほどの世間知らずだな(^^;))

「スパイの報酬に関しては問題ない。アルバイトとして潜り込んだ連中を引き上げるまでのバイト料に関して、一応きちんと話しをして置いた方が……と(^^;)」

 とっさにそう、中川は言い繕った。
 何にせよ、金さえ巻き上げられなければゼロワンSTAFFは安泰である。

『ラブシックのことを突き止めて、その流通ルートを……』

 一瞬、沫の言っていた言葉が中川の脳裏に浮かんだ。
 確かにそれは……格好のいい活躍だった。それに−−群島の探偵たちの多くがそうであったように、中川だって魅力を感じていないわけではない。

(だが所詮……)

 飲み終わったウーロン茶のグラスを置いて稟の顔を見つめ、中川は小さくため息を漏らした。

(俺は正義の味方って柄じゃないんだよ……沫)

 

 


ACT5-10;置き忘れた恋の鍵
「いらっしゃいませーーー(^_^)」

 いつもと同じまぐまぐバーガーの午後の光景だった。
 スパイたちがハンバーガーを売り、赤ん坊を背負った探偵たちが客席に陣取って新聞を広げ、好奇心いっぱいの女子高校生たちがやはり赤ん坊を連れてラブシックの噂話に花を咲かせる。
 −−ただいつもと違うのは、ハンバーガーを売るスパイたちがすでにただのハンバーガー売りになっている、ということだった。

「何だか……暇だにゃ……」

 店はいつも通り満員御礼の大繁盛なのだが、真奈美はどこか手持ち無沙汰だった。
 正義のスーパーヒロイン(MIL公認)としてラブシックのことを探っていたときのクセがついつい出て、客として訪れる女の子にチェックを入れ、周囲に目を配ってしまったりすることもある。
 さっさと新しい仕事の段取りをつけ始めた中川とは違って、真奈美は根っからの正義の味方体質なのだ。

「ねーちゃんねーちゃん、これあんたはんの落とし物とちゃうか?」

 きっちり四時間の仕事を終えて休憩コーナーでコーラを飲んでいた真奈美に、六甲が声をかけた。
 まぐまぐバーガーでのアルバイトもすっかり板についた六甲だったが、アルバイト仲間の名前をなかなか覚えようとせず、「ねーちゃん」だの「にーちゃん」だので片づけている。

「ねーちゃんじゃなくて、奈美は奥さんですよ(^_^)」

 真奈美はすかさずそう切り返した。
 ある意味では……六甲の好敵手と言えないこともない。

「奥さん、落とし物……」

 そう言って、六甲が差し出したのは淡い水色のハンカチだった。縁にレースのついたあからさまに少女趣味な代物である。

「古い手口のナンパだにゃ(^^;)」
「……難破?」
「違うの?」
「なんでわしが女子高校生の人妻と難破せにゃあならんね。これ、あっちのトイレに落ちとったのやけど……あんたはんのやないん?」
「奈美のじゃないよー。店長のかな? ……うーん、でも店長のだったら、水色よりピンクってカンジかな」

 真奈美はそう言ってハンカチを受け取った。
 微かに、シトラスのコロンが香った。稟の使っている香水とは明らかに違う香りだ。多分、アルバイトの誰かが忘れていったのだろう。

「じゃあ、忘れ物箱に入れとくことにしよう(^_^)」

 ハンカチをたたんで、真奈美は女子更衣室に入った。
 ロッカーの上にアルバイトの忘れ物を保管しておく段ボールの箱が置いてある。
 蓋を開けて中を覗いてみる。多分、もう持ち主も忘れているだろうと思われるような品がいくつも入っている。その中に、「YO−KO」と刺繍の入ったポーチがあった。

(……陽子ちゃんの……?)

 ふと気になって、そのポーチを手にとってみた。
 更衣室にいるのは真奈美ひとりだった。今なら誰にも誰にも見られずに中を確かめることができる。

(もしかしたら、何か手がかりがあるかもしれない)

 ポーチを開いてみると、中に入っていたのはキーホルダーと手帳だった。
 手帳の最初のページには住所や電話番号と一緒に「橋本陽子」の名前がある。
 真奈美はさらにページをめくった。マンスリースケジュールの欄に、小さな文字でびっしりとメモが書かれている。まぐまぐバーガーでのアルバイトの予定、友達との約束、観に行った映画のタイトルからその感想、さらには立ち寄った喫茶店で食べたケーキの名前までが書き連ねられている。
 そして、その一連のメモの中に緑色のペンで書かれた言葉。

『初めて恋のおまじないの薬を飲んだ。効果は……まだないみたい』
『黒沢くんとデートをする夢を見た。とっても優しかった。これが本当なら良かったのに……』

 緑色のメモは日を追うに連れて増え、さらに『……の夢を見た』という文章が次第に、実際に体験したことのように書かれるようになっている。

『今日は黒沢くんと一緒に豊島に出かけた。ドライブだったらサイコーなのに。でもまだ高校生だもの、しかたないかも知れないな。帰りに桜子ちゃんのマンションに寄って、三人でちょっとだけビールを飲んだ』

(ラブシックを飲んで見た夢を……陽子ちゃんは書き留めていたんだ……)

 真奈美は手帳をポーチに戻し、一緒に入っていたキーホルダーを取り出した。キーホルダーには小さな鍵がナンバーの入ったプラスチックのプレートと一緒につけられている。その鍵には……見覚えがあった。
 公営住宅に部屋を借りる以前、浮浪児のような生活をしていた香南が、倉庫代わりに使っていた地下鉄の駅のコインロッカーの鍵と同じだった。
 真奈美はそのポーチを鞄の中に入れ、着替えを済ませると店を後にした。